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天狗の弟子になった少年の話  作者: たまむし
二章 蓋
100/131

百部分目記念番外 飛ぶ英雄

これで丁度百部分目、そして二章本編も終わってキリが良いので、番外編という名の短編を置いておきます。

時系列は本編の時間軸では一章終わりより少し前。白鳴山から遠い空の下にて。


※暴力表現があります。苦手な方はご注意ください。




「手も足も出さんとはそれでも天狗か!」

「これでは引っ込んだ亀ではないか!!」

「なんとか言え!亀野郎!!」


 夕刻が迫る路地に、罵声と共に次々に蹴りが飛ぶ。それを行うのは三羽の天狗で、受けるのはひと回り小柄な一羽だ。

 他三羽は、若々しくとも大人と変わらぬ体躯だが、踏みつけられた体躯は細く、比べれば幼さが目立つ。歳は精々十三か 下手をすれば十二ほど。


「だらしがないな!」

「しゃんとしろ!」

 上がる声は字面は罵声でも響きは笑声。

 三者三様の喜色を浮かべた先輩(・・)たちは、頭を抱えて地に伏せた後輩(・・)に、指導(・・)をしていた。


 そこは倉庫の間に走る細い通路の途中から伸びる、長さにして十歩分ほどの分かれ道。

 いや、何処にも繋がっていない、道というにも足りないどん詰まりだった。


 背丈がある倉庫が両側から迫る所為で日が少ししか入らず、脇の方は漏れなくじめじめと苔むして、当たり前のように他の者はいない。


 後輩は、己の不運を呪っていた。

 こういう(・・・・)のは、上の目が届かない場所では茶飯事だったし、下手をすると、上の者でも知ってて黙認、あるいは参加しているのじゃないかというのが、底辺の総意であった。

 つまり、どこでだって気は抜けないということである。


 何にせよ、指導(・・)が好きな連中が使う、食堂への近道をふらっとひとりで通ってしまったのは迂闊だったと後輩は歯噛みする。

 だが…ただ歩いていただけなのだ。


――――おれが何したってんだ…!


「何とか言えってんだよ!!」

「ふぐっ!」


 遊びの気軽さで蹴り込まれた爪先が脇腹に突き刺さり、たまらず呻き声が漏れる。


「あはは、鳴いたぞ!」

「亀が鳴いた!亀が鳴いた!!」

「なんだ、喋れねえのか!」


 囃し立ててげらげら嗤っているその愉悦の顔は醜悪だ。痛みを堪える一羽の胸に焼けつくような怒りが沸くが、三対一で何が出来るものか、と思えば気持ちは萎んでいく。

 抵抗すればもっと蹴られるのは明白で、これ以上蹴られたらと思うと反抗心は萎えていく。

 理不尽に晒された弱者は、燃えるように熱くなった脇腹をただ押さえて呻くことしかできない。


「喋れねえんならこいつ、獣かなんかじゃねえの」

「違いねえや!」

「あはは、獣が衣なんぞ着てらあ!」

「獣にはいらねえだろ!!」


 襟首に手が掛かって、目に見えてざっと血の気が引く。


「やめろ!!」

 弱者だろうと無我夢中でもがいた。

 繰り返しになるがそこは狭い。滅茶苦茶に振り回した翼がたまたま一羽の顔を叩いた…運悪く。


「生意気だ亀野郎が!」

 顎に蹴りを食らった体が跳ね飛んだ。

 転がり、壁に叩きつけられる。


 一瞬の暗転から、視界が揺れながら戻ってくる。同時に痛覚が意識を掻き毟り、突っ伏したままの天狗は弱々しい喘ぎをもらした。


「か、は…」

「おい…」

「見ろよ!獣をやっつけたぞ!!」


 息も絶え絶えに横たわる痛々しさに一羽は怖じ気づいたが、あとの二羽は益々興奮し、目をぎらぎら輝かせた。


「退治だ退治だ!」

「獣退治だ!」


 ふた組の足が倒れた体に寄ったそのときだった。


「待てぇい!!」


 突如響いた大音声に、三者はぎょっとして振り返った。


「何をしている!!」

 傾きかけた日の光に、黒々とした影が長く伸びた。

 その男は、堂々と両足を広げて立ち、不届き者を鋭く睨んでいた。


「何の用だよ?ああ!?」

 相手がたった一羽だということが、見つかったことへの怯みを瞬時に消し去った。

 見れば、飾り紐も茶色で、下がった珠は白石と(あかがね)――最下位の小天狗である。

 同位同士、しかも三対一。多数の有利は明らかで、三者は薄ら笑いを浮かべた。


「文句でもあんのか!?」

「文句!?それ以前の問題ではないか!何があったか知らんがこれ以上痛め付ければ死んでしまうかも知れぬぞ!!まさか殺すつもりだったのか!?」

「はぁ!?」


 思わずという風に振り返って、一羽はぎょっと目を見開いた。…やっと自分のしたことが見えたらしい。

 もう一羽は、口元を戦慄(わなな)かせながらも往生際悪く鼻を鳴らした。


「ふ、ふん。武器も使わんのにこの程度で死ぬはずねえだろ!」

「馬鹿を言うな!急所に当たれば素手でも呆気なく死ぬのだぞ!!」

 ぎくりと明らかにみっつの背中が揺れた。


「で、出鱈目だ!」

「何が出鱈目なものか!!急所じゃなくとも何度も何度も殴ったり蹴ったりすれば死ぬだろう!そもそも仲間を痛め付けるなど!」

「うるさい!!」


 二者はそわそわと落ち着きがなくなったが、最後の一羽は動揺を隠すのを失敗しながら、うるさいうるさいと足を踏み鳴らす。

 子どもの駄々とまるきり同じ動作は、体躯には不釣り合いに幼く滑稽だ。


「何が仲間だ!こんくらいで死ぬんなら役立たずだ!どうせ何の役にも立たんのなら今死んでも「何を言うのだ!!!」


 一番の大喝だった。

 びりびりと体の奥が震えるぐらいの大声に、最後のひとりもぎょっとして黙り込む。


「死んでも良い仲間(どうほう)などおらぬわ!!恥を知れ!!!」

 びしぃっ!

 その叫びは真っ直ぐで、ついでに突きつけた指も真っ直ぐだ。

 こそこそと他の目を盗んでいた三羽とはまさしく雲泥の差。


 心から信念を叫ぶとき、声は力が宿る。

 踞った一羽には、明らかに気圧された三羽に比べて、正義の一羽は力強く見えた。輝いて見えた。気高く、正しく、強く。それはまさに。


――――英雄だ…!


「う、うううるせえええ!!」

 逆上した一羽が拳を振りかぶって走る。


 殴りかかってくるのを前にして、英雄は拳を握り、腰を落としてただ小さくこう言った。


「…致仕方なし」


 交錯する視線。

 拳が閃いた。

 重い音。


「へぶっ!!!」

 

 飛んだ。

 吹っ飛んだ。

 突き刺さった拳は綺麗に頬を捉え、散った唾液が西日にきらきらと光る。

 殴り飛ばされた体は弧を描き、どさりと音を立てて地面に叩きつけられた。


「ぐふっ」

 英雄は伸びた。


――――はあああ!?


「おいこいつ弱えぞ!」

「やっちまえ!」

「偉そうな口ききやがって!!」


 びくついていた二羽も、怯えた表情を拭い去って囲みにかかる。


「はん!これに懲りたら余計な首を突っ込むのはやめるんだな!」


 やがて気が済んだのか、典型的な悪役の高笑いを響かせながら三羽は肩で風を切って去っていった。

 後にはぼこぼこにされた一羽と、ぼろぼろにされた一羽が残るばかり。


 あれほど強者っぽい雰囲気を醸し出していた正義漢はあっさり畳まれてしまったのだった。


「…あ、いててて…ん?おお!」


 ややあって男がむっくりと起き上がった。

 その後、簡単に()されてしまったというのに何やら嬉しそうに体を(さす)ったり顔を触ったりしている。

 倒れたままの一羽は『こいつ頭がやられてしまったのか』と憐れんだ。

 惜しい男を亡くした。


「すごいぞ、これだけで済むとは…ワシも中々技が身に付いたということか…むふふ」


 かと思えば何やらほくそ笑み始める。


――――なにこいつヤバい。


 やられて喜んでいる。

 偶然当たりどころが良かったのか、もしかしたら悪かったのか、とにかく起きて座れるほどには浅手かもしれないが、同じ程度にやられて未だに倒れて動けない者の横で笑っている不気味さは推して知るべし。


 関わってはいけない類の手合である。


 起き上がれないがせめて距離を取ろうとして、目の前の現実に必死過ぎて失念していた脇腹の痛みがぶり返した。


「っぅ…」

「はっ!大丈夫か!?」


 何やらなむなむと明後日の方角を拝んでいた変なのが、発揮しなくていい地獄耳で極小の呻き声を察知して俊敏に振り向いた。


――――気付かれた!!

 あの暴力天狗に見つかったときに負けないほどの"やってしまった感"と共に後悔が去来した。なぜ声を漏らしてしまったのかと。


 事なきことこそ吉である。変なのとは関わり合いにならないに越したことはない。

 悪目立ちしないでほどほどに、が平穏無事の秘訣であった。

 だが願いも悔いも蹴り倒し、変な男は容赦なく駆け寄って来た。


 その勢いのまま取りすがられ揺さぶられ、痛みに気を失うことまで覚悟したが、予想に反して男はざっと傷を確認し、腹を抱えた体勢から幾つかのことを読み取った。


「お主!腹をやられたのか!!」

「ぅ…」

「ああ、喋るな喋るな!熱を持って腫れるようなら骨が折れてるかも知れん!いいか、腹で骨がおれていたらな、下手に動くと(はらわた)に折れた欠片が突き刺さったりすることもあるのだぞ!!」

「!!」


 ぞっとする話だった。そんなことになっては与太でも冗談でもなく死ぬ。

 しかし力一杯忠告してきた男もまた身震いして青ざめた。自分で言っておきながら怖くなったらしい。


「そ、そんなことになっては大変だ!!!身動きひとつしないようにするのだ!!」


 冷静さがひと欠片程度あれば、そんな無茶な、だとか、身動きひとつせずにどうやってここから移動するのか、とかが生まれたかもしれない。だがここの空気は焦り最高潮で固定されている。

 二者の頭は何の抵抗もなく"それしかない"という方向へ傾いた。


 が、行動『じっとする』を選択する間もなく複数の足音が聞こえて来たのは幸運だった。

 

「カズさーん!どこー?」

「カズっさぁんっ!」

「ズっさん迷子~?」


 男がはっと顔を上げた。

「ここだ!」

 大きな声を空へ放つ。

 しかし幾つもの声は構わずのんびりと続いた。


「おおきくなっても迷子~!」

「ご飯先食べるぞ!」

「お腹いたいの~?」

「食べ尽くすよー」

「食堂のおばちゃんに今日はカズさんの分もおいらが食うって言って「実はお主ら聞こえとるだろうっ!!緊急事態だ!早く来てくれ!!」


 その緊急事態にじっと何もしなかった訳だが、男の大真面目かつ切迫感みなぎる声に、ばたばたと足音が大急ぎで近付いて来た。


「いたぁ!」

 交差路をずざーっと通りすぎ、ひょこっと戻ってきた一羽が叫べば、直ぐに後から七羽もの天狗が一斉にやって来た。


「うぇ!?怪我してる!」

「戸板!戸板借りてこよ!!」

「カズさん顔に草履の型ついてるよ」

「そっちの子痛そう!」


 口々に喧しく言いながら駆け寄ったり駆け去ったりしているのは、皆嘴を持たず、翼を背負った天狗たち――郷と同じく"人成り"と嘴持ちの者から呼ばれる、人から天狗へ成った者たちだ。

 それも皆若い。十いかない者も居れば十五を過ぎただろう者も居るが、この場では間違いなく"カズ"と呼ばれる冴えない男が一番年上だろう。


「ああ!忠司(ちゅうじ)!動かすのは不味いのでは!?骨が、骨が折れておったら、もし刺さったら…!!」

「つってもズっさん、医務所に連れてかなきゃなんねーだろ。おいあんた、持ち上げるぞ。こう、足持て」

「ほいほい」

「う、ぅ」

「お、おいもう少しそっと出来んか?痛そうだぞ!?」

「これでもそっとしてるよズっさん。よし良いぞ、皆傾けんなよ」

「おうよ」

「はーい」

「かよ、きち、そーち。先行って医務所に報せてこい」

「はぁい!」

「あ、お主ら、足元に気を付けるのだぞ!?この辺じめじめと滑るから…」

「はいはーい」

「分かってる分かってる」

「よし出発!」


 最年長が全く役に立たない中、それを手慣れた様子であしらいつつ、その他大勢がてきぱきと負傷者を戸板に乗せて運び出す。


 実に頼もしい八と余り一を注意深く横目で見て、痛む腹を抱えたなりに安堵の息を吐いた。


 どうやら助かったようだった。






 やたらと綺麗な顔した医務官にやたら苦い薬を流し込まれただけあって、怪我は医務所にひと晩世話になっただけで回復した。

 そのことに胸を撫で下ろす。骨がささるだとか脅された不安は払拭された。これで晴れて日常に戻ることができるだろう。

 …と思ったのだが。


「おお!お主、元気になったのだな!!」

「げっ」


 例の変な男がいらん面倒見の良さを発揮して、朝から様子を見に来ていた。

 因みに彼の評価は変な男で固定である。一時は救世主かと思った所からの乱下降により、最底辺のその下へめり込んだままであった。


 助けて貰ったのは感謝しないでもない。だけど関わりたくない。

 だというのに。


「我らがしばらく面倒を見るようにと支部長からのお達しがあった!これから宜しくな!!」

「嘘だろ…」

「本当だぞ!」


 支部長といえば、大天狗である。

 ただの小天狗、からは見上げたとしても雲の上に隠れて見えやしないほどの高位。

 逆立ちしても逆らうことなどまさかできない。

 同じ小天狗の癖になぜそんな上から直々に命じられているのかと疑う気持ちもなくはないが…。


 どこにでも居そうな男をまじまじと見つめてしまった。

 中肉中背。顔立ちも体つきも平凡と言えば良いのか、全体的にぱっとしない。

 じっと見ていたら、いやぁはっはっは、とか言いながら頬を赤らめて照れだした。非常にイラッとする。

 しかし嘘を吐いている様子はない。これで嘘なら詐欺師で食っていける。


「それでお主、なんと呼べばいいのだ?」


 上の命令に逆らえないのは下っ端の泣き所てまある。

 ぼこぼこにやられてほくそ笑むような変な男とつるむことになったのは泣く泣く受け入れるしかなく、またこれからが少しでも居心地良くなるように努力する以上の良策はなかった。


「…(ごう)

 頭を抱えたいのを(こら)えながら名乗った。

 ひとまず当分は従うしかないだろう。

 先行きには不安しかない。






 それから郷はカズと行動を共にすることになったのだが、大方の予想を裏切って、カズの側は居心地が良かった。


 先日と同じように、彼の周りにはいつも何羽もの小天狗がいて、さながら親に集る雛のようにちょろちょろしている。

 その全員が郷と同じような立場、つまり天狗として日が浅い、右も左も分からない最底辺の下っ端で、郷はさほど苦労なく一団に溶け込むことが出来た。


 何より助かったのは、大勢でいると、下を狙って憂さ晴らしをしようという輩が寄ってこないことだ。

 遠巻きに見覚えのある顔を見かけたが、あちらはちらっと郷を見て、何事もなく通りすぎる。

 何度かそういうことがあって、なんとなくああいう奴らは単独行動をしている者を狙うのだと気がついた。


 ついでに気付いたのだが、カズはどうやら、先輩として彼らの面倒を見ているという体裁らしい。


 仕事へ行く道すがら、雑談がてらに話を聞けば、普段はカズを先頭に住区画での(はした)仕事をしているらしい。カズが聞き込んで仕事を引き受けるという。

 年長者は落ち着いて見えるためか、それとも顔が広いのか、仕事はいくつも取れた。


 郷にとって、いつもとやることは同じである。

 届け物、掃除、料理の下準備など。ただ数が揃っている分、仕事の効率が良く、多くの仕事を捌ける。


 しかし郷はまだ思うように動けないから、その分周りがやってくれていた。

 さすがに後ろめたくて、一度筆頭格の忠司に謝ってみたのだが、

「そんなこと誰も気にしちゃいないし、それが当たり前だと思ってるからお前も気にすんな。元気になったら返すつもりで働いたらいいから」

 とひらひらと手を振られ、ぽかんとしてしまった。


 とんだお人好しである。よく生き残れてきたものだ。

 普通そんな調子でいてはこき使われて磨り減って死ぬ。郷にとって世の中とは、油断も隙も許されない場所だ。


 だがこの集団は、恐ろしいことにカズを含めて皆同じように能天気だということを知り、郷は真剣にいつ離れるべきかを見極めなくてはならないと感じた。

 上からの命令を翻すことは出来ないが、沈むと解っている泥船に大人しく乗っている気はないのだ。


 ところでだ。

 先輩が後輩の面倒を見ている体裁はしかし整っているとは言い難い。


「カズさん!あっちの手伝い終わった!」

「カズさん、次食堂の裏だってよ」

「ズっさんまだそれやってんのかよ」

「手伝ってしんぜよう」

「全員におかずいっこずつ分けてね」

「そんなことしたらワシの分がなくなってしまうわ!しかし頼む…」

「はいはーい」


 薄々察してはいたが、カズはあまり役に立たない男だった。一応助けられたということを考えて柔らかく表現してその辺りだ。

 そんな感じのカズを、面倒見られているはずのその他大勢が協力して助けているのである。

 雛が寄って集って親を養っているように見えなくもない。


 郷が見る限り、カズに悪気はなく、真面目なのは認めるが、絶望的に要領が悪い。


――――なんで芋を剥いたら包丁を洗おうとする。次は大根もあるだろうに。

――――そっち行くならこっちの山もついでに届ければ良いのに。

 もたもたもたもた。

 ああもう。


「貸せ、おれやる」

「む、しかし郷、お主まだ腕の怪我が…」

「良いから貸せ。日が暮れる」

「……頼む」


 場所を代わって井戸端で大根を剥き始めると、ぴりっと腕の傷が傷んだ。腹は薬のお陰か綺麗に治ったが、なぜか腕の擦り傷はまだ生乾きだ。

 郷は顔をしかめるが、そういえばとカズを盗み見た。


 これなら出来るだろうと忠司がまとめて置いていった木椀の山を、真剣な顔をしてざぶざぶ洗っている男。

 その腕まくりした腕にはうっすらと痣が見えるが、怪我と呼べるほどの何かは見当たらなかった。


「なあ…」

「んん?疲れたか?余り無理はするものではないぞ?皆お主が病み上がりなのは知っているから気兼ねなく休めよ」

「違う、そうじゃない。…あんた、おれと同じぐらいやられてたろ。なんで怪我してねぇのさ」


 カズはむふふ、と笑った。気持ち悪い方の笑みである。瞬時に後悔した。

 ちょっと引いた郷に全く気付かず、カズは勿体ぶって「それはな」とにやにやした。

 殴りたい。この笑顔。


「操気の技だ!」

「ソウキ?」

「そうだ、気を操って守りを固めたのだ!基礎編を学んでな、実践してみても自分では中々効果が分からなかったのだが、出来ておったのだなぁ」

「…基礎編?」


 これだ、と懐から大切そうに取り出したのは、一冊の草子。


「さるお方がくださった学習本なのだが、基本のキから丁寧に解説してあってな、とても分かりやすいのだぞ!読みたかったらお主にも貸してやろう!貸すだけだからな!!」


 にこにこと差し出された本は、表紙には折れ目が付き、端が削れて丸くなり、全体的によれている。

 良く使い込まれ、しかし大事に読まれているのだろう、破れ目などは見当たらない。


 恐らく他の小天狗らにもこうして差し出しただろう草子から「いい」と顔を背けた。


「ん?そうか?身につければ役に立つぞ?」

「いい!それより手、動かせば。本気で日が暮れるぞ」

「むう…」


 横でまたざぶざぶやり始めたのを聞きながら、郷は手元に目を落とし、親の敵かのように大根を睨んで皮を剥きにかかった。

 もう何があっても話に応じてやらない構え。絶対に目を合わせないという無言の主張である。


 しょりしょりと高速で大根が剥けていく。皮は透けるほど薄く、しかし長く伸びていく。

 極限に張り詰めた精神の成せる業であった。


「あ、さては字が読めんのか」


 瞬間郷はびしっ、と石になった


「ふむ、それであのときあんな場所にいたのだな。高札(たかふだ)が上がったばかりなのに読みに行かぬとは妙だと思っておったのだ」

「そ、そ、そんなんじゃねえ!」

 遅れた否定の効果と説得力は大根の皮のように薄い。


「字が読めぬ者は多いし、そんな恥ずかしがらなくとも」「そんなんじゃねえって言ってんだろ!!」

「字を教えてやろう」

「なぁぅ…っ……はぁ!?」


 大根の代わりに指を剥きかけた。


「字が読めるとな、高札が読めるぞ。そしたらな、上層からのお達しも、今の情勢も分かる。仕事の掲示も読めるし、書のやり取りも出来る…色々と良いことがあるのだぞ!先ずは仮名からやって、次に漢字も…読むだけではなく書き文字も合わせてやっていくか!」


 もう既に郷が字を習うというのはカズの中では決定したことらしい。

 何やら言いながら楽しそうに指を折っている。

 郷は反射的に言いそうになった"やらない"を寸でで飲み込んだ。


 郷は何か決められると反発してしまう質だったし、今回も腹が立った。

 でも高札が上がったとき、報せを見ている群衆の側で耳を澄ませ、内容について喋っている声を探して必死に聞き取ろうとする、あの惨めさを昨日また味わったばかりだったし、そこから逃げ出してあんな目に遭ったのだ。


――――あれが読めるようになる…?


 後から何を要求されるか知らないが、その申し出はとても…とても魅力的だった。

 最早あれもこれもと両手で数えているカズから、郷は目線を外して前を向き、期待を誤魔化すように半ば叫んだ。


「とにかく仕事終わらせてからだろ!」






「あめ、つち、ほ…し、そら…やま、かは、みね…?たに、くも…」

 午後の光の下で、郷は地面に枝で書いた"文字"を眉根を寄せて読んで(・・・)いく。

 集中に集中をかさね、記憶を引っ張り出して、間違えないように一字ずつ確かめながら声に出す。


「――えを、なれゐて」

「正解!完璧だ!!」


 カズの宣言と共に、おおー、と周りが調子良く囃す。

「三日で全部読めるようになるとはすごいぞ!」

 惜しみない拍手が巻き起こり、郷はふふんと胸を反らした。


「ま、こんなもんだ!」

 完璧に調子に乗っているが、それも無理はないと言えよう。


 文字は最初、ただの模様にしか見えない郷だったが、兎に角必死に頭に叩き込んで、仕事の合間にも書いてもらっては凝視した。

 なんと、この集団は全員文字を習得している。同じようにカズに教わったのだそうで、お蔭でいつでも質問ができた。

 まあ、一番小さい総一朗が教えてくれたときには複雑な気分になったものだが、負けん気に火が点いたのだから却って良かったのかも知れない。

 覚えるために見よう見まねで自分で書いてみたりもして、もう殆どの字は形を覚えた。

 間違いなく生きてきて一番の頑張りだった。


 そして、と郷は横目で向こうを流し見た。

 ちらほらと、勉強風景を羨ましげに盗み見ている者がいた。

 物陰から覗いているその中には、この間世話(・・)になった先輩(・・)たちもいたのだ。


――――あいつら字が読めないんだな!


 益々いい気分だった。

 郷は、初めての優越感に頬を緩める。


「良し。郷、今度はお主が書いてくれぬか。分かるところだけで良いからな」

「よっし!」


 均された地面に、鼻歌をふんふんやりながら小枝でがりがりとひと文字ずつ彫り込んでいく。

 間もなく、(いびつ)ながらもずらりと字が並んだ。

 幾つかの間違いや改善点を指摘されたものの、それらは立派に読める代物であった。


「すごいぞ!もうこんなに書けるのだな!!」

「郷ちゃん頑張ってるもんねー」

「すごいね郷ちゃん!」

「ふふん」


 口々に褒められて有頂天になった郷だった。

 だがそのとき、

「おおい!そこのお主ら!」

 何を思ったか、カズが遠巻きにしている奴らに声をかけたのである。


「お主らも字に興味があるなら教えてやるぞ!」

「はぁあ!?」


 仰天した郷はカズに詰め寄った。

「なんでそうなるんだよ!」

「ん?なんでとは何だ?」

「何だじゃねえ!あいつら、こないだおれとあんたのこと囲んで蹴ったやつらじゃねえか!!」


 恐々と近付いてこようとした一角を指差せば、露骨にギクリと三羽が動きを止めた。

 仲間たちが息を飲み、顔を険しくした。


「あんなのに教えてやることねえよ!!」

 カズは郷を見て、不安げな後輩たちをぐるりと見渡し、それから三羽と、そろそろと三羽から距離を置き始めた連中を見て、ふうむと顎を擦った。


「なあ郷よ」

「何だよ!?」

「確かに彼奴(あやつ)らはお主を「あんたもだろ!」…ワシも蹴ったり殴ったりしたな」


 忠司や孝之助(こうのすけ)納太郎(なたろう)といった年長組がきりりと眉を吊り上げて睨み、総一朗や芳吉(よしきち)ら年少たちは泣きそうな顔で身を寄せ合い、かよとさちとうめは手を握り合って震えている。

 仲間の誰も歓迎していない。これでも教えてやるつもりかと睨み上げれば、カズは困ったように首をかしげた。


「…だがな、なぜあんなことをしたのだと思う?」

「はぁ!?分かりきってるだろそんなの!楽しいからだろ!!あいつらはそういうやつなんだから!!」

「郷、郷よ…ちょっと落ち着け。そうではないのだ」

「どう違うってんだよ!」


 郷がきっと睨めば、三羽は即座に睨み返して来る。反省の欠片もない態度に、郷は益々眉を吊り上げる。

「やったことを恥じない上自分が散々殴った相手に厚かましくねだるのも何も思わない恥知らずだろ!!」

「郷」

 三羽を視界から遮るように、カズが前に割り込んだ。

「何だよ!…っ」

 郷は直ぐにカズにも噛みつこうと睨み上げ――そのまま二の句に詰まった。

 それほど彼は困り果てた情けない顔をしていたのだ。


「お主が嫌なのはすごく、もうものすごーく分かった。本当だぞ?だがな、違うというのはな、ワシが訊いたのはもっと大元のところだということなのだ」

「……おおもとってどういう意味だよ」


 絞り出すような声音(こわね)だったが、郷が問い返したことでカズはほっとした顔を見せた。

「それはな、どうしてそういう風になってしまったのか、ということだ」

「はぁ?んなの元々だろ」

「果たしてそうか?生まれたばかりの子が、本当にその、同族を殴るのが好きなのだろうか」

「…それは」

 言葉に詰まる。

 郷には分からなかった。


「ワシはな、知らぬからだと思うのだ。危険だと知らぬから暴力を振るうし、他の楽しみを知らぬ」

「てめえっ!黙って聞いてりゃ偉そうに!」


 物知らず呼ばわりに、ずかずかと前へ出た一羽が吠えた。言わずもがな、郷たちを率先して痛めつけた一羽である。

「いいからさっさと字教えろや!ごちゃごちゃうるせえんだよ弱え癖によ!!」


 そう言えば誰でも従うとばかりに、これ見よがしに拳の骨を鳴らし、顎をそらす。


――――あんなのに何言ったって無駄だろ。


 郷は顔をしかめて機会を測る。

 仲間たちも決意を固めた顔で睨み付けている。誰もが今度の狼藉を許すつもりはなかった。相手は大きく狂暴だろうが、こちらは年少も関係なく仲間が全員、やる気であった。郷は勝ちを確信した。


――――吠え面かくのはそっちだバカが!


「弱ければ悪いのか?」

 一触即発の空気を知ってか知らずか、カズが切り込んでいく。


「はあ!?強い方が偉いだろうが!従えよ!!」

「うむ。強い方が偉い。だが、お主らは強い方が偉い理由を知っておるか?」

「ごちゃごちゃうるせえっつってんだよ!!また食らいてえか!!」

 いくら脅しても効果がないのに苛立ち、拳で空を切って威嚇した一羽は、「やっちまおうぜ!」と呼び掛けて、不意に気付いた。


「お前ら…!?」

 他の二羽はついて来ていなかったのだ。


「天狗において強い者が偉いのはな、他の者より多くの仲間を守れるからだ。それだけ同胞の役に立つからなのだ」


 過日のように堂々と顔を上げ、胸を張り、高らかにそう言った。

 前とは違い、動揺する一羽と顔を強ばらせた二羽に、あのとき勝ち誇った強気は見る陰もない。


 対するカズは、あのときと全く変わらない。万端に行き届く確信を込めて、力強く声を上げる。

 けして喧嘩は強くはないのに、優位に立っているのは紛れもなくカズの方であった。

 後ろめたさなどどこにもない。だからこそ、彼は力などなくとも――紛れもなく強く在ったのだ。


 しかしカズは、勝ちに笑うでもなくあくまで冷静に、噛み砕くようにして語る。

「だからな、仲間を相手に暴力を振るって、評価されることはあり得んのだ」


 その目がほんの僅かな間、仲間たちにも向いた。

 身構えた者らの顔に戸惑いが浮かぶ。カズが自分たちにも語り掛けているのに気が付いて。


「また出鱈目かこのホラ吹き野郎!」

「――通達が張り出されておる。読めば全て分かるだろう。字を学んだら読んでみると良い」

「ああ゛!?」


 打てば響くようにして歯を剥き出したものの、明らかに相手は動揺している――カズの話を聞いている様子があった。


 カズは、相手がしばらく待ってもぶるぶる震えているだけなのを確認して、向こうへも呼び掛けた。

「さあ、お主らももそっとこっちへ来るのだ!そろそろ始めんごふっ」


 余談だが、怒れる野獣と至近距離で相対した場合、先に目を逸らしてはいけない。

 たったそれだけの刺激で襲い掛かってくることがある。

 だからなんだと言う訳ではないが、とにかく豪速の右を食らったカズは、もんどり打って吹っ飛んだ。


「カズさん!!」

「てめぇなんぞに世話んなるかよクソが!!バカの癖に!!死ね!!!」

 そう叫んだものの、殺気立った忠司たちが守るように立ちはだかると、複数の無言の睨みを前に舌打ちをして、踵を返した。次に睨んだのは背後の二羽。

「行くぞ!」


「……」

 二羽は、顔を見合わせるばかりで動かなかった。


「っっ!!じゃあもう来んな!!死ね!!!」

 そう吐き捨てて、足を地面に打ち付けながら去っていく。

 勇ましく足音を鳴らしながら、しかし尻尾を巻いて逃げたのだ。

 事実上の勝利。それを確信するのに、誰もが少しの間を要した。誰もが乱闘を覚悟していた。そこへの呆気ないともいえる幕切れ。

 誰からともなく、大きく息を吐いた。

 安堵のため息だった。


「…カズさん、平気か?」

「だいじょぶ?」

「おお…いてて……いや、あまり痛くないな。うむ!はっ、あやつは!?」

「…どっか行った」

「むぅ、そうか……では仕方がないな。では残った者でやるとしようか」

「……やっぱ教えてやるのかよ」


 郷には心底カズがわからない。痛い目を見たのになぜそのことを二の次にできる。


「ん、郷、すまんな。嫌かも知れんが少し我慢してやってはくれぬか。仲良くせよとは言わぬから」

 ぎゅっとしかめた顔をそんな風に解釈して、益々引き結ばれた口を見て困った顔をした。


「お主ら、出来れば郷には謝ってやってくれぬか。郷は酷く痛かったのだ…その…」


 ふいと向こうを向いた郷と、その場に残りはしたが無表情な二羽。

 分かりやすい両者の拒絶に、カズは少しの間もごもごと何か言っていたが、結局は黙ってしゃがむと、がりがりと文字表を作り直していく。

 書き上げてから、気を取り直したように顔を上げた。


「皆、…郷も、字を教える前にひとつ、頼みがある」


 皆黙っている。可笑しな具合になった空気に一瞬怯みつつ、カズは声を励まして続けた。


「字を覚えたら、他の…お主らのように字が読めなくて難儀している者にも教えてやって欲しいのだ」


「は…?」


 郷は声を漏らしただろうか。だとしても、それは何重にも重なっていた。

 字が読めるというのは、他者より一歩秀でるということ。

 それを惜しまず分け与えるというのは、自ら有利を手放すということだ。

 彼らにとってはあり得ないこと。唖然とするに足りる奇行なのだった。


「ワシもな、出来る限りやっているのだが、やはり相性というのがあるようでな、どうやらワシらと関わりたくない者も居るのだ。そんな者の中には、お主らとなら仲良く出来る者が居るかもしれぬだろう?ワシが教えてやれぬ者に、字を教えてやって欲しい」


 反応は芳しくない。

 困惑したよそよそしい空気の中、な?と言われた一羽が嫌そうに顔をしかめた。

「…教えて何の得があるんだ」

「色々とあるぞ!」


 何もないだろうと言わんばかりの返答に、カズの笑顔が輝いた。

「まず、掲示を読める者が増えたら、天狗全体がどう動いているのか知る者が増える。そうしたら、やってはいけないことも自ずと知れるし、風紀が正されて居心地が良くなる!それに何より上からの覚えがめでたくなるぞ!」


 ぽかんとした一同にカズはにんまりした。

「強い天狗が偉いのは、仲間の役に立つからと言ったが、仲間の役に立つ者が求められているということだぞ!今は情勢の乱れで上位がごっそり出払ってしまって、下罰も褒章も行き届いておらぬが、確認は行われておる。遠くない時分に、行いに応じたお沙汰があるだろう。やるなら、今の内なのだぞ?」


 むふふという笑みは最高に気持ち悪かったが、目から鱗を落とし途中の者たちには、反応している余裕はなかった。






 何羽も天狗が集まっているのが見える。

 住区の手前、外界の門へ続く道が交差したところ。

 ざわめきの中心には、掲げられた木札がある。

 申し訳程度の屋根が付き、文書が貼られたそれを高札という。上層からの伝達事項を報せるために設置される、簡易の掲示板である。


 郷は後ろの方で散々ひょこひょこやった末に諦めた。

 同胞たちは、小柄な郷を遮るのには充分な高さと厚さの壁である。まだ飛べない郷は、ある程度はけるまで待つしかない。

 

 舌打ちをして目を逸らした先に、大きな掲示板が目に入る。

 夏物の配布の告知とその受け取り方、天狗の心得十ヵ条、夏にあるらしい大祓えと夏祭りに関する諸注意。

 比較的平易な文面のそれらと趣の違う、最上段にある一枚。

 貼り出されて数ヶ月経った今でも最上段に居座り続けているそれ。


 郷にはまだ全ては読めないが、眺める内に自然と一ヶ所に目が止まった。


 "久那(クナ)"――漢字を習うとき真っ先に教えられた、自分たちの一番上にいる存在の名。


 ここは知っている。カズがわざわざ皆をこれを読みに連れてきたことがあったのだ。


『――世(みだ)るること久那憂ひ給ひて(のたま)はく。百難(ひゃくなん)来たる。同胞(はらから)(すべか)らく(ひとつ)たれと――』


 平たく言うと、情勢の悪化を受けて、天狗全体に"団結してほしい"と久那が言った。ということだ。


 久那の命令は天狗にとって絶対。

 当時、すぐに議会はこの言葉を実現すべく法を整備し、上位の天狗たちは速やかに動き出したらしい。

 久那に従うのは天狗の常識である。尤も、直接見たこともなければ声を聞いた訳でもない下っ端にはぴんと来ない話だが。

 しかし、上は、久那の言葉で…いや意思で動くのだ。


 カズが言ったことは半分事実で半分はったりだった。

 掲示されたもののどこにも、同胞への暴力を取り締まるとは記されていない。

 しかし、久那が天狗全体に団結を促した。だから、団結を邪魔した者は罰される。と、そこまでが滑らかに繋がる。

 どんな法も規約も意味はない。久那の言葉ひとつ掲げるだけで足りる。全く充分。カズの言ったことは結果的に嘘ではない。


 郷はもう一度混雑の様子を眺め、夕方にでも出直すことにすると背を向けた。


 帰りの道は長閑(のどか)だ。

 柄が悪いのは鳴りを潜め、ちょくちょく小走りの遣いっ走りとすれ違う。道行く者も、暇そうなのも、皆びくびくしたり、過剰に緊張してはいない。


 ばさりと翼を鳴らして、武装したままの一団が頭上に差し掛かった。

 位は遠目には分からなかったが、多分、色位以上。

 下からの羨望の眼差しを一身に受けて、支部の本舎の方へ飛んでいく。


 つい三日ほど前に上位の天狗たちが帰還してから、呆気ないほど速やかに治安は良くなった。

 陰に弱者を引き込んでいじめていた者たちには、自分より強い者に立ち向かう度胸はなく、大勢の高位天狗の登場に、一気にそれらが静かになったのがひとつ。

 そして、今まで防衛で手一杯だった状況が改善され、静観されていた、些細な――敵に比べればほんの些細な――問題行為を繰り返していた者が一斉に連行されたのがもうひとつ。


 よくもまぁ全てカズが言った通りになったものだと思う。

 先見の明、というほど大袈裟なものではないだろう。多分、恐らく、知る者は分かっていた事実に過ぎなかったのだ。

 物を知らない、郷のような者たちが慌てただけなのだ。


 そう、状況は明らかに好転した。

 理不尽を行う者は制裁を受けた。なのに、本来なら良い気味だと笑えただろうに、郷の心中は複雑だった。


 二日前、郷とカズを殴る蹴るした者らも連れていかれた。それを郷が知っているのは…共に字を学んでいる最中に連行されたからだ。


 謝罪の言葉こそなかったが、掲示板を読みに行った後からは、ぽつぽつと言葉を交わすようになっていた。

 それは久那の言葉を守ろうという、未だ薄いが天狗の本能の為せる業であり、しかし内心では許すまいとずっと思っていた。なのに、ひと月も毎日顔を合わせていると、なんとなく分かってくることもあるものだ。


――――こってり絞られて、場合によっちゃ折檻と何かの罰が下りるって聞いたけどなぁ…。


 ふうとそれなりに重い息を吐いたそのとき、倉庫の裏の空き地に輪になって(たむろ)している内の一羽と目が合った。

「あ、――よう」

「えっ…おう」


 片手を上げて、ただそれだけを交わして歩き去る。呼び止められたりはしなかったし、立ち止まって雑談しようとは郷も思わなかったので。


「いろは、に、ほへ、と…」

 聞こえたたどたどしい手習い歌に、自分ならどう教えてやるだろうかと考えながら歩いた。


 多分、あいつらよりは上手くやれると思う。






「あ」

 食堂裏の空き地を覗くと、予想通りにカズを見つけた。

 カズは郷に気づいていない。端の方で木陰に座り込み、手元の紙を食い入るように見ながらにやにやしている。

 …にやにやしている。


「…気持ち悪ぃ…後にしよう」

「お!郷ではないか!」

「あんたなんでいらないときばっか鋭いんだよ!」


 余計な地獄耳は、郷の不意を突くのにそれは役立つと巷で評判である。


「何だ、ワシに用か」

「っ…仕事、終わったから。それより嬉しそうに何読んでたんだ」

 ついはぐらかしてしまったが、カズは不自然な間には気が付かず、ただ嬉しそうに紙を見せびらかした。


「これはな!我が無二の友からの(ふみ)だ!!」

「な、なにぃ!?」


 変な男に友達がいるという衝撃の事実。


「…そいつも変な奴だろ」

「何を言う!すごく良い奴なのだぞ!?」


 カズが言っても説得力は皆無に近い。

 とりあえず郷は紙を覗き込む。そこには、お手本のような読みやすい丁寧な字で、世間話的なことが書いてあるようだ。…郷には読めない漢字と小難しげな言い回しが多数あったので読み取れたのは雰囲気だけである。

 それでも言えるのは


「頭良さそう」

「そうなのだ!頭良い上に努力家で、口が達者で勘もちょっと鋭すぎてな、一度も口喧嘩で勝てなくてだな…」


 我が意を得たりと勢い良く始まり、失速。


「間違ってると思ったら年上でも容赦なくこき下ろすし、生意気にずけずけ物を言うし、驚かせて遊ぶし、言うに事欠いてワシに下に扱われるのが嫌だとかなんとか…年下の癖に…」


 終いにはぐちぐちと恨み言を並べる始末。

「それほんとに良い奴なのか…?」

 聞いた限りでは性悪でしかなかった。


「良い奴だとも」


 だが、そう言ったカズの笑顔は、今まで見たことのないものだった。


「見ず知らずの者を、同胞だからなんて理由で、自分の身が危険でも助けようと立ち向かえる奴なのだ。それにな、一度関わった者なら、それがどうしようもない愚か者でも手を差し伸べる、情が深い…優しい奴なのだ」


 物言いは少々きついがな、と手紙に目を落とす。その眼差しは友への暖かな想いを雄弁に語る。

 郷にでも察することができる信愛がそこにあった。


「…あんたみたいな奴だな」

 見ず知らずの郷のために飛び込んで来た、あの姿を思い出して言う。

 うん?と、カズは照れ臭そうに笑った。


「そう思うか?」

「うん…その、…おれはあんたのお蔭で…あの、…助かった。うん、そう思う」


 やっと本題へ踏み出して、郷は大きく息を吸った。

「ありがとうございました。宜和(よしかず)さん。あなたのお蔭で助かった」


 深く頭を下げた。

 今まで表せなかった、深い感謝をありったけ込めて。


「郷、頭を上げてくれ!それと、カズで良い、カズで!敬語もいい!そんなことされるとこそばくてかなわん」

 ひとまずは頭を上げたものの、郷はでも、と口にする。


「そんな畏まられると困るのだ…実はな、あいつの真似をしただけだ。ワシはあいつのように上手くはやれなんだが…これがワシの精一杯だから仕方あるまい。それに、そんな大したことは…」

 言い訳がましい言い(ぐさ)に郷は苦笑する。

「助けてもらった上に仲間に入れてもらって、いじめられなくなった。みんな良い奴で、何かあったら助けてくれるし、カズさんが取ってきてくれるから、仕事に困ることもなくなった。文字も教えてもらって、貼り紙も読めるようになった。全部…カズさんのお蔭だ。その友達がどんな奴かは知らねえけど、そいつは関係ねえよ。おれのために色々してくれたのはあんただ」


 まだまだ言いたいことはあったが、上手く言えなくて口を閉じる。

 油断してはならないと、誰からも離れて身を固くしていた郷が、今はのびのびと顔を上げていられる。その感謝はおおきかった。


「なあ、なんであんたは、自分より他人を優先できるんだ」

 カズが何か言おうとする気配を遮った。言うと決めてお礼を言ったけれど、思った以上に気恥ずかしかったのだ。


「ん?そんなことはないぞ」

「んな訳ねえじゃん。弱い癖に蹴られてんのを止めに来てぼこられたり」

「む゛」

「暴れそうなやつ説得しようとしてぼこられたり」

「ぬ゛」

「他の奴の仕事まで引き受けて、終わらなくて飯食いっぱぐれかけたり」

「…お主……実は貶したいのか」

「…ぼこられたのに文句も言わねえし、そのままなかったことみたいに流しちまう。それに、折角他のやつが知らないのに、字、教えるだろ。みんなできるようになったらあんたの価値が下がるだろ。なんでそんなことすんだよ。損ばっかりじゃねえの」


 ずっと訊きたかったことだった。郷は頼まれたってやらない行動の数々。その訳を。

 それで助かった郷だからこそ、知りたかった。

 カズは難しい顔をして首を傾げた。


「郷、それはちょっと違うぞ。皆ができるようになったらワシの価値が下がるのではない。皆の価値が上がるのだ」

「そんなん同じだろ。勝てるはずのとこが勝てなくなるんだから」

「むぅう…?なんで勝たなくてはいけないのだ?」

「え…だって、勝たなきゃ負けるだろ…?」


 言わずもがなのことを口走って、怪訝な顔を見合わせた。


「なぜ同胞に勝たなくてはならんのだ?」

「…勝たないと舐められるから」

「舐められる、とは?」

「弱いって思われたら、殴られたり…顎で使われたり…」

「今、同位で優劣を付ける行いは取り締まられておるぞ」

「…あ」


 今はもう、隙を見せないようにびくびくしなくても良いのだと思い出した。


「でも、殴られっぱなしは、やだ…。なんでカズさんはやり返さなかったんだよ…」

 口を尖らせ、地面を睨み、駄々を捏ねるような郷。

 それを呆れるでもなく、カズは不思議と懐かしそうに眺めていた。


「…ワシはな、どうしようもない奴だったのだ。悪いことがあったらよその所為にして、自分から動かんのに恨み言ばかり。意見を言うことも出来ん癖に欲ばかり大きくて、それを自分でも気付いておらぬという、今から思うと、本当にどうしようもない」

「は?え…?」


 いきなり始まった話に戸惑って、しかし聞き取ったことを疑ってまじまじとカズを見た。

 恨み言なんか言いそうにない、いつものカズである。欲深いどころか、持っている物を全部他へやってしまいそうな、お人好しの、不器用な。でも譲れないところは一歩も引かない、真っ直ぐな目をした男。


「あんたが欲深い?」

 思わず苦笑が漏れる。慰めようとした冗談だろうと思った。

 でも、大真面目な顔をしたカズは頷くのだ。


「うむ。何も努力などしなかったのに、位も富も、尊敬も全部がいつか手に入ると思っていたのだ。持っている者はずるいと。それで、上位に顎で使われる度に恨んでいた。いつかワシが偉くなったら、ああいう風に顎で使って、馬鹿にして鼻で笑ってやる。媚びへつらう下位の上に立ち、左団扇で高笑いしてやるのだと」

「…?」

 悔いた顔で自嘲気味に言われても、郷は何がそんなに悪いのかわからない。


 いつか偉くなりたいと思うのは誰でもあることだ。郷にはそういう感想しか湧かない。

 それはひとえに、カズの話に出て来たのが、一般に"偉い"と言われる者の代表的な印象だったからだ。


「解らぬか。…ワシもそうだった。けどな、それは本当に目指すべきところなのかと、こいつが気付かせてくれたのだ」

 こいつ、と手紙を撫でる手を目で追って、郷は首を傾げるしかない。

「はぁ…?上を目指すのが間違いだって?」

「ちがう。こういう言い方だったかな…今言ったような、威張り散らしたやつのことだが、そういうやつが好きなのか、とな。お主はどうだ?目の前にそういうのが居たら好きになれるか?」

「無理」


 考えるまでもない即答に、我が意を得たりと頷くカズ。そのとき、郷にも何か違和感を感じた。


「だろう?あいつは言ったのだ。"なんで嫌いなやつを目指すんだ"とな。それと"なりたいものを目指せば良い"と。ワシは、その通りだと思った」

「あ…」


 色々と腑に落ちた。

 カズが真っ直ぐ前を見る理由。同胞の力になろうとする訳。

 基礎を学んだという操気の技を使えば、そう負けることもないだろうに、決して同胞に反撃をしないという決意の下地になったもの。


「あんたの、なりたいのってのが、そういうやつなのか」

 にこにこと見守っている目が、その気付きを肯定する。


「そうだとも。ワシは、助けて欲しかった(・・・・・・・・)からな」

 郷は息を飲む。

 驚いた。驚けた。以前の自分ならば、なぜそこが繋がるのか解らなかっただろう。

 今は解る。助けて欲しかったから助ける者になろうなんていう、馬鹿のような優しい理屈。


「誰にも譲るものか、損するものかと思っていたが、やってみたらな、損などひとつもなかったぞ!得なことばかりだ。例えば郷よ、今のお主のようにな、改まって感謝を伝えてくれる者がたくさんいる。仕事を取りに行っても、皆どこか優しく対応してくれるようになった。声を掛けられることも増えた。これを得と言わずして何と言うのだ」


 カズの周りが居心地が良いのは、カズが中心に居るからだ。多くの者が血眼になって求めるものとは全く別のものに価値を見出し、それを分け与えることを知っているカズだから、大して豊かではないのに皆、笑顔で朗らかに居られるのだ。そう、気付く。


「うん…そうだな」

 素直に頷くことが出来た自分を、少し誇らしく思えて郷は微笑んだ。


「おれも、なれるかな」

 聞こえないぐらいの小声でそっと呟く。あんたみたいに、なんていうのは、流石に気恥ずかしくて心の中だけに留めたけれど。


「なれるとも。なりたいお主に!ワシでさえ出来ることが、お主に出来ぬ訳はない!」

 やっぱり地獄耳で聞き取ったカズが胸を張るのが、今回ばかりは嬉しかった。


 郷を変えた英雄(・・)が言うなら、ちゃんと変わっていけるような予感がする。


 なりたい理想の自分へ。


「カズさーん!あ、郷ちゃんだ!」

「おーい、何してんのー?」

 いつもの面子が帰ってくる。郷とカズが迎えて手を振ると、つられた笑顔が咲いた。


「お、そうだ!郷、今日は奮発して風呂屋へ行かぬか?井戸で水浴びばかりだったからな!」

「お!良いな!」

 郷は益々笑顔になる。風呂屋は高くはないが、毎日通うのは少しきつい。たまの楽しみというやつだった。


「よし!背中を流してやろう!」


 カズのひと言に、その場の空気が凍りついた。「は?何言ってんの?」的な類語が一同の頭を過り、裏で、「え、まさかカズさん気づいてない?うそー!?」などがこそこそと交換された。

 得意気なのはカズばかり。


「裸の付き合いは良いものだぞ!これを期に親睦を深め…ん?どうした?」

「な…は…」


 みるみる内に朱が上り、怒りの形相に変われば、鈍いカズにもただならぬ気配が伝わったらしい。

 こそり、とうめがカズに忍び寄った。


「カズさん、郷ちゃん………女の子だよ?」


 ぽかん、と口を開けてカズは一時天狗の置物になった。

 が、しかし、状況は悠長に停止しているのを許さない。

 ずん、と荒く郷の一歩がカズに迫る。


「ご、郷!?違うのだ!!おれと言うし喧嘩っ速いし勇ましいし細いからてっきり男かと!!」

「がさつで貧相で悪かったな!!!」

「いや、そんなことはっ!あの!決して!ただ思ってもみなかっただけでそのっ!」

「歯ぁ食いしばれやああ!!!」


 力一杯墓穴を掘った愚か者は、思い切り体重の乗った一撃に宙を舞った。


 どうせ技であまり効かないだろうと思い、遠慮なく思い切り鬱憤を乗せた一撃に、なぜだかしばらくカズが立てなくなって、郷に秘められた操気の才能が判明するのはまた別の話である。





ここまで読んでくださってありがとうございました✧*。٩(ˊᗜˋ*)و✧*。

これにて本当に二章終了でございます。

お疲れさまでした!

夜に活動報告で二章あとがきを上げる予定なので、良ければそちらもご覧ください。

三章もお付き合いくだされば幸いです!

それではまた近い内に(* ̄∇ ̄*)ノシ


活動報告を投稿しました↓

https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/2376201/

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