第13話 大久保⑶
私は喉元まで出てきた単語を飲み込む。「ふ」もしくは「う」から始まる平仮名3文字の言葉は、タイチ君の前では絶対口にしちゃいけない。
「タイチ君としては、それが良いと思う? それとも悪いと思う?」
BJさんは問う。
「よく分からない。けど、パパが僕の目を慌てて塞いできたから、悪いのかなって」
「一緒にいたの?」
「うん」
最悪の状況だ。
「それに夜、僕が寝た後、ママとパパがけんかしてたし」タイチ君は口を軽く尖らせた。「今まで何度か喧嘩していたけど、部屋まで聞こえてくることは初めてだったんだ」
「そっか……」BJさんは起こしていた背をエレベーターの壁につけ、顎を上げた。
「だからね、なんかもう元には戻らないなって思ったんだ。次の日からパパもママも、別れるために話し合いをしてる」
BJさんは少し言葉を詰まらせると、「そう、なんだ……」と弱くか細く返事をした。
「話し合う日はおじいちゃん家で待ってるんだけど、今日はおじいちゃんが応募して当ててくれたここへ遊びに来たんだ。そうしたら……」
タイチ君はこれまでの流れを淡々と述べていく。
「パパからおじいちゃんと一緒にいろよって言われたんだけど、僕、1人になりたくて……」
うなだれるタイチ君。
今この瞬間、子供は大人が思ってるより色々と分かってる、という言葉を痛感した。同時に、この子は強くいようとしているのだろうと気づいた。半径1メートル圏内の日常が急激に変化し始めている今に、飲まれぬよう流されぬように、強がっているのかもしれない。そう思えてならなかった。
「苦労してるんだね」
「かも……ね」
タイチ君は天井を見上げた。まだ早い。達観してるとしても、こんな幼い子にはいくらなんでも早過ぎる。
「でも、それとおじいちゃんが君のこと……」
タイチ君は「タイチ」と述べて、遮る。BJさんはすぐに「あぁ、ゴメンね、タイチ君」と修正した。
「でも、それとおじいちゃんがタイチ君のこと嫌いになるっていうのは、別じゃないかな。タイチ君、何も悪いことしてないでしょ?」
静かに首を横に振った。「だって、僕にはママの血が流れてるから」
これで好かれてない的なことを言っていた理由が見えてしまった私の口は勝手に開いた。けれど、尻すぼみに言葉が消えていくタイチ君の言い方からして、相当深刻に受け止めてる事実のよう。どうしようもなく、悲しくなる。
「血なんて、判断する時にちょっと使うぐらいの使う小ちゃな手段だよ」
「小ちゃいかな?」
「小さいよ。血が繋がってなくても家族だったり兄弟だったりするんだから」
「なら、家族とか兄弟って何で決められるの?」
「難しい質問だねぇ〜」BJさんは苦々しく口角を上げると、胸に手を当てた。「多分だけど、気持ち、じゃないかな」
タイチ君は黙って、ただBJさんを見ていた。先程までの少し反抗的な雰囲気とはまるで違った。すがる訳ではないけど、何か自分の知らない概念要素について、必死に知ろうとしている姿がそこにはあった。
「この人が家族だと思えば家族だし、兄弟だと思えば兄弟だ。友達とか好きな人とか大事な人でも同じ。強く思っていれば、どんなに遠くにいようが、そうなんじゃないかな」
真剣ながらもどこか柔らかさのある言葉を並べたBJさんは、最後「そのままだったかな?」と笑って付け加えた。
「うん。そのままだった」タイチ君は発した。「けど、ありがとう」
タイチ君の顔に少し力が戻る。
「うぅん……」
聞き覚えのある嫌な声に私は視線を向けた。あっ。野球帽が目を覚ました。まだ閉じ込められていることに何か文句言うんじゃないかって身構えたけど、別に声を荒げることはなかった。ただ静かに「まだかよ……」と呟いた。そして、後ろのポケットから細く丸めた雑誌を取り出し、広げる。静かに読み出した。週刊誌のようだけど、かなり厚いということに。よくあんなのがポケットに入ったな、と少し感心する。
「別れてもいいよ」
私は視線と意識を野球帽から、タイチ君に移す。
「離れるのは寂しくないの?」BJさんが続く。
「寂しいよ。寂しいけど、2人の人生だから。僕がどうこう言うことじゃないのかなって」
「偉いね」
「偉くないよ。ただ、仕方ないんだよ」
「達観してるね〜」
「タッカン?」
タイチ君は首を横に曲げた。その意味は知らないのか。まあ、ある意味子供らしい。
「大人っぽいってことだね」
「へー」
「……仕方ない?」
「うん」BJさんの指摘に、タイチ君は目線を逸らし、「ダメ?」と尋ねた。
「いや、むしろ大事なことだ」
BJさんは背を起こした。
「質問なんだけど、タイチ君はわがまま言ったことある?」
「何突然?」
「いいから」
「うーん……」タイチ君は俯き考える。「多分、ある」
「自覚してるんなら、少なくとも頻繁じゃない。もし今回の件で色々とパパとママに言いたいことがあるなら、少しわがまま言ってもいいと思うよ」
手元を見るBJさん。
「大人になったら、いやでも我慢しなきゃいけない時が来る。今ぐらいは、パパとママがそばにいる間は、我慢せずに伝えてもいいんじゃないのかな」
「だけど……やっぱり……」
二言だけだが、自分が介入してはいけない、と思っていることがひしひしと伝わった。
「勿論、僕が話したのはあくまで、偶然不幸なエレベーターに乗り合わせたお節介焼きからのちょっとした助言だ。ほんのアドバイス。だから、最後にどうするか決めるのは、タイチ君自身で構わない。むしろそうするべきだ」
重責が乗ったことを感じたのか、タイチ君は口を真一文字に結ぶと、顔を俯かせた。
不意にタイチ君に影がかかる。タイチ君は勿論、私もBJさんもその方向を見る。そこには、あの野球帽が立っていた。
「な、何?」
恐々とした表情のタイチ君を、野球帽が突然抱きかかえた。
「は、離してっ!」抵抗するタイチ君。だが、野球帽は構わず即座に壁際へ向かう。
「何してるんですか!」
BJさんが声を荒げ、立ち上がろうとする。だけど、振り返った野球帽は「座ってろ!」と一喝。エレベーター内に反響した怒号により、BJさんはピタリと動きを止めて座った。言われたからっていうのもあるだろう。それ以上に、タイチ君の首元に先を鋭くした紙が突きつけられたからだろう。
真っ直ぐではなく歪な切れ目になっている縁やこちらから見える部分に何らかの見出しのようなものを確認できるから、おそらく今脇に挟んでいる雑誌を破り取ったのだろう。
「そんなんで切れねぇぞ」
「ちょっと、矢島さんっ」
BJさんが止めようと、青い作業着に触れる。発言もだけど、立ち上がった動作も。私はただ見てるしかない。
「なら、やってみてみようか?」
野球帽は冷酷に目を見開いて、紙の鋭い先端を近づける。距離が縮まるたびにタイチ君は瞼を強く閉じていく。頬が痺れている。
「……クソ」と眉をひそめると、再び腰を下ろした。BJさんは手を引っ込め、視線を野球部の方へと向ける。
絶対安心という確証がない今、下手に動けない。挑発なんてもってのほか。慎重に言葉を選ばないと、タイチ君の身が危ない。
「なんでこんなことを?」閉じ込められたあまり、精神でも錯乱したのかと私は思い、訊いてみた。
「理由はここに書いてあるよ」
野球帽は脇を少し開けて挟んでいた雑誌を落とすと、こちらに蹴ってきた。ぶつかったのは、BJさんのつま先。BJさんは手で掬うように素早く取ると、視線だけ野球帽の方へ。
「29ページだ」
再び手元に目線を落とし、言われたページを開く。
「“またしてもBRILLIANTsの仕業か!?”」
私はBJさんに少し顔を傾け、「なんと書かれてるんです?」と尋ねる。BJは続けて、「要約しますと、“今月初めに東京で開かれていた美術展ら複数の品が盗まれ、約4000万の被害が出た”と書かれてます」と斜め読みした内容を伝えてくれる。
「お前がこの強盗団の一員なんだろ?」
概要が分かったところで、野球帽は真っ直ぐ人差し指を立てて、差した。全員でその指の先を見る。確認し、BJさんが視線を戻す。
「矢島さんが?」
その表情は、驚きと戸惑いが混在していた。




