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牛丼と定食⑴

「ほうじ、か……」


 錦戸は口を付けた深緑色の湯呑みをテーブルに置いた。既にあったテーブルの水の輪と少し重なった。今は半分の輪郭だけ姿を出している。寒さが中にも響いているからか、微かに湯気が立ち上っていた。


 「にしても」テーブルに両腕を置き、体重をかける錦戸。体勢が前傾になり、元から目立つ猫背がより目立つ。代わりに、よれよれのコートのシワが伸びた。背もたれのない丸い回転椅子の色が赤だと分からないほど長いこげ茶のコートで、よほどのお気に入りなのか、春夏秋冬どの季節も身につけていた。暑い日は脱いではいるものの、手に持っている。


「年明け2日目に、カウンターで男飯とはな」


 錦戸は無精髭の生えた顎を突き出して、数回掻いた。


「仕方ないですよ、捜査なんですから」


 帰っても1人男飯でしょ、とは言わずに黙ったままいたのは、田荘だ。錦戸の左隣に座り、薄い使い捨てのお手拭きで手を拭いている。どこか磨き甲斐を感じれず、平から甲まで何度も何度も拭いていた。


「オレたちゃ一応は公務員だぞ。正月休みくらいもらってもバチは当たらねぇだろ」


 「仕方ないですよ」田荘はお手拭きを置いた。「警察官なんですから」


 錦戸は苦い顔をしながらボサボサな頭を少し掻くと、体勢を少し田荘の方へ向ける。


「あのな、仕方ないで片付けたら世の中それだらけになっちまうぞ」


 錦戸は「それにだ」と続ける。


「仕方ないって言葉は便利だ。言えばすぱっと区切りをつけたような感覚に浸らせてくれるからな。要は諦めがつく。けど裏を返せば、それ以上はもう考えない、またはしないってニュアンスを誓わせる怖い言葉だ」


 「怖い、ですかね?」と田荘が尋ねると、「怖いだろ。何もしなくなるんだぞ? 考えなくなるんだぞ? まるで洗脳されたみたいでゾッとするだろ?」と主観的かつ全て疑問調で錦戸は述べ、続ける。


「お前はその一歩手前にいる。いいか? 反射的に仕方ないって言う前に少し考えてみろ。それさえ放棄しちまったら、人間それでジ・エンド。お終めぇだぜ」


 良い意味で人生訓のような、悪い意味で講釈のような言葉をすらすら述べる錦戸。そのスムーズさはまるで事前に台本を作ってあり、それを丸暗記したよう。

 だが、別に今に始まった事ではないとばかりに、田荘は特別表情を変えることなく、「でも、今こうして考えても、仕方ない、としか結果出なくないですか?」と、反対の意味は込めてない反論をした。


 口をとんがらせ、片頬を空から釣り針で引っ張られたように上げる錦戸。まるで、これ以上言っても無駄か、のような表情であった。


「オレがしたいのは仕方ない談義じゃないから、まあここらで留めておこう。でだ、オレが言いたいのは、悪党さんよ何も正月までせっせと悪事を働くこったねぇだろ、ってことなんだよ。せめて三が日ぐらいは休めってぇの、ってことなんだよ」


 「せめてって……」捉えようによっては不謹慎な言動に田荘は心の声を漏らす。


「なんで正月から裏DVD売買なんかすんだよ。そんで、なんでオレらにやらすんだよ」


 先ほどようやく終わった仕事へ愚痴をこぼす錦戸。逮捕した人間たちと身内への半々の割合である。


「それがうちの存在理由の1つでもありますからね」


 仕方ないですよ、は飲み込んだ田荘。


 「でもよぉーそれだけじゃないだろ?」錦戸は苦言を呈し始める。


「島の一大事が起きた時はうちのシマ(=縄張り)として動いていいはずだ。なのに回ってくるのは、事務仕事と雑用、それに今みたいな手伝いばかりだ。世間では大々的なニュースが沢山報じられてるのに、そんなのおかしい……って言っても無駄か……」


 錦戸は諦めたことを気づき、また湯呑みを口につけて啜り、置いた。水の輪がどんどんできていく。


 「その、大々的ニュースっていうのは?」と、田荘は話題を変えた。というよりかは、心当たりがなく知りたかったから尋ねたのほうが適切だ。


「高級住宅街で金持ちマダムが殺されたとか」


 田荘は、ああ、と言いながら口を開き数回小さく頷いた。


「それは捜一(=捜査一課)がやってます。確か、あまりの金遣いの荒さに腹を立てた旦那が犯人だったやつですよね?」


「あと、政治家に不正献金の疑いとか」


 そういえば今朝のニュースでやっていた、と田荘は思い出す。確か、権田原派閥の若手議員だった気がした。


「それも捜二(=捜査二課)がやってますし、それはうちの島管轄じゃないです」


「あと、なんか強盗団が出たとか」


「それも捜三(=捜査三課)がやってますどころか、そもそも初耳なんですけど?」


 田荘は眉をひそめ、少し聞き入る。


「で、宝石を盗んでないとか盗むとか」


「なら、知らないですね。知らなくて当然です」


 「あとは……」と考える錦戸に、田荘はたまらず「世の中、物騒過ぎませんかね」と声をかけた。

 聞こえてないのか無視してるのか、錦戸は「有名な絵描きの展覧会をやるとか」と続けた。


 「……もしかして、ふざけてます?」もう犯罪ですらない。


 「最後のは、な」片方の口角を少し上げる錦戸。呆れた、というメッセージを乗せたため息をつく田荘。


 「あぁ〜暇だな〜」錦戸は頰杖をついた。

 「暇が一番ですよ」田荘は少し微笑みながら返した。


「なんで?」


「平和だってことの何よりの証明じゃないですか」


 「いやいやいや」錦戸は頬杖を解いて、カウンターのへりに両手をつき、腕を伸ばす形で体を起こす。


「嵐の前の静けさなのかもしれねぇぞ?」


 田荘の眉がピクリと動く。「あるんですか、心当たり?」


 田荘はまるで、箱の中身はなんだろなクイズで手を入れる前に既に箱がガタガタと動いてたのを見てしまった時のように、怯えながら恐る恐る訊ねた。


「あったら、もうちょい仕事してるって」

 真逆の答えに田荘は思わずコケそうになる。だが、他の人の目があるというのが心理的に作用したのか、どうにか抑えることができた。


 不意に目の前で誰かが止まった。気づいた2人は、ほぼ同時に正面を見る。

 そこには、牛丼を乗せた黒い盆を持ったにこやかな男性店員が。顔の感じからして、おそらく学生。錦戸と田荘を交互に見ながら、牛丼の大盛りつゆだくです、と発した。

 錦戸が「あ、はいはい」と手を上げると、お待たせしました、と盆を置く。続けて、定食の方はもう少々お待ち下さい、と言うと店員は奥の厨房へ帰っていった。


 程よく薄く茶に染まった肉と肉とが重なり、下の白米を守るように覆っている牛丼を確認した錦戸は、すぐさま奥に置いてある黒い立方体の箱を手元に寄せた。蓋を開けると、中から紅生姜が姿を現す。

 入れてあった小さなトングを手に取ると、山のようにどっさり掴んで肉の上に乗せた。掴んでは乗せ、掴んでは乗せを繰り返していくうちに、茶色いはずの牛丼が薄ピンクに染まっていく。


「相変わらず、すごい量ですね」


 その一連の動作を見ていた田荘は、眉を寄せながら声をかけた。というか、心の声が漏れた。


「これが美味いのよ」


 特に気に留めなかった錦戸は、7往復目でようやくトングをくぼみに入れ、箱をあった場所へ戻す。続けて、横に立ててある割り箸立てから無造作に1本抜き取った。


 「いただきまーす」と箸を割ると、錦戸は牛丼を口の中へかき込んだ。上下に動かしてすぐに、「ん〜」と頰を綻ばせた。


「牛丼ってのはこう、いつ来て食べても全く期待を裏切らないよな」


 「なのに、お前は……」呆れ顔を浮かべた錦戸は田荘を見ると、口の中のものを一度に飲み込む。「なんで定食なんだ? しかも焼き魚って」


「だって、メニューで目にしたら、突然食べたくなったんですもん」


「そんなのはな、寿司屋に来て焼肉くれって言うもんだぞ?」


「そうですか?」


「知らん。とにかく、邪道ってことだよ、室長」


 頬張る錦戸。空いたスペースに乗せた紅生姜を寄せ、空いた牛の上に七味唐辛子を振りかける。で、またその上に紅生姜を追加した。


「そんなに食べても大丈夫なんですか」


「紅が付いても、生姜は生姜。むしろ体にいいはずだ」


「でも、その紅がマズいんじゃないんですかね?」


 田荘が「ほら、着色料的なアレで」と付け加えると、「少なくともオレの身近で体調不良を訴えた奴はいないから大丈夫なはずだ」と、錦戸は全ての具材を口へ頬張った。膨らんだ頰が激しく動いている。


「統計測れるほど、周りに紅生姜好きがいるんですか?」


 錦戸は箸を持った右手で、3を作る。

 笑みを浮かべた田荘の「あっ、思ったより少ない」発言に、錦戸は顔を少し上に向けて「うっへぇ」と返した。それが、うるせぇ、であると分かった直後、お待たせしました、とまたあの男性店員の声が耳に届き、見る。田荘と目が合った店員は、盆を前に置いた。所狭しと置かれている。


 錦戸はその定食を見ていたが、ごちそうさまでしたー、と言う女の声が聞こえ、反射的に真っ直ぐ前を見た。そこには、色違いのダウンジャケットを身につけた男女が。錦戸は顔と喉を大きく動かし、胃の中へ入れる。


「カップルか?」


 箸を割った田荘も、錦戸の目線を追って確認する。

 「そうじゃないんですか」2人の距離から鑑みた結論だった。


「正月から牛丼屋にやってくるカップル。うん、健全だ」


 納得したようにうんうんと、頷くと、田荘を見る錦戸。「んで、お主はどうなのよ?」


 「どうって?」魚の皮を箸で取る田荘に錦戸は「流れ的に分かるでしょうが」と、小指を立てた。

 即座に恋人の存在について示していると気づいた田荘は「いません」と、少し不満気に眉をひそめ、定食の白米を頬張る。喋れませんということへの証明と、喋りませんという硬い意思表示であった。


 はぁぁ、と錦戸が息を深く吐くと、「そろそろ身ぃ固める頃じゃねえの?」と促した。


「固めたくても固めてくれる人がいないんです」


「出会いがナッシングってことか?」


 コクリと頷く田荘。続けて、魚の身を箸でほぐしてつまみ、口へ運ぶ。


「嘘だな」


「は?」


 田荘は思わず錦戸を見る。注意が手から移り、空中で止まった箸から身が落ち、味噌汁の中へ。ぽちゃりと水面をはねた音を立て、沈んでいく。


「嘘……とは?」


「出会いなんてのはそこら中にある。今日だって何人もの人と出会ってるしな、結局は室長、出会いと出会いと見てるか見てないかの違いなんだよ」


 出会いがないことに対してということを知り、田荘は箸を魚の方へ。


「そもそも見る暇がないんです、忙しくて」


 「ほら」鬼の首でも取ったかのように田荘に箸の先を向ける錦戸。


「正月返上は、仕方なくないだろ?」


「仕方ないです」


 つまんで、魚を食べる田荘に、「強情だねぇ」と若干呆れ口調で呟きながら、正面に体を戻し、紅生姜を口へ持っていく錦戸。が、ふと何かを思いつき、再び体ごと田荘に向け、「ちなみにだけど」と前置きをした。


「童貞じゃないよな?」


 まさか過ぎる方向からの質問に田荘は、おほっ、と喉に詰まったような咳き込み方をし、続けてげほげほとむせ始めた。その様子を見て、不敵にニヤつく錦戸。むせる音で周りの人もちらりと見てきていた。中には少し眉をひそめている人もいた。


 慌てて茶を流し込み、呼吸を落ち着かせてから「なんです、いきなり!?」と田荘は叫んだ。


「だって、出会いがないって言ってたからさ」


「それだけで、今までの人生の全てにおいて一度もなかった、と解釈したんですか?」


 「いえす」と頷くと、「それに室長、童顔だし」と錦戸は箸をくるりと回し、田荘の顔を囲んだ。


「そんなこじ付け方、小学生でもしませんよ」


「小学生にこの話題はまだ早いだろ。せめて中学生だ」


「それぐらいにない、ってことですよ」


 田荘は軽く睨みつけて、食事を再開した。


「んでんで、どうなのよ?」


 左肘をつけて、体を田荘の方へ寄せる錦戸。


 「そんな個人的なこと、言う必要ないでしょ」無視して食事を進める田荘。


「そういう場合は大抵、肯定の意を表すぞ〜」


 「さあどうでしょうね」さらりとあしらう田荘。

 錦戸は少し顔を近づけ、「教えろよ、水臭い」と呟いた。言葉にほくそ笑ん出る感が満載だった。


「水臭いが使われる案件じゃないですよ、これ」


「いいからいいから」


「嫌です」


 「というか、錦戸さん」田荘は体勢を少し錦戸に傾け、左肘をつく。


「前から言ってますけど、言葉は慎んでください。こんなことあまり言いたくはないですけど、階級は俺の方が上ですし、しかも長なんですから」


「だから、ちゃんと呼んでるだろ? 室長って」


「かろうじてレベルでしょ?」


「それに、お前だって錦戸さんって言っちゃってるし。ずっと言ってるよな? 呼び捨てでいいって」


「まあそれは……その……年上という人生の年長者に対しての俺なりの配慮で」


「その方がすんなり行くんなら、年下にタメ語でも別にいいじゃねえか。これも年長者なりの配慮だよ、室長」


 今日初めて配慮という言葉が都合いい言葉であることを知った田荘は、味噌汁の入った赤茶色の椀を手に取り、縁に口をつける。

 だが、すすってすぐ後「熱っ」と磁石の同極を近づけた後のような勢いで縁から顔を離す。椀を白米の隣に戻すと、軽く舌を出しひたすら仰ぐ。


「そんなにか?」


「ええ、結構ですよ。飲んでみます?」


「お断りだ。誰が男と間接キスなんてするか」


 もぐもぐしながらそう吐き捨てた錦戸は茶で口の中に残ってる米やら玉ねぎのカスやらを胃へ一気に流し込んだ。


「俺も好き好んでじゃないです」


 同じく茶を飲む田荘。


 錦戸は空になった湯呑みを少し持ち上げ、「すいません、お茶お代わり」と左右に小さく振る錦戸。はいただいま、と奥から店員の声が聞こえるとテーブルに置いた。


 ものの数秒経たぬうちに店員はやってきて、慣れた手つきで急須から注ぐ。


「俺もお願いします」


 田荘もそっと湯呑みを出す。店員は錦戸のを置くとすぐさま田荘のに手を伸ばす。


「動くなっ!」


 突如、場にそぐわない叫びが店内に響き渡った。

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