走って15分⑴
東区はサラリーマンが多い。
金戸島の“丸の内”と称されるだけあってか、昼間はスーツ姿の人々で溢れている。1人で商談の電話をしてる者もいれば、時計を何度も見ながら走っている者もいれば、複数人で話しながら歩いている者たちもいた。
そのため、東区には様々な飲食店が軒を連ねている。
もちろん「トミー」のように喫茶店なども各所に点在してはいるが、食事処がもっぱら。
特に昼時、注文してすぐに食事を出してくれる店は時間がないサラリーマンらに重宝されているため長く経営している傾向にあり、その証でもある古臭さや汚れが多い店ほど好まれ、そして混んでいた。
少し路地に入った所に入口を構えてる「中華香飯麺」もその重宝されるうちの1つで、昼12時から13時の間は、忙殺される。まるで局地的に降る夕立のよう。
縦長な店で、端に4つずつ左右に並べられている並べられた4人がけ赤テーブルや入口正面奥にある5つのカウンター席が入れ替わり立ち替わり、またあっという間に埋められていく。赤く丸い椅子が見えたり隠れたりする。
だが、店を回しているのは陳夫妻のたった2人だけ。最近辞めたとかではなく、ここをオープンさせてから数十年間ずっと。夫である店主が厨房で料理を作り、奥さんが出来立ての料理を運び、会計し、綺麗になった回収している。
何もかもが早いも勿論だが、安価な値段でラーメンなどの庶民的なものから本格的な中華まで食べれるとあって、夜でも人はいた。むしろ近くの飲食店より人が多い方である。
流石に閉店の1時間前ともなると、つまり21時だと人はまばらだった。カウンターにサラリーマン1人、左端奥から3番目のテーブルにカップル2人、右端1番奥のテーブルに競馬新聞を持ったおっさん1人の計4人。
食事しているからか、2人で座っているカップルでさえ会話は交わしてなかった。店内に響くのは食事の音と新聞をめくる音、奥さんや店主の作業音や隅にあるバラエティ番組を垂れ流しているテレビの笑い声だけだった。
ガラガラガラ——そこに追加されたのは、入口の引戸が開く音。
奥さんは拭いていたテーブルから顔を向け「イラシャイマセー」と笑顔を浮かべながら外国人特有の独特な、というよりかは日本人が日本語を話す中国人を真似たような訛りで歓迎する。
店の名前が書かれた赤い暖簾をくぐり店に入ってきたのは、黒いスーツを身に纏い、シャープなメガネをかけた男。髪も整い身長も高い容貌から、まさにクールというワードがぴったりだった。
「オ好キナ席ドゾー」奥さんは拭き終えた布巾をカウンターへ持っていく。
男が入口に近い右端の4人席に座る頃には、ピッチャーから勢いよく水を注いだプラスチック製のコップとお手拭きを持ってすぐそばに立っており、男のそばに置いた。
「決マリナリマシタラ呼ンデクダサイ」としどろもどろになりながらも去ろうとする奥さんを「じゃあいいですか?」と男は呼び止めた。
即座に踵を返し、「ドゾー」腰かけエプロンの右ポケットから親指ほどしかない鉛筆と注文票を取り出す。
「ラーメンを1つ」
「ハイ、ショウショオマチヲー」
捨てるように締めの言葉を言い、注文票に鉛筆で書きながら奥へはけていく。カウンターに手をつきながら、「ラーメンヒトツゥー」と奥さんが叫ぶと、「アイヨー」厨房から返事が来る。
男はコップを傾けながら上目で辺りを見る。2、3口水分を口に含み、今度はお手拭きを手に取る。包んでいる袋を開け、手を拭く。少し熱めだが、寒い冬には丁度よかった。
ガラガラガラ——またしても入口が開き、男性が入ってくる。
紫に染めたミディアムヘア、左手の人指し指と薬指にはめた銀の指輪、両耳に3つずつつけている小ぶりのピアス。さらには、夜だというのに目がうっすらと見えるような茶色いサングラス、ダメージジーンズに茶色い革製の上着——と、見るからにガラの悪そうな風貌であった。
「イラシャイマセー。オ好キナ席ドゾー」
それでも、誰とも変わらず接客する奥さん。
入ってきた男性はスーツ姿のメガネ男の横に立った。
「相席いいでしょうか、秀一さん?」
「あ?」秀一と呼ばれたメガネ男は眉をひそめて顔を上げる。だが、誰がそう言ったのか分かった瞬間、眉がほぐれた。
「どうぞ」
「そんじゃお言葉に甘えまして」秀一の前に座る男性。
奥さんが水とお手拭きを持って来る途中で男性が誰か気づき、「ドーモー」と会釈する。続けて「イツモノデスカ?」と訊いた。「うん、いつもの」と男性が繰り返すと、奥さんは「ショウショオマチヲー」とカウンターへ向かいながら、「タンメンヒトツゥー」と叫んだ。
「変な呼び方すんじゃねぇーよ、ビリー」
秀一は少し前屈みになって小声で話すと、「へへ」と子供のように無邪気に笑う男性こと、ビリー。
「秀一もここの常連だったのか?」
「いや、はじめて入った」
秀一は屈んでた体勢を戻す。
「だとしたらお前はなかなかの目利きか、ラッキーマンだ。ここはかなり美味いぞ」
「そりゃ楽しみだ」目元を緩ませ、軽く笑みをこぼす秀一。
「そんで、最近どうよ?」
ビリーは勢いよくお手拭きの袋を開ける。
「このご時世、なかなか厳しいんじゃないの?」
「まあな」秀一はスーツの内ポケットからタバコと100円ライターを取り出す。銘柄はマルボロ。机の長辺に対し平行、短辺には垂直にして、見栄え良く綺麗に置く。物をキチッと置かないと気が済まない秀一の癖であった。
「でも金に関しては大丈夫だ。うちはまともな商売もやってるからな。足して引いて、ぼちぼちってとこだ。そっちは?」
「ぼちぼち……以下」
俯き加減で手を拭くビリー。お手拭きからは秀一と同じく湯気が上がってる。
「それこそ、冬の寒い風みたいなのがビュービュー吹き荒れてる。意外に俺の方が煽りを受けてるんかもな」
「どこもかしこも不景気ってわけ、か」
今度はビリーが前屈みに。
「もし何かいい仕事あったら回してくれや」
「無理だな」即座に否定し、口にタバコをくわえる秀一。
「俺らのは内々で片付けとかねーと。公になったらマズい」
机の端の調味料スペース付近から白い灰皿を手元に寄せる。
「は~ダメかー」ビリーは項垂れる。それを見て、秀一は「まあでも、もしあったら頼む」と声をかけ、ライターを付けた。
ガラガラガラ——またしても入口が開く。
「よろしく頼——」ビリーはそれから先の言葉を忘れてしまった。秀一がじっと入口の方を向いて、動かなくなっていたからだ。タバコにはまだ火はついていない。
「……どした?」
突然の沈黙にビリーが問うと、秀一は口を閉ざしたまま顎で示す。ビリーもゆっくりと慎重に目だけやり、盗み見た。
そこには、紫色のネクタイと黒いスーツを身にまとった高身長の男とポケットに手を突っ込んだネズミ色のスーツの男がいた。
「いらっしゃいませ」を口癖のようにしてた奥さんが声を発さず、正確には「イラ」まで言って口を噤んでしまった。
その上、厨房から店主が出てきた。さっきまで鍋を振って、中華包丁で具材を切っていたのに、作りかけの料理があったのに、それをほったらかしにしてまでして。距離はあるものの双方の間に流れている異常な雰囲気を、秀一もビリーもその他の客も感じ取っていた。
「どーも」ヘラヘラしながら奥さんに近づくネズミスーツ。
「何シニキタ?」
「来ました、でしょ? 今日はお客さんかもしれないんだからさ」
「……」
夫妻はただ、口を真一文字にしてじっと2人を見つめている。
「で?」ネズミスーツは左端のテーブルから赤い丸椅子を荒く手元に寄せ、腰掛ける。「いつ払ってくれるの?」と足を大きく開き、左手を膝に立てて威嚇する。
「前モ言ッタ。ソンナノコマルネ」
店主はそれに負けず、奥さんよりも癖のある日本語で対抗する。睨みつけるような怪訝な表情からは今まで積み上げてきた苦労や経験以外に何かが滲み出ていた。
「困るのはこっちなんだよ。払ってもらってないんだからさ」
「チャント払テル!!」
「だ、か、らぁー」ひるむどころか、さらに強く、そしてどこか面白がっている風に言葉を投げ捨てるネズミスーツ。
「あっちはあっち、こっちはこっちだって言ってるでしょ? それに、あっちはおしぼり経由。払い方が全然違う」
ネズミスーツはため息をつく。後ろの紫ネクタイは呆れるように「何回説明したら分かんだよ」と苛立ちながら呟く。
「ダトシテモ、払ウ事ニ変ワリナイ!」
「あのね」ネズミスーツは立ち上がり、店主の肩に手を置く。
「理由についてはお客さんがいる前で言いたくないの。ていうか、言わない方があんた達の身のためなの。どうしても教えて欲しいなら後でゆっくり長々と教えてあげるから、今はとにかく首を縦に振ってそこにあるレジの金、くれって」
相変わらずのヘラヘラ顔であったためか、店主は「ソンナ事言ッテ、ワタシ騙サレナイヨォ!」叫びながら手を払いのけた。
「ソウ言ッテ誤魔化スキダロッ!」
「じゃあ教えてやるよ」黒スーツ男がたまらず声を上げ、数歩前に出る。
「ここにいるお客に、お前ら夫婦が密入国者だってな」
密入国——ドラマや小説でしか聞かないような稀有なワードに、カップルは不安そうに顔を近づけ、こそこそ喋り出した。他の1人で来てる客たちも表情を曇らせている。
だが、誰よりも顔を曇らせていたのは名指しされた夫婦であった。
「チ、違ウッ!」唾を飛ばしながら否定したのは店主。分かりやすい動揺だった。陳夫妻共々と目は泳ぎ、渇いた唇を舐めている。
「嘘は良くないなーちゃんとこっちも調べてんだ。確か2人とも港騒動の時に来たんだよね?」
夫妻の動揺は加速する。
港騒動とは、数十年前に金戸港で起きた密入国者大量流入のことを指す。
政府が対策にバタついている間に、金戸力は私財を使い、直ちにに監視体制を強化したため、それから入ってくる数は激減した。
それでも未だ0にはなっていない。要するに、今でも時折入ってくる抜け穴はあるということ。
だからと言って、当時よりも廃れ、昨日のなくなった港に人員は割けないのが実情である。
密入国であるが故、あちこちに移動するのにも危険が伴う。結果的に、この島に留まり続けてることになることは珍しい話ではない。
幸いにも金戸島は巨大過ぎる人工島。人口も多いことは隠れ蓑になるし、仕事も選ばなければ幾らでもあるから食うには困らない。
それに、裏社会の人間の方が圧倒的に強い南区などはなかなか警察も手出しをしにくいため、合法非合法問わず居住できるスペースもある。それを商売にしてる輩もいるぐらいで、噂によると密入国を斡旋してる組織もいるそうだから、なくならないのは当然とも言えなくない。
「ショ、証拠ハ?」店主は口が上手く開いていない。
「あるよ」
「見セテクレ」
「無理。大事な資料だから見せらんないの」
「ジャ、ジャア!」
「ま、信じないならいいよ? このことも他に有る事無い事もテキトーにバラまいて悪評流して、やってけないようにするだけだし。後で後悔するのはお二方だから」
密入国者だと知られれば、人が店に来なくなるならない以前に強制送還されるだろう。
「毎月払うのを受け入れて平和に暮らすか、拒否して島を追い出されるか——選ばせてやるよ。どっちがいい?」
奥さんは店主の白い服の袖を強く握りしめ、店主は唇や手足を震わせる。悔しい気持ちがまじまじと伝わってくる。
沈黙が流れる。店内を駆ける音は、空気を読まないテレビのバラエティ番組だけ。
「ほら早く。どっちがいいんだ——」
「うるせーなー」
大声で端を発したのは、ビリーだった。




