第22話 水橋⑸
「ここで待ってて。ちょっと様子見てくる」
先生のまさかの一言に、「えっ?」と思わず心の声が口から漏れた。一方、当の本人は「大丈夫」と笑みを浮かべる。
「いや、それは危ないですよ」
現時点で、相手が誰なのか、どういった人物なのか、一切の素性が分からない。
「言ったでしょ? 『私の言うことは必ず守ること』って」
「で、でも1人で行くのは流石に……」
しかも、先生は女性。で、相手は多分男。それを考えてみても、危険過ぎる行為だ。だから、「やっぱり私も行った方がなんかあった時どうにかなるんじゃ」と話すが、「生徒が怪我したらマズいでしょ」と言われ、一瞬ひるむ。
その隙に先生は「来ていいって言うまでここでじっとしてて」と続けて、体勢を低くしたまま、また音を立てぬようすり足で1人、更衣室へと向かっていった。押し切られ、置いてけぼりにされた私は、仕方なく今いる場所から見てることにした。じっとしてるだけなのに、鼓動が早くなっていく。当然だ。気が気じゃない。
当たり前だけど、先生は段ボールが置かれている奥側の扉ではなく、手前側から静かに扉をスライドさせて入っていく。姿が見えなくなる。だから余計に、心臓が飛び出そうなほどバクバクと音を立てて脈打っていた。まるで脈打つ音が聞こえてきそうなぐらい静かだ。聞こえるのは風の音と外をたまに通る車のエンジン音だけだ。
先生が何を考えてるのか分からないけど、例えば悲鳴とか争うような大きな物音が聞こえたら、もし聞こえてきたら、その時は流石に行っていいよね?
次の瞬間、顔に光が当たった。な、何!? 私は眉をひそめながら、光源の方へ急いで顔を向ける。
目視してホッと息を吐く。月だ。上の階との間にある踊り場の高窓から、月が顔を覗かせていたのだ。窓が小さいからほんの僅かしか見えないけど、大きい雲が月に若干かかってる。多分さっきまで月が雲に遮られてたんだと思う。
よかった。用務員さんにでも見つかったのかと思った。確か、夜巡回してるんだよね?
あっそういえば……2ヶ月前、電気が付けっ放しだったのを用務員さんが発見して、それが担任に報告されて「最後使ったの誰だ? 電気が勿体無いでしょうがぁー!!」って何故か凄い怒ってたのを私はふと思い出した。結局誰も名乗り出ずでうやむやになったけど、あれ実は私なんだよな……あの時はラッキーって思ったけど今になるとなんか罪悪感が芽生えて——
バチバチバチバチッ、バダンッ、ガタンッ!
そして、静寂。
……えっ? な、なんか……凄い音が聞こえたんだけど、何の音?
心臓の鼓動がこれでもかと早くなる。中で何が起きてるのか。いや、何が起きてしまったのか。私には分からない。
数秒後、部屋の電気が付く。私は壁に手をつき、様子を伺おうと体を少し出した。
すると、唐突に手前側の扉が開く。静寂の中、私は肩をビクつかせた。そしてそのままの体制を維持。まるで森の中で熊に遭遇した時の対処法のよう。でも、決定的に違うのは故意にじゃないってこと。体が一切言うことを聞かない。も、もし誰か他にもいるんじゃないかと疑って犯人が開けたとしたら。もしかすると、もう分かってて開けたんじゃ——
中から顔が、というか顔だけ横向きに出てきた。その姿にまた、少しギョッとなる。
「来ていいよ~」
ひょこりという表現がよく似合う動きをしたのは、もちろん、先生。笑みを浮かべてる先生を確認できて、安堵感が体に満ちてくる感覚になりながらも、同時に色々と確認や訊きたいことが湧いてきたけど、とりあえず言われた通り、行ってみる。小走りで中に入る。
突然の明かりに細目になり、辺りの状況が見えにくいが、先生がしゃがんで何かをしているのは分かった。次第に目が慣れてきて、視界が開けてくる。
そして、はっきりと認識できた。先生はしゃがんで、足元でうつ伏せに倒れてる人のポケットを探っていたのだ。想像もしてなかった事態に口があんぐりと開いてしまう。
ポケットを探しながら「うーん……」と先生が声を漏らしたことで、はたと現実に戻ってくる。「こ、この人が犯人なんでふ……なんですか?」何故か少し噛んだ。まだ緊張してるのかな?
「うん。ここ入った時ダンボールの中に入れてたカメラをいじってて、『おぉ、よく撮れてる撮れてる』ってぶつぶつ独り言言ってたから」
あぁ……そりゃ間違いないね。確定だね。そう思いながら私は倒へてる人に視線を落とす。体格的に男の人。やっぱりというかなんというか——いや、待って。それ以前に……
「この人さっきから動かないんですけど、大丈夫ですか?」
地面にうつ伏せ。できなくはないかもしれないが、間違いなく息はしにくい。押さえ込まれてるわけでもないのに、ずっと動かずうつ伏せってのは……
「うん」何も心配しなくていいよ的ニュアンスを含みながら頷き、続けて「これで気絶してるだけだから」と先生はポケットに入るサイズの棒状の何かを差し出す。私はそれを受け取り、まじまじと観察する。ペンライトだっけ、あのライブとかでよく使われてる光るヤツ。あんな感じの形状をし、下の方にボタンみたいな小さく膨らんだところがあった。
「なんですかこれ?」私はボタンの上に手を添えながら訊ねると、「スタンガン」と平然と答える先生。「危なっ!」私はそのボタンから手を退ける。正直なところ、危険なものであるってこととこれがそのスタンガンというやつなのか……ぐらいの認識しかなかった。名前ぐらいは聞いたことあるけど、こうやって実際に見るのは初めてだし。
「このために用意してたんですか?」
「まあね」と別のポケットに手を突っ込んで探る先生。準備万端な先生だな……
「それにしても、ないなー」
「何を探してるんですか?」
「それはね……ん?」と何かを取り出すと「おっこれはこれは」と喜ぶ先生。先生は私に背を向けてる形になってたので、私は体をずらし何があったのかを見る。握られてたのはストラップの付いたカードを入れる透明なケースだった。
「それって……さっき先生が持っていたのと同じですよね」
先生用の玄関から入る時に、見たのと同じ形をしている。
「うん……あっ、ええ」何故か言い直す先生。
ふーん……えっ? てことはつまり……
「でも、この人は教師じゃない」
えっ??
先生は立ち上がり、「はい」とそのカードケースを渡してきた。
「これ見れば分かるよ」
裏向きにされて渡されたカードをひっくり返す。カードには顔写真と名前が。どちらの要素を考えても明らかに男……って、あっ!
名前の下の方に、どんな人物かはっきりと書かれていた。
「この人、用務員さんだったんですね」私は目の前にいる先生にそう声をかけながら顔を上げた。そして、息を飲む。
気絶していたはずの犯人がいつな間にか起き上がっていたのだ。目は血走っており、口がキツく結ばれ、眉間にしわを寄せた怒りの形相。そして、犯人は背を向けていた先生に手を振り上げた。
危ないっ!——そう思った瞬間、私の体は勝手に、反射的に動いた。
先生の袖と腰を掴み、扉側へ押しやる。呆気にとられたような表情を先生はするが、今は説明するどころじゃない。後だ。
私はすぐに膝を曲げ体勢を低くし、体を半回転させながら犯人の下に入る。ほぼ同時に腕と胸ぐらを掴む。瞬時に腕を引き、胸ぐらを手首で返す。膝を伸ばし、腹筋と脚力で正面に投げ飛ばした。
宙を舞った犯人は背中からベンチへ斜めに乗っかるように叩きつけられる。そして、顔が横にカクンと傾いて、ベンチから落ちた頭と左肩。今度こそは大丈夫。しばらく意識は飛んでるだろう。
「今の背負い投げだよね?」
先生は目を丸くしパチクリしていた。突然の光景に驚いたのかな。
「もしかして、柔道部?」
そっか、まだ言ってなかったんだっけ、と思いながら私は「はい」と首を縦に振った。
「そうだったんだ……助けてくれてありがとね」
「いえ」
カシャン
軽い音が聞こえる。あの、ベンチからだ。まだダメだったのか、と私はすぐさま身構えながら振り返るが、違った。犯人の胸元から地面に斜めに入った辺りに、さっきまではなかったはずの、これまた透明で小さな何かが落ちていた。
「あっ、あった~」
「持ってるかもって思ってたんだよね」軽い足取りで近づき、拾う先生。踵を返し、盗撮に使われたビデオカメラを手に取る。そして、入っていたカードを取り出し、代わりに拾った物を中に。
あっ!
「それ、メモリーカードだったんですね」
「いえす」
つまりそれは、ベンチで伸びてる犯人はカメラを回収しに来たんではなく、カメラの中のメモリーを交換しに来たということを意味していた。
新しいのに変えて引き続き盗撮しようとしていた——何となく、というかそうなのは間違いないって思ってはいたけど、実際にこうして目にすると怒りが湧いてくる。出来ることなら、もう1回、2回、3回……と何度でも背負い投げをしてやりたい。背負い投げてやりたい。
なんなら今しちゃおっかな。多分相手がこんな状態であってもどうにか工夫すればできないわけじゃないだろうし……
「あれ?」
戸惑いの込もった一言が耳に入る。目をやるとカメラを見ている先生の眉が中央に寄っていた。
「どう、しました?」
「もう撮られてる」
は?




