第34話 西⑷
「ご無沙汰してます。お元気でしたか」
私は自然と笑顔になった。
「ええ」田荘さんも微笑み返してくる。
電話はあるけれど、こうやって直接会うのは籠城事件以来のこと。
「どうしてここ……いや、そっか。先輩の取材ですよね」
私は背を伸ばす。「この度はご紹介頂きまして、ありがとうございました」
頭を下げる。電話越しではお礼は伝えたものの、直接はできていなかった。
「そ、そんな大したことじゃないですから」
顔を上げると、田荘さんは胸の前で両手を小さく左右に振っていた。いえいえ、という擬態語が付く素振りだ。
「けど、まさか先輩のことを取材したいから繋いでくれなんて言われるとは思ってなかったので、驚きましたよ」
「アハハ……」
そう言えと言ったのは私じゃないのだけれど、とはなんか言えなかった。
「やはり島の外でも有名なんですか?」
「ああ、まあ」
ハハハという小さな笑い声が二人の間から流されるようにゆっくり消えていく。
目が泳いでいたのに、田荘さんは何か意を決したようにじっと私を見た。
「西さんっ」
「は、はい」突然呼ばれたがために言い淀む。
「あの、その……」田荘さんの視線が落ちていく。「もしよろしければ、今度……」
「えっ?」
「そのっ……」一気に顔が上がり、思わず肩をびくりと揺らす。
「あっ、また何かあったら、連絡下さい」
私は視線を逸らし、言葉の意図を探る。「ええっと、それは……ご協力いただけるということで?」
「ええ……ええ、そうです」頷きは大きさが増していき、回数も増えていった。「そうですよ。そうなんです、勿論っ。はい、ええ、いつでも大歓迎です。お待ちしております!」
「ありがとうございます」
私はもう一度深く礼をした。なんと優しい方なのだろうか。
「いつでも自分のとこに電話して下さい。もう、ほんと、四六時中出ますから」
「四六時中、ですか?」思わず笑ってしまう。
「ええ。警察なんて四六時中出る体勢で常にいないといけませんから。ええ」
ほんと、田荘さんは優しくて、面白い冗談を言う人だ。
「おーい、いつまで開けっ放しで話してんだよ」
田荘さんの背後から探偵さんの声が聞こえる。同時に、肩の辺りから大きく振っている手も。少し歩いて、振り返って、会釈。すると、「あっ、それじゃあまた」と身体を半分にずらした。私も避けると、隙間を縫って事務所を出て行った。
私も中に入り、扉を閉めようとしたところで、田荘さんは「あのっ」と声をかけてきた。階段を数段降りたところで立ち止まり、振り返ってこちらを見ている。
「ほんといつでも、電話下さい」
「はい、ありがとうございます」三度目の例をして、私は事務所の扉を閉めた。
「すいません、お話し中のところ邪魔しちゃいました?」
「いえいえ、そんなことはまったく。あいつは丁度帰るところでしたから……ってあれ?」
探偵さんは持っていた煙草の箱をゆっくり置くと、「そういえば洲崎さんは?」と続けた。
ギクリ、そんな心の声が聞こえた。
「それが、ですね。急用が入ってしまい、来れなくなってしまいまして」
「それじゃあ、今日はお一人で取材を?」
ギクリギクリ、今度は脳からも聞こえた。
「あっ、いや……そのことで少しご相談というか、そんな感じのことがありまして」
「相談、ですか?」探偵さんは眉間にシワを寄せた。
「それが、実は、取材を続けることが出来なくなってしまいまして」
「それは……どういうことです?」
「いや、私たちも詳しくは。ただ、上から取材を切り上げてくるようにと言われまして。今回撮影させていだいたものも、おそらくお蔵入りになるかと」
「あぁ、そうなんですか。それは残念」
「すいません、もっと早くにご報告しなければならなかったのに、突然こんなことになってしまって」
「こちら全然。けど、大変ですね。まさに鶴の一声でそこまで色んなことが変わっちゃうと」
「ええ……うちの洲崎もかなりへこんでまして。ここまで取材していたのに、なんだったんだって」
「まあ、諸々のテープは警察に没収されてしまいましたからね。返ってくるまでの時間も長いからということもあるのかもしれません」
「色々と調整して頂いたのに、こんな形になってしまって申し訳ありません」
「いやいや」探偵さんは顔の前で手を振る。
「また機会がありましたら、是非宜しくお願いします」
「はい。洲崎さんにも宜しくお伝え下さい」
事務所に続く階段をとぼとぼと下りながら、はぁと声を込めたため息をつく。いや、安堵のひと息かな。
怒られるなんてことはないとは思うけど、何か勘ぐられるかとは思っていた。何もなくて良かった。
降り切った時、「大丈夫だった?」と、右側から声をかけられた。私は曲がって、背中と左足の裏を壁につけて待っていた先輩に、「どうにか」と伝えた。
「そう」
先輩は組んでいた腕をほどきながら、よいしょと背を起こした。
「まだ撮るという選択肢はなかったんですか」
視界の隅に入る太陽の光は眩しかった。眉の辺りを手で覆いながら、先輩に声をかけた。
「萎えちゃったのよ」
「仕方ないじゃないですか、証拠品なんですから」
「あなたはいなかったから分からないのよ。あんな必死こいて逃げながらも撮ったっていうのに、肝腎要のテープを没収されちゃ、やる気なんて失せるわ。地の底よ」
探偵さんにはこれが本当の理由だなんて言えなかった。言えるわけがなかった。
私はふと思い出し、「大丈夫ですかね」と空を見ながら呟いた。
「そんな延々と考えないわよ。報酬だってちゃんと渡すんだし」
「いや、探偵さんのことではなくて」
「なら何?」
「例の暴力団」
「ああ。朝本組だっけ。それがどうしたの?」
「名刺ですよ名刺。渡してるじゃないですか」
「全員逮捕されたんだから、問題ないでしょう」
「将来的なことです。出た後に報復なんてされたら……」
「何? 名刺、違うの渡さなかったの?」
「いえ。例のを」
「西原さんのでしょ? とっくの昔に国際結婚で寿退社した」
「はい」
「だったら、それ頼りに探されても見つかることはないでしょ。今や、西原さんはヨーロッパ在住のマダム。そこまで追ってこないわよ、探すお金だって馬鹿にならないんだからさ」
「いや、西原さんは安全だとしても、問題は私ですよ、私。名刺もそうですけど、顔は? この顔を頼りに来られてでもしたら……」
「そもそもね、皆々様は暫く出られないわ。掘れば掘るほど余罪はザクザク出てきてるらしいから」
「でもでも、ヤクザよりタチ悪いな、テメェらって言われたんですよ? “ら”ですよ、“ら”。要するに、私もそのうちの一人にカウントされちゃってるんですよ」
「そんなこといちいち怖がってたら、テレビマンでやっていけないわよ」
そう言われちゃって、やっていける気がしなくなってきた……
「転職は諦めなさい」
「え?」いや、する気はなかったけど……「何です突然?」
「あれ? その反応。なんか拍子抜けね」
「いやだって、転職する気ないですから」
「てっきり考えてるのかと」
えっ?
「どこからそう思ったんです?」
「左遷されたせいで嫌気さして、みたいな。何よー違ったのぉ? なんだつまらないの」
「失礼な。面白いか否かで判断しないで下さい」
「失敬な。そこまで私、仕事熱心じゃないわよ」
失敬、なのか?
「まあ、とにかく私が言いたいのは、暴力団に乗り込んだ時、楽しかったでしょって言いたいの」
思わず吹き出し笑い。「んな訳ないでしょうっ」
「けどあなた、私に事の一部始終話す時の顔、怖かったことをというより、なんだろう、夢の国で遊んだ記憶を、思い出すかのようだったわ」
「ほ、本当ですか?」全くもって覚えがない。
「嘘ついてどうするのよ」
冷静な表情と淡々とした物言いから、いたって真面目であることが伝わった。
「ゾクゾクっとしたんじゃない?」
「ゾクゾクっとは……少し、したかもしれないです、けど」
確かに。身震いするような感覚はあった。
「ま、諦めなさい。これが天職よ」
「だから、しませんって。する気なんてこれっぽっちもないです」
転職諦めて、天職を続けるなんてね。
「ま、どっちでもいいわ。言いたいこと言えたし」
相変わらず、マイペースだこと。
「そういう先輩は? 転職してよかったですか?」
「何よ突然?」
「ついでですよ。ほら、事実そうじゃないですか」
「まあ……そうね」
あっ。「そういえば、事務所に初めて来た時、女性がいたじゃないですか。ほら、綺麗な金髪の」
「ああ、あの紺色の作業着着てた。綺麗だったよね」
「ええ。あの方、先輩の顔見て、何かに気づいた反応していたのを思い出しまして」
「ああ」
この歯切れの悪さ、先輩らしくない。過去のことを話されるのは、あまり好まないのは、出会った頃から変わっていないらしい。
「あれ、気づかれていたんじゃないですかね」
「そう? そんな風には見えなかったけど」
「気を遣われたんじゃないですか。ほら」私は手の甲を口元に添えて、先輩に少し近づく。「表舞台からは身を退いているわけですし」
「あなた、その話好きねぇ」先輩は呆れるように眉をひそめた。
だってだって、数少ないイジリどころなんだもん。へへへ。
「女の子は誰でも、一度はモデルに憧れますもん。しかもそれが、いわゆるトップモデルなら尚更です。ほら、身長が高くて、すらりとスタイルが良い女の特権というか……」
「そんなの、ないものねだりなだけよ」
ないものねだり?
先輩は首を傾げた私の全身を一瞥すると、「ま、気にすることはないわ」と言い切った。
折角だ。前から気になっていたことを聞こう。
「何で辞めちゃったんですか?」
まだ人気のある中での突然の引退だったから、かなり話題になったのを覚えている。
「まあ、色々あるのよ。それにね、あなたも身近で見てれば分かるでしょ、この業界の裏の部分が」
あぁ……テレビとかには映らない闇の部分を肌で感じたということか。
「けど、テレビ業界には残ったわけですよね」
「テレビが好きだったからっていうのもあるけど、表から裏に興味が移ったのかしらね」
遠い目をふとしっかり直すと、「何にせよ、昔の話だからいいじゃない」と話を切り、「そういえば、あの探偵さん、何か言ってた?」と話題を変えた。
「あぁ……宜しくお伝え下さいですって」
「あら。嬉しいわね」
「え?」
「だって、また宜しくお願いしてもいいってわけでしょ。嬉しい限りじゃない」
恐ろしいぐらいのポジティブさだ。この人にはお世辞を使っても間に受けられてしまう。下手なことは言えない。
「まだやる気ですか」私は口をつんのめる。
「そりゃそうよ」先輩は腕を組む。顔はニヤついている。「掘れば掘るほど、面白いこと色々出てきそうだし」
「面白いこと、ですか?」
含みのある言い方だ。
「こっちの話よ」
はぁ……
「ま、何かあればまた密着させてもらいましょ」
「だったら、このまま継続しておくっていうほうがよくないですか?」
「今回は駄目。気持ち的に嫌なの」
「わがままですね」
「いいじゃない、わがまま。人生は一度きりなんだからさ」
むぅぅ。頬を膨らませる。またも上手くかわされた。というか、話をすり替えられた。
「だから今日は帰りましょう」
えっ?「まだ日も沈んでないですけど」
「ネタ出しはまた明日からするとして、今日は直帰しましょう。これは先輩命令」
「わ、わかりました」
どうせ報告する上司もいないんだから、いいだろう。
二人一斉に、大きく空に向けて伸びをした。沈みかけた夕日が私と先輩の姿を捉え、影を長く長く伸ばしていた。