第2話 西⑴
「ついに、ですね」
私の足取りは軽い。撮影機材一式を肩に背負っていても、その重さは微々たるもの。とはいってもカメラと小さく折りたためる三脚しかない。常に移動するだろうと先読みして、荷物は最小限にかつ軽いものを選んだのだ。だから、本当に微々たるものなのかもしれない。
先輩を焚き付けた手前、言いにくかったけれど、当初は正直そこまで乗る気ではなかった。
けど、企画に形が定まっていくにつれ、あれこれ楽しいかもしれない、という感情が溢れてきた。テレビマンの性なのか、それとも元来から備わっていた性格なのか……
あの籠城事件で知り合った田荘さん経由でアポを取り、交渉を重ね、事前の準備を始めて、と段階を踏むにつれて楽しみの領域がどんどん増幅していった。企画が現実のものになるかもしれない、そう思ったからかな。かもしれないが取れた今は、もう楽しみしか心にない。
どんな映像が撮れるのだろうか。とんでもない映像が撮れてしまうのだろうか。ウキウキして仕方がない。
「何、浮き足立ってるのよ」
いつのまにか先輩は振り返って、私を見ていた。気づいた途端、思わず身体が縮こまる。
「しっかりしなさい」睨んでいるわけではないが、眼光はいつもより幾分鋭かった。「地に足つけないと撮れるものも撮れなくなるわ」
「は、はい……」私はたじろぎながら応える。
私とは反対に、先輩は最初、乗る気とやる気に満ち溢れていた。でも、今は至ってごく冷静。けど、やる気がないわけではと思う。根拠は、いつもは私に丸投げする下調べやら準備やらを珍しく自ら率先してやっていたから。だから、「しっかりしなさい」という先輩が発した言葉の奥にある本気を感じ取れたのだ。
「返り咲くためには、クルクルパーのあいつらに目に物見せてやらなきゃ」
そもそも結果として、放送枠が予想とは異なった。例のこの手のことが好きなプロデューサーが前のめりで、手腕を発揮してくれたおかげで、衛星放送の深夜帯から地上波の夕方ニュースのワンコーナーで取り上げられることになったのだ。大抜擢、大躍進。どんな言葉の頭にも大がつくほどの事象。ほんと最初聞いた時は驚いた驚いた。とまあ、こうして、地下にある窓際から這い上がるための大事な一件となったというわけだ。あっそっか、先輩のやる気はここからかな。
「ギャフンと言わせるもの撮れるまで、回して回して回し続ける。取材し続けるわよ」
「え?」
あれ? 取材は一週間の予定じゃ……
「そんなの建前に決まってるでしょう。適当に口実作ってい続けてやるわよ」
えぇ……建前って言われても分からないですよ……
「この世の中、本音と建前だけで出来てるのよ。感じ取りなさい」
てか、あれ!? 私喋ってないのになんで疎通できてるの??
「顔」顎でクイっと私の顔を示す。「全部出てるから」
思わず両手で頬を触る。確かめたい気持ちと隠したい気持ちが混ざっていた。
「相変わらず感情が分かりやすいわね」
「正直ってことですよ」
「気をつけなさいよ。頭にバカが付かないように」
うっ。心にぐさりと針が刺さる。
洲崎さんは立ち止まった。おもむろに右を見上げた。「ここね」
私も続く。ここがあの探偵事務所……
直接来るのは初めてだ。だから驚いた。あまりにもありふれたザ・雑居ビルの二階にぽつんとあったからだ。
判別がつく要素、つまり“探偵事務所”だと分かるのは、窓ガラスに一枚シールのようなもので斜めに貼られている。パッと一瞥しても探偵事務所だと認識するのは難しい。ゆっくり意識して歩いていてようやく、つまり辛うじて。気づかなければ素通りして、下手したら永遠に彷徨ってしまうだろう。
もっとこう、ここにいますよっ、というような宣伝に溢れたイメージだったが、実態は真逆であった。けれど、狙ったか無意識か分からないが、それが知る人ぞ知る雰囲気を滲ませていた。本当に解決してくれるのだ、という信憑性や信頼性をもたせていた。
「行くわよ」
ふと視線を正面にまで戻すと、先輩は急勾配で一段が狭いコンクリートの階段をもう七段ほど登っていた。
「あっ、すいません」
私は慌てて歩を進め、幅の短い階段を駆けのぼる。
少し高めの段が続くコンクリートの階段を登りきる。二人の大人が立てるほどの小さな四角いスペースが中腹に。ここが二階ということだろう。その証拠に、左手側に事務所の扉があった。黒字で“探偵事務所”と小さく貼られた白のテプラが見える。
階段はまだ続いている。どんなテナントが入っているのか、はたまた住居があるのか分からないけど、登れば登るほど何故か暗くなっていく。太陽に近づいていくはずなのに、見えづらくなっている。夜にでもなれば幽霊でも出てくる気がする。
そもそも島の北側、つまり北区よりとはいえ、一番派手で栄えている中央区に位置しているのに、どうも歩いてきたこの通りは薄暗かった。太陽に見捨てられでもしたのだろうか。
「じゃあ、行くわよ」
「あっ」私は意識を戻す。
「何、どっかにトリップでもしてた?」
「いえ。すいません。お願いします」
先輩は扉に握った手の甲を近づける。ノックしようと少し引くが、寸前で止まる。
「……どうしたんです?」
「こういう時ノックは三回でいいのよね?」
「そ、そのはずですけど……」礼儀作法的には問題はないはず。「なんでです?」
「二回は違うってことは、ビジネスマナーだからね、当然私も知っているわ」
「ええ。トイレの空室確認ですもんね」
「そう。そうなのよ。だから、三回のはずなのよ」
「はい」何が言いたいかまだいまいち掴めない。
先輩は肩から上を回して、私の方に向いた。「けど、国際的では四回が主流よね」
「……はい?」
突拍子もないことを言うのは先輩のいつもの癖だけど、毎回新鮮な驚きがある。だからか、良い意味でも悪い意味でも飽きが来ない。
「国際基準では、ビジネスシーンでドアをノックする回数は四回って、あったわ」
「どこ情報です?」
「昨日眺めていた部屋の資料に書いてあった。朝のワンコーナーで使う予定だったみたいよ。ボツになったようだけどね」
資料……
私たちのいる場所は、うちの局の“陸の孤島”と呼ばれている資料保管室だ。立ち寄る人なんて殆ど来ない。ただ、一つ利点としてはほぼ全ての資料が網羅されていることだ。だから、時間潰しに調べ物、はたまた今の洲崎さんみたいに教養を深めるには、もってこいの部屋なのだ。
「へぇー……って、いつからグローバリズムに目覚めたんですか」
感心を振り払い、ツッコミに転じる。先輩はどちらかというと、グローバリズム反対派だったはず。
「グローバリズムじゃないわよ。私はただ世界に視野を広げただけよ」
いや、それをグローバリズムと呼ぶのでは? ということを言っても、終わりが見えない。ここでじっと立って口論していても仕方ない。軌道修正しよう。
「ここは人工島ではありますけど、日本ではあるので日本ルールに乗っ取って、三回ノックでいいんじゃないですか」
「そうだね。そうしようか」
満足そうな笑顔を浮かべると、先輩は深く静かに息を吸い込み、身体を元の体勢に戻した。
「じゃあするよ」
先輩は手の甲で三回、ゆっくりとノックした。