プロローグ
天高く煙をふかした。
まるで日々蓄積されていく心の重りがすっと消えていくかのように、軽くなる。残るのはただただ気持ちいい浮遊感だけ。
天に昇る白い煙は澄んだ二月の夜空へと散っていく。一昨日から昨日にかけて降り続いた大雨で綺麗になった、なんとも幻想的な風景だ。ぼうっと眺めながら腰を落としたガードレールへと余計に体重を乗せた。
中央区の大通りは、昼間にはサラリーマンや学生が行き交っているものの、今は週半ば、しかも深夜三時。ド深夜。人っこひとり歩いていない。車さえ往来していない。
右を向いても左を向いても、誰も何もいない。他の場所ならば深夜独特の空気感もあいまって、普通ならばいわゆる恐怖感とか負の感情を抱くのだろうけど、今は不思議と感じなかった。
営業の明かりは消えているけれど道を挟んで両脇に千差万別な店がずらりと並んでいることも少なからず作用はしていることだろう。けれど最も大きい理由は、この島の大きな特徴が影響しているだろう。
表向きは“なんでも”揃う島として有名だけど、実際のところ“なんでも”の定義は一般的な考え方とは違う。ヤバイ人間・事件・組織……そういった諸々のことまで含めた“なんでも”。
それがまた、白雪姫に毒リンゴを食べさせるために王妃が毒を煮込んでいる鍋の中身のよう。何が混ざっているか分からないけれど安心安全ではないことが確かな物がぐるぐると混ざり合っている。そう簡単には解決しない、余計に深刻な問題にさせていると、直感で思わされる。
だからこそなのだろう。独占したかのようなこの状況は、混沌としたこの人工島を牛耳っているかのような優越感に浸らせてくれる。
そんなことを考えていると、ふと少しの疑心が内に生まれた。どちらかというと、心配であろうか。
荒く作った歪なタバコ紙を通して、俺は大きく息を吸って、左隣に視線を向けた。
「大丈夫なんだよな?」
健斗は足元の水溜りからおもむろに俺を視線を移した。
「何が?」
俺と同じ姿勢。唯一違うのは、俺は車道側に、健斗は歩道側に足を向けていることだけだ。
「だから、その……」
質問を質問で返された俺は一瞬言葉に詰まる。けど、これはあくまで確認。そうだ、別に隠すようなことじゃない。堂々と言おうじゃないか。
「変なのじゃないよな?」
言葉だけ残し、大きく煙を吸い込んだ。
「今更なんだよ」
健斗は嫌味そうに笑うと、すぐ眉を上げた。不適感満載だった。
「もしかして、怖くなったか」
俺は息を吐いた。留まっていた白い煙がよく目立った。
「いや、そうじゃない」
再び口にくわえ、深く吸い込んだ。そのせいか、咳が出てくる。会話の途中、俺はすぐに息を整えて続けた。
「いつもより、その……スゲェ強く感じるんだ。なんていうかこう、ガツンとくるっていうか、脳に響いてくる感じというかさ」
「そりゃそうさ」健斗は言葉と共に白い息が小刻みに出した。「モノが変わったんだ。味や感じ方は当然変わってくる。同じのなんてないんだから」
元の種類はごまんと存在している。産地を変えるだけでも変化するという。分かる人には分かることらしい。それに、組み合わせだって幾らでもある。二つの要素だけでも、種類なんて無限に近くに増加するというわけだ。
「まああれだよ。いつもの如く、新しいのに慣れてないから、体が少し拒否ってるだけだよ。それに」健斗は口角に笑みを溜めた。「楽しめる時に楽しまないと、後で後悔すっぞ」
まあ……それもそうだな。半分考えるのが面倒になったこともあり、俺は健斗の言葉を丸々飲み込んだ。
「そんな不安がるなって。これはあくまで合法のブツだけしか入ってない。ほら、アロマとかで使われるようなのを、ちょっと、こう、さーってやって使ってるだけだ」
ん?「なんだ、さーって?」
健斗は手でかき混ぜるような動きの表現を合わせた。そのせいで、気になってしまった。
「だから、その、さーって意味だよ」
「だから、その、さーがなんだって聞いてんだ」
「さーは、さーだよ。いちいちビクビクすんなって」
嘲る健斗。さっきと同じような表情だが、いらつきを覚える。「そっちの常識は知らねえよ」
「なんだその言い方」健斗はムッとする。「俺とお前は別世界の人間、違うんですよってか」
「んなこと、言ってねえろうが」
「目は口程ものを言うんだよ。なんだよ、お高くとまりやがって」
「んだと?」聞き捨てならない。「どういう意味だ、それ」
「そのまんまだよ。父親が会社の社長で多少金もってるからって、ハーブに手ェ出して、遊んでんだろ?」
「親は関係し、手ェ出して遊んでんのはテメェもだろうがよっ」
「んだとっ!?」
俺は声を荒げる。苛立ちは最高潮になる。
「あぁ、やんのか?」立ち上がる健斗。
「やってやろうじゃねえかよ」
目を合わせたまま、距離を詰める。
頭にきた。なんかテンションも高くなってきたし、この際ブチのめしてっ……
思わず瞼をつむり、視界を狭める。健斗も同じだった。キュルルルル、というけたたましい音が耳をつんざいたからだ。
な、なんだ?
音の聞こえる方へ。通りの真っ直ぐ向こうから紫色のスポーツカーがやってきていた。車体の不安定な態勢や道路と合わせて考えるに、ドリフトをかけて曲がってきたのだろう。
手入れがよく施されているのか、街灯に照らされた時、反射で光り輝いている。
もしかして……ストリートレースか?
この島は人工的に造られている。住んだり営む上で必要な場合や何かしらの不都合で致し方ない場合を除いては、道幅のある直線道路が多い。その構造からレーサーにとっては絶好の舞台となっていた、とどこかで聞いたことがある。
つまりは、他にも走り屋が多くいるってこと……あっいやでも、なんか違う。
だって、前を走る車も後ろから追ってくる車も見当たらない。それに、車はなんか異様にふらついている。曲線を描くように左右、左右。
いや、やっぱりおかしいぞ、あれ。
異常なまでの急ハンドル、周囲に響くタイヤの轟音、勢いよく散る溜まった雨水……妙で嫌な違和感を感じ取った瞬間、車体が大きく左に振れた。同時に、クラクションが爆音で鳴り響く。
その方向に道はない。あるのはそう、二、三体のポーズを決めたマネキンが見せびらかすように店頭のショーウィンドウに設置されたブランドの……
車の勢いは止まらない。
あれって、ヤバ……
そう思っている間にそのまま、店へ突っ込んだ。
大きなショーウィンドウが激しく音を立てて割れる。高級品をまとったマネキンにぶつかる。腹からくの字に真っ二つに折れる。上半身はボンネットを跳ねて車の後方へ、下半身は車体の下に巻き込まれるようにタイヤに巻き込まれる。その後ろにあった棚にも突っ込んでなぎ倒していく。
半分ほど店内に入ると、コンクリートの大きな塊が天井から鈍い音を立てて崩れた。車のボンネットに落ち、反動で車体の後ろが持ち上がる。空回りする後輪。続けて、ルーフにも。それがストッパーとなったのか、暴走車は停止した。代わりに、黒い煙が車から上がり始めた。
街が静けさを取り戻す。だが、完全なる静寂ではない。パラパラと地面に落下するガラスやコンクリートが時折聞こえてくる。
「なあ……」
恐る恐る俺は口を開いた。
「幻覚作用は?」
「そりゃ、多少は……うん」
そうだ、よく考えればそうだ。脱法は合法ではない。なんで気づかなかったのか、気づきたくなかったのか。
「さっきの、さーっと、の中にヤバいのは?」
「入ってない……と思う」
健斗の言葉には自信などもうこれっぽっちも感じさせなかった。
黒煙は店から漏れてきた。店の中には一杯に広がってしまったために、溢れ出したんだ。車は僅かに見える程度で、殆ど判別はつかない。
「俺、決めたわ」
健斗は目を真っ直ぐ見つめていた。
「俺も」
言わずもがな、言いたいことはおそらく一字一句違わずに、正確に分かった。
俺らは見合わずとも、手にしてたハーブを同時に落とす。水溜りに落ちて火が消えた。癖で靴で擦り、灰が浮く。
そして、揃って振り返り、急いで駆け出した。