異常なる執着者⑶
時刻は夜の十時半ば。
ベージュのニットとカーディガン、濃青のストレートデニムパンツを着こなし、それらを焦茶のロングコートで覆うように纏い、一人夜道を歩いていた。
向かっているのは、依頼者が住む例のマンション。事故として考えられていたからか、一日経過しているため、警察はもうその周辺にはいなかった。
パンプスの音がコンクリートに跳ねて、辺りに響いていた。
その音を頼りにするかのように、ゆっくりと背後から近づく姿。全て闇夜に溶け込む黒に合わせた服に身に包んでいる。サングラス、マスク、ニット帽までもが黒。通りを眩しく照らしている街灯を避け、静かに空いた距離を詰めていく。
だが、なんの気にすることもなく、振り返ることもなく、ただ真っ直ぐ歩き続けている。パンプスの音は乱れず一定だ。
「はぁ、はぁ」
男性特有の荒い息を吐いている、黒い服の男。黒いマスクが膨らみへこむ。走っているからではない。興奮からくる気分を害するような呼吸である。それでも、パンプスの音は変わらない。
男は距離を更に詰める。もう手を伸ばせば、届く距離だ。
「はぁっ、はぁっ」
男の呼吸はより荒くなった。もう少しだと思ったからか、手を伸ばした。
直後、パンプスの音が止まる。
しゃがませて男の腹に身体を入れる。伸びていた腕を両手で掴むと、服の下から浮かぶ全身の筋肉で男を背負った。
そのまま、黒い男は空中で前方へ回転。サングラスと帽子を散らばらせながら、背中から地面へと落ちた。見えたのは、白髪が半分を占めている、定年間際ぐらいの年齢の男性だった。
「え、えっ……えっ?」
よっぽど予想外だったのか、目を泳がせている。その激しさで、動揺の度合いがよく分かる。
黒い男は落ちてきたものを一瞥し、驚きの眼で顔を上げた。落ちてきたのは、カツラだ。
「どうも」
そう声を出して笑ったのは、背負い投げをした田荘だった。
「えっ、お、男っ!?」
「残念ながら。そんでもって」
男の手を握っていない方の手で、デニムパンツの後ろポケットから警察手帳を見せた。
「こういう人」
「け、警察……」黒い男は絶句する。
「驚いてるね。まあ驚くかな。おんなじ格好してたら、そう思っちゃうよね」
田荘は「ほら、立て」と黒い男を立ち上がらせる。だがその瞬間、田荘を突き飛ばして、逃げ出した。
「待てっ……って、あっ!」
田荘はつまづいて、転ぶ。履き慣れていないパンプスのせいだ。
「痛ってぇ」
黒い服の男は全力疾走。さっきの興奮から、肺が酸素を欲する荒い息となる。
だが、黒い男は立ち止まる。曲がり角から人影が出てきたからだ。
「驚いたか?」
人影の誰かはそう口を開いた。黒い男は立ち塞がる誰かを凝視する。
「ちなみに服装は借り物。夜道で背格好似てれば、まあ間違えても仕方がないから、心配すんな」
黒い男に二、三歩近づく人影。街灯の下に行く。照らされたのは、探偵だ。「お前がダリッチョか」
「だ、だったら、何だってんだよ」黒い男は脅しをかけて声を低くする。
「まんまお返ししてやるよ」探偵はポケットに手を入れる。「ストーカーなんて、ねちっこいことしやがって。なんなんだよ」
「んだとぉ?」黒い男は握り拳を作る。
「まあいいや」探偵は首を左右に曲げる。ごきごきと音が鳴る。「ここから先進みたければ、俺を倒し……」
そう言いかけている最中に、黒い男は走り出す。拳を作った腕を引き、半身で探偵に向かってくる。
「ったく、辛抱足りねえ奴だな」
飛んでくる拳を探偵はいとも容易く躱す。素早く相手の後方へ回り、服の首の後ろを掴む。引っ張りながら、右足を前へ払う。黒い男は足元を襲う強い衝撃のせいで体勢を崩し、後頭部から地面へ落ちる。目を強く閉じ、「ぐぅぅ」と唸りながら怯んでいる。
探偵は胸に足を乗せ、押さえ込む。
「人の話は最後まで聞けって学校で教わなかったのか」
少し抵抗するも探偵の脚力は強く、びくとも動かなかった。黒い男はもう逃げられないと観念し、諦めて目を閉じた。
「すいません、せんぱっ……アイテテテテ」
田荘は片手に手錠、片手に投げたパンプスを持って、遅れを取り戻さんとばかりに、探偵のもとへ駆け寄ってきた。
「随分と壮大にこけたな」鼻で笑う探偵。
「ちょ、笑わないで下さいよ」田荘はムッと表情を歪ませる。「体型や背格好が似てるから騙せるって言ったの、そもそも先輩でしょうが」
寝ている黒い男に手錠をかけた。
「だからほら」探偵は足を退けた。「謝礼代わりにって言ったろ?」
「まあそうですけど……」
「それに、わりかし似合ってるよ」
「あら」
田荘は急に笑顔になる。「そうですか?」と長髪のカツラをなびかせる。満更でもなさそうだ。
「嘘だよ」
「ひどいっ!」田荘は顔を歪ませる。「私の気持ちを弄んだんですかっ」
「おい田荘、口調まで女っぽくなってっぞ」
そっちの気があるんじゃないか、と喉元まで出かかったが、飲み込んだ。
「あれ、ホントですか?」そう言いながら、田荘は黒い男を立たせ、身体の後ろで両手に手錠をかける。
探偵はそのまま振り返ると、「出てきていいですよ」と暗闇に告げた。
探偵の出てきた曲がり角の物陰から、現れたのは依頼人だ。泳いでいるかのように絶え間なく目を動かしている。暖かそうな灰色のウールコートを着ているのに小刻みに震えているのは、寒さとは異なったことが原因であろう。
「安心して下さい。このように、ちゃんと捕まえましたから」
田荘は手錠のかかった手首を見せた。黒い男は少し痛そうに片目を細め、顔を歪める。
「まあとりあえずは、これでひと安心かと」
探偵の一言に、依頼人はようやく「ええ……」と声を出した。だが、その表情はなんとも苦かった。
田荘の電話が鳴る。片手は黒い男を掴んでいるため、出づらそうにどぎまぎしている。
「ほれ」と探偵は逃さぬようにと、黒い男の背中の服をつまんだ。その格好はまるで、昭和の時代に叱られた町の悪ガキのようであった。
「これでどうだ」
「すいません」両手が空いた田荘は急いで電話に出た。「はい、もしもし……あぁ、どうも……えぇ……えぇ……あっ、本当ですか?」
顔が優しく緩む。
「分かりました。伝えておきます。わざわざご連絡ありがとうございます」
電話を切ると、依頼人を見た。
「今担当の所轄から連絡があって、彼氏さん目を覚ましたそうです」
「ホントですかっ!」
依頼人は目を見開いた。
「ええ。意識を取り戻して、集中治療室から普通の病室に移ったとのことです」
「お見舞いとかって」
「ええ。もう可能だそうですよ」
「良かったですね」
探偵は笑みを向けると、依頼人も「はい」と微笑みで返す。
「ただ今日はもう遅いので明日からにして欲しいと」
依頼人は「分かりました」と頷くと、「許してくれるか分からないけど、謝ってきます」
「確かに。まずはそこからですね」探偵は田荘に黒い男を返す。「けど、これで全部無事に解決」
「ええ、ありがとうございました。あっ、お金」
「とりあえず、今日はゆっくり休んでください。折角全部解決したんだ、疲れを一旦リセットしてから。依頼料のことはまた後日にでも」
「何から何までありがとうございました」
依頼人は深々と頭を下げた。それは最初の依頼に来た時の暗い雰囲気とは違っていた。
真川大和の病室にある壁時計は十二時を超えていた。日付を跨いだ十二時。部屋は勿論、外も真っ暗である。明かりは窓の外から注ぐ月光と枕元を微かに照らす暖色系ライトのみだ。
病室の扉が静かに横に動く。そこには黒づくめの格好をしている人物が立っており、タオルを手にしていた。扉の向こうから、廊下の明かりが漏れるが、病室にいる彼は背を向けて布団に包まっているため、気づいていないようだ。
すぐさま中に入り、内側から扉の取手を持つと、ゆっくりと音を立てずに閉めた。足音が起きぬよう慎重に、同時にタオルを何度か横に折り畳んで細長くしながら、ベッドへと向かう。
黒づくめの人間は、緊張で荒くなる息を殺しながら、微かに口元から溢れ出る白い息を消しながら一歩ずつ進んでいく。
ベッドのそばで立ち止まる。それでも彼は寝返りさえうつことはない。動く気配などなかった。黒づくめの人間は安心したように、タオルの端を片手ずつそれぞれ一周キツく巻いた。
力を込め、タオルをピンと張る。その持ち方や伸ばし方には、強い悪意と明確な殺意が込められていた。
そして、黒づくめの人間はタオルを首元へと近づけていく。
「そこまでだ」
どこからか男性の声が聞こえると、突如として病室の電気が点灯した。眩しい光が双眼に飛び込んでくる。思わず目を細める。
溶け込んでいた黒づくめの人間は、反対にはっきりと浮かび上がってしまう。手にとるように分かりやすく、慌てだす。左右を落ち着きなく顔を動かし始めている。
「こっちだよ。後ろ後ろ」
黒づくめの人間は一挙に振り返る。
「どうも」
探偵は片方の口角に笑みを作り、扉の近くの病室の隅に寄せていた身体を起こした。そのまま、一歩一歩黒づくめの人間に近づいていく。反対に、黒づくめの人間は距離を取ろうとする。
「おいおい、避けるなよ。俺、ショック受けちゃうぜ」
探偵は思い出したように「ちなみにもし逃げようとか考えてるなら、無駄だぞ。あんたの正体はもう分かってる」と続ける。
後退する足が止まる。
「証拠はあるからな、一生をかけた逃走劇になる。生まれてこの方したかったとかなら話は別だが、オススメはしない。今の時代なかなか難しい。女性ならば尚更な」
逸らした視線が何よりもの証拠であった。
「残念ですが、もうお終いですよ。吉崎さん」
黒づくめの人間の身体から力が抜ける。天井を軽く仰ぎみると俯き、少し動きを止める。
黒づくめの人間は長く深いため息を一つ吐くと、黒のキャップとサングラスと白いマスクを外し、顔を上げた。今まで見たことのない、無の表情をした依頼人がそこにいた。
対で向き合う二人。張り詰める空気。射るような視線の二人を見ているだけで息苦しささえ覚える。
「……いや、違うんですよ」
依頼人は唐突に表情を緩ませると、巻いていたタオルを両手から解き始めた。
「私は、その、やっぱり心配になって。もちろん、こんな時間ですから寝ていることも来ちゃいけないのも分かっていました。でも、この目で大丈夫だっていうのを確認したくて」
「それでそんな格好を?」
「これは……」自身の格好を一瞥する依頼人。「姿を見られると、出入り禁止とかになってしまうのではないかって思ったのです」
「では、タオルは?」
「それは、その……」
依頼人は俯く。そのまま黙ってしまった。
「ちなみに、それで首を絞めても意味ないですよ」
依頼人は目線だけ上げる。探偵を見つめる目は睨みつけている。
「そこに寝てるの、大和さんじゃありませんから」
「えっ?」
「どうも」
依頼人は目を見開いて、勢いよく振り返った。起き上がったのは田荘。服は患者用ではなく、スーツ姿。
「さっきはあなた、今回は彼氏さんのフリをしました。一晩で、いや日は跨いだので二日間ですかね、どちらにせよ連続で化けるなんて思いもしませんでした」
依頼人は目をはためかせる。
「あっ、そっちじゃなかったですか? なら、こっちか」
咳払いをする探偵に、依頼人は再び視線を戻した。
「タオルで絞め殺すのは、あくまで痕が残りにくいってだけで残らないわけじゃありません。自殺に見せかけようとか考えているかもしれませんが、絞殺の疑いは消えませんから、真っ先に疑われるでしょうね」
依頼人は視線を逸らす。
「話を変えましょうか。なんで俺がここにいたのか?」探偵は依頼人を囲むように、半円分歩いた。「そもそもの理由は、俺はあなたに付き纏っているストーカーが実は存在していなかった、と考えたからです」
「いや、いますよ。というか、いました。ですよね? さっきの。ほら、あの年配の男性。あの人がダリッチョであり、つけ狙っていたストーカーなんですよ」
依頼人は訝しげに表情を歪ませた。
「間違いない?」
片眉を上げる探偵に、依頼人は「ええ」と首を縦に振って断言した。
「確か、ストーカーを目撃したことはなかったはずでは?」
「そうですが……だって、本人がそうだって言っていたじゃないですか。なら、あの人がダリッチョで間違いないでしょう?」
「吉崎さん、その間違いないっていうこと自体が、大きな間違いなのですよ」
依頼人は嘲る。「何を言っているのかさっぱり分からない。ストーカーはあの人です」
「だからそれはありえないんですってば」
「何でですかっ」声を張り上げる依頼人。
「だってあの人、偽物ですから」
「……は?」依頼人は口を呆然と開き、言葉を失った。
探偵は踵を返し、また歩き出す。
「演劇一筋、三十年。舞台にかける魂はそんじょそこらの人間とはわけが違う。演じるためなら多少の傷を負っても、必ずやり通す。役者の鏡のような方です、ただ売れていないだけ」
「要するに彼は、我々が用意した偽のストーカー、というわけです」
田荘はそう言いながらベッドから出た。
「なんでそんなこと……」
「一番の理由はあなたの反応を見たかったからですかね」探偵は淡々と続けていく。「存在していない、自分が作り出したストーカーが現実に存在したと知って、あなたがどんな反応をするか。思った通り、動揺は隠せていませんでした。が、想像より薄い反応だったというのは少しばかり計算違いでしたけどね」
探偵は片眉をひそめながら、頭を掻いた。
「あくまで推測ですが、間違いないと断言していたのは、例え自分のことを知らないと言っても、警察は信じないとでも思ったからでしょう。仮にアリバイ等の反証が出ても、別にストーカーがいるってなるだけですし、もし警察から再度聞かれても『あの時はそう言いましたが、目撃したのは夜でしたし、今になると自信ないです』とかなんとか言えばいいだけの話です。どっちに転んでもあなたには損はない」
探偵は立ち止まり、顎をつまんだ。
「では、大きな議題へ移りましょう。そもそも、何故こんなことをしたのか」
顎から離し、空に投げるように手を放る。
「正直言うと、この動機についてはよく分かっていません。けれど、目的に関しては分かってます。今この瞬間も当てはまることですが、彼氏である真川さんを殺すこと。何より殺人ではなく、事故に見せかけること。自分を雇ったのは事故だと証明してくれて、尚且つ、無理のない証人が必要だった。警察と強い繋がりがある人物であれば、尚更良いとでも考えたのでしょう。要件を満たせる人物を探した結果、たどり着いたのが自分。違いますか?」
依頼人は目を逸らす。そのまま、唇を内側に巻き込むと、唇に浮かぶ薄い皮を歯で上手いことむしり取った。慣れたものである。
「沈黙は金と言いますが、今この瞬間はあまり価値あることとは言えませんね。態度に出てしますから」
依頼人は深くため息をついて、眉をひそめた。その表情はこれまでのそれとは全く異なっていた。まるで別人と相向かっているようであった。