異常なる執着者⑵
車内で観察をしている間、マンションの自動ドアをくぐっていく人間は何人かいた。しかしながら、宅配便業者やマンションの住人が出入りするまでエントランスで待ちぼうけしているような怪しげな人物、何より挙動不審な人は見当たらなかった。
探偵はすぐさま声をかける。「今、部屋ですか?」
『はい。クローゼットに隠れてます』
聞こえるか聞こえないか、ギリギリの声。だが、それほどまでしないと入ってきた不審者に聞こえてしまうのだろう。少なくともそう思うような距離にいるということだろう。
探偵と田荘はすぐさま車を出た。部屋は1104号室というのは既に聞いている。
「すぐ向かいます。そのまま動かずじっとしていて下さい」
『お願いです、早く来てください』
駆け足でマンションの入口へ向かう。自動ドアを開き切る前に通過する。体が少しぶつかりながらも気にしない。
「スピーカーを塞いで下さい」
『はい』
返答が聞こえてから、探偵は田荘を見た。
田荘はエントランスを開けてもらうため、“御用のある方は押して下さい”と札がかけられた、管理人直通の映像付きインターフォンを押した。
『……はい』
管理人は初老の男性のようである。田荘は「すいません」と警察手帳を見せ、「私、警察の者ですが、入口を開けて頂いてもよろしいですか」と続けた。
『えっ、警察? ちょ、ちょっと待って下さい。今、そちらへ向かいます』
まだ時間はかかりそうだと探偵はやり取りを見ていて思った。
探偵は依頼人の部屋のインターフォンを鳴らした。電話越しにピンポンと鳴り響く音が聞こえる。続けざまに、部屋を歩く音が届く。少し足をずるような音も。
「はい?」
「おっ」
探偵は出るとは思わず、一瞬怯む。
「す、すいません、お隣の者ですが、いつもお世話になっておりますぅ~」
「は、はぁ」
「いやぁー、お恥ずかしい話。実はですね、家の鍵を忘れてしまったようでして。まあ要するに、家に鍵をかけずに来てしまったんですよ」
「あぁ……」
「いやはや、朝は慌てるべきじゃないですよね。損しかしない。実のところ、寝坊だったんですけどね。仕事があるというのに深酒するのは良くなかったですね。ストレスに打ち勝たないと、アハハハハ」
田荘の方を一瞥する。まだ管理人はやって来ない。とりあえず、時間稼ぎを続けるしかない。
「あ、あのーほら、ここって……ね? エントランスから部屋に行くのにも鍵が必要にじゃないですか。なにぶん独り身なものでして、開けてもらおうにも開けてもらえず。ええ、残念ながら」
管理人が姿を現す。不要であろう余計な話もしどろもどろながらに長々続けたおかげだ。田荘は改めて警察手帳を見せて、耳元で話す。
「今管理人さんに電話をしているんですけど、もう寝てしまっているのか、お出にならなくて。それで、お隣のよしみとして、開けていただけないかなぁーと。勿論、怪しいと思って開けないのも結構です。セキュリティは大事ですから。なので、もしよければということなんです、はい」
「なるほど。いや開けるのは構わないのですが、開け方がよく分からなくて」
管理人が裏から来たことで、エントランスが開いた。
「そうですか、分かりました。また今度っ」
一斉に駆け出す探偵と田荘。管理人も後を追う。
エレベーターに辿り着く。12階で止まっている。ボタンを連打して動かす。そんなことをしても来るスピードに変わりはないことぐらい探偵は分かっている。けれど、急いている気持ちのせいなのだ。
「もうまもなくそちらへ着きます。頑張って下さい。あと少しの辛抱……」
探偵がそう口にした時、激しい物音が聞こえてきた。
「吉崎さん?」
その呼びかけが届いているのか分からぬまま、電話は切れた。
「吉崎さんっ」
ツーツーと虚しい音だけが聞こえてくる。
「吉崎さんっ!……クソっ」
探偵は耳からケータイを離しながら辺りを見回す。非常階段の文字が目に入ると、すぐさまその方向へと駆け出した。
「先輩っ」
田荘の声を無視し、扉を激しく開ける。そして、そのまま階段を駆け上がっていった。
11階に着き、またも激しく扉を開ける。息は相当に上がっているが、そんなことはお構いなしに1104号室へ走る。
「吉崎さん、吉崎さんっ」
扉を激しく叩く。反応はない。
ドアノブを下げると、扉が動く。開いている。探偵は勢いよく開く。
部屋まで少し伸びた真っ直ぐな廊下、その向こうには半開きの部屋扉。隙間からハの字にへたりこんでいる依頼人の姿が見えた。探偵は慌てて駆け寄り、扉を開いた。
目に入ったのは振り返る依頼人と、その奥で横たわっている三十代ぐらいの男性。身なりは綺麗で、スリッパを履いている。ただ明らかに異常なのは、頭から流れた赤い血が小さな血溜まりを作っている点だ。
「襲われると思って……殺されるんじゃないかって思って……どうにかしないとって。それで私……」
依頼人の手には、四角形の白い花瓶が握られていた。一角が血で赤くなり、滴っている。
探偵は男性のすぐそばまで向かい、手首に触れる。まだ脈はある。
後ろから駆け寄ってくる二人の足音が聞こえる。
「せ、先輩。これは一体……」
そう言いかけている田荘に探偵は振り向かずに叫ぶ。
「田荘、救急車っ」
「あっ。は、はいっ!」
有無を言わせぬ怒号に、田荘はすぐさまケータイを取り出した。その後ろで、管理人が「ヒィッ」と短い悲鳴を出していた。
「もしもし? 今すぐ救急車を一台お願いします。場所は……」
田荘が電話をかける中、依頼人は「私」と小さく声を絞り出した。
「私、人を殺して……」
「まだ息はある」探偵はコートを脱ぎ捨て、応急処置に取り掛かる。「ストーカーだろうが、死なせやしない」
「違うんです……」依頼人は頬に涙を伝わせた。「彼は、私の……私の、彼氏です」
「……はぁ?」
予想外の返答に、探偵の瞳孔が自然に開いた。
救急車のサイレンが遠ざかるのを耳にしながら、探偵はソファに丸くなって座っている依頼人のそばに向かった。
依頼人は彼方此方に目が動いていた。自分の部屋に警察官や刑事が複数人動き回っているのだから、無理もない。
「落ち着きましたか」
腰を落とながら、探偵は声をかける。勿論、そんなわけはない、とは思っていた。だが、異常なほどに重い空気を発している理由が、ストーカーと誤って彼氏を殺してしまったかもしれないと罪悪感に苛まれているであろう人に対して、なんと声をかけたらいいか分からなかったのだ。変な言葉はかけられない。
「はい……」
依頼人は羽織った毛布をより身体に巻きつけた。本心から遠ざかった返事だというのは、声色からよく伝わってきた。
数秒の沈黙が流れる。打ち破ったのは、依頼人からだった。
「私、探偵さんたちがすぐに来てくれると信じてました。けど、怖くなって。もしかしたら来る前に、ストーカーにこのクローゼットを開けられて、襲われてしまうんじゃないかって。あんな手紙を書くような人だから、もしかしたら殺されるんじゃないかって」
毛布を握る力が強くなる。
「一秒ずつ怖さが増していく中、ぶつかったんです。買っただけでそのまましまい込んでいた花瓶を見つけたんです。それを握った時、やられる前にやってしまったほうがいいんじゃないって思うようになって。もう、正常な判断が出来なくなっていました……」
依頼人は探偵を見つめた。
「それで、クローゼットから飛び出して、頭めがけて殴りました。ふらつくことなく、ただ真っ直ぐに床に倒れ込んで、そのまま動かなくなりました。本当に一瞬のことでした。けど、少しして脳が状況を理解した時、顔や体格に見覚えがあると思い始めて。よく見たら、大和だったんです……」
依頼人は彼氏の名前を口にすると、その時の情景が脳裏に浮かんだのか、首が折れるほどに深く俯いた。
「ちなみに、ストーカーのことについて、彼氏さんには?」
「いえ。変に心配かけたくなくて、話してはいませんでした」
「何故、吉崎さんの自宅に来たのかはご存知でしたか?」
「分かりません。昨日会った時も事前に来るということも聞いてなかったので」
「もしかして、昨日の用があると言っていたのは……」
「はい。彼に会いに行っていました。あの島に住んでいるんですよ」
そういうことか、と理解しながら顎髭を触った。
「もし、もし彼が死んでしまったら私……私っ……」
依頼人はまたも涙を流す。大粒の涙が淡いブルーのジーンズに落ち、小さな跡を作っていく。
「まだ死んでいません。だから今は最悪を考えず、最高を考えましょう。助かるんだってそう思いましょう」
依頼人は口を強く結びながら、小刻みに頷いた。
「先輩」
背中から声をかけられ、振り返る。廊下から手招きをしている田荘。
「ちょっと失礼します」
探偵は立ち上がり、田荘のもとへ。
「とりあえず」と田荘は依頼者に背を向ける。「事の経緯は話しておきました」
「で?」
「特段お咎めなしということで落ち着きました」
「そうか」
「にしても、まさかこんな事になるとは……」
田荘は片目を瞑りながら、頭を掻きむしった。
「悪いな、巻き込んじまって」
「いえ。まあ、もし先輩だけだと、色々面倒なことになってだと思いますしね、自分が証人としていれて、ある意味良かったですよ」
「証人……ねぇ」探偵は小さく呟いた。
「今回はなんともいえない悲劇ですね。不安が重なり、起こしてしまった悲劇とでも言いますか。こうなると、ストーカーが憎いですね」
「そうだな」探偵は反応もほどほどに、気になることを尋ねた。「彼氏、今どんな状況か分かるか?」
「五分五分だそうです」
「かなりの重体だな」
「運が悪かったのは当たりどころが悪かったこと。運が良かったのは発見が早かったこと。あと数分遅かったら、もう手遅れだったらしいですよ」
「もし仮に亡くなった場合、彼女は刑事上どうなる?」
「うーん……なんとも言えないというのが正直なところです。事故とはいえ、殺してしまったことになりますから、過失致死など何かしらの罪に問われる可能性は充分にあります。ただストーカーによる精神的ストレスが今回の原因ですから、不起訴処分となってもなんらおかしくはないかと。現状、事故として調べを進めてるみたいです」
田荘は声を潜め、探偵に囁く。
「その彼氏がストーカー、ということなのですかね」
「というと?」
「いやそう考えれば、DMに周辺の写真を送ったり、自宅のポストに手紙を入れたりするのは充分可能ですよね。ほら、合鍵だって持っていたと話していますし。勿論、服装が正装だったり、一般的なストーカー像とは離れてはいますが……」
「まあ、そう考えててもあり得なくはないよな」
「もしかして……」田荘は探偵の顔を覗き見る。「何か気づいてます?」
「なんでそう思うんだ?」
「雰囲気で」
「そこは、刑事の勘、だろうが」
「あっ」田荘は素っ頓狂な反応をする。「と、とにかく気づいたんですか」
探偵は深くため息をついた。「……すまん」そう告げる表情は何とも険しかった。
「は?」
「今回のことは俺のミスだ」
「えっと……」田荘は、探偵の言う今回がなんのことか脳内を巡らせた。「彼氏が誤って殴られたことですか?」
「まあそんな感じだが、詳しくは後で話す。とりあえず、もう少し手伝ってくれるか?」
田荘はフッと笑い、腰に手をあてる。
「ま、乗りかかった船ですからね、最後まで付き合いますよ。それで、なんです?」
「……言ったからには嫌って言うなよ」
「はい?」田荘は両眉をあげた。