第34話 田荘⑷
「イッちゃん……」
BJさんの一言に過敏に反応した俺は、窓のそばからベッドに距離を縮めた。
「おっ、ようやく起きたか」
先輩は座っていたプラスチック製の円形椅子を近づけた。足を引きずる音が聞こえる。
「ここは?」
「病院」
「個室?」BJさんは辺りを軽く見回してそう呟いた。
「高かったんだからな」
「後で払うよ」
先輩は片目を閉じ、「そういう意味で話したんじゃねえけどな」と、頭を搔いた。
「先生呼んできますね」そばにいた看護師が病室を出る。
「イタタタ」
起き上がろうとするBJさん。両手両腕を使い、体を起こそうとして、苦悶の表情を浮かべる。
「あんま無理すんな」
先輩が背中に手を添える。だけど、手のひらを見せて、止めてきた。「大丈夫」ということなのだろう。
何もしないというのは変だから、俺は代わりに「どこか痛みますか?」と声をかけた。
「体じゅう、バッキバキ」
……はい?
「寝違えてるね、これ」
そう言って、BJさんは上半身を左右に捻った。バキバキと激しい音がする。少し痛そうにも感じる。
扉が開く。白衣を着た先生がそこにいた。
「大丈夫そうですね」
担当の先生は聴診器を耳から外し、首にかけた。
「明日には退院できますかね?」
「ええ。特に問題なさそうですからね」
BJさんの問いかけに、先生はにこやかに答えた。
「良かった……」
「では、また何か体調が優れなくなりましたら、教えて下さい」
会釈すると、さっきの看護師とともにいなくなる。途端、BJさんは大きく背伸びをする。
「はぁーよく寝た寝た」
えぇ……
「最近ろくに寝れなくてさ、しかも昨日は徹夜だったから、疲れちゃってたのかもね」
つ、疲れ? それだけであんなに寝るか??
「昨日じゃないぞ」
先輩のその一言だけで気づいたのだろう、BJさんは少し俯く。
「僕……何日寝てた?」
「7日」
「7日!?」
BJさんは正面に向いてた体の向きを完全に先輩の方へ。「嘘でしょ!」
「ウソだよ」先輩はまんまと騙せたことに満面の笑みを浮かべた。「3日だ」
「3日!?」倍以上の日数が少なくなっても、驚きは然程変わらなかった。
「ああ」
「いやいやいや、そう言って本当は全然経ってないんでしょ? あっても、数時間ぐらいでしょ?」
「いや、マジ」
一瞬、空気が凍る。
「またまた〜冗談が過ぎるよ〜」
「いや、本当です」
俺が輪をかけると、勢いよく視線を向けてくる。
またも、空気が凍る。
「……マジですなんかいな」BJさんがぼそりと呟く。
「どこの方言だよ」
「知らないよ。驚き過ぎて自然に出てきちゃったんだから」
BJさんはため息混じりに窓際に視線を移す。
「あれって、イッちゃんが?」
先輩も窓に顔を向ける。プラモデルが2つ置かれている。「いや、便利屋だ。昨日見舞いに来て置いてった。時間潰しにって」
「リュウちゃんが……後でお礼しないと」
「それよりまず、早く退院できるように努めろよ」
「確かにそう……」今度は頭をピクリと動かすと、俺を見てきた。「タイチ君は?」
「あの、エレベーターにいた子ですよね」
確認を取る。
「そう。大丈夫だった? 怪我はなかった?」
鬼気迫った表情で尋ねてくるから思わず、少し怖気付きながら俺が「ええ、無傷でしたよ」と答えると、「ご両親感謝してたぞ、助けてくれてありがとうございましたって」
看護師から聞いた。入院してから1日1回会いに来てるらしい。今日はまだだけど。
「えっ、おじいちゃんとじゃなくて?」
「ええ。事件が起きていると知って、急いできたそうです」
橋を渡った途端、封鎖されたのを見て、何かおかしいと思っている最中に知った、ということらしい。
「事件……エレベーターの?」
あっ、そっか。それを知らないのか。
「実はですね、あの館内で立て籠もり事件があったんです」
「立て籠もり!?」BJさんは一瞬言葉を失い、口を少し開いたまま目を伏せる。
「だからあんなに急いでたのか……」
ぼそりと呟いたのを俺は聞き逃さなかった。
「というと?」手帳とペンを取り出しながら、尋ねる。
実のところ、あのエレベーター内で何が起きていたのかさっぱりだった。突入した隊員がエレベーターが止まっていることの異変に気づいて調べたところ、中で眠っている子供と野球帽の男とBJさんを発見した。BJさん以外はすぐに目を覚ましたから、すぐに事情を伺うも、直前の記憶は失っていた。
「中にいたのはブリリアンツっていう強盗団だったんだけど」
「やっぱり、そうだったんですね」
「何、知ってたの?」
俺は胸前まで持ってきていた手帳を少し下げる。
「ガイ・フォークス・マスクを被った連中を見たという証言があったので」
BJさんは「そうか……」と首を垂れるものの、すぐに「他、っていうのはタイチ君?」と顔を向けてきた。
「いや、森田という男です」
「男……それって、野球帽を被ってた奴だよね。そいつは?」
不安な表情になる。
「逮捕しましたよ。薬物使用容疑で」
「やっぱり」と、BJさんは頷いた。表情は妙に納得したような、腑に落ちた顔つきをしていた。
「一緒にいた時から妙な行動をとってましたか?」
「妙どころじゃなかった」
「例えば?」
先輩が脇腹を小突いてくる。「それ、あの子が話してたじゃねえか」
「そうでしたね」
思い出した。俺は次の話を始める。
「森田は前科持ちで、数ヶ月前に出所したばかりだったんです」
「だからか……」そう視線を落として呟くも、「ごめん、続けて」と手で勧めてきた。
「なのに、早速犯罪行為をしていました。しかも、ヤクを打った状態で。おそらく彼は再犯しただけでも罪は重くなるのにプラス薬物となると、かなり重くなると考えたんでしょう」
「あの中でとなると、万引きかなんか?」
「いえ、盗撮のデータ売買です」
「売買?」BJさんは眉を上げている。「あの中で?」
「ええ。人質が監禁されてた洋服店があったんですけど、そこの店員として働いているように見せていた女性から買おうと考えていたみたいです」
「んん? つまり、店員のフリをしてたってこと?」
「はい」俺が縦に頷くと、先輩は「ややこしいよな」と軽く笑った。
「けど、なんであんなとこで……」
「まさかああいう場所でやってるとは警察が思わないだろうと思ったからって話してましたけど、正直疑問点は多いです」
当たったからアイトドスの中で取引を、っていうのもありえなくはないけれど、そもそもそこでやる利益はあまりないように思える。
裏DVDにして売ろうとしようと画策していたそうだ。そのことから錦戸さんは、俺らも年始にかり出された、あのガサ入れを引き合いに出し、「今までのトコが割れているかもしれないと取引場所を精査している時、売る側買う側のどちらかがアイトドスの先行入場券が2枚当たったと連絡をして、中で売る側が店員として、買う側が帽子を目印に客として売り買いしようとしたんじゃねえか」と話した。
当の本人たちを捕まえたのに、何故こんな憶測だけで話しているのか。それは、至極単純。当事者たちが口をつぐんでいるからだ。誰かから口止めでもされているらしい。でも、どこかに属しているような気配もヤクザがバックにいる気配もない。一体なんなのか……
「どうせ、ヤクやってる間にでも考えたんだろう」
笑いながら先輩が話す。なかなかの一言。おそらくブラックジョークとして言ったのだろうけど、俺はどう反応していいのかが分からず、何も答えられなかった。BJさんも黙ったままだったから、病室内は妙な静寂に包まれた。なんかお笑いとかでいう、スベった感じ……
「にしても、不幸だよな」
だからか、空気を変えようと先輩は顔を戻し、話題を変えた。
「というと?」俺も一応、助け舟を出す。
「立て籠もりなんてなければ滞りなくいったはずなのにさ。全く……悪さはするもんじゃないよな」
「確かに、銃を持ってる強盗犯と鉢合わせるなんてことそうはないはずですからね……」
「ん? 銃を持ってたの??」BJさんは少し上半身を倒してくる。
「はい。かなり武装していました。黒い服を」
「……もしかして、立て籠もりをしてたのってブリリアンツじゃないの?」
「ええ。そうです。してたのは、直前に銀行で強盗をした強盗グループです」
「そっか……」顔を掛け布団の上に置いていた手元へ移す。「そういえば、絵画は?」
「ああ、それなら」
俺が詳しい話をしようとした時、病室のドアが開いた。横にスライドする音が聞こえて、俺を含めた3人が一斉に向いた。
「あっ!」
甲高い声。一気にベットの足元側まで駆け寄ってきた。
「どうも、タイチ君」BJさんは口元を緩めた。
「もう元気になった?」
柵にしがみついていたタイチ君の目は眩しいくらいに輝いていた。純粋無垢だ。
「こら、タイチ。なったんですか、でしょう」
その数歩後ろには母親が。最初にアイトドスの外で会った時より幾分表情は明るかった。
「……なったんですか」タイチ君は口をとんがらせる。BJさんはさらに顔を綻ばせ、「まあね」と返した。続けて、「心配をおかけしました」と頭を下げた。
「じゃあ、俺らはそろそろ」
先輩は椅子から立ち上がる。多分、ら、の中に俺が含まれているんだろうな……と思い、俺も帰る準備をする。と言っても、手帳とペンをしまうだけ。
「また後でお伺いしますね」
「ゴメンね、ありがと」
「いえ」
「まあ」先輩はコートのポケットに手を入れる。「ちゃんと飯食って寝ろよ」
「イッちゃんは僕のお母さんですか」
BJさんは歯を見せて笑う。
「あと、グッズばっかに金使い過ぎるなよ」
「考えとく」
「こりゃ、ぶっ倒れても治らねえな」
先輩もニヤリ顔。軽く手をあげてドアに向かう。俺も続く。
先輩はスライドして病室を出る。俺も出てから、一礼して閉める。中からは「パパとママに話したんだ。正直に」という声が聞こえてきた。
「どう?」
BJさんの声が聞こえた後、少し沈黙が流れる。そして、再びBJさんの声で「良かったね」と一言。顔は見えないが、満足そうな嬉しそうな声調だった。
「田荘」
呼ばれて俺は右に顔を向ける。先輩が眉をひそめ、斜に構えて立っていた。
「盗み聞きすんな」
いつもの感じではなく、少しトーンを落としたマジメな感じ。怖い……
「す、すいません……」
俺はすぐに小走りで寄る。去る寸前、「よく頑張ったね」というBJさんの声が聞こえてきた。
先輩がいたのは、エレベーター前。既に下ボタンを押していた。
「人質を助けたのは、ブリリアンツで間違いないんだよな」
「はい。覆面を被ってましたが、絵画を身代金代わりで交渉してましたから、本部はその見立てで捜査しています」
「そうか」
先輩は「ゲーセンの話なんだけどさ」と頭の上に両手を置いた。いつものトーンに戻った。
「ゲーセン?」
「捕まってた男だよ。プリクラの中で手足縛られてた」
虚空を見て、思い出す。
「ああ」
店員の服を着ていたから、発見した警官が助けたところ、何故か気絶させられたアレか。結局今も見つからず、どこにいるか不明なままだ。
エレベーターの扉が開く。中には誰もいなかった。乗り込み、1階のボタンを押す先輩。
「もしかしてそいつ、ブリリアンツの一員だったんじゃないか?」
「えっ?」
扉が丁度閉まった。
「事情聴取で立て籠もり犯だと思った中の人が捕まえたわけだろ? けどよ、そもそもなんで犯人じゃないと捕まった言わなかったんだ? 何かされるかもしれない怖さがあるんなら、普通言うだろ?」
確かに……
「それに、外には捜査二課と三課がいた。それぞれ、知能犯関係と窃盗関係の専門捜査官だ。あの状況の場合、別個で考えるのはおかしい。となると、両方の特徴を兼ねてるのが中にいたと考える方が自然だ」
先輩は手を下ろし、「ここからは俺の推測だけどな」と、左手をポケットに入れた。
「捜査一課の連中は、ブリリアンツが絵画を盗むということを何かしらの形で入手した。だから、立て籠もり犯が彼らじゃないかと思い、情報を得るために呼んだんじゃないか。いや、逆かもしれないな。二課か三課、もしくは両方が入手していたことを一課に知らせに行った」
先輩は右手で顎を触った。
「BJだって勘違いしてただろ、立て籠もり犯がブリリアントじゃないかって。間違える人がいるんなら、警察関係者が立て籠もり犯じゃないかって疑ってたとしても……」
「おかしくは、ない」
「ま、こじつけに近いから、聞き流してくれていい」
1階に到着。扉が開く。歩き出す先輩。俺も後ろをついていく。
「そういや、籠城犯が持っていた拳銃、どこから買ったのか分かったのか」
「いいえ、まだです」
海外から輸入した可能性も、この島の環境を鑑みると、十分ありえる。
「ただ物自体はフィリピンやタイのものだと判明したので、東南アジア中心に調べを進めています」
もしこの島に仲介役がいるとすれば、他にも売っている可能性がある。ヤクザや半グレ、過激派組織の手にでも渡れば、危険だ。
「ならあとは、時間の問題か」
「おそらくは」
とは言っても、あまり進展はないみたい。おそらく仲介役はこれまでに警察が検挙できなかった、それかそもそも知らないほどに新たに売り始めた者だろう。はぁ……骨が折れる。
「もう治ったか?」
先輩は唐突に質問を変えてきた。目的語はなかったけれど、検討がついた。だって、骨が折れる、と心で思った時、俺は後頭部を触っていたから。
「……たんこぶのことですか?」
「それ以外何がある」
俺はため息を吐く。自然と肩が落ちる。「からかってんですか?」
「からかってないよ。バカにしてるだけ」
「余計悪いですよ」
「冗談冗談。心配してんのこれでもな」
これでもなって、一応自覚はしてるんだ。
「ええ。無事治りましたよ。綺麗さっぱり」
「そうか。ならよかった」
「なんで突然?」
先輩は口角に笑みをためた。「現場にエンペラー、いたんだろ?」
あぁ……「らしいですね」
錦戸さんが雑談交じりにそう話してきた。
「なんだ会ってないのか」
「運良く」
「まあ偽名使ってたらしいからな」
「みたいですね」それも錦戸さんから聞いてる。「けど、なんでそれを?」
「電話越しで倒れるくらいなんだから、実物会ったら卒倒しちまう。だから、当日はどうだったんかなーって。でも、会ってないんじゃーな〜」
満面の笑み。まだあの夜のことをバカにしてくる。もう1ヶ月も前のことだぞ。
「先輩はあれから会ってないんですか?」
「ないな」
「話してたバーには?」
「行ってるけど、一度も。特段、会いたい相手でもないから別にいいんだけどな」
先輩はおもむろに腕を組んで、眉間にしわを作った。「にしても、まさかあいつが事件に関わるとはな」
「偶然ですけどね」
「けど、この島の偶然は運命と同意義だ」
「嫌な予感でもするんですか?」
「嫌な予感はしないけど、とんでもないことが起きそうだっていう予感はする」
「俺たちにとっては、それを嫌な予感っていうんですよ」
病院入口の自動ドアを超えて、外へ。
「安心しろ」先輩は、外に敷かれた巨大な絨毯の上で立ち止まった。「俺の予想もたまにゃ外れっから」
残りの数パーセントを願おうっていうことか……肩が勝手に落ちた俺は、「じゃあ、俺はここで」と足を右のほうへ向けた。駐車場に続く歩道が伸びている。ここからは別々の道。
「おう。連絡ありがとな」
「いえ。では」会釈して向かう。
駐車場とこの道を繋ぐ横断歩道がある。短いけれど、信号がないから、矢継ぎ早に車がくる。右から来るのがなくなれば左から。左がなくなれば右から。止まる気配がない。
口から息が漏れ、待っていると、背後から「西さぁん」と呼ぶ声が聞こえた。足を止めて慌てて振り返ると、女性の看護師が口元に手をおいて、「西さぁ〜ん」と呼んでいた。
「はぁいぃ」と答えたのは、白で染められた髪をした中年男性。何か忘れ物でもしたのか、小さな袋を届けていた。なんだ……違うのか。まあ、そうだよな。ここにいるわけ……はっ!
その延長に先輩がいるのが見えた。幸いにも、こちらは見ていないし、距離は開いている。よかった……たんこぶ作ったことでさえ、こんなに長くネチネチといじってくるんだ。
いや、まあ流石に大丈夫だとは思っている。けれど、あの人の予測や予想は恐ろしい。もしかしたら、西さんというワードと俺が慌てて振り返った様子を見ただけで、篭城事件の時に出会った西さんのことが好きだとバレるかもしれない。嘘のようだけど、本当の話。だから恐ろしい。
気をつけなきゃな……あっ、車来てないじゃん。