優しき王の崩御
夕刻。
薄暗く長い廊下を進む彼の足取りは、軽快であった。
(良かった……これで、後は正式に休戦を締結すれば、両国共にまた多くの民に笑顔が戻る……)
中性的な美貌をやや真剣な色に染め、その澄んだ青眼をまっすぐにまだ先にあるドアへと向ける彼は、この国において《優王様》と呼ばれる、若い王である。
白を基調とした清楚な衣服をまとい、その瞳と同色の宝石にて留めた純白のマントをなびかせて歩くそのさまは、神秘的な白銀の長髪と相まって、まさに美しくもおかし難い印象を見せていた。
――否、ただしくこの国の国民にとっては、彼は何者にも代えられぬほどの〝英雄〟足りえる存在であった。
次の、その瞬間までは。
「兄上!」
「!」
迷うことなく歩みを進めていた彼を呼び止めたのは、まだ少し、幼さの抜けきらない少年の声。
すぐ近くの角から出てきたのだろうその少年の足音は、彼が思っていた以上に近くから響き、そして彼が振り返ったその瞬間に、止まった。
「ロイス、どう――」
――したの?
そう、いつも通りに自分が愛する弟へ、優しく問いかけようとした彼の穏やかな声は、途中で途切れた。
「っ!!」
はじめに彼を襲ったのは、腹部への衝撃。
続いて、灼熱の熱さに似た激痛の後、自身の腹に突き刺さった銀色の剣を認識。
その澄んだ青眼を驚愕に見開いた時には、最早自らの身が治癒の魔法をもってしても助からないことを理解していた。
「ぁ、っ」
「――は、あ……」
詰めた声に、深い深呼吸の音が重なる。
驚きを消すことが出来ずに移動した彼の青眼が、己が色よりも深い、藍とかち合った。
それは、いつも彼の後をついてまわり、純粋な笑顔で皆を喜ばせていた少年とは、まるで別人のように沈んだ瞳だった。彼よりもいくぶんか少年さをもつ顔は硬く強張り、口元は強く引き結ばれている。
――こういう表情のことを、人は〝負の覚悟〟と呼ぶのだろう。
「……ロ、イス……な、ぜ……っ」
思考をかき消す激痛に、しかし、彼は確かに、疑問と悲しげな表情で問うた。
「……」
しかし、返答はすぐには無く。
ずるり、と。
彼の腹部に刺さっていた剣が、無言のままに引き抜かれた。
「っ――」
どさり、と崩れ落ちて倒れた床には、瞬く間に鮮血が広がってゆく。
清楚な服も、純白のマントも、すべてがゆっくりと赤に彩られる。
彼に残された時間は、もういくばくもないだろう。
ふと、少年が声を紡ぐ。
「……兄上では、ダメなのです……。――兄上では」
この国を、本当に守ることは、出来ない。
それは、彼の崩御によって王弟より正式に王となる者の、言葉であった。
――ただ一点、彼がすでに先王の時代より続いていた隣国との戦争に疲弊していた国を復興させ、戦争をも一時とはいえ止めた、賢王であることを除けば。
今のこの国に、彼の統治を嫌う者がいるとすれば、それは……。
思い沈黙に、コツ、と少年がきびすを返す音が響く。
「っ、ロイ、ス……」
その色をあせさせること無く剣にまとわりつく血を払い、そのまま立ち去ろうとした少年へ、彼の声がかかる。
遅くも無く、早くも無く刻まれていた足音が、思わず、という風に止まった。
すでに己が死を悟った彼は、それでも、もうわずかとなった家族の一人たる大切な弟に、最後の力を振り絞って顔を上げ、万感の思いを込めて、告げた。
「どう、か……幸せに、なっ、て――」
彼に背を向けて立つ自らの愛しい兄弟の肩が確かに震えたことを見て、彼は小さく微笑み、そしてふっと力をぬいた。
床に落ちる美貌。
その綺麗な白銀の髪が、小さな赤の水たまりに、銀糸の波紋を描いていく――。
それが、後に王血を新たにするこの国の、現王血の終焉より一代前の国王が死ぬ瞬間であった。
時は流れる。
聖なる契約が刻まれた肉体と魂はやがて、再び現世へと舞い戻ってくることになるのだった――。