3.幼虫が羽化するように
2015.3.15
全体的に手を加えました。
『そなた、気付いてはおらぬだろうが精霊に好かれておるぞ。精霊は属性によって魔力の好みを変えるが……だからこそ、複数の属性に執着される者は希少と言えよう。特に強いのが光……そして水と風。ふむ、火も従っておるな。相反する属性であるのに、珍しいことだ。ほんに、そなたは面白い』
我は精霊王。精霊達の王である。そなたに我の加護を授けよう。
姿の見えぬ『男』……精霊王と名乗るその者の声が遠くに聞こえたのを最後に、エリカは意識を失った。
(不思議……いつもより身体が軽いし、ちゃんと目も開けられるなんて)
意識が戻って最初に思ったのがこれだ。
この『エリカ・ローゼンリヒト』という少女は、魔力飽和ですぐぶくぶくと膨れ上がってしまう体質であったこともあってとてつもない人見知りで、性格は内向的……というよりはっきり言って暗い。
毎日メイド数人によって気合を入れて手入れされて艶々のはずの銀髪はどこかもっさりしていて、前髪も顔を隠すほどに長いので表情がわかりにくい。寝ている時はころんと丸まり、起きていても猫背。起き上がることができても肩身が狭そうに廊下の端を歩くだけ、という公爵令嬢としては規格外の鬱々としたネガティブガールである。
要は、自分に自信がなかったのだ。
父も兄も、そしてエリカを産んで早々に亡くなった母も、麗しいだの美しいだのという賛美を受けて当然の顔立ちをしているのだから、末娘であるエリカもまたその遺伝子を受けついているはずなのに。
魔力飽和……この忌々しい体質の所為で鏡と向き合うこともできず、他人に会う時もぷっくりと膨れ上がった姿であったため常に俯きがちで、ついには性格そのものまで後ろ向きになってしまった。
そんな彼女の鬱々とした態度、そして物語ばかりを読んで現実逃避している所為で妙に夢見がちになってしまった性格を、テオドールにつけこまれてしまった。
彼のことを、理想の王子様だと思い込んでしまったがために、一度目の悲劇は起きてしまったのだ。
(もう、同じことは繰り返さない。私のことを笑った人達を見返してやるんだから)
彼女は、変わろうと決めた。……動機は不純でも、やる気だけは溢れている。
彼女はまず、ベッド脇の呼び鈴をチリンと鳴らした。
入ってきたのは、新しい部屋付きが決まるまでの間臨時で世話をしてくれることになった、メイド長ナターシャ。
彼女はこの邸に勤める古参のメイドであり、父の信頼が最も厚い執事長セバスチャンの妻である。
かつての生では、幾度となく声を荒げてエリカの態度を諌めてくれた。テオドールの手を取って浮かれていた時も、最後の最後まで『あの方はお嬢様には相応しくありません』と苦言を呈してくれた、厳しくも心優しい女性だ。
ごめんなさいね、貴方の言うとおりだったわ。そう心の中だけで深く詫びておいて、エリカは顔を上げた。真っ直ぐに、『命令』を待っているメイド長を見つめる。
「ねぇ、ナターシャ。髪を整えたいの。一番上手に髪を切れる人を遣してくれない?」
「…………」
夫である執事長と共に長年この邸に仕えてきたメイド長は、生まれ変わったかのような令嬢のぎこちない微笑みに言葉を失い……だが瞬時に思考を切り替えて「かしこまりました。ただいま手配いたします」と深々と一礼した。
その目の端に光るものが浮かんでいたことに、エリカは気付かない。
「あの、お嬢様……本当に、切ってもよろしいのですか?」
「ええ。リラのいいようにしてちょうだい」
「と、仰られましても…………」
ナターシャの指名で呼ばれた手先の器用なメイドは、遠慮がちにびくびくしながらハサミを握った。
若干5歳であるこのローゼンリヒト家のご令嬢は、深刻な病にかかっているため人嫌いである。故に、お嬢様の部屋には近づくな、噂もするな、どこかで見かけても声をかけるな、視線を向けるな、と厳しく言い含められていたため、突然その渦中の人の部屋に呼びつけられてどうしたものやら、と軽くパニックに陥っているらしい。
他でもないその教育を施した当人であるナターシャは小さくため息をつき、「落ち着きなさい」とそのメイドの肩をぽんと軽く叩くと、まずは鏡をよく見るようにと姿勢を正させた。
鏡に映っているのは、どこか戸惑った表情をしたメイド自身とその後ろで肩を支えるメイド長。そして。
「…………」
「…………?」
不安げな表情で、だがしっかり前を向いて座っている『最高の素材』
磨かなくても光るが、磨けば磨くほど最高級の輝きを放つようになるだろう、埋もれかけた逸材。
ごくり、とリラの喉が鳴る。
「あ、あの……リラ?」
「お嬢様、ほんっとーに、私のいいようにしてよろしいのですね?」
「え、……ええ。貴方の腕が邸で一番だと、ナターシャが言っていたもの。そうよね?」
「ええ、勿論でございますとも。さ、リラ。思うようにやってごらんなさい」
「……では、遠慮なく」
『やってごらんなさい』が『やっておしまいなさい』に聞こえた気がしたが、もうどうにでもなれとエリカは観念して静かに瞼を下ろした。
『まぁ、ローゼンリヒト公爵とそのご子息ですわ。銀灰の髪に赤味がかった褐色の瞳……あぁ、なんて麗しいのかしら』
『後添いはいらないとはっきり仰っているようですけれど、勿体無いことですわね。ご子息にも母君は必要でしょうに』
『ねぇご存知?公爵が後添えを拒絶されておられる理由……公爵に横恋慕したメイドがご令嬢を殺めかけたからですって。でもこう言ってはなんですけど、あのご令嬢では無理もありませんわ。ねぇ?』
『……ええ、そうですわ。あれでは貰い手がつかないでしょうし……公爵もご子息もお可哀想に』
(やめて!そんなの、私が一番良くわかってる!だからやめて!もうやめて!)
「お嬢様、終わりましたよ」
両肩に手を置かれてようやく、エリカは自分が浅い眠りの中にいたことを知った。
俯いた姿勢のままゆっくりと目を開けると、睫毛に引っかかっていたらしい涙がぽろりと一粒零れ落ちる。
「まぁまぁ、怖い夢でもご覧になったのですか?」
(ゆ、め…………いいえ、違うわ。あれは、本当にあったことなのよナターシャ)
かつての生でも、エリカは父に心酔していたメイドによって殺されかけた。
そのことで彼女を溺愛していた父は怒り狂い、それ以降自分を含めた家族の周囲に置く人間には殊更厳しくあたるようになっていった。
後添えがいらないと公言したことについても、公にはエリカの受けた傷を明かすことなく、ただ前妻以外の妻はいらないと宣言しただけだったのだが、それでも社交界というところはどこから噂が舞い込むかわからない。
社交界デビューの年齢になった彼女を待ち受けていたのは、父公爵や兄に憧れる数多の女性達による嫌味の洗礼だった。
今冷静になって思い返せば、そうして嫌味をぶつけられている彼女の隣で、エスコートしていたテオドールは平然とした顔で彼女を気遣うことすらなかったように思う。
もし彼に思いやる心があるのなら、バルコニーへ連れ出すなりダンスに誘うなりして彼女を気を逸らせたり、そうでなくとも優しい言葉のひとつかけてくれるものではないだろうか。
(結局彼は、最初から私を騙すつもりだったってことね。私、本当に見る目がなかったわ)
神の気まぐれか、死神の悪戯か。エリカは再び生をやり直す機会を得た。
理由はわからない、だが彼女にはそれよりも大事なことがある。
促されて、顔を上げる。
そこには、何十何百何千という魔力の塊が浮き出てぶくぶくと膨れ上がった醜い娘はもういない。
父譲りの銀の髪を腰の辺りまで垂らし、サイドは鎖骨の辺りまでで切り揃えられてくるりと内巻きにカールしており、前髪もふわりと眉を隠す程度の長さに揃えられている。
驚いたように鏡を見つめるその瞳は、肖像画で見た母と同じアクアブルー。
これまではぼってりとした瞼の所為で半分以上埋もれていた睫毛は長く、くるんと上向きにカールしているため瞳全体がぱっちりと大きく見える。
社交界で美形親子だと評判の父や兄にも劣らない……社交界の百合と称された母の繊細な美貌をそのままに受け継いだ、正真正銘の美幼女がそこにいた。
「………………だれ、これ」
「誰って、お嬢様ですよ!私もまさか、ここまで変わるなんて思いませんでしたわ!嬉しい思い違いです」
「…………はぁ」
まだ信じられない、そう言いたげに戸惑った表情のまま鏡を見続けるエリカに、背後にたったメイド二人は微笑ましそうにただ笑うだけだった。
そんなこんなで美幼女に変身……もとい、本来の彼女自身の姿に戻ったエリカ・ローゼンリヒト嬢(5歳)は、その姿を見せびらかしたいとわきわきするリラ、そして母の実家から同行してきたというナターシャの温かい眼差しに後押しされ、久しぶりに自分の足で部屋を出た。
向かったのは、書庫。
以前の彼女は殆ど引きこもっていたため物語を読んで現実逃避することくらいしかできなかったが、今の彼女は違う。
むしろ夢物語よりも現実的な……己の魔力のコントロール方法などを学ぶべく、魔術について書かれた本を探しに来たのだが、この途上でもすれ違う使用人達に目を剥いて驚かれ、ナターシャにやんわり諭されてぎくしゃくと挨拶を返すものの、あまりの美幼女ぶりに頬を染める者もあれば、かつての奥方レティシアを知る者は涙ぐみ、それはもうたどり着くまでが大変だった。
やっとたどり着いた書庫では、父公爵の代理として邸内を仕切っている執事長のセバスチャンが室内にいたのだが、彼もまた他の使用人同様にまず驚きで目を剥き、次いで妻のナターシャに問いかけるような視線を向けて頷き返されると、おもむろにその場に膝をついた。
「どのような本をお求めでしょうか?このセバスにお教えください、すぐに探して参ります」
これには、エリカの方が驚かされてしまった。
使用人の中でも最も偉い立場にある『執事長』は、主である公爵とその邸に仕えている。
そんな彼が自らの愛称を口にし、暗にそう呼んでも構わないという素振りを見せた。
それは、跡取り息子であるラスティネルと同様に、エリカのこともまた『主に連なる者』として認めた、という意味に他ならない。
これは、エリカの外見が前の奥方そっくりだったとか、一見すると病が癒えて元々の美しさを取り戻したからだとか、そういったことが原因ではないだろう。
純粋に、彼女が凛と前を向こうとしているから……その心意気が彼女の外見、そして付き添っているナターシャを通じてわかったからこそ敬意を示した、そういうことなのだ。
そんな劇的ビフォーアフターを遂げたエリカを見て、父や兄まであんぐりと口をあけて唖然とするまで、あと少し。