12.悪夢のフラッシュバック
「恐れながら、陛下。第一王子殿下には既にしかるべき家柄の婚約者がおられると聞き及んでおります。それにできることなら、我が娘には他の誰かと寵を競うことのない互いにただ一人の相手を、と考えておりますのでこのお話はなかったことにしていただきたく、お願い申し上げます」
発言したフェルディナンドの声は硬かった。
その表情は、先ほど娘に「意に沿わぬ命令ならお前を連れて逃げる」と熱烈な恋人のような宣言をした時同様、どこまでも真摯なものだ。
エリカの位置からはわからないが、並んで見ている者達……特にフェルディナンド・ローゼンリヒトという男をよく知るかつての部下は気付いていた。
彼の赤褐色の瞳が、怒りを孕んで真紅に変わりかけていることに。
そして願った。どうか国王陛下がこれ以上彼の禁忌に触れませんように、と。
だが願いも虚しく
「なあに、婚約者と言うてもまだ候補の段階だ。いくらでも変更はきく。無論正妃として迎えるつもりであるし、正妃と第二妃は互いに協力し合う関係であるから寵を競うというのは当て嵌まらぬな」
「ですが先方のご令嬢やご家族には既に内定の通知をお出しになっておられるのではありませんか?破談にした上でかわりに我が娘をとなりますと、いらぬ恨みを買いましょう」
「ふうむ……公はほんに娘想いだな……しかし心配はいらぬ。王子であれば妃は一人、だが王太子となれば正妃候補、第二妃候補と二人を傍に置くことが許される。グリューネ侯には婚約者候補にと告げてあるだけだ、フィオーラ嬢には第二妃としてついてもらえばそれでよい」
「…………フィオーラ・グリューネ……」
ぽつん、とエリカが小さく呟いた言葉はフェルディナンドでさえも聞き取ることができず、彼は「どうした?」と優しく娘に問いかけた。
が、彼女の瞳は何も映さず。ぼんやりと何もない壁の辺りを見つめ、ゆらゆらと揺れている。
『エリカ様、と仰るのですね。わたくし、グリューネ侯爵家のフィオーラと申します。どうぞ仲良くしてくださいませ』
『エリカ様はもう少し外に出られた方がよろしいですわ。ほら、テオドールもそうだと申しておりますもの』
『ふふっ、テオドールとは実は幼馴染という関係なのです。幼い頃から彼は周囲の令嬢達の憧れでしたの。ですから彼を堂々と連れて歩けるエリカ様を皆羨んでいるのですわ』
次々と浮かんでは消えていく、金の髪の少女。
彼女はキラキラと菫色の双眸を輝かせ、楽しそうに笑いながらエリカに語りかけている。
今ならわかる。その瞳の奥に、隠しきれない優越感が潜んでいることが。
あの頃の彼女にはわからなかった、だから親しげに話しかけてくれたフィオーラにうっかり心を許してしまった。
『わたくし、身篭りましたの。……テオドールの子ですわ』
嬉しそうに、幸せそうに、彼女はおなかを撫でながら笑う。
もはや、その瞳に宿る憎悪や嫌悪感、嘲りを隠そうともせずに。
彼女は歌うように語った。
毎夜、エリカにおやすみなさいと優しげに囁いた彼が、その後すぐにフィオーラの部屋で朝まで過ごしていたこと。
寝物語に、エリカの世話はうんざりだと零していたこと。
その頃【聖女】と呼ばれ始めていたフィオーラの傍に、【忌み子】と蔑まれ続けたエリカは相応しくないと言っていたこと。
エリカを【忌み子】だと言い始めたのは、テオドール本人であったこと。
「いや……」
「エリカ、エリカ!?どうしたんだ、気をしっかり持ちなさい!」
「いやあああああああっ!!死ぬのは、殺されるのは嫌ぁっ!!」
両手で頭を抱え込むようにして蹲った娘を、フェルディナンドは庇うように抱え込む。
その身に溢れる魔力が、精霊王の加護の範囲を超えて噴き出してこないように。
娘の心を傷つける何かから必死で護ろうとするかのように。
抱え上げ、ぎゅっと胸元に抱きしめながら彼は呆然と眺めている周囲の大臣や騎士達、そして驚愕の眼差しを隠せない王族達に視線を走らせ、強い口調で暇を告げた。
「陛下、私は何事もなければ国に対し叛意など抱きはしません。私の望みは、家族と共に穏やかに暮らすこと。もし娘が心から王子殿下に想いを寄せることがあれば、その時は反対などせぬつもりでおりますが…………どうか幼いこの娘に、そして殿下方にも無理を強いられませぬよう。では、御前を失礼いたします」
フェルディナンドはそのままエリカを抱え込んで、ひとまず王都にある別邸へと身を寄せた。
マティアスは領内にいて、今から呼び寄せたのでは時間がかかる。かといって腕の中でぐったりを気を失っている娘をこのままにして、領地には戻れない。
迷っている暇などないとばかりに、彼はマティアスの師であり既に現役を引退している老医師に使いを出した。
そして返事を待っている間に、王城に入る直前まで付き従ってきたエリカの傍付き3名を宿から呼び寄せ、眠るエリカに付き添うように頼んで自ら老医師の下へと駆けて行った。
昏々と眠るエリカの顔は明らかに蒼白で、余程辛いことがあったのか眦に涙が溜まっている。
眠りながら泣いている、それに気付いたレナが柔らかいタオルを取り出し、そっと優しく目尻を拭う。
「…………事情、大体聞いてきたけど。3人いる王子の誰かに嫁げって言っときながら、実際は第一王子の正妃にってゴリ押しされたらしい。で、その話の最中にお嬢様が奇声を上げて倒れたことで、旦那様が怒ってそのまま帰ってきたってわけだ」
「ちょっと待って。第一王子って確か婚約者がいたわよね?なんでも名門侯爵家のお嬢様で、3つの属性に高い適正が現れたからとかって強引に進められた縁談だって聞いたけど」
「詳しいな」
「そりゃね。3年前エリカに助けてもらった後、しばらく王城で暮らしてたんだもん。きゃあきゃあ騒ぐフリしてたら、メイドさん達があれこれ教えてくれたのよねー」
「……強かだな、ちょっとだけ見直した」
エリカのためよ!と胸を張るユリアにはいはいと適当に応じ、レンは話を続けた。
エリカの母であるレティシアは、時々予知夢を見ることがあったらしい。
原因はよくわかっていないようだが、魔力の保有量が多かったからなのか、それともその魔力の質が良かったからなのか、精霊にかなり愛されていたことで未だ解明されていない精霊の神秘の力を借りられたのではないか、と言われている。
娘であるエリカは母よりも適正のある属性が多く、魔力の質も高い。そして精霊王の加護も得ている。
そのことで、夢の中ではなく現実に『予知』を幻という形で見てしまったのだろう、というのがフェルディナンドの見解であるようで、王城を辞す時にもそう説明してきたのだそうだ。
「ま、実際は過去に体験したことをフラッシュバックしたわけだが……問題はその原因にある。ユリアの言うように、正妃にと強く勧められた第一王子には、既に婚約者がいる。その話をしていた途中で声を上げたというから、多分間違いなくそいつが原因だ」
「……フィオーラ・グリューネ嬢ですわね。確かお嬢様の『過去』のお話にも何度も出た名前ですわ」
「フィオーラって……ちょっ、それって!!」
「大声出すな、お嬢様が起きる」
「だって、そんなの酷いよ……っ」
フィオーラ・グリューネ侯爵令嬢。
年はエリカと同じで、現在8歳。珍しい3属性への適性持ちということで社交界でも既に注目を集め、5年後にはヴィラージュ総合学園への入学がほぼ確定している。
豪奢な金の巻き髪に神秘的な菫色の双眸、清廉な雰囲気とたおやかな仕草で男性のみならず女性達をも虜にした彼女は、当初優しげな言葉でエリカに近づき信頼を得ておいて、一気に絶望の中に突き落とした張本人である。
手を下した卑怯者への評価が低いのは勿論のこと、エリカが心底絶望を味わうように手を回した悪辣な似非聖女に対する、エリカの傍付き達の評価は地を這うほど低い。
「とりあえず、その歯磨き粉みたいな名前のお嬢様、さくっと殺ってくる」
「こら待て単細胞」
意気揚々と武器を取りに出て行こうとしたユリアの襟首をレンが慌てて引っ掴み、室内に引き戻す。
咄嗟のことで反応できなかったレナも言われた意味がわかったのか、やれやれこの子はと呆れた顔になっている。
「まだ何もやらかしてないそのお嬢を殺ったところで、お前が犯罪者になるだけだぞ」
「だって、テオドールはエリカのこと誑しこむ気満々だったじゃない。だったらそのお相手だってその気だって考えられるでしょ?」
「だとしても、だ。とにかく物理的解決手段は後に取っとけ。何か仕掛けられたら、その時は倍返しでも100倍返しでも好きにすりゃいい」
「そうですわ、ユリア。その時は私も一緒に背中を踏みつけて……あらやだ、うふふ」
「…………」
一瞬、レナの背後に女王様的な何かが見えた気がしたが……ユリアもレンも全力で見えなかったフリをした。
エリカが目を覚ましたのは、それから丸一日経ってからだった。
夜通し涙や汗を拭き続けていたレナには泣き出され、様子を見に来たユリアには跳びつかれ、フェルディナンドに知らせに走ってから部屋に来たレンには頭を撫でられる。
そして慌てて駆けつけたフェルディナンドに抱き込まれ、ぐしゃぐしゃに頭を撫で回され、泣かれた。
(もしかして……私があの時死んだ後も、泣かせてしまったのかしら……)
かつての彼女も、今の彼女と同じほど愛情を注いでくれた父のことだ、娘が死んだと聞かされたなら数日部屋にこもって泣き暮らすくらいはやりかねない。
そして誰よりも娘が信頼し、心を寄せたテオドールとフィオーラが裏切ったのだと知ったら、全力で報復行動に出るだろう。
もしかすると、エリカが知らないだけであの事件の後にはそんな展開があったのかもしれない。
幸せになるのだと微笑んでいたフィオーラも、忌々しげにエリカを睨みつけていたテオドールも、そして復讐者と化した父も、恐らく兄も……皆、幸せにはなれなかった。そんな未来があったのかもしれない。
父と娘、二人揃って泣いた後
「エリカ、あの時何が見えたのか……お父様に話してもらえないか?」
静かに問われ、エリカは頷いた。
かつての自分の経験はまだ話せない、だが父がそれをエリカの能力だと思ってくれているのなら、あの時感じた恐怖を伝えて分かち合ってもらえたら……そうすればまた前を向けるのではないか、そう思ったからだ。
彼女は話した。
フィオーラ嬢の名を聞いた瞬間、何故か自分の死の映像が浮かんできたのだと。
彼女ともう一人、やたらと顔の綺麗な男が並んだその場で剣に刺し貫かれる、そんな幻を見たのだと。
ほんの少し事実を捻じ曲げて、震えながらそう語った。
「……女性の方はフィオーラ嬢で間違いないのかな?」
「恐らく。そう、名を呼んでいた気がしますので」
「男性の方は第一王子殿下?」
「…………いえ。黒髪だったことはわかるのですが……王子殿下は金髪ですし、違う方だと思います」
「黒髪、ね……」
わかったよ、と彼は立ち上がる。
もう一度娘を抱きしめその髪に頬ずりしてから、彼は領主の顔へと表情を一変させた。
上着のポケットに入れていた小型の通信機を取り出すと、領地で領主代行を務めているセバスにパスを繋ぐ。
これも落ち人が開発した、あちらの世界では携帯電話と呼ばれるものだが、違うのは個々の魔力を認識して直接相手にパスを繋ぐ、という魔術具として使われていることだ。
「にわかには信じがたい話だが、正直信じないわけにもいかない大人の事情も絡んでいるのでね。グリューネ侯爵とその令嬢について、少し探ってみることにしようか。……ああ、セバスか。できるだけ早急にグリューネ侯爵家へ間諜を送り込んでくれ。そうだな、ある程度長期で頼む。それと、明日には傍付き達を連れて帰るから、教育のメニューを見直しておくように」
言うだけ言ってパスを切ると、フェルディナンドはふうっと大きく息をついてからもう一度娘を見下ろした。
「エリカ、お前は公爵令嬢だ。命を狙われる危険性は高いし、下級の貴族と比べて恨みを買うことも多いだろう」
「はい」
「だがお前もラスティネルも私とレティシアの大事な子供だ。そして私の生きがいだ。何者かに害される危険があるのなら……それが事前にわかっているのなら、親として危険要素から遠ざけたいと考えるのは当然のことなんだよ。だから、私を信じて。いいね?」
決して悪いようにはしないから。
父の顔でそう言われて、エリカは頷いた。
だが後日、ユリアとレンから聞いた話は彼女の不安を煽った。
彼らのかつての故郷では、『悪いようにはしない』という言葉が使われた後は殆ど『いい結果』をもたらさないのだと、そう聞いたから。