1.公爵令嬢はかく語りき
2015.3.15
設定の見直しを行い、大幅に修正しました。
もう一度読み直していただければ幸いです。
「あんたなんて死んでしまえばいいのよ!!」
ドンッ
聞こえたのは、耳障りな叫び声。
感じたのは、胸の辺りへの強い衝撃。
見えたのは、顔を醜く歪めた茶髪の女性と新緑を湛えた木々、そしてその隙間から覗く空。
青い、透き通るような青い空。
ぐらり、と視界が揺れる。
小さな体が後方へ倒れこむように傾ぎ、裸足の足が尖った石の上を跳ねるように滑り、そして。
(お、ち、る…………!)
突き飛ばされた、と意識するより早く【彼女】は華奢な手足をぎゅっと屈め、頭を抱え込むように体を丸めた。
ぐんぐんと勢いをつけて落下する体。
どうにかしなきゃとか、どうしてこうなっただとか、考える前に体を襲う激しい衝撃。
ドシャッ、と濡れた音がしたのをかろうじて耳で拾ったものの、それが何の音なのか確かめることすらできない。
打ち付けたのは、右肩。右腕。右足。右側頭部。右耳。
仰向けのまま落ちていたら、恐らく背中と頭を強打して即死だっただろうことはなんとなくわかる。
ぐわんぐわんと脳みそをシェイクしたかのような耳鳴りに頭痛、それをどうにか堪えてぎゅっと瞑っていた目を開けると、視界いっぱいに広がったのはぬるりとした焦げ茶色の何か。
(ど……ろ?……ああ、そっか。ぬかるみに落ちたんだ……)
直前まで雨が降っていたのか、地面はぬかるんでいた。
ごつごつした岩の上などに落ちていたら助からなかったかもしれないが、体を縮めて体勢を変えたことで落下の軌道がずれてくれたのかもしれない。
助かった、と大きく息をつこうとして、ずきりと痛む胸に顔を顰める。
庇ったつもりだったが、それでも体のあちこちを痛めてしまったらしい。
(あぁ……結局、こうなっちゃう運命だったってわけか……痛いなぁ)
泥が入ってじくじくと痛む目をゆっくりと閉じると、思い浮かぶのは『最期』に見た光景。
『ごめんなさいね、悪く思わないでちょうだい?』
豪奢な金の髪を靡かせ、邪気のないあでやかな笑みを浮かべる紫の瞳の女性。
純白のドレスに身を包んだ彼女のおなかは緩やかに膨らみをおびており、陶磁器のような細く長い指が愛しげにそこを撫でる。
『この子は、【聖女】と【聖騎士】の間に生まれる聖なる御子……その前に【穢れ】は消さなければならないの。ですから、エリカ様?』
申し訳ありませんが、消えてくださいな。
死の宣告をするその声はどこまでも澄んでいて、顔も無邪気そのもの。
エリカ様、と呼ばれた【彼女】は何を思ったかその手をすっと目の前の女性に向かって伸ばし…………そして突如胸から生えたモノの衝撃に、ぐふっとおおよそ淑女らしからぬ呻き声をもらした。
長い前髪の隙間から、ゆっくりと視線を下へと向ける。
と、そこには銀色にキラキラと輝く刀身が。
次に視線を上へ、そして背後へ。
ぶっくりと膨らんだ首の所為ではっきりと後ろを見ることは叶わなかったが、それでも彼女にはわかってしまった。
『テオ、ドール……』
『呼び捨てないでくれ。忌々しい【忌み子】の分際で』
『……そん、な……うそ、』
幼い頃から、公爵令嬢である自分の傍付きをしてくれていた少年、テオドール。
全体的にもっさりとした彼女とは正反対に、常に紳士的で動きも機敏、先手先手を読んで行動するその姿は美形好きでなくても憧れを抱くだろう完璧ぶり。
彼女は、彼を手放さなかった。彼も、彼女の傍を離れなかった。
公爵令嬢だというのに冴えない印象が拭えない彼女を、彼はそれでも一歩下がって支えてくれていたのに。
全てが、嘘だった。彼は、【聖女】を選んだ。
(選んだ?違う……彼は最初から、ずっと、彼女しか見てなかった……)
どうして気付けなかったのだろう。彼のそのラベンダー色の瞳が、自分を映していないことに。
どうしてわからなかったのだろう。先に休むと告げたその口で、目の前の女性へ愛を囁いていたことに。
世界は、彼女に優しくなかった。
家族以外で唯一の味方だと思っていたテオドールには裏切られ、そして今『貴方に捧げます』と偽りの誓いを立てたその剣で、胸を貫かれて。
ゆっくりと、剣が引き抜かれる。
ぽっかりと空いた左胸から勢い良く空に向かって噴き出したのは、真紅の血液などではなく……そのでっぷりと太った身体をめまぐるしく駆け回って出口を求めていた、膨大な量の魔力。
魔力を放出するにしたがって、ぶくぶくと膨らんだ彼女の身体はぱんぱんに膨れ上がった風船がしぼむように、細く、小さく萎んでいく。
漸く解き放たれた魔力は空に駆け上り、風に乗り、雲を呼び寄せ、やがてそれは稲妻となって地上に落ちてくる。
ハッと目を見開いたのは、彼女か、それとも【彼女】か。
その後どうなったのか、知る術はもうない。
(そうだ、私……死んだはず、なのに。テオドールに殺されたはず、だったのに)
思い出すのは、死ねばいいと彼女を突き落としたメイドの引きつった顔。
当主の娘を殺したからといって、その当主の目が彼女に向くことなどないはずなのに。
邪魔なんだと、ただそれだけの理由で公爵令嬢を散歩に連れ出し、そして崖から突き落として殺す、なんて。
(あのメイドは、お父様のことを愛してた。愛しすぎてしまったのよ)
彼女は、『知って』いた。
幼い彼女を崖から突き落としたメイドは、雇い主である公爵に歪んだ愛情を向けていたということを。
下級貴族の娘であったメイドは、若くして妻を亡くした主を慕っていた。それはもう、狂おしいくらいに。娘にまで、嫉妬するほどに。
魔力を上手く放出できず、父や兄の手を煩わせなければ風船のようにぶくぶく肥え太ってしまう。
そんな彼女を、口さがない使用人達は『公爵家の恥さらし』と呼んでいる。
そしてただでさえ甘やかされ大事に守られてきた彼女が、このメイドの起こした殺人未遂事件をきっかけに益々過保護に守られ、同年代の傍付きや護衛までつけられるようになるのは、このすぐ後のこと。
その傍付きとしてやってきたのが、伯爵家三男であるテオドール。
子供ながらに綺麗な顔立ちをした天使のようなその少年に一目で心を奪われた彼女は、彼を傍付きとして信頼し、片時も傍から放さなくなってしまう。
それが、彼の策略とも気付かぬまま。仮初の幸せにどっぷりと浸かって。
彼女は、殺された。胸を貫かれたあの感触は夢だと言うには生々しすぎるし、体内に居座り続けた魔力が外に放出された光景もはっきり見ている。
魔力が風に乗り、稲妻を呼んだことで、『ああ、私の魔力属性は風と光だったのね』と気付いたくらいだ。
ではアレが夢ではなかったとして、何故また子供時代の追体験をしているのか。
どうして、ぼんやりと見える手が小さいのか。
どうして、崖から落ちたその足は小さく丸っこかったのか。
どうして、夢ならばどうして、涙が出るほどに全身が痛くて痛くて仕方がないのか。
(これは……夢、じゃないの?現実だとしたら、どうして私はまた子供になってるの?)
『転生』……部屋にこもって物語を読むことだけが娯楽だったあの頃、大好きだった異世界の物語がある。その中に出てきた『転生』という言葉が脳裏にひらめく。
『転生』とは、生まれ変わること。かつての生とは、違う生を生きること。
その物語の中では、主人公はかつて異世界で生きてきた過去の記憶を持ったまま、子供として生まれ変わっていた。そしてその知識をもとに、今度こそ失敗しない人生を送ろうと努力していた。
彼女も転生したのだとしたら、別人になっていてしかるべきだが……どうやらそうではないらしい。
生まれ変わったのは、過去の自分自身。そう考えないとつじつまが合わないのだ。
(生まれ変わった。もう一度やり直せる。だったら…………こんなとこで、助けを待ってなんていられない!)
以前は、この泥の中で身動きひとつ取れずにただ助けを待っていただけだった。
娘がいないことに気付いた父公爵が捜索の手をこの森に向けてくるのは、早くても翌日の朝。
今はまだ日が高い。その頃まで待っていたら、彼女の身体は冷え切って凍傷を負ってしまうだろう。
傷も、きっと膿んでしまう。
今もまだ、まざまざと思い返せるその痛みや不快感に、彼女は眉を顰めた。
幸い、強く打ったのは右側だ。まだ左手、そして左足はかろうじて動かせる、はずだ。
まずは普通によいしょと立ち上がろうとして、全身に走る鋭い痛みに彼女はまた泥へと倒れこむ。
今度はべたりとうつぶせになり、左側だけでぬかるんだ泥をかき分けるようにしながら、ぺたり、ずるり、ぺたり、ずるりと這っていく。
左手を前に伸ばし左足で泥を蹴り、動かない右半身を引きずるようにずるずると前へ這う。
目指すは、歩けばほんの数歩のところにある平べったい大きな岩。
その上には日が差し込んでいる。ならば冷えた身体を少しでも温めることができるかもしれない、そう考えたからだ。
もう一歩、あと少しで岩に手が届く。そう思って伸ばした手を霞む視界の中で見た彼女は、愕然とした。
いつの間にか、ちょっとふっくら程度だったその手がぶっくりと醜く膨れ上がっていたのだ。
(そういえば、お父様に魔力を調整していただいたのは……朝、だったわ)
今は既に日が傾き始めている。
彼女の魔力内包量はとてつもなく多いため、コントロールできず体内をぐるぐると彷徨う魔力は凄まじい勢いでその小さな身体を出口を探して駆け巡り、身体全体をぶくぶくと膨れさせてしまう。
急がなければ、と彼女は必死で泥を掻いた。
そんな彼女を嘲笑うかのように、左手がぶっくりと膨れ、次いで左足が膨れ、引きずる身体がどっしりと重くなり、膨れ上がった瞼の所為で前もよく見えなくなってしまう。
それでも彼女は諦めない。
伸ばした手が空回りしても、踏ん張った足がべちゃりと泥を跳ね上げても、全く先に進めなくなってしまっても、泥の中でただばちゃばちゃと手足をばたつかせているだけになっても。
「あ、きらめる、もの、です、か……っ」
『ふぅむ、でかい蛆虫が這っておるのかと思えば……なんとこれは。いやはや、これはこれは面白い』
伸ばした手の先にあった岩の上。どうにか視線を上げれば、霞む視界に映るのは白いズボンを履いた二本の足。
次いで、髪。キラキラと後光を背負って眩い金色に輝く、長い長い髪。
そして顔。人間離れした美貌と言う表現こそが相応しい、だが明らかに男性だとわかる顔立ち。
岩の上にしゃがみ込んだ男が、長い髪が地面につくことなど構わずに、彼女をおかしそうに見下ろしている。
『そなた、ただの人にしては魂の形が変わっておるな。……なるほど、一度死して時を越えて戻って来たというわけか。神の気まぐれにも困ったものよ。だが、ならばこのようなところで早々に死にたくはなかろうな?』
どうしたものか、と男は楽しそうに考え込むフリをしながらくつくつと喉を鳴らす。
このとき既に意識が遠のきかけていた彼女であっても、男が『ただの人』でないことだけはどうにか理解できている。
(死神、というやつかしら……?それとも、もっと性質の悪いもの?)
生きていたい、ここで死にたくない。
かつての自分を最期まで愛し守ってくれた家族には精一杯の恩返しを。
そして、かつての自分を裏切り、踏みにじり、命を奪ってくれた者達には、ささやかなる復讐を。
何よりも、今度は後悔しない人生を。
ぎゅっと握り締めた拳に気付いたのか、男は心底愉快だと笑い声を上げながら
『よかろう、そなたに我の加護を授ける。精々、我を楽しませておくれ』
左手首を指先でひと撫でして、消えた。