第一章 「名前も忘れてしまったけれど」(1)
風は凪いでいた。
海も、波音ひとつ聞かせずにただ広く遠くまで続いていた。
海の上にはうみねこが数羽飛んでいた。
のん気な奴らだなぁ。と思いながら俺は、ふっと笑う。そんな俺だってのん気に砂浜に座って凪いだ海なんか眺めているんだ。
あいつらのこと言えないか。
俺の右手には、中学校生活三年間の行程を修めたことを示す、卒業証書が握られていた。
胸には「卒業おめでとう!」と書かれている、チャチな造花なんかもついていた。
おまけに俺の頬は塩辛い水で濡れていた。
卒業したのだ。
桜海浜中学校を。
とくに何もないまま、俺は中学生じゃなくなった。それに、中学校生活最後のビッグイベントの卒業式だって、たったひとりの生徒で行われた。在校生はもちろんだが、卒業生までもが面倒くさいと思う卒業証書授与も、
「瀬戸隆太郎」という俺の名前だけで終わった。面倒くさい。なんて感じる暇もない。
俺が証書を貰って席についた時には、次の行程へ移るのだから。
ひとりが。たったひとりが歩いて貰って歩いて座る。
それだけで終わる。
その後にひとりで門出の言葉を言って、卒業の歌なんか歌って色々終わったら、数少ない教師にパラパラとした拍手をもらって、たったひとりで教室に戻るのだ。
そう、俺はこの桜海浜中学のたったひとりの生徒なのだ。
今はもう卒業したので、生徒ではなくなったのだが。
来年度からは休校になるらしい。もしも、誰かが来たらすぐに学校を始められるよう、廃校にはしないと教師は言っていたが、そうそうこんな人口二百人にも満たない、小さな島に引っ越してくる奴なんかいないから、かなり長期の休校になるだろう。
もしかしたら、永遠に休校かもしれない。
先公共は仕事をしなくてもいいと、俺の卒業式の間中ずっとしゃべっていた。
司会をしている校長もそれを咎めようとするどころか、共感したような顔をしていやがった。
だけど、ただひとりバカみたいに大泣きしている奴がいた。
それは、三年間ずっと俺のことを気にかけてくれていたし、勉強も教えてくれた担任の梅里陽子だった。俺が唯一先生扱いしている人物だった。他人の卒業式の間、くっちゃべっているような他の奴らはそもそも先生だとも思っていない。
門出の言葉から歌を歌うのに移る時、先生は声をあげて泣き出した。他の教師はそれをうるさそうに見ていたので、俺も先生のことを見て「うるさいよ」と笑ってやろうとした。
だけど、できなかった。
とめどなく涙が溢れてきて、先生の方を向いても視界がぼやけて先生の姿は見えない。
だから実際、俺の歌声はメチャクチャでちゃんと歌えていなかったと思う。
歌詞には友達との思い出についてのことも書かれてあったが、三年間ひとりとして同級生がいなかった俺には、感動もクソもないそんな歌だった。
練習の時には、こんなの適当に歌っていればいいさ、どうせ泣くようなこともない。
そう考えていた。
だけど、泣いた。大泣きした。
俺と先生はバカみたいに泣いていた。教室に戻ってからも二人で泣いた。
「最後は笑って卒業しよう。」
そんな先生の言葉にお互い泣き笑いをしながらいつものように、「さようなら」を言って、俺は教室を出ていった。
そこらにいるようなただの教師と別れてしまうのが悲しい。そんな理由で俺は卒業式で大泣きした。
バカみたいだなぁ、本当。そう思う。
きっとあの人は俺にとっての恩師とかいうやつだったのだろう。
中学校生活三年間を振り返ってもこれといってたいした思い出なんか残っちゃいないが、先生と一緒に勉強をした、あの教室での毎日は決して忘れないだろう。
わからない問題があろうものなら、「隆太郎君、わからないの?」と言って、勝手にわちゃわちゃと俺の隣で俺が問題を解けるようになるまで、説明をしてきたのだ。
そんなことが鬱陶しくてしょうがなかった。だから俺は、いつも「うるさいよ。こんなのひとりでできるんだから、ほっとけよ。」と言っていた。
そう言っても先生は、「嘘だぁ、わからないんでしょ?」なんて笑って言って説明をまた続けるのだ。
笑った先生の顔を見ていると、なんだか俺まで笑えてきて、結局先生の説明をきいていた。
他の学校なら運動会なんかやっているであろう時期でも、桜海浜中学ひとりの生徒である俺は、ずっと勉強をしていた。
二年生の頃、数学の授業をやっている時「ごめんね隆太郎君。運動会、本当はやりたいよね......。」突然先生が謝ってきた。俺は先生が謝る意味がわからなかった。
先生のせいで運動会ができないわけではないのだから。
俺は何も言わずに先生のことを見ていた。
やっぱり、なんだかんだ言って俺、あの先生のことが好きだったんだなぁ。
思い出なんて残っていないって思っていたけれど、残っていたじゃないか。
先生と自分、二人の教室で色々話してその先生が好きになるって、なかなかないことなんじゃないか?
大切な思い出。
格好つけて言うなら、俺だけの思い出。
また涙がでてくる。
風が吹いた。三月の風はまだ少し冷たくて、涙で濡れた頬にあたるとブルリと震えてしまうほどだった。
凪いでいた海は、波音をたてて動き出した。
俺の心が洗われていく。
前に突き出した俺の手のひらに、小さな桜の花びらがのっかった。
俺の卒業式に遅れることなく咲いてくれた桜たちは、とっても綺麗な桃色の幻想だった。
千本桜といえるであろうこの桜ヶ島の桜海浜を取り囲んでいる桜は、毎年春になると、とっても美しい景色をみさせてくれる。
それにあの頃のこと、あの春のことを思い出させてくれる。
あの子のことを......