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儀式の後


 もふもふの毛並みが俺の口元を覆ってる。ミナ嬢の顔の前に掲げられた小さな白いクマのぬいぐるみ。目の部分に黒のボタンが縫い付けられ、ピンクのリボンを首元にしている愛らしいクマのぬいぐるみだ。俺の唇はそのクマに奪われていた。


 なぜだ? なぜここにクマのぬいぐるみがある。


 のけぞるようにしてクマのぬいぐるみを見つめる。ぬいぐるみを掲げているのはミナ嬢だった。そっとぬいぐるみを掲げる手が下がり、クマの顔の上部から彼女が目だけを覗かせる。


「今日はもう駄目です」

 そう一言告げた。


「ちゃんと病院へ行って手当をしてもらってください。国を守る大切な体なのに、化膿したら剣も握れなくなります。それが私のせいだなんて、考えただけで嫌です」

 言い終えるとまたクマの顔に瞳が隠れる。小さなクマのぬいぐるみは、ミナ嬢は顔を覆っているだけで見えている耳は赤い。恥ずかしいのを隠しているのが丸わかりだ。それすらも愛おしくて俺は苦笑する。


 黒い欲望はいまだに俺の中で渦巻いている。けれど駄目だという女性を、俺の体を心配してくれているミナ嬢を無理やり押さえつけることはできない。


「ミナ嬢」

「駄目ったら、駄目です」

 言いながら俺の顔にクマのぬいぐるみを押し付けてくる。


「その代わり手の怪我が治ったら、また食事に誘ってもらえますか?」

「もちろん」

「約束ですよ。絶対ですよ」

 グイグイ押し付けてくるクマのぬいぐるみを、ミナ嬢ごと抱きしめる。

「ひゃあ」

 妙な声を出してミナ嬢が腕の中で狼狽える。

 本当に先ほどまで俺を押し倒そうとしていた本人かと疑いたくなってしまう。それくらい今の彼女は別人のようだった。


 ベッドに押し倒した体勢は俺にとってもかなりマズイ。欲望の抑えが利かなくなる前に起き上がらなくては。

 抱きしめたまま彼女をベッドから起こして、床の上に立たせると腰が砕けたように寄りかかってきた。苦笑してそのまま彼女を抱え上げる。彼女はとても小さい。俺の右腕一本で抱きかかえられる。


「バラク様!」

 腕の中でミナ嬢が慌てる。顔がまだ赤い。下ろしてくれと懇願する彼女の言葉を無視して、落ちないように背に手を添えて歩き出すと、その振動が伝わったせいか振り落とされないようにと俺の首にしがみついた。絶対に落とすわけがないのに。わざと大股で歩いたら、頭に手刀が降ってきた。


「もっとゆっくり! というか、降ろしてください」

「玄関まで見送ってくれないのか?」

「見送りますから、降ろしてください」

「では、このままでも問題ないだろう」

 言うと呆れたような瞳が見つめてくる。黒い瞳が俺だけを映していることが嬉しくて、口角が上がる。

 部屋を出て階段に差しっかったとき、ミナ嬢がさらにきつく首にしがみついてきた。


「落としはしない」

「わかってても怖いんです」

 怒ったように頬を膨らませる彼女にまた苦笑する。

 玄関まではゆっくりと時間をかけて歩いた。本音を言えば帰りたくない。このまま一緒に、いや、屋敷に連れて帰りたいくらいだ。しかし、それは彼女の望むところではないだろう。


 俺の中の黒い欲望は解放されるのを今か今かと待っている。それを無理やり押さえ込んでいる状態だ。共にいれば俺はきっと自分の欲望に負けてしまう。それはつまり彼女を傷つけることを意味している。


 今だって空色のワンピース越しに感じる彼女の柔らかな肌を、鍛えた五感すべてが感じ取ろうと貪欲に食指を動かしている。首に巻き付いている白い腕を、触れそうで触れない彼女の胸を、目の前にある赤い唇を………


 駄目だ。これ以上考えると、本当に止められなくなる。


 玄関ホールで彼女をそっと床に降ろす。巻き付いていた腕がすっと離れる。立ち上がると彼女との距離が遠く感じられた。

「ちゃんと、病院に行ってくださいね。絶対ですよ」


「そんなに不安なら、ついてくるか?」

 問いにミナ嬢は首を振る。

「次の食事の時を楽しみにしてます」

 うつむいている耳が赤い。今日はもう駄目だというのはミナ嬢の精神論からくるのかもしれない。最初にこの玄関をくぐった時とは別人の対応に戸惑いながらも、それでも愛おしいと思ってしまうとは、俺は完全にミナ嬢に心を支配されているらしい。


 ミナ嬢はうつむきながら手を俺の腹に押し付けた。手には白いクマのぬいぐるみを持ったままだ。それを腹にグリグリと押し付けてくる。


 その動きはマズイ。押さえつけた欲望を再び呼び覚ましてしまう。慌てて俺は自分の欲望を隠すように膝をついて腰を折った。


「この子、持って帰ってください。約束を忘れないように」

 このクマのぬいぐるみを持って帰れというのか。俺の初めての唇を奪ったこの小憎らしいぬいぐるみを。


「離れていても、繋がっていたいです」

 俺は奥歯をグッと噛みしめた。ミナ嬢は俺の欲望を呼び覚ます術を知っているのだろうか。しかも帰り際にこんな言葉を言われたら、ぬいぐるみと一緒に持って帰りたくなってしまうではないか。


「わかった。また連絡する」

 俺は努めて冷静さを装って声をかけた。

「はい。待ってます」

 ミナ嬢が俺を見上げ、突然首に腕を回して抱き着いてきた。腕の中のその小さな体を抱き止める。俺はその間も鍛えた精神力を総動員して、体を支配しようとする欲望を抑えにかかる。自分の意志に反してミナ嬢を離そうとしない腕に力を込めてゆっくりと腕を外し、クマのぬいぐるみを受け取って玄関をくぐる。振り返ると扉に寄りかかってこちらを見ているミナ嬢がいた。


「気を付けて帰ってください。それと食事のこと、忘れないでくださいね」

「わかってる。では、また」

 俺は騎士の礼をさっととる。俺がやるとあまり優雅には見えないが、それでも見ていたミナ嬢は顔を真っ赤にさせて俯いていた。


 名残惜しいが、俺は彼女に背を向けた。これ以上一緒にいては本当にマズイ。手の中のもふもふを握りしめ、俺は自宅へと足を向けた。



 ◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 病院へは行かなかった。あれほど言われていたが、このくらいの傷でどうにかなるようなやわな体ではない。自宅に帰って執事にさんざん怒らながら、傷の手当てをしてもらった。親父殿にも怒鳴られたな。事の顛末を話すわけにはいかず、カップを握りつぶしたことを伝えたらまた拳骨が落ちてきた。



 ミナ嬢から預かってきたクマのぬいぐるみは、帰ってくると悲惨なことになっていた。悶々としたまま左手で握りしめて帰ってきたせいで、ぬいぐるみの白い体が血で赤く染まっている。

 手や顔にまで染みついたそのぬいぐるみをベッドの端に置いて、俺はすぐに自室を出た。部屋の中にいては妙な気分になってしまう。


 悶々とした気分を紛らわせようと、自宅の庭で左手を使わずに日が暮れるまで体をさんざん酷使した。俺の中の黒い欲望は、汗とともに外へ排出されたようだ。今ミナ嬢と会っても押し倒すような行為はしないだろう。押し倒されたら話は別だが。

 風呂に入って汗を流し、さっぱりとした気分で食事をとり自室に入る。


 初めてだらけだった一日がようやく終わった。早々にベッドにもぐりこみ、今日あった出来事を一つ一つ思い出す。思い返してみても嫌なことなど一つもない。


 彼女は俺の婚約者だ。それが単純に嬉しかった。

 血で汚れたクマのぬいぐるみをそっと撫で、俺は目をつむった。






 翌日、騎士団での訓練を終えて戻ると、俺の部屋からあのぬいぐるみが消えていた。







ここまで読んでいただきありがとうございます。

『顔合わせ編』完結です。完結と言いながら妙なところで終わりましたが、次につながるのでご容赦ください。


さて、ミナの言葉からも察していらっしゃる方もいるでしょうが、ミナは日本からやってきたトリップ女性です。詳しくは「私の婚約者は~」を読んでいただければわかりますが、現時点ではバラク君はまだ知りません。


次話からは『夜会編(仮)』となります。

少し書きだめしたいので投稿は少し止まりますが、待っていていただけると幸いです。


※キーワードに「トリップ」を入れました。

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