表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/25

儀式

 何度も言うが、俺は焦っていた。そして混乱していた。


 口づけをするのか?

 ミナ嬢の小さな唇に目をやる。ぷっくりとした赤い唇。見つめているだけで鼻血が出そうだ。

 それともいきなり胸を揉んでいいのか?

 揉むのは右か左か? どっちが最初だ。いや、その前に服はどうする。脱がしてから揉むのか。しかし、いきなり脱がすのはどうなんだ。だが脱がさないと皺になるんじゃないのか。


 世の男どもはどうやっているんだ!


「…………」

 眉間に皺が寄っていたんだろう。ミナ嬢は俺を見上げて、顔をゆがませた。彼女のその表情に俺は我に返った。


「す、すまん!」

 恐がらせた。この顔を見て、上から覆いかぶさる俺の体躯に恐怖を覚えたんじゃないのか。

 俺はすぐさまミナ嬢から離れると、彼女に背を向けた。体のでかさはどうすることもできないが、この凶悪な顔が見えなければ少しは恐怖も和らぐだろう。

 本来なら部屋を出ていきたいところだが、それはいくらなんでも失礼すぎる。謝罪を、ちゃんと目を見て謝罪をしたかった。

 衣擦れの音がする。こんな時でも俺の騎士として鍛えた感覚は、彼女の服の擦れる音や気配を敏感に察知する。そして小さな、本当に小さな吐息と押し殺すような泣き声。


 泣き声!?


 慌てて振り返ると、顔を両手で覆ったミナ嬢がいた。俺は愕然とした。


 最初に襲ってきたのはミナ嬢だ。確かに体勢を変えてこちらから押し倒したのは間違いないが、事を起こしたのは彼女だ。それともやはりあれは何かの儀式で、体勢を変えるべきではなかったのか。


 俺は驚くと同時に絶望した。

 これは断られる、と。


 お互いの合意なしに婚約したのだ。破棄するのも容易いだろう。俺に拒否権はないのだから、この婚約が破談になるとすればミナ嬢が断ることだけだ。そして、それを想像するのはさらに容易い。


 いや、待て。落ち着け。これは俺にとって歓迎するべきことではないのか。俺は結婚に対して後ろ向きだ。彼女に断ってもらえば、親父殿も俺の結婚については諦めるんじゃないだろうか。

 地位や名誉を重んじない俺にとって、女性から破談を申し渡されるという不名誉なことも気にはならない。


 ごくりと唾を飲み込む。


 そう、これでいいんだ。これでいいはずなのに、なぜか俺は眉間に皺を寄せた。

 彼女のその姿に、断られる未来に、絶望している自分に気付いたからだ。

 彼女との婚姻を望んでいないと思っていたのに、俺は断られることを恐れている。それはつまり、俺は彼女との結婚を望んでるということだろうか。


 会った時は子供だと思った。話してみると大人びていた。深い思いを秘めていそうな黒い瞳。サラサラの黒髪。細い手足。小さな体。

 ああ、そういえば親父殿が言っていたな。愛らしくて庇護欲をそそる、と。今なら納得できる。

 笑うと華が開いたようで俺も嬉しくなる。吹き出した表情、目を丸めた顔。真っ赤になって恥じいる姿。

 バンを見つめていた真摯な瞳までを思い出して、途端に俺は不機嫌になる。バンの微笑みに赤くなる姿。バンの背中を見つめる姿。バンの………


 駄目だ。思い出したくない。


 彼女は俺の婚約者だ。今日初めて会ったとしても、お互いの了承なしに決められた相手だとしても。


 俺はたった半日で、彼女に惚れてしまったのだ。


 俺の顔と体躯は女子供を怖がらせる。女性に警戒心のない笑みを向けられたのは初めてだった。怖がらずに手を取ってくれた。手をぎゅっと握ってくれた。

 たくさんの初めてをくれた彼女を、俺は怖がらせたのだ。この顔と体躯で。


 先ほどとは比較にならないほどの絶望が頭を占める。


「……バラク……の……」

 自分の葛藤と向き合っている間に、ミナ嬢はベッドから立ち上がっていた。うつむいたまま先ほどとは違う低い低い声でそう呟く。我に返って顔を上げた瞬間、目に端に何かが飛んでくるのが見えた。


 毎日自分に振り下ろされてくる剣を見ている俺にとって、それは止まっているように見えるほど遅い。反射的に手を伸ばしてそれを掴む。それは柔らかく、もふもふしていた。手の中のそれはクマのぬいぐるみだった。呆然と見下ろしているとまた何かが飛んでくる。今度もクマのぬいぐるみだ。また反射的に掴む。


「阿呆! 間抜け! トンマ! なんで当たらへんのよっ。馬鹿! うすらトンカチ!」


 ミナ嬢が泣きながら手当たり次第にぬいぐるみを投げつけてくる。俺はそれをすべて受け止める。


 これは何だ。何の儀式だ!?


 両手いっぱいにぬいぐるみを抱えつつ、俺は右往左往する。それでも飛んでくるぬいぐるみを反射的に掴んでしまう。こんなところで普段の訓練による反射神経を発揮してどうする。


 それにしてもクマのぬいぐるみが多いな。ミナ嬢はクマが好きなのか。

 いやいや、そんなことはどうでもいい!


「ミナ嬢、少し落ち着いて」

「うるさい、この唐変木! どうせ私の胸は小さいわよっ。だからって、この世の終わりみたいな顔せんでもええやないのっ」

 受け止め損ねたウサギのぬいぐるみが頭に当たる。次々と投げられるぬいぐるみが体に当たって床に落ちた。


 何? 何だって?


「据え膳くらい食べろ! 胸がなくてもいいじゃないっ。私だって女なんだから」

 最初の据え膳の意味はわからないが、後半の意味は分かる。そして理解した途端に俺は自分のしたことを後悔した。

 違う。しなかったことを後悔した。


 儀式でもなんでもない。彼女は本気で俺を押し倒してきたのだ。それはつまり、俺と一生を添い遂げる覚悟があったことを示している。情けない俺を、体を張ってまで導こうとしてくれていた。なのに、それを俺は拒否した。本気の彼女を押し倒し、あまつさえ胸をガン見した上で突き放した。


 ぬいぐるみを持つ手に力が加わる。柔らかなぬいぐるみが俺の握力で歪む。


 手近のぬいぐるみがなくなって、ミナ嬢が手を伸ばしたのはテーブルのティーカップ。軽いぬいぐるみと違って、重さのあるカップは速度をつけて飛んできた。俺は咄嗟にすべてのぬいぐるみを手放しカップを左手で掴みとる。


 自分の不甲斐なさに憤っていた俺は、力加減もできずにそのカップを握った。手の中で音を立ててカップが一瞬で砕ける。カップの破片をそのままに、俺は拳を握った。


 破片が手の皮膚を裂き肉に食い込む。痛みなど感じなかった。こんな痛みなどどうでもいい。さらにきつく拳を握り締める。血が指を伝って流れ落ちた。


「ぎゃあ!」

 傷ついた俺ではなく、俺を見ていたミナ嬢が顔を真っ青にして叫んだ。

「何してるんですかっ。なんで破片を握り締めてるのよ!」


 ミナ嬢が慌てて側に駆け寄ってくる。

「そりゃ投げたのは私だけど、なんで握り潰すの。意味わかんない」

 彼女は俺の手を引っ張ると拳を無理やり開いた。

「ぎゃあ! 血よ、血! どばっと血が出てるっ。救急車、あ、いや救急箱」

 焦るミナ嬢が目の前にいる。彼女にしたことはとても許されることじゃないのに、俺を心配してくれている。あんなに泣きながら怒っていたのに。

 俺はそれが嬉しくて、しかし素直にそれを表現することができずに顔をゆがませた。どうしていいかわからず、思わず拳を握りしめた。


「だから、何してるのよ! 死にたいの? 血が出てるのに。破片を馬鹿にしちゃいけないのよ。血管通って心臓まで行ったら、破片が心臓に刺さって死ぬんだからね」

 ミナ嬢が左腕をバシバシ叩いて、再び俺の拳を開かせる。

「とにかく応急手当てだけでもしなきゃ。こっち来て」

 ミナ嬢が俺の手を取り、再びベッドに座らされた。部屋の隅の棚から箱を持ってくると、そこからピンセットを取り出してミナ嬢が俺の手から慎重に破片を取り除いていく。


 カップを握り潰しはしたが、割れ方が良かったのか大きめの破片を握っただけなので出血量ほど深い傷ではなかった。あの時は何も考えずに握り潰してしまったが、左手とはいえ剣を握る手を不用意に傷つけたことに後悔がないわけでもない。それでもミナ嬢が側にいることが素直に嬉しい。

「傷は深くないけれど、手をしっかり洗い流して病院に行ったほうがいいです」

 手に包帯を巻き終えて、ミナ嬢が顔を上げる。泣いたせいか目の周りが赤い。鼻も少し赤い。見開かれた黒い瞳は潤んでいた。


 俺は自分の中で何かが頭をもたげてくる感覚を感じた。模擬戦闘をする前の感覚に似ている。けれどそれよりももっと疼くような感じだ。胸の内が、腹の底が疼く。体の中から何かが湧き上がってくる。

 体がかっと熱くなる。けれど頭は冴えていた。熱に浮かされたような、それでいて冷水を頭からかぶったような。自分でも何が起こっているのかよくわからなかった。


 ただ、目の前のミナ嬢を手放したくない、思い切り抱きしめたいと思った。


「と、とにかく病院に……」

 ミナ嬢が俺の瞳を受けて顔を真っ赤に染める。慌てて離れようとしたその腕を即座に捕らえる。軽く引っ張ると簡単に俺の腕の中に戻ってきた。抵抗をしない彼女を太ももの上に乗せるようにして座らせ、逃げられないようにやんわりと抱きしめる。ミナ嬢の息をのむ気配が腕に伝わった。


「あ、あの……」

 先ほどまでの勢いが嘘のように、ミナ嬢は腕の中で狼狽えている。本気で俺を押し倒そうとしていたお嬢様にはとても見えない。


 ごくりと唾を飲み込んだ。


 何をしたいかは自分でもわかっている。だが、俺は湧き上がってくる黒い感情を無理やり押さえつけた。


 どうしても、ミナ嬢に聞いておきたいことがあった。襲うにしても襲われるにしても、この疑問が解決いない限り俺の中では前に進めない気がしていた。


 急にしゅんとしておとなしくなったミナ嬢の横顔を見詰めて、俺は口を開いた。


「ミナ嬢は、俺が怖くないですか?」

「え?」

 よほど意外な問いだったのか、彼女は目を丸くして俺を見上げた。


「顔に傷があって……いや、顔だけじゃなく体中に傷がある。それに体格もでかい。正直に、女子供には嫌われていると思っている」

 ミナ嬢は心底意外そうな顔で首を傾げた。

「怖くないです、全然。公園でのことを気にしてんですか? あれはヒョ……あの男の人が大袈裟なだけです」

 ミナ嬢が小さく笑う。俺の腕の中で。

「バラク……様は優しいです。全然怖くありません」

 答えに不思議な感覚が胸に広がった。今まで感じたことのない震えるような、それでいて甘い感情だ。腹の底にある黒い感情が黒い欲望へと変わる。


「バラク様は、私じゃもう駄目ですよね。私が考えなしにカップを投げたせいで怪我を負わせてしまったし、子供みたいだし……む、胸もなくて」

「俺にもともと拒否権はない。この話が破談になるのは、貴方が断った時だけだ」

「私は断りません! 私は子供が欲しいんです。どうしても子供が欲しいんです。だから押し倒して…………」

 途端に真っ赤になってうつむくミナ嬢。

「私は断りません」

 そう小さく呟くミナ嬢が愛おしくて、たまらず彼女の黒い髪に顔を寄せた。甘い花のような香りが鼻孔をくすぐる。


 何を戸惑っていたのだろう。右か左かなどどうでもいい。今押し倒せば、確実に欲望のままに抱いてしまうだろう。


 いや、しかし服はどうするべきか?

 あ、いやいや。そんなことは関係ない。彼女が望んでくれて、俺が望んでいるのならそれでいいはずだ。


 彼女を伺うように体を離す。見上げてくる潤んだ瞳が、俺の中の黒い欲望をさらに揺さぶる。恥ずかしさにうつむこうとした彼女の顎を捉え、上を向かせた。


 俺を見つめる黒い瞳が揺れている。自分で自分が止められなかった。どうしようもない感情に、俺は彼女をベッドへ押し倒した。

「あ……」

 彼女の口から小さな声が漏れる。





 彼女に唇を寄せようとした瞬間、俺の口がもふもふで塞がれた。

「!」


 俺はクマのぬいぐるみと口づけを交わしていた。







またまた切りました。


私の中の書きたい意欲はいっぱいあるのですが、なかなか二人分を書くのがむずかしくて、でも皆様に早くお届けしたくて、こんな形で投稿ということになりました。


次の話で『顔合わせ編』は完了予定です。

もう少しだけこのジレジレな二人におつきあいください。


※8/28 誤用:上げ膳→据え膳 修正しました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ