『襲え!』 ~バンのメモより~
俺は焦っていた。そして混乱していた。
俺の下にはミナ嬢がいる。ベッドに押し付けてミナ嬢を組み敷いていた。
最初に断っておくが、決してわざとじゃない。不可抗力だ。いや、半分は違うかもしれないが、もう半分は確実に不可抗力だ。
しかし、俺はこの後どうすべきなんだ。
『襲え』と言われても、どうすればいいんだ!
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
食堂での食事はうまかった。さすが、バンが選んでくれた店だ。ミナ嬢は食事も店の雰囲気も気に入ってくれていた。
いつも通り、旺盛な食欲を見せた俺と違い、ミナ嬢はサラダとスープとパンを食べただけで満足していた。緊張していたのか、元から少食なのか。しかし、あれだけで満足していたのでは、体が持たないんじゃないだろうかと心配になる。
店を出た後が大変だった。メモには夜までブラブラとしか書かれていないのだ。女性がどこに行って何をすると喜ぶのか全くわからない俺には、どこに連れて行っていいのかもわからなかった。結果、俺は誘われるままにミナ嬢の家まで来てしまっていた。
顔合わせでいきなり相手の家に行くなど、非常識なのではないだろうか。しかし、強く誘ってきたのはミナ嬢の方で、断りきれなかったのも事実。そんなことを思いながら、俺は所在無げに部屋の中を行ったり来たりしていた。
富豪の割に家は質素なたたずまいで、執事もメイドもいない。両親も不在という女性の家に上がり込んで、しかも待っているのはミナ嬢の部屋である。
白で統一された部屋はそれほど広くない。使用人もいないというのに、綺麗に掃除された部屋には、大きめのベッドと重厚なテーブル。小さな椅子が二脚。そして、そこかしこに置かれた愛らしいぬいぐるみたち。
男の俺の乱雑な部屋とは全く違う。女の部屋というのは、皆こんなものなのだろうか。整っていて、綺麗で、そしていい匂いがする。思わず深呼吸しようとする自分を諌める。
うろついていても仕方がない。ここは大人しく待っていたほうがいいだろう。
そう思って椅子に座ろうとし、その椅子を見て愕然とした。ひじ掛けの付いた椅子は、どう考えても俺の尻が入る隙間はない。試しに軽く座ってみる。尻の両端に肘置きが当たっている。どうねじ込んでも入りそうにない。逆にねじ込めば壊してしまいそうだ。
俺の体格が規格外なのか、ミナ嬢が規格より大幅に小さいのか。おそらく両方だろう。
部屋を去り際にミナ嬢には寛いでくれと言われたが、どうすればいいのだろうか。床に座るのはないな。かといって椅子は駄目だし、ベッドはもっての外だ。
どうしようかと悩んでいると、扉がノックされた。
「…………」
こういう時は返事をするものなのだろうか。ここは俺の部屋ではないのに。ためらっている間に、扉が内側に開く。
「ああ、良かった。いらっしゃらないかと思いました」
ティーセットを持ったミナ嬢がほっとしたように笑みを見せた。
「どうぞ。お座りに……」
テーブルにティーセットを置いたミナ嬢はそう言って固まった。俺の体格と小さな肘付きの椅子を見比べ、両手を口元に当てる。俺がこの椅子に物理的に座れないことに気付いたのだ。
「申し訳ありません。私ったら気付かないで」
「いや、俺の尻……体がデカいのが悪いんです。気にしないでください」
「けれど、座る場所が……あ、ベッド! ベッドに座ってください」
いやいや、それはいくらなんでも駄目だろう。
焦る俺をよそに、ミナ嬢は俺の手を引いてベッドに導いた。拒否しようと思えばできる。ミナ嬢の力は弱く、軽く引っ張れば簡単に止められるだろう。けれどそれが躊躇われる。ミナ嬢の腕も足も腰も、すべてが細くか弱い。無理に引っ張っれば折れてしまいそうだ。
男とは全く違う異質な存在に戸惑っている間に、俺はミナ嬢にベッドに座らされていた。柔らかなベッドの感触。思わず撫でさすりそうになって、我に返る。立ち上がろうとしたら、ミナ嬢に肩を押さえつけられた。その目が真剣で少し怖い。
「お座りくださいませ」
丁寧なのに命令口調。何となく逆らえず、俺はベッドに座りなおす。それを見たミナ嬢はにっこりと笑った。
「すぐにお茶の用意をしますね」
いそいそと動くミナ嬢に、手伝おうとするたびに止められ、仕方なしに動き回るミナ嬢を目で追った。ミナ嬢が椅子をベッドのそばまで運び、次いでテーブルに手をかける。そこで動きが止まった。
「?」
ミナ嬢の腕と足に力がこもる。しばらくしてから力が抜ける。そしてまた力が入る。
「!」
テーブルを移動させようとしていることに今更ながら気付く。俺はミナ嬢が止める声を無視して近寄り、テーブルに手をかけた。グッと持ち上げる。あっけないほど簡単に持ち上がる。
「どこに置きますか?」
「あ、そこの、ベッドの脇で」
申し訳なさそうにミナ嬢がベッドを示す。指示通りテーブルを動かした。
「申し訳ありません」
「これくらい、騎士の訓練に比べれば軽いものです」
消えいってしまいそうなほど恐縮するミナ嬢に首を振る。実際訓練では重し代わりの土嚢を背負って走ることもある。それと比べれば軽いものだ。そんな俺をミナ嬢は眩しそうに見上げてくる。その眼差しが逆に眩しすぎて目をそらした。
ミナ嬢はベッドサイドのティーセットをテーブルに置くと、ポットから紅茶をカップに注いだ。いい香りが部屋に広がる。
「自分のことは自分でというのが我が家の決まりなんです。紅茶も何度か淹れたことはありますが、お口に合えばいいんですけど」
再びベッドに座らされ、カップを渡された。ミナ嬢は自分の分も入れると、椅子には座らずなぜか俺の横に座った。
「いただきます」
カップに口をつける。甘い香りとわずかな苦みが口に広がった。
母上殿はともかく、親父殿と俺の前に紅茶が出てきたことなど一度もない。食事の時でも水か酒だ。こちらから所望することもなかったので、正直に言えば人生初の紅茶だ。
おいしいかまずいかと問われればもちろん旨い。だが比べるものがないので、これが普通なのか上等なのかはわからない。
興味のないことは目を向けていなかったツケが回ってきた。せめてバンくらい社交性があれば、紅茶の一杯くらいは飲んでいたかもしれないな。
こういう騎士らしからぬところは、親父殿の血を引いているんだなと思う。
一気に煽って飲み干してから隣を見ると、ミナ嬢は一口飲んだだけでカップをソーサーに戻した。紅茶というのはこういう嗜み方をするのだろうか。
空になってしまった自分のカップを見下ろす。酷く居心地が悪い気分だ。
「もう一杯いかがですか?」
「いえ、結構です。ありがとう。おいしかった」
ミナ嬢は複雑な笑みを浮かべて、自分のカップをテーブルに置いた。俺も自分のカップを置く。二人の間に沈黙が降りる。
こういう時は何を話せばいいんだ?
気の利いた話ができるわけもなく、俺はちらりとミナ嬢に視線を向けた――ら、ミナ嬢もこちらを上目づかいに見ていた。
「バラク様!」
突然ミナ嬢が立ち上がった。俺は座高もそこそこあるから、ベッドに座った俺とミナ嬢の視線は同じくらいの高さになる。ミナ嬢の真剣な視線に、何も言えずに黙り込む。
ミナ嬢は何を思ったのか、突然俺の両肩に掌を当てた。グッと力がこもったような気がする。が、俺にとってミナ嬢の力など赤子と同じだ。ぐらつくこともないし、力を入れなくても体勢はかわらない。
俺はどうするべきなんだ?
婚約者が出来たのも初めてならば、その婚約者と会うのも初めてで、母上殿以外の女性と食事をしたのも初めて。女性の部屋に入ったことも、紅茶を飲んだのこともない初めてづくしの俺が、こんな時どうするべきかを判断できるはずがない。
ミナ嬢はそれでも俺を必死で押してくる。顔を赤く染めて、首まで赤い。
これは倒れたほうがいいのだろうか? 俺が知らないだけで婚約者と二人きりになると、こういう儀式をしなければならないのかもしれない。それならば応接間ではなく、彼女の部屋に通された意味も理解できる。
俺は体の力を抜いた。と同時に後ろに倒れ込む。
「きゃあ!」
突然後ろに倒れた俺に、勢い余ったミナ嬢は悲鳴を上げた。思わずその背を手で支えると、ミナ嬢は俺の腹に上に倒れ込んできた。
真っ赤な顔をしたミナ嬢が俺の胸の上にいる。見上げる瞳は潤んでいた。
俺はどうするべきなんだ?
初めてのことだらけでわけがわからない。バンならどうするだろうと考えて、尻ポケットのメモを思い出した。
『襲え!』
もしかして俺は襲われているのか? ミナ嬢に。
ふつふつと怒りが湧いてくる。もちろん己の不甲斐なさに、だ。女性にここまでさせておいて、男の俺が何もしないというのはどうなんだ。ミナ嬢がこうしているのは、きっと俺が不甲斐ないせいだ。
俺はミナ嬢の背中を支えたまま、くるりと体勢を変えた。ミナ嬢がベッドに背をうずめ、俺が彼女の上になる。もちろん体重はかけらもかけない。
ミナ嬢は驚いた表情で、さらに顔を真っ赤に染めている。
で? 俺はこれからどうすればいい?
噂にはもちろん聞いたことがある。どうやって女性の体を開かせるか、どうすれば女性が喜ぶのか。
が、いかんせん俺には経験がない。三十になるまで女性経験がないというのは恥ずかしく情けない話だが、真実だから仕方がない。
で?
俺は焦っていた。そして混乱していた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
バラクの尻が椅子に入らない事件。実話です。
巨体を誇る方がおりまして、レストランで椅子に座ったら抜けなくなって苦労したというエピソードがあります。
思わず笑いましたが、非常に恥ずかしく大変だそうです。そして座ったら太ももが締め付けられていたいとか。
体の大きい人は大変ですねえ。
さて、中途半端な場所で切りました。次話との兼ね合いでぶった切っております。
できるだけ早く次を投稿できるよう頑張ります。