夜の雨
王宮の窓から雨の降る中庭に視線を向ける。人定正刻(午後十時)の中庭は月の明かりも雲に遮られ真の闇に沈んでいる。昨日の夕刻から降り出した雨はいまだにやみそうになかった。雨の日の警護は特に気を使う。視界が悪いうえに、人の気配や音が雨にかき消される。
夜会で雨が降った場合は、中庭の警護は増やすべきだろう。平和な国だとはいえ、各国の要人が集まる場だ。ここで何か起こった場合、国の立場は悪くなり、信用も失ってしまう。
いや、雨だと逆に客人たちは中庭に出ないか。中庭の警護を減らして中へ……いやいや、やはり駄目だ。侵入経路や隠れる場所にもなりえる中庭の警護を減らすわけにはいかない。
「むうっ」
俺は腕を組んで考え込む。そこで、ハッと気づく。今夜は王宮へ荷物と資料を取りに来ただけだった。夜会の警護についてはほぼ決まりつつある。俺がここで一人で考えても仕方がない。
俺は独り苦笑を浮かべて廊下を進む。
「バラク師団長」
王宮の廊下を歩いているときに声を掛けられた。声で誰かはわかる。俺は振り返り騎士の礼を取る。
「いかがなさいました、バン王子殿下」
金色の髪の青い瞳をした親友。騎士服ではなく、ゆったりとした上質な服の貴族のようないでたち。年末の夜会に向けて王族としての執務が増えたために、最近は訓練場では姿を見かけていない。バンがいない分の第一師団の訓練は各師団で割り振っている。そのために訓練場では息つく暇もないほど忙しくなっている。
久しぶりのその姿に目を細め、俺は直立不動のままバンが来るのを待った。王宮内では俺とバンの立場は天と地の開きがある。
「少しいいか?」
バンの目線が近くの扉に向けられる。扉の向こうに人の気配はない。
「はい」
頷いて俺は扉を開いてバンを先に部屋に入れ、廊下に誰もいないのを確認して扉をそっと閉めた。
「ダイツ叔父上が動き出した。少し前から様子がおかしいそうだ」
ほっと息をつく暇なくバンがそう告げる。バンの叔父。つまり、ロドスタの言うところの不出来な兄王だ。
「またか。これで何回目だ?」
大きく息を吐く。部屋に二人でいることをいいことに、俺はこの国の王子に対して普通に接した。正直堅苦しいのは苦手だ。
「五年に一度くらいは病気のように出てくるな。今度は誰を脅して何を手に入れるつもりだ?」
俺の言葉にバンが肩をすくめる。
親父殿の時は騎士団総指揮官という地位。脅しの道具として選ばれたのが俺と母上殿だった。結果的に阻止できたわけだが、それからも何かと噂が絶えない。何か欲しいとなると脅してでもとるのが奴のやり方だ。
さっさと国から追い出してしまえばいいものを、表向きは現国王の兄であり王族でもある奴をおいそれとは追い出せないらしい。裏で何かをたくらんでいても、表に証拠がいつも上がってこない。死人に口なし、だ。奴の周りには不審な死が多い。使い捨ての流れの傭兵がいつも犠牲になる。それがわかっていながら手が出せないのが腹立たしい。側に頭のキレる奴がいるのだろう。
「王位を欲しがってるって話は聞く」
「まだ王の地位が欲しいのか。あの馬鹿兄は」
「馬鹿だから欲しがるんでしょ。王の苦労や責任を考えてもいないからね。自分の立場だけですべてを片付けてきた男だ。王国騎士団でも立場にものをいわせて上の地位を手に入れた。我が叔父上ながら、情けない人だ。本当に」
地位や立場がそれほど欲しいものなのか。ロドスタは欲しいものにとっては黄金だと言っていたが、俺にとって黄金だってそれほど欲しいものでもない。どうしても手に入れたいものは、今は一つしかない。
俺は逸れそうになる思考を頭を振って戻す。
「王位か。だが、国王陛下がたとえ亡くなられても第一王位継承者はバンだろう。二人同時に殺害というのはいくらなんでも無理がありすぎる」
頭の回転の遅い俺でも国王と王子の二人が同時に死ねば、第二王位継承者であるダイツを疑う。そうなれば自分の命すら危うい。いくら馬鹿でもそんなことはしないだろう。
では、何が目的だ。王位でないなら地位か? だが、今ダイツの地位は公王。地位を与えただけで政に口は出せないが、王位に次ぐ地位。何の不満がある? 金とて同じだ。贅沢の限りを尽くしていると聞いている。さらに金が欲しいのだろうか。
「逆に考えればどうだろう?」
「逆?」
「そう。叔父上が動き出した理由じゃなくて、誰かの手に何か脅せる材料ができたとしたら………」
言葉の途中でバンが俺を見上げる。
「お前か?」
俺は目を丸めた。確かに俺にとって大切な人ができたのは確かだ。ミナ嬢を攫われて脅されれば、俺も逆らうことはできない。どんなことをしてでも彼女を助けたいと思う。
だが――
「待て待て。俺を脅してどうする。師団長の地位など欲しくはないだろう」
公王の地位からすれば、俺の師団長という地位は比べることも馬鹿らしいほど下だ。国王の側に立つことすらできない俺を脅して何を得るものがある。金だって公王のほうが持っているに決まっている。
「油断している僕を殺せる」
「お前を殺してどうなる? この国の王子がいなくなったからといって、奴の手に王位が転がり込んでくるわけじゃない。考えすぎだ。それに、婚約したのは俺だけじゃない。第二師団だけでも二十人以上が二か月前に婚約している」
ミナ嬢が騎士団内で婚約者宣言をしてから、多くのものが婚約した。大切なものができたというなら、彼らも同じだ。
「二か月前………違う、お前じゃない。僕だ!」
ハッとしてバンが叫んだ。
「何の話だ」
「迂闊だった。まさかこんなことになるなんて」
「待てっ、何の話だ。どういうことだ」
訳が分からず俺はバンに詰め寄った。バンの青い瞳が不安に揺れている。
「ミナ殿に二か月前から僕の命令で一人見張りをつけている。父上は君たち親子を守れなかったとずっと後悔していた。だから僕はそうならないようにと、お前の大切なものを守りたくて何かあっても対応できるよう、彼女に護衛件見張りをつけていた。それに僕は二か月前、彼女を家まで送っている。内情を知らないものならば、僕が彼女の恋人のように見える」
王族が平民から妻を迎えることは、この国では珍しいことではない。ただ、平民を迎える際には慎重に事を運ばねばならない。王族の思い人となれば、当然邪な考えを持つものも出てくる。公になる前には護衛をつけたりするのは当たり前で、そのほとんどが水面下で行われる。また、部下の恋人と偽装する形をとった王族も数は少ないが過去には存在した。
俺がミナ嬢に直接会ったのは三回。初めて会ってから三か月も期間があってたった三回だ。手紙のやり取りも始めたが、それとてバンと俺の関係を知るものならば俺を介しての手紙と勘ぐる可能性もある。
しかし、まさかと思う。彼女をアイヤス家に招いている。それまで偽装だと思われるだろうか。
それに、と俺は顔を上げる。
「彼女は騎士団で俺の婚約者だと……」
「自分から騎士団に乗り込んできて、師団長の婚約者だと告げる女性がどこにいる。僕とのことを隠すための言葉だと思われる可能性のほうが高い」
「…………」
「しかも相手がお前となれば余計だ。お前は強面だし、女性も寄り付かない。結婚する気などないと豪語していた時期もあった。そのお前が突然婚約など、誰が考えてもおかしいと思う。そしてあの気配だっ」
俺は目を見開いた。
二か月前の気配。バンがミナ嬢を自宅まで送っているときに一瞬だけ感じたあの気配。ミナ嬢の横にはバンがいた。俺はそれを守るように離れて後ろからついていった。自分の婚約者を家まで送らない騎士などいるものか。
「ミナ殿は今どこにいる」
「店の裏の屋敷…………待て、今日は何日だ!?」
「十二月六日」
『今週末には自宅に帰れそうです』
『エルディックご夫妻は仕事で出かけておられない』
『ですので、ご夫妻が帰ってくる明後日からでも』
「家に……一人でいる可能性がある」
俺は唇を噛みしめた。人のいる店に泊っていることを願わずにはいられない。今すぐ確認しに行きたい。だが、俺の立場がそれの邪魔をする。師団長としての責務を放り出すわけにはいかない。それにミナ嬢の家には見張りが二人ついている。バンとロドスタの選んだ見張りだ。何か事が起こっても、対応できるだろう。
「くそっ」
が、わかっていても感情は抑えられない。強く拳を握りしめた。
「バラク、行ってこい。ここは僕が引き受ける」
俺から荷物を奪うようにしてバンが資料を受け取る。
「だが」
俺はそれでも迷った。団内では上官の命令は絶対。俺は上官の命令でここへ資料を取りに来た。それを放棄すれば俺は団内での地位を失う。それはバンの横に並び立つという約束を反故することになりかねない。
「お前は、作戦以外は本当に優柔不断だな。こんな時は素直に感情に従え。たとえ僕の部下がいても相手が手練れなら敵わないときもある。そうなればミナ殿が危ない。本当は僕もお前とともに行きたいが、僕は王城から動けない。こんな時でも立場が邪魔をする。だが、今回は逆に僕の立場を利用してやる」
バンが言葉を切って俺を見上げた。青い瞳が真剣な光をたたえている。
「バン・ルーディファウスとして命じる。行け!」
俺は目を見張った。バンが王族として俺に命令するのは初めてだ。俺は即座に騎士の礼を取った。
「お前の立場が俺を自由にしてくれる。恩にきる。ここを頼む」
俺はバンの言葉に背を押されるようにして踵を返した。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
闇に沈んだ町の街路を、雨を切るようにしてミナ嬢の自宅へ裸馬で駆ける。
ミナ嬢の家は雨の中、暗く沈んでいた。馬の背に乗り、塀を乗り越える。庭に下り立ってさっと左右に視線を走らせるが、どこにも異常はないように思えた。
もしかしたら店のほうかもしれない。店には数人の針子やメイドが寝泊りしているという。多くの者が同じ屋敷内にいる場合、刺客が襲ってくることは稀だ。仕損じることが多いからだ。
時間は人定正刻(午後十時)を半刻も過ぎている。普通の者なら深い眠りについている時間だ。
家を一回りして、二人の見張りも確認してから店にも行ってみよう。
玄関から裏手に回る。
「!」
裏口付近の地面に倒れている人影を見つけて駆け寄る。首に指を当てれば、しっかりとした脈が伝わった。見たことのない顔だが、格好からして傭兵だろう。ロドスタの部下と思われた。
雨に打たれたままでも生きていれば風邪を引く程度で済む。俺は倒れた男をそのままに、すぐさま裏口に近寄った。そっと押すと内側に開く。滑り込むようにして中に入った。
暗い廊下を進む。
ロドスタが選んだ傭兵だ。腕もかなりのものに違いない。それを気絶させるほどの相手。
心臓の鼓動が耳にうるさい。悪い予感を無理やり心から振り払う。誰もいない家に賊が侵入しただけであってほしい。ミナ嬢が店で泊っていてくれることを心から祈る。
ミナ嬢の部屋は二階。階段を上がろうとして足を止める。一階の奥に気配がある。奥に足を向けた瞬間、耳を弄するばかりの絶叫が上がった。
瞬時に床を蹴る。自分の足がこんなにも遅く感じたことはない。扉までが異常に遠く感じる。両開きの扉をぶち破るようにして中に転がり込んだ。
床に横たわったミナ嬢。黒尽くめの男がその上に馬乗りになっている。細い首に回された指。ミナ嬢の顔は土気色だった。
「貴様っ!」
咆哮のような声を上げて男に向けて跳んだ。俺の拳が届くより数瞬早く、男がミナ嬢から飛び退く。ミナ嬢を庇うようにして剣を抜いて男と対峙する。意識を取り戻さないミナ嬢に冷や汗が出る。
「ミナ嬢!」
呼びかけても足元の小さな体からの返事はない。男から視線を外さないまま、つま先で軽く腕を突く。ヒュッと息が漏れる音とともにミナ嬢が激しく咳き込んだ。
「ミナ嬢!」
もう一度叫ぶ。うっすらと開いた目が俺を確認し、それからまた気を失った。すぐにミナ嬢を介抱したかった。だが、目の前の男から視線を外すわけにはいかない。手練れの見張りを昏倒させるほどの使い手だ。油断すればこちらが死ぬ。俺が死ねば当然ミナ嬢も。
そんな事は、絶対にさせるものか!
柄を持つ手に力が入る。一時でも早くこいつを片付けなければならない。
剣先を下に下げ、そのまま男に突進した。剣が届く寸前で男の体がひらりと舞う。それを追って剣を突き出す。それも避けられる。まるで風を相手にしているようだ。その左手が翻った。手に持っていた小さなものが暖炉に落ちる。
「くっ」
甘い香りが部屋中に充満した。男が身を翻す。俺は追わず咄嗟に呼吸を止め、男とは逆の方へ走った。ミナ嬢を抱きかかえて窓から庭に飛び出した。大粒の雨が体を打ち付ける。構わず窓から離れた。
「呪い師か」
舌打ちとともに呟く。
男はすでにこの家から脱出しているだろう。だが、追う方法はない。暖炉に入れられたものが何かわからない以上、深追いはできなかった。俺だけならまだしも、ミナ嬢を危険に晒すわけにはいかない。
腕の中の彼女はぐったりとしていたが、息はあった。そのことに心底ほっとする。自分の体を丸めて彼女にできるだけ雨が当たらないようにする。
裏口へまわり、倒れていた傭兵を蹴りあげる。呪い師が相手ならば、おそらく薬で眠らされているだけだ。案の定、傭兵は小さく呻いて目を開けた。
「もう一人どこかに見張りがいるはずだ。そいつを探してバン王子に報告させろ。それがすんだらお前はロドスタのところへ行き、現状を報告して来い」
傭兵は腹を押さえながらも頭を振って俺を見上げ、腕の中のミナ嬢を見つめてすぐさま状況を理解した。
「バラク様!? 申し訳………」
「いいから、行け!」
皆まで言わさず一喝する。傭兵は俺の剣幕に青い顔をして踵を返した。
ミナ嬢を抱え直して裏口から家に入る。本来ならアイヤス家まで行きたいところだが、薄い寝間着にショール姿のミナ嬢の体は雨で濡れたために冷たくなっていた。できるだけ早く体を温めなければ濡れた衣服に体温を奪われる。鍛えている者ならばともかく、気を失っているミナ嬢がそうなれば命を失いかねない。
暖炉のある応接間に行って濡れた体を温めたいところだが、今あの部屋に近付くわけにはいかない。この家で俺が知っているのは二階にあるミナ嬢の部屋だけだ。あの匂いがなんなのかはわからないが、二階までは上がって来ないだろう。部屋の扉を閉めておけば安全に思えた。
階段を走り抜け、部屋に入って即座に扉を閉める。鼻をひくつかせるがあの甘い香りはしなかった。ほっと一息つく。
ミナ嬢をベッドに降ろそうとした腕が止まる。濡れた衣服のままではベッドまで濡らしてしまう。まず体を拭いて――
拭く? どうやって?
俺はごくりと唾を飲み込んだ。服を脱がさねば体を拭くことはできない。しかし、意識を失った女性から服をはぎ取るというのはどうなんだ。だが、この部屋に火の気はない。濡れた服を脱がさねばそれこそ凍えてしまう。
「ミナ嬢」
そっと呼びかける。起きてくれれば自分で脱いでもらえばいい。もし起きなければ俺が……脱がすことになるのか。
「ミナ嬢」
起きてほしいような、ほしくないような。微妙な心持で呼びかける。だが返答はない。
お、落ち着け、俺。やましい心はない。触れているミナ嬢の体はどんどん冷たくなってきている。服を脱がさねば本当にマズイ。
「ミナ嬢」
最後にもう一度呼びかける。だがやはり返答はない。
さっと脱がして毛布でくるめばいい。
俺は覚悟を決めると呼吸を整えてミナ嬢の寝間着に手を伸ばした。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
ベッドの上で胡坐をかいたまま俺は胸の中にいる小さな存在をぎゅっと抱きしめた。
腕の中には毛布にくるまれ意識を失ったままのミナ嬢がいる。俺自身も濡れた服を脱ぎ捨て、裸の上からシーツを被っていた。ミナ嬢の体温低下が思っていた以上にひどい。水気を拭きとっても上がらない体温。火の気のない部屋で暖めるためには自分の体温を分け与えるほかに方法がなかった。
言っておくが、やましいことは何一つしていない。何一つだ! しかし、一つくらいはしても良かっただろうか………いやいや、駄目だ、駄目だ!
俺は頭を振って意識を切り替える。腕の中のミナ嬢の顔色はだいぶ良くなってきた。ただ、頬が赤く腫れている。首には男の指の痕が残っていた。
奥歯をギリッと噛みしめる。彼女にこんな傷をつけた奴を、許すわけにはいかない。八つ裂きにしたとしても怒りは収まらない。だが、それ以上に自分の不甲斐なさに怒りを覚えた。
バンがミナ嬢に危険が迫っているかもしれないと言った時に俺は迷った。バンが背中を押してくれなければ、俺はミナ嬢を失っていた。永遠に。
彼女のこの傷は、俺の優柔不断さが招いた結果だ。また俺は同じ過ちを犯した。大切な人に傷をつけた。手の届くところにいた人を守れず、傷つけた。
大切だから、傷つけたくないから、自ら手放すことも必要なのかもしれない。
長くなってしまいました。ミナの関係上切ることができず、初めてこんなに長々と続けてしまいました。
戦闘シーン大好きなんですが、自分の表現力のなさに気づかされます。一応恋愛タグなのでできるだけ押さえてるんですが、やっぱり書いてて楽しいです。
さて、次話は二人の間に亀裂が……入るような入らないような? 楽しみにしていて頂けると嬉しいです。




