地獄の採寸
俺は馬を走らせていた。夜の道を蹄の音が響き渡る。疾走する馬上で、俺の心臓は早鐘のように鳴っている。
ベゼル様とレリア様の許可を頂いた。ベゼル様は随分と渋っていたが、レリア様は快諾してくださった。しかも何の合図か分からないが、握った拳の親指だけを立てて片目をつむってきた。あれは何の意味だ。後でミナ嬢に聞いてみよう。
俺は馬の腹を蹴りつけ、さらに速度を増して屋敷へと向かった。
「どうでした? 怒ってました? 心配してました?」
屋敷の玄関ホールで待っていたミナ嬢が心配げに駆け寄ってくる。
「許可を頂いてきた。今夜一晩だけという約束で」
ミナ嬢の前に膝をついてそう報告する。自分の高鳴る胸を押さえられない。今日、彼女はこの屋敷に泊まる。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
ミナ嬢を送り返す時間になって、母上殿のお願い攻撃が始まった。母上殿とミナ嬢は、母と息子の婚約者という関係ではなくなっている。もう完全に気分は女友達だ。
普段控えめで、あまり自分から願いやわがままを言わない母上殿だが、このお願い攻撃が始まると手が付けられなくなる。ミナ嬢を相当気に入ってくれたようで、泊まっていってほしいと懇願していた。
ミナ嬢はちらりと俺を見上げてくる。正直にこちらを見ないでほしい。俺では母上殿を止められない。というよりも、俺の正直な気持ちとしては母上殿と同じ気持ちなのだ。止められるわけがない。
「では、両親の許可を頂けたらということで」
「もちろん。もちろんよ! バラク、すぐに走って行ってきなさい。必ず説き伏せてくるのよ」
母上殿はミナ嬢の譲歩策にすぐに飛びついた。いつもは見せない厳しい瞳を俺に向けてくる。
俺はミナ嬢の婚約者という立場で、父上であるベゼル様にお願いができるような立場ではない。
親父殿に視線をやる。目があった途端に逸らされた。親父殿も母上殿のお願い攻撃には手が出せないらしい。
俺は夜の街に馬を走らせることとなり、その結果二人の許可を得ることができた。
「ところでミナ嬢」
「はい?」
俺はミナ嬢の前で、握った拳の親指だけを立てて見せた。
「これはどういう意味だ?」
それを見た瞬間、ミナ嬢は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「気にしないでください」
小さな声でそう言われたので、それ以上は聞けなかった。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
ミナ嬢が泊まるのは二階の客間。そのベッドで、母上殿と二人で眠るらしい。だが、いま彼女は俺の部屋にいる。
『私がお風呂を頂いている間、ミナさんのお相手をしなさい』と母上殿から厳命された。
どうすればいい? ここで俺の欲望のタガを緩めてしまうと、俺は間違いなくあとで母上殿からお願い攻撃以上の攻撃を受けてしまう。あの攻撃は肉体的には全く影響がないが、精神的には何日か寝込んでしまうほどの威力を持っている。
年末の夜会に向けていろいろと準備や会議が立て込んでいる。寝込んでいる場合ではない。つまり母上殿の攻撃を受けるわけにはいかないのだ。
「バラク様?」
テーブルの向こうに座るミナ嬢が小首を傾げて黒い瞳を向けてくる。先に入浴を済ませたミナ嬢は、普段からは考えられないくらい艶っぽい。
母上殿の薄い寝間着を借りて、上からショールを羽織っているだけの姿。同じ女性といっても大人と子供ほどに違う体格だ。首元は随分と開いていて、裾は引きずるほどに長い。髪はまだ完全には乾いていないのか、いつもよりも艶やかでしっとりとしていた。
子供の愛らしさと大人の色気が一つになって、俺の理性をふっ飛ばしにかかる。膝の上で爪が食い込むほど拳をきつく握りしめた。
母上殿、早く上がってきてください!
「あ、そうだ。バラク様にお願いがあるんです」
「何だ?」
できるだけ冷静に聞いた。ミナ嬢は持ってきていた荷物の中から巻尺を出した。
「採寸させてください。お母様から頼まれていたんです。エルディック商会でバラク様の服を作らせてほしいからって」
――なぜ、今なんだ。
俺は先日見た赤毛騎士の姿を思い出す。赤毛の胸に抱き付いていたミナ嬢。それが今から俺の身に起こるというのか。二人きりの俺の部屋で、しかもミナ嬢は首元が開いた薄い寝間着姿。
だが、俺は同時に自分の中の黒い感情があふれだすのも感じた。赤毛に抱き付いていたミナ嬢。あいつにだけ抱き着かせておいて、婚約者の俺には抱き着ついていない。首に腕を回されたことはあったが、赤毛ほどギュウギュウと腕に力を込めてまで抱き着かれたことはない。
別に張り合う必要ない。そんなことはわかっている。わかっていても、一度火のついた嫉妬の炎を消すことはできない。
どこまで俺の理性が持つか。いや、持たさなければならない。
あの時の光景が蘇る。椅子の上に立って俺の目の前にいるミナ嬢。椅子の上に立っても、まだ俺よりも低い身長。つまり俺は彼女を見降ろす形になる。だが、視線は絶対に下げてはならない。彼女の着ている寝間着は首元が開いている。彼女が動くたびにいろいろなものが見えそうになる。勝手に下を向こうとする視線を無理やり上に向ける。
こういう時はアレだ。他のことを考えればいい。目の前のミナ嬢ではなく、たとえば……そう、訓練についてだ。
明日は早朝から自主練をして、午前は第四師団の者たちと模擬戦闘。午後には年末の夜会についての会議が入る。そういえばそれについての資料をまとめねばならなかった。午後一番で資料をまとめよう。バンの意見も取り入れて――
「バラク様、少ししゃがんでもらっていいですか?」
ミナ嬢から声がかかる。俺はミナ嬢と視線を合わせるようにして膝を曲げた。黒い瞳は真剣で、自分の中に黒い感情があることを恥じるほどひたむきな瞳だ。
「う~ん、もう少しお願いできます? で、両手万歳」
言われてさらに膝を曲げる。が、目の前にあるものを認めて、俺は咄嗟に目をつむった。
ミナ嬢の胸が目の前にある。
これはわざとなのか? 顔合わせの時と同じように、俺を押し倒そうと画策しているのか? しかし先ほどの瞳は真剣そのものだった。それにここでタガを外せば、母上殿にこんこんと叱られ、寝込むことになる。
それにバンの言ったように、俺は砦攻略もできない騎士見習い。ここで砦に取り付くわけにはいかない。
「そのままじっとしててくださいね」
ミナ嬢は俺の腕を抱えるようにして自分の両腕を後ろに回す。寝間着の布地が鼻に触れた。
駄目だ、駄目だ!
考えろ、バラク。違うことを考えるんだっ。
ミナ嬢が明日で、砦が俺。会議がバンで、午後一番に第四師団。違う違う、砦はミナ嬢だ。そして俺は騎士見習い。砦には手を出すな!
「もう普通に立ってもらって大丈夫です。これから胸囲測るんで、腕降ろしてください」
混乱しながらも曲げていた膝を元に戻し、腕を下ろす。これから抱き着かれることを想像して、俺は自身の精神力を総動員させにかかる。
が、見れば紐はすでに俺の胸を一周して両端がミナ嬢の手元にあった。どうやら胸に直接抱き着かず、俺の腕の周りで通した紐を胸元までおろしてきたらしい。確かにこれなら抱き着かれずに済む。
胸の前で交差させた紐をミナ嬢が真剣な眼差しで見つめる。
「やっぱりロットより大きいですね。直接胸に腕を回してたら届きませんでした」
彼女の口から他の男の名前が告げられ、俺の中の黒い感情が一気にあふれ出た。瞬間、俺は彼女を抱きしめていた。
「うわっ、バラク様。ちょっと待って」
ミナ嬢が俺の腕の中で狼狽える。もう構うもんかと彼女の髪に唇を寄せた。鼻孔をくすぐるせっけんの香りが俺の理性を崩しにかかる。
「ミナさん、お待たせ~」
突然、部屋の扉が開いて母上殿の声が響いた。俺とミナ嬢は同時に固まった。扉の方を見れば、驚いた様子の母上殿と目が合う。
「あら、やだ。ごめんなさい。私ったらノックもせずに」
母上殿はにっこりと笑って、そのままパタンと扉を閉めた。
「バラク様の馬鹿、阿呆! リリア様に誤解されたじゃない。降ろしてっ」
ミナ嬢が俺の頭に手刀をバシバシ叩き込む。
誤解……なのか? 一応俺は婚約者という立場なのだが。それでも 泣きそうなミナ嬢を言われるままにゆっくりと床におろした。
その時、ノックの音が部屋に響く。
「はい!」
ミナ嬢が咄嗟に叫ぶ。
「ミナさん、お待たせ~」
母上殿が再び扉から顔を覗かせた。ミナ嬢は慌てて荷物をまとめ母上殿に駆け寄る。ミナ嬢は母上殿の右側に立つとその手を支えた。
「じゃあね、バラク。ミナさんを独り占めはだめよ」
母上殿はそう言って静かに扉を閉めた。
独り占めなのは、母上殿なのではないだろうか?
今日は大変な一日でした。何度書き直しても納得いかなくて、結局こんな時間に投稿と相成りました。いっそのこと全文書き換えようとも思ったのですが、この後のことを考えるとどうしてもお泊りしてもらいたくて、この形に収まりました。
もしかしたら、後日変更がかかるかもしれません。
母上殿の精神的な攻撃は、実話を基に作っております。知り合いが友人にこんこんと15分ほど説教したら、その後3日間ほど寝込んだそう。普段しっかりしてる人なのに、意外にメンタルは弱かったみたいです。
さて、次話で3章は完結の予定です。うまくかけているかどうかまだわからないのですが、できるだけ私の思いが伝わるように心がけていきますので、今後ともよろしくお願いします。




