7:揺ぎ無き意志
市場へ食材の買出しに出掛けた日から、さらに三日が経過した。
アルベルトとローラント、それにクレイグの三人は、再び逗留期間の延長を申し出た。
今度は連泊客全員が、まとめて一週間分の宿泊費を支払い、滞在期間を更新した。
三人の連泊客は、ニーナが各人を初めて宿の受付で出迎えたときから、それぞれ取り立てて変わり映えのない日々を過ごしていた。
少なくとも、「黄昏の白馬」亭の中にあって、表面上はそうとしか見えなかった。
もっとも、「ほとんど三人に変化を感じない」こと自体が、いささか不自然だという見方はある。
何しろ三人は、互いに同じ宿で連泊し続け、しばしば顔を合わせる客同士なのだ。
それとなく誰かから声を掛けて、多少は親睦を深めようとするような交流があったとしても、おかしくないだろう。むしろ、それが普通かもしれない。
ところが、この連泊客たちは、まったく互いに接触を持とうとしなかった。
夕食時、三人が酒場で全員揃っても、まるで自分以外の連泊客を牽制するように、各々異なるテーブルに着いて、関わり合おうとしないのである。
アルベルトは、食事中も、あまりくつろいだ面持ちは見せず、常に周囲へ監視するような視線を送っていた。
ローラントは、いつも決まったテーブルで、一人静かに皿の料理を口へ運んでいた。
一番意外に見られていたのは、クレイグの態度だろう。彼は大抵、どのような人物と会話しても、割り合いすぐに打ち解けるのに、なぜか連泊客の二人に対してだけは、余所よそしさを崩そうとしなかったからだ。
三人のあいだには、そうした奇妙な距離感があった。
ニーナは、胸の奥に、不可解なつかえの存在を感じていた。
しかしながら、まだ具体的な気掛かりの正体を断定することもかなわず、このとき彼女は宿の受付から、ただそっと客の様子を眺めているしかなかった。
そこに、静かな異変のきっかけが発生したのは、「黄昏の白馬」亭の連泊客が三人に増えてから、丁度一〇日目の晩だった。
○ ○ ○
ニーナは、自室の机の上で、羽根ペンを羊皮紙の表面に走らせていた。
南地区五番地に住む、主婦のテレジアから請けた仕事だった。彼女の一人息子に宛てた手紙だ。商業都市カーヴェンデルまで、今年から出稼ぎに出ているという。
最後まで書き終えると、手元に羽根ペンを置いた。真鍮製の燭台から注ぐ灯りで、改めて文面を見返す。単語の綴り間違いがないことをたしかめてから、インク壺の蓋を閉じた。
「いつも普通の手紙ばかりなら、代筆も気楽なんだけどなあ」
ニーナは、椅子に座ったまま、両手を頭上に真っ直ぐ掲げ、軽く背筋を伸ばした。
「まあ、もしかすると、今後は全体の発注数がいくらか減って、恋文なんかより、こういう内容の依頼の方が、代書仕事の中心になるのかもしれないけれど……」
殊更そういった考えが浮かぶのは、先日出くわした一件と無関係ではない。
すなわち――言葉巧みに接近してきたルーファスを、ニーナがあっさり拒絶してしまった、あの市場での出来事である。
事件の噂は、瞬く間に田舎町で広まった。
もちろん、「黄昏の白馬」亭にも、「ニーナが伯爵に無礼を働いた」という話はすぐに知らされた。
主人のヨハンは、事の次第を直接ニーナから聞き出し、悩ましげに頭を抱えた。
ニーナの身柄と、宿の評判について心配したのだ。
伯爵の名誉を傷付けた、というような罪状を持ち出し、衛兵が宿屋へ押し掛けて来たりしないものか、多少なりと気を揉まずに居られないようだった。
それでも、ヨハンが短絡的にニーナを宿から追い出したりしなかったのは、単なる人情というより、いま少し入り組んだ事情を鑑みて判断されたらしかった。
第一に、事件について噂する町人には、どちらかというとニーナを擁護する意見が多かったこと。
「あくまで一方的に言い寄ったのは、伯爵の方であって、ニーナは自分の意思を率直に伝えたに過ぎない。しかも、伯爵はこれまでにも、何度となく町娘に声を掛けては、あたかも彼女らをかどわかすかのような言動を取ってきたようだ……」
今回の件をきっかけに、ルーファスの過去の素行も、一部で徐々に露見しつつあるようなのだった。
第二に、そもそも伯爵のヘルネ来訪は、非公式なもので、市参議会を通じたものではなかったこと。
ニーナのみならず、町長ネッカーをはじめ、ヘルネの行政担当者もルーファスに迷惑していたのだ。それゆえ、少しぐらい伯爵が体裁を悪くしようとも、同情すべき余地も、誰かに責任を負わせるべき要素もない、と考える者は多かった。
加えて第三に、これは実際的な理由だが、ニーナは非常に有能な下働き娘で、彼女の代わりはそうそう他にいないこと。
仮に、「黄昏の白馬」亭を去ったとしても、読み書き計算ができるニーナは、すぐに新しい仕事を見付けるだろう。逆に、雇い主のヨハンとしては、どうしても彼女を手放すのが惜しかったと見える。
それでは一方で、この事件を「恋文の代書依頼者」たちは、どう見たのか。
特に、ルーファス宛ての手紙を、ニーナに発注していた女性たちのことは、無視するわけにはいかない。
こちらも、実に様々な反応があった。
例えば、ルーファスの好色さに幻滅したという女性。
あるいはやはり、ニーナは伯爵に対して失礼だと咎める女性。
変わったところでは、ニーナがルーファスの好意に応えなかったので、安心したという女性も居た。同じ町娘として天秤に掛けられたら、美貌も聡明さもニーナに勝てる自信がないので、恋敵にはなりたくないのだそうである。
ただし、そうした女性たちがどのような感情を抱いたにしろ、ルーファス宛ての恋文を代筆する仕事は、今後確実に減少するだろう。
少なくとも、あえてニーナに依頼する女性は、しばらく現れると思えない。
いずれにせよ、実際のところ――
ヨハンの懸念は、ほどなく単なる杞憂だったものと考えられるようになった。
一件から数日が経過しても、宿屋に衛兵が乗り込んで来ることはなかったし、悪評が客足を遠ざけるようなこともなかったからである。
……さて、この日も予定の代書仕事を済ませ、ニーナが筆記用具を片付けていると、ほどなく星見の鐘が鳴った。
町中では、そろそろ夜警が見回りをはじめる時刻だ。「黄昏の白馬」亭の宿泊客も、酒場で杯を傾けている人間以外は、大抵客室に戻って明日に備える頃合である。
不意に、ニーナの部屋の扉が叩かれ、乾いた音を立てた。
代書人の少女は、釣られるようにして顔を上げ、自室の入り口を振り返った。
この時間に、彼女の部屋を訪れる人物といえば、普段は主人のヨハンか、女将のマリアぐらいしかいない。
だが、その二人のどちらかであれば、ノックのあとで、ニーナの名前を扉越しにすぐ呼ぶはずだった。
「――はい、どちら様ですか?」
ニーナは、やや警戒しながら、部屋の外に居るであろう相手に対して、机の前に立ったままで声を掛けた。
居留守は使えない。宿屋の二階の廊下は、夜になると暗く、木製の扉の隙間から漏れた明かりで、室内に人が居ることは誤魔化す術がない。
数秒の間を空けて、声を抑えた返事があった。
「……俺だ。アルベルトだ。ニーナ、開けてもらえないか」
まさしく、意外な来訪者だった。
いったい、夜も更けつつある時間帯になぜ?
ニーナの脳裏で、驚きと疑念が交差する。
「私に、どういったご用件でしょうか?」
ニーナは、机の前を離れ、部屋の入り口に歩み寄りながら問うた。
まだ扉は開けない。
彼女も、妙齢の女性である。婚前の少女が夜も遅い時間に、若い男性をあっさり自室へ招き入れたと思われては、要らぬ誤解を生みかねないだろう。
かといって、宿屋の下働き娘としての立場もあるから、安易に突き放すわけにもいかない。慎重に応じねばならなかった。
「君に、どうしても頼みたいことがあって来た」
「宿のことで、何かご用命ですか」
「いや、違う。代書の仕事だ」
アルベルトは、やはり抑え気味の声で言った。
「宿の主人から、君のことを聞いた。ニーナ、君は代書人でもあるんだろう?」
何となく、ニーナは煩わしげな予感がした。
ただ純然と代書依頼があるのなら、あえて彼女を訪ねるのに、夜を選ぶ理由はないはずである。
ニーナは、それと察しつつも、遠回しに相手の意図をたしかめようとした。
「今日はもう、時間も遅いので、明日にして頂けませんか」
「陽があるうちは、君も何かと忙しくて、落ち着かないだろう。依頼にあたって、詳しく説明したい事情があるのだ」
概ね、想像した通りのようだ。
ニーナは、少し思案した。
ここで扉を閉ざしたまま、事務的にアルベルトを追い返すことは、さすがに少し躊躇われる。
何しろ、彼はこの宿の大事な連泊客なのだ。それも、ヨハンに紹介されて、彼女に代書業務を依頼しに来た。主人の顔を立てることを考えれば、少しぐらいは融通を利かせて然るべきだろう。
ルーファスとの一件でも、ヨハンにはあれこれと心配させてしまっている。これ以上は、宿に迷惑を掛けたくなかった。
「――わかりました。ひとまず、お話だけは伺います」
尚もやや逡巡したものの、ニーナは仕方なく承諾した。
鉄製の蝶番を握って、静かに回す。
手前に引いて、扉を開くと、山吹色の短髪の青年がそこに立っていた。濃い藍色の衣服の上に、今は外套こそ羽織っていないが、腰にはいつもの長剣が吊り下げられてあった。
宿の中でも、常に所持しているのであろうか。
そうだとすれば、やはり警戒すべき余地がある。アルベルトが用心深いだけだとは、単純に受け取れなかった。護身用の武器を、彼には決して手放せない理由があるのかもしれないのだ。
「無理を言ってすまない。感謝する」
アルベルトは、礼を述べると、滑るように入室してきた。
部屋の中へ何歩か進むと、鋭い目つきで素早くあたりを見回す。ただし視線の先は、物陰や窓、天井の一角などで、ニーナの自室の様子に興味を示したわけではなさそうだった。
「それで、私にどういった代書のご依頼ですか」
ニーナは、扉を閉めると、アルベルトに椅子を勧めながら言った。
来客の青年は、うながされるまま、彼女の計らいに従う。
「これは、若い女性に対して、失礼を承知の上でなのだが」
アルベルトは、来客用の円形テーブルの前に着くと、少し身を乗り出しつつ、
「ここを訪ねる前に、何人か、君と親しそうな人物から、君の話を訊かせてもらった」
「私のことを?」
ニーナは、びっくりして、鸚鵡返しにたずねた。
アルベルトは、真剣な面持ちでうなずいた。
「そうだ。俺自身、君の身辺を詮索するような真似は、決して本意ではなかったのだが、今から話す依頼の性質もあって、致し方なかった。今更、許しを乞える道理もなかろうが、まずは謝罪させてほしい。申し訳なかった」
その言葉に対しては、ニーナは何も言葉を返さなかった。
どういった事情があるにしろ、やはり自分のあずかり知らぬところで、あれこれ身の上を探られるというのは、あまり気分のいいものではない。
アルベルトが、彼女の無言の反応を、どのように受け取ったのかは判然としなかった。
だが、少なくとも、拒絶されたとは思わなかったらしく、一拍置いてから、会話の先を続けた。
「君の身近に居る人たちには、誰一人として君を悪く言う者はいなかった。皆、君を、快活聡明で、心根もやさしい少女だと賞賛していた」
ニーナは、部屋の灯りの位置を変えるために、作業机の脇にある燭台を手に取って、円形テーブルの上に運んだ。
そのあいだ、やはり彼女は無言のままだった。
他人が自分をどう噂しているかなど、内心知るべきことではないと思っていた。
「特に、君の仕事に対する姿勢を評価する人は、ことのほか多かった。君は、真面目で、常に誠実だと――。仕事で知り得た他人の秘密を、君が口外したところなどは、ただの一度も出くわした試しがないと、誰もがそのように言っていた」
にわかに、アルベルトの目が光をはらんで、ニーナのそれを覗き込んできた。蝋燭の火が揺れて、部屋の壁面に、二人の影を浮かび上がらせる。
「君は、俺がこの宿に初めて来た日、他の客について訊き出そうとしたときも、硬貨を受け取ろうとはしなかった」
「……あのときも申し上げましたが、宿の信用に関わることです」
ニーナは、椅子を引き、自らも円形テーブルの前に着席してつぶやいた。
「私がお客様の信用を損ねれば、ご主人や女将さんにも迷惑が掛かりますから」
「そうだ。君は、そういう娘なのだ」
アルベルトは、テーブルを挟んで向かい側に座るニーナを、じっと見詰めながら再びうなずいた。
「初めて会った日から、すぐにわかった。俺の想像通りだった。――ニーナ、君はとても真面目で、決して仕事の秘密を漏らしたりしない。だから、俺も胸襟を開いて、君に相談を持ち掛けることができる」
強いていうなら、レムシャイト伯が複数の町娘から恋文を受け取っていた事実を、あのナスターシャという少女に打ち明けた程度のことは、あったかもしれない。だが、あれはルーファスの自業自得だ……
と、アルベルトは、半ば独り言めいて付け加えこそしたけれども、すっかりニーナに対する自分の評価を、不動のものにしている様子であった。
一方でニーナは、奇妙な居心地の悪さを覚えていた。
ただ単に、目の前でアルベルトから持ち上げられているのが気恥ずかしかっただけではない。
いや、むしろ、そうして褒めちぎられることこそが、余計に彼女の心に不安を呼び起こしているのだった。
「それから、俺には他にも、君に対して頭を下げなくてはならないことがある」
「私の身の回りを、お調べになったこと以外にですか?」
「ああ。これまで君を含め、この町の人たちを、多く欺いて来た。理由あってのこととはいえ、これからその点も打ち明けねばなるまい」
アルベルトは、神妙に言った。
しかし、ニーナはその言葉を、果たして額面通りに受け取るべきか、まだいくらか測りかねていた。
青年の態度には、明らかに表層とは異なる本心が潜んでいる。
――大事を成す為には、致し方ない。
言外にそう伝えようとする響きが、彼の口振りからは滲んでいた。
ニーナには、それが危うい覚悟に思えてならなかった。
そう、例えば、戦争をはじめるにあたって、権力者は必ず「我々は誠意を尽くして歩み寄ろうとしたが、相手は聞く耳を持たなかった」と言って、兵士を戦場へ駆り出す。
たとえ、敵味方の立場が逆転したとしても、互いに同様の大義名分を立てるものだ。
そうして、人間同士の殺し合いを正当化しようとするときに、おそらく今のアルベルトと似た顔つきで、軍の指揮官は開戦の号令を下すのではないだろうか。
「俺の本当の名は、ヒューベルト・ハーニッシュという」
ニーナの前に座っている青年は、目を逸らしたりすることなく、
「アルベルトというのは、偽りの名だ」
「ヒューベルト、さん……?」
ニーナは、はっとして、自分の口元を手で覆い隠した。
青年は、名前のあとに続く家名を名乗っている。
すなわち、アルベルト――
いや、ヒューベルトは、称号こそ持たないが、少なくとも普通の平民ではない。
大土地所有者か、どこかの市参議会役員に名を連ねる商人、あるいはその血縁者。
または、下流貴族の出身であろう。
「それでは、ご出身が王国北部というのは?」
「生まれの国には、偽りない。実家は、間違いなくゴアルスハウゼンだ。俺の父は、土地の公爵に仕える騎士だった」
ニーナの質問に、改めてヒューベルトと名を明かした青年は、軽くかぶりを振ってみせた。左手が、腰に吊るした長剣の柄を弄んでいる。
「今は、俺が家督を継いでいる。取るに足らぬ、貧乏貴族に過ぎないがな」
その素性は、ニーナがたった今想像した通りだった。
騎士も、貴族の身分ではあるが、大抵領地や城は所有しておらず、爵位を持たない。
主に他の上流貴族の下に仕え、都市の裕福な商人などより暮らし向きがいい者は、ほとんどいないのが実情だ。
この青年も、おそらくそうした騎士の一人であろう。
「それで、君に頼みたい仕事は、書簡の代筆なのだが」
ヒューベルトは、ようやく本題に入った。
「宛名は、ゼントリンガー公ゲオルグ閣下」
ニーナは、思わず息を呑んだ。
ゼントリンガー公爵と言えば、アステルライヒにおいて、国王フランツに次ぐ権力者だ。公爵自身が統治する領地はもちろん、王国全土に対して非常に大きな政治的影響力を持つ、名門大貴族である。
「したためてもらいたい内容は、俺が任ぜられている密命の経過報告書だ」
「それは……私のような町娘がお引き受けしても、よろしいのでしょうか」
ニーナは、詮無き問いだと察しつつも、たしかめずにいられなかった。
もし、彼女に任せられないと判断していれば、ヒューベルトは最初から秘密を一切打ち明けようとはしなかっただろう。
むしろ、ニーナの悪い予感は、すでにより深刻な段階にある。
「もちろんだ。いや、かえって俺は、この町で君を措いて、いまやこれ以上の適任はないと思っている」
果たして、目の前の若い騎士は、力強く請け合った。
「けれど、貴族の方々の書簡に、一介の平民である私が関わるなんて、畏れ多いことですわ。ご遠慮させて頂くわけには、参りませんか」
「どうしても、ということであれば無理強いはできないが――」
ヒューベルトは、ニーナの反応を窺うように、そこでいったん言葉を切ってから、
「俺に関わる秘密を知ってしまった以上、この仕事が断られれば、今後は君の身の確実な安全は保障しかねる」
「それは、どういうことですか」
「この任務には、俺の動向を突き止め、妨害しようと考える人間が居るとも知れぬのだ」
「……私が、ヒューベルトさんの素性を知ったために、秘密を聞き出そうとする人から危険な目に遭わされるかもしれない、と?」
「君は、本当に聡明な女性だ」
ヒューベルトは、説明の手間が省けるとでも言いたげに、ニーナを褒めた。
「依頼を引き受けてくれるなら、少なくとも俺がこの町に居るあいだ、君の身の安全は俺が約束しよう。君のことは、俺が守る」
ニーナは、唖然として、改めてヒューベルトの顔を見た。悪い冗談だと思った。
だが、この青年の面持ちに、ふざけた様子は窺えない。
到底、素直に受け入れられる話ではなかった。ニーナからすれば、半ば不意打ちで巻き込まれ、脅迫めいた条件を突き付けられたに等しい。
若い騎士から見詰められ、「君は俺が守る」と告げられる。
これが仮に異なる状況で、恋に恋する町娘であれば、胸ときめいて、頬を染めるのかもしれない。恋愛物の騎士道叙事詩などでは、大定番とも言える展開だ。
しかし、ニーナの精神性は、もっと遥かに実際的だったし、これは甘い作り話でもない。
持ち掛けられたのは、ほとんど無体な取り引きであった。
ニーナは、少しのあいだ考え込んだ。
「――代書料金は、余計に多く頂けるのでしょうか」
本心とは裏腹に、ニーナは大きく溜め息を吐いて言った。とりあえず、ここは観念してみせるしかないようだった。
交渉が成立したと見て、ヒューベルトは薄く喜色を浮かべて承知した。
「もちろんだ。すべて金貨で、相場の倍以上支払っても、まったく差し支えない」
「それでは、ひとまず代書内容の件について、詳しくお聞かせください」
「わかった。――君には、以前に少し話したと思うが、俺に与えられた任務というのは、ある人物の捜索だ」
「たしか、この町で落ち合う予定のお知り合いの方でしたか」
「いや。それもいったん、事実を誤魔化すために使った嘘だ。混乱させてすまない」
ヒューベルトは、再三重ねて謝った。
とはいえ、もはやその言葉には、ほとんど罪の意識は窺えず、かたちの上で告げているだけのように感ぜられた。
やはり、彼は一連の言動に、自分なりの正当性を見出しているのだ。
ニーナには、そのように思えてならなかった。
この若い騎士の両目には、強く、己に課された任務を、必ずや成し遂げようという決心が表れている……
まるで、鋼鉄のように硬い、揺ぎ無き意志が。
そして、ヒューベルトは彼女に、厳かな声で言った。
「俺が捜している人物は、国王ラーヴェンスブルグ公フランツが御子息で、アステルライヒ第二王子――先頃、ハーナウ丘陵の戦で亡くなった、王子ヴィルヘルム殿下の弟君だ」