6:レムシャイト伯爵
ナスターシャは、ニーナの様子をそっと興味深げに眺めていた。
「葉の緑」広場に着いてから、二人で市場を歩いているあいだも、ずっと代書人の少女は、何事か考えを巡らせているらしかったからだ。
精肉やチーズの露天商を順に回って、ヨハンから頼まれていた食材を買い付けながら、ずっとニーナの瞳は、別の何かを模索しているように見えた。
ナスターシャは、そうしてニーナが思案に耽る姿が好きだった。
親友として、また同性として、彼女の犀利な一面は、とても魅力的だと感じる。
いつもニーナは、自分は男に生まれるべきだった、と零しているが、ナスターシャは決してそうは思わない。
むしろ、ニーナが自分と同じ女性でいてくれて、本当に嬉しかった。
ニーナが凡庸な男性など、足元にも及ばないぐらい、知的で聡い女性であることは、同性のナスターシャにとっても、密かに痛快だったし、心強かったのだ。
「雑貨屋のご主人が話していた、『気弱そうで、前髪が両目に掛かるぐらい伸びていた』っていうお客さん――」
ニーナは、買い込んだ食材を、麻の荷袋の中へ納めつつ、
「やっぱり、うちの宿に泊っているローラントさんのことかしら」
アレンドルフから来たというローラントなら、雑貨屋の主人も顔に見覚えがないのは当然である。まだ彼女たちより若い少年だった、という特徴も符合した。
「ニーナは、どう思うの?」
「……わからないわ」
ナスターシャが問い返すと、ニーナは考え深げにつぶやいた。
ローラントの実家は、乾物の露天商だという。
ナスターシャも、酒場で本人の口から、彼の話は耳にしていた。
ヘルネを訪れた目的は、近郊の農村で、素材になる葡萄を買い付けること――
葡萄は加工して商品にすることと、輸送の手間や経費も考慮するなら、現地でまとめて仕入れ、運搬作業を手伝う人間も、一時的に雇い入れたりすることがあるかもしれない。
改めて考えてみると、ローラントのように柔弱そうな少年が、そうした大きな仕事のために一人旅してきたというのは、ちょっと意外な印象を受ける。はっきり、違和感があるとさえ言ってもいい。
ただ、人は見掛けだけで判断することはできない。それは、少女ながら代書人であるニーナにも言えることだった。
だから、この際、上辺のことはさておき、「ローラントには読み書きの知識がある」というのは、充分に考えられることだ。
商材の買い入れや短期雇用の契約にあたって、書類を作る必要性があるかもしれないからである。
他にも、場合によっては、実家の店と、書簡で連絡を取ることもあるだろう。ノルトシュタイン帝国の沿岸都市などでは、遠隔地貿易の発展に伴い、商業通信が発達している。
もし、彼の家族が進歩的な商人だとすれば、そうした技術に学んでいるとも限らない。
もちろん、そうした事務処理は、すべて代書人に任せてしまうこともできる。
しかし、ローラントが生粋の商人で、日頃実家の帳面に触っているとしたら、やはりそれなりに読み書きに長じていても不自然ではなかった。その方が、旅先で余計な出費を支払わずにも済む。
「もう一人の、『傭兵か冒険者風のお客さん』については?」
「それは、ますます訳がわからないわね」
ナスターシャが続けて問うと、今度は「お手上げ」といった様子で、ニーナは小首を横に傾けながら、苦笑してみせた。
傭兵か冒険者、と言うと、ナスターシャにも真っ先に思い浮かぶのは、宿の連泊客であるクレイグだ。
妖魔退治で町役場を訪れたとき、書類を自分で読み書きしたという逸話が事実なら、羊皮紙を購入していたとしてもおかしくない。
もっとも、雑貨屋の主人から聞かされた客の風貌と、クレイグの外見的な特長には、かなり大きな齟齬がある。
雑貨屋を訪れた男性は、見たところ三四、五歳というから、クレイグとは一回りも年齢が違う。また、中肉中背というのも合致しない。クレイグは、誰の目にも明らかに大柄で、逞しい身体つきだ。
それらを念頭に置くなら、こちらの客は、クレイグとは別人と見た方がよさそうに思えた。
「どうして最近、こんなに宿の受付仕事以外で、他所の土地から来た人の話を、頻繁に町で聞く機会があるのか。それ自体、よくわからないわ」
ニーナは、麻の荷袋を小脇に抱えると、また別の露店を目指して歩き出した。
ナスターシャも、自分の分の荷物を持って、それに倣う。
「この頃、ヘルネを訪れる人が増えても、なぜか素直にいいことだとは思えないのよ。何か、不思議な胸騒ぎを感じて……」
ニーナの夏空みたいな青い瞳に、ふっとかすかな翳りが覗いたように見えた。
ナスターシャは、件の旅人の噂をニーナに話したとき、彼女が「読み書きのできる人物を捜しているのかもしれない」と言っていたことを、思い出していた。
仮に、ニーナの推測が正しかったとすれば、ここ一週間ぐらいのあいだに、雑貨屋を訪れた二件の客は、ひょっとすると最初の旅人が捜している相手なのだろうか。
三〇代半ばの冒険者風の男性と、前髪が目に掛かった少年のいずれか。あるいは、その両方が該当するという見込みも、あり得なくはない。
また、それらが事実なら、次に個々の人物の素性が問題となる。
雑貨屋の主人の証言と照らすと、三人のうち、少なくとも二人までには、「黄昏の白馬」亭で逗留している連泊客と、同一人物の疑いが生まれる。
①:山吹色の短髪と暗緑色の外套の旅人 → アルベルト?
②:三〇代半ばぐらいの革鎧を身につけた冒険者 → 不明
③:前髪が両目に掛かるほど伸びた少年 → ローラント?
さて、もしも噂の旅人①と前髪の伸びた少年③が、それぞれアルベルトとローラントだとしたら、どういったことが言えるだろうか。
何しろ、二人は知ってか知らずか、同じ宿屋(それも隣の客室)に宿泊している。
酒場で食事のときに、両者が顔を合わせているのを、ナスターシャはもう何度も見掛けていた。
これは、果たして、どういった可能性を示唆するものなのか……
丁度、ナスターシャが、彼女なりにあれこれと想像力を働かせ、ニーナに意見を求めようとしたときだった。
にわかに、二人は「葉の緑」広場の路上で、予期せぬ出来事に遭遇した。
花売り露店の前で、ちいさな人の輪ができている。
「――閣下。いつも申し上げておりますが、こういった御戯れは自重して頂かねば」
七、八人の視線が注ぐ先から、年配男性の声が聞こえてきた。どこか素行の悪い子供を叱責するような、戒めと気疲れの綯い交ぜになった口調だった。
そちらに注意を引かれたのか、ニーナが足を止めたので、ナスターシャも彼女の隣に並んで立ち止まった。
輪の中心では、店の軒先で、数人の人物が向き合っていた。
一人は、すらりと背の高い青年で、仕立ての良い衣服の上から、落ち着いた色合いの外套を着用に及んでいる。一見するとわからないが、細部まで注意を払うと、着衣の細部には、洒落た装飾が施されていた。
外套には、頭部を深く覆うフードが付いているが、今は下ろされ、素顔があらわに曝されている。
年恰好は二五、六歳といったところだが、肩に掛かる長さまで伸ばした亜麻色の髪や、切れ長で悪戯っぽい紫紺の両眼には、中性的な雰囲気が漂う。
その青年の真向かいに立っているのは、白髪で、同じ色の髭を口元に蓄えた老人だ。右手で杖をつき、左手は腰の後ろへ回され、呆れた表情を浮かべている。
老人の傍らには、使用人と思しき中年男性が控えていた。
「町長のネッカーさんだわ」
ナスターシャの横で、ニーナが白髪の老人を見て、囁くようにつぶやいた。
「こんなところで、何かあったのかしら」
「ねえ、ニーナ」
ナスターシャは、青年の特徴的な面立ちに、見覚えがあった。
「あちらの方――もしかして、伯爵閣下じゃないかな」
この町で、「伯爵閣下」と言えば、当然ヘルネが属している郡部レムシャイトを治める伯爵で、ルーファスのことだ。
伯爵は、毎年時節ごとの祝祭や行列で、従者を引き連れてヘルネを訪れるから、彼女も何度か遠目にだが、催しの場での姿を見た記憶があった。若く、あたかも美しい石膏像めいた、レムシャイト伯ルーファスの顔は、極めて印象的だった。
「これは失礼しました、ネッカー殿」
ルーファスは、いかにもその容姿に相応しい、音楽的な声で言った。
「とはいえ、私がこうして折りに触れ、私的にヘルネを訪れるのも、この町の空気を愛しく想えばこそ。お見逃し頂けませんか」
「閣下。ご自分のみならず、我々のような、ヘルネの行政に関わる者共の立場もお考えください」
ネッカーは、嘆息混じりに、かぶりを振った。
町の市参議会は、祝典などの公式行事に、しばしば郡部統治者であるルーファスを招待する。
出席に際しては、同時に市参議会から伯爵に対して、あらかじめ様々な要望が提示されるのが常だ。例えば、町側が同行を許容できる護衛の騎士や従者の人数、都合のいい来訪日時、滞在期間など……。
アステルライヒの統治者と被統治者との関係は、完全に一方的な、専制独裁思想のみで彩られているわけではない。
特に、民衆の代表者である市参議会役員には、出自が平民とはいえ、一定の政治的な発言力が認められている。
そして、「貴族を町へ迎え入れる」立場にある彼らにも、公衆の場における体裁があり、その一方行政には予算が限られている。
地元の統治者が、予告なく突然現れて、町が何の持て成しもできない――というのは、町長などからすれば、居心地が良くないのだった。
「いいですか、町長。貴方の造り上げたヘルネが、私の心を惑わすのです」
ルーファスは、殊更芝居がかった口振りで言った。
だが、ネッカーの表情には、この若い伯爵から「貴方の造り上げたヘルネ」と間接的に持ち上げられても、心動かされた様子は見て取れなかった。
「高く澄んだ蒼穹、近郊に広がる豊かな葡萄畑。清らかなウルムの流れに抱かれた、閑静な町並み。そこを行き交う、純朴で、心優しき人々――」
ルーファスの語る修辞は、ひどく安っぽい。けれども、彼自身の浮世離れした容姿や、透き通った声音と相まって、古典歌劇を想起させずにおかなかった。
「人は、誰しもヘルネのような、詩情溢れる土地に惹かれます。これを愛でたいと願う想いは、幼子から成人まで、等しく胸に生まれるものとは、お思いになりませんか?」
「たとえ幼子であっても、それを自制するぐらいの分別はございます」
ネッカーは、冷淡に断じた。
しかし、ルーファスは懲りずに続ける。
「ああ、麗しのヘルネ! 癒しの楽園よ、約束された安息の町よ。私は、この土地の上に立つ誇りを、今この胸に刻みましょう。愛すべきこのヘルネ……!」
ルーファスは、わざとらしく、自分と町長のやり取りを眺めている見物人たちの方へ振り返る。両手を広げながら、己の主張の正しさを、訴えるような身振りだった。
市場の一隅を、即席の劇場と化すかの如き、強烈な個性である。
――ところが、そこで不意にルーファスの身動きが止まった。
「ほう、これは……」
ルーファスの視線は、町民が作る人の輪の一点で止まった。
それでナスターシャは、ひどく嫌な予感がした。
若き伯爵の紫紺の両目が、彼女の隣に立っている金髪の少女を、明らかに見詰めていたからである。
「なんということだ――やはりこの町は、天の神々から、美の恩寵に預かっているに違いありません。こんなところで、真の天使に出会うとは!」
独白めいた言葉を並べながら、ルーファスは外套を翻し、優雅な足取りで、輪を作る人々の傍へと歩み寄ってきた。すでにネッカーのことなど、おかまいなしだった。
もちろん、進行方向の先には、ニーナが立っている。
「初めまして、お嬢さん。私は、ルーファスと申す者です」
ニーナの前へ進み出ると、いきなりルーファスは、腰を折って身を屈め、右手を左胸に当てながら名乗った。
身分の高い貴婦人と接するときにする、見事に洗練された儀礼的な所作だった。
「貴女の美貌を、今一目拝見して、居ても立ってもおられず、ご挨拶申し上げました。どうぞ、貴女の憐れな虜のために、そのお名前をお聞かせください」
「――あ、はあ。ええと……」
ニーナは、ここに至って、ようやく事態を把握したようだった。
呆然と、完全に他人事のように固まっていた表情が、一瞬、素に戻り、次いで急激に硬直しはじめる。
周囲の見物人の目が、ニーナの身へ一斉に注がれていた。ナスターシャもまた、その例外ではない。
この美しい金髪の少女が、目の前の伯爵に向かって、果たしてどういった返答の言葉を紡ぎ出すのか、誰もが固唾を呑んで見守っていた。
「すみません。そういうのは、間に合っていますので」
ニーナの返事は、まるで押し売りを突き返すようだった。
途端に、周囲からざわめきの声が起こる。さすがのネッカーでさえ、軽い驚きに目を見開いていた。
まさか、爵位のある貴族から声を掛けられ、これを一介の平民の娘が、素気無く一蹴するなど、ほとんど常識では考え難いことだった。同様に否定的な発言でも、行政の当事者である町長とは、まるで立場が違う。
しかも、ルーファスは、ニーナに対して充分以上の礼を――たとえ、その印象が軽薄だったにしろ――尽くして挨拶したにも関わらずだ。
「これは、美しい上に、実に気丈なお嬢さんですね!」
しかし、ルーファスは、少しも腹を立てた様子を見せなかった。
「ますます魅力的だ。あたかも貴女は、伝説の戦乙女のようです。きっと、ここで私たちが出会えたのも、運命神ニンテスの導きでしょう。そうは、お思いになりませんか?」
「申し訳ありませんけど、私はちっとも」
ニーナは、またしても、同意を求めるルーファスを、一言で峻拒した。
おお……、と人々の口から、再びどよめきの声が漏れた。
ルーファスは、若いが寛容な領主だと、日頃民衆は評判にしている。
とはいえ、仮にも貴族が、こうも冷淡な態度を取られて尚、懐の広さを示し続けるかどうかは、余人の判断が及ぶところではなかった。
器量が大きいことと、無礼を許すことは、同義ではない。
ナスターシャもまた、隣でニーナの表情を横目に見て、うろたえ、困惑していた。
ニーナにとって、ルーファスのような男性は、もっとも波長のそぐわない人物なのだ。
若い伯爵から話し掛けられる都度、ニーナは顔に引きつり気味の笑みを貼り付かせ、頬やこめかみのあたりを、小刻みに震わせている。嫌悪感からか、最初は顔色が青く変わり、紫を経て、いまや苛立たしげな真紅に染まっていた。
無闇に容姿を褒められることや、大袈裟で気取った身振り口振り、さらにはザルヴァ教団の教えにも登場する、運命神の御名を持ち出した表現……
どれを取ってもルーファスの言葉には、ニーナが嫌悪し、心を閉ざす要素しかない。
「――あの。私、まだ仕事の途中で、早く帰らないといけないので」
それからニーナは、ルーファスに対して一方的に切り出した。おもむろに、空いている右手で、いきなりナスターシャの左の手首を掴んだ。
「もうこれで、失礼致します」
決然と言い放ったかと思うと、ニーナは踵を返し、その場から立ち去ろうとした。強引にナスターシャの手を引き、人の輪の外へ離れる。
少し意外なことに、ルーファスが彼女たちを呼び止めるような声は、聞こえて来なかった。
ニーナは、真っ直ぐ前方だけを眼差し、市場の区域から出るまで、ひたすら早足で歩き続けた。
○ ○ ○
「……ニーナ。ねぇ、待ってニーナ!」
「葉の緑」広場の外れまで来たので、ナスターシャはそろそろ良かろうと思い、金髪の少女を呼び止めた。
ニーナの歩調は、緩やかに減速し、ほどなく立ち止まって、ナスターシャの方を振り返ってくれた。その顔は、不機嫌を絵に描いたような、真っ赤な膨れっ面で、すっかり本来の美貌が台無しだった。
「もう、ホントに信じられないわ!」
ニーナは、ナスターシャが問い掛けるよりも先に、もはや我慢ならないといった口調で、憤懣を撒き散らしはじめた。
「いったい、何なのよあの人!」
「えっと、レムシャイト伯爵のルーファスさまだと思うけど……」
「私もそれは気付いたわよ、会話の流れと辺りの雰囲気で」
ニーナは、ちょっと子供っぽい仕草で、地団駄を踏んでみせた。
「あのルーファスって人、つい先日は別の町娘に声を掛けているのよ」
「えっ……?」
「その前は、また別の女の子。詳しいことまではわからないけど、きっとお忍びでこの町へ来るたび、目についた女の子には、誰彼かまわずあんなこと言って回ってるに違いないわ」
「どうして、そんなことがわかるの?」
ナスターシャがたずねると、ニーナは不意に躊躇する素振りを見せたものの、もはや辛抱ならないとばかり、忌々しげにつぶやく。
「……恋文の代書依頼が、私のところに度々来るから」
ニーナの瞳には、苦り切った色がありありと浮かんでいた。
彼女の説明によると、特にこの数ヶ月間は頻繁で、伯爵宛てで受注した代書依頼は、一〇件以上に上るという。ほぼ毎週一通は、「親愛なる伯爵閣下」という書き出しではじまる手紙を、異なる依頼者の発注でしたためているそうだ。
一瞬、その事実を言い淀んだのは、仕事に対する守秘精神が強く、いかにも生真面目なニーナらしい。実際、恋文を発注した依頼者が、具体的に誰なのかなどまでは、彼女はそれ以上決して口に出そうとしなかった。
「ヘルネが田舎町だからって、世間知らずそうな子を、次から次へと誑かして――あれこそ、まさに女の敵よ。一見、紳士らしい物腰だから、余計に性質が悪いわ」
ナスターシャは、ニーナの言葉から滲むルーファスへの反感に、何か特別のものを感じ取らずにいられなかった。
もちろん根本的に、浮気性な男性を好む少女など、世の中に居るはずがあるまい。
けれども、ニーナの憤慨の裏には、いま少し深い色合いが覗いている。
ナスターシャは、親友の心情を、密かに洞察しようとした。
もしすかると――
ルーファスが際立った容姿を持って生まれながら、そこに対してまるで疑問を抱く様子もなく、かえってそれを利用しているかのように見えることにこそ、ニーナの怒りは向けられているのではないか。
ナスターシャには、そう思えてならなかった。
容姿や性別、信教の種類や社会的な地位などによって、個人を正当に扱わず、特定の先入観だけで評価することを、ニーナはとにかく嫌っているのだから。
ナスターシャが、内心そういったことを考えながら、次に何を告げるべきか迷っていると、唐突に傍から語り掛けてくる人影があった。
「――……君は、本当に興味深い女性だな、ニーナ」
ごく最近耳にするようになった、若い男性の声だ。
二人の少女は、誘われるように、広場の片隅から伸びた狭い路地を見た。木造の建物が隣り合った隙間で、物陰に身を隠すようにして、一人の青年が立っていた。
「アルベルトさん……?」
ナスターシャは、確認するように問い掛けた。彼が自分ではなく、ニーナに対して話し掛けているのはわかっていたが、びっくりして、思わず先に名前を呼んでしまった。
山吹色の短髪と、暗緑色の外套。それに、腰から吊り下げた長剣。
紛れもなく、「黄昏の白馬」亭の連泊客のアルベルトだった。
「どうして、アルベルトさんはここに?」
「たまたま、偶然だ」
ニーナがたずねると、アルベルトは即答した。
だが、さすがにすんなりとは信用し難かった。偶然通り掛かった人間が、狭い路地で人目を避けるように立っているのは、どうも不自然である。
「それにしても、あのレムシャイト伯から名を訊かれ、ああも遠慮会釈なしに跳ね除けてしまうとは。大概の町娘なら、相手の身分に目が眩んで、舞い上がってもおかしくはないだろうに。――あの妙に役者じみた立ち居振る舞いについては、さて措くとして」
「あの、さっきの市場での出来事を、ご覧になってらっしゃったのですか?」
「だから、たまたまだと言っている」
アルベルトは繰り返し、ニーナの問いを退ける。
ナスターシャは、ちらりと親友の様子を窺おうとした。見ると、ニーナも彼女を目だけで眼差してきて、一瞬互いに視線が交わった。
旅人風の青年の真意を、ニーナもまた測りかねているようだった。
しかし、アルベルトは、二人のやり取りを意に介する素振りもなく、先を続けた。
「伯爵は、噂で聞いたところによれば、古代の『魔法』の使い手だともいう。そんな貴族を前にして、相手の好意を拒絶するのは、恐ろしくなかったのか?」
そう、レムシャイト伯ルーファスは、たしか「魔法使い」なのだ。
ナスターシャも、その話は聞き覚えがある。
先代の伯爵から、郡部の統治を世襲する以前、ルーファスは学術都市シュマルカルデンの大学で、政治学や法学と共に、古代魔法を修了し、学士号を得たらしい。その後、爵位を継ぐため、博士号の取得は断念したものの、世にも不可思議な異能の力を操ることは、間違いないはずだった。
西方共通語でさえ、読み書き堪能な者は数限られている。
高位古代語の文字を用いねばならない「魔法」を行使できる人間が、どれほど希少で、世の中から畏怖や崇敬の念を抱かれ、距離を置かれているかは、誰もが知るところだ。
「……どんな方であっても、私と同じ人間であることには、変わりないはずです」
ニーナは、幾分普段の落ち着きを取り戻した様子で言った。
「君の心は、気高いのだな」
アルベルトは、ニーナの返事に、深くうなずいてみせた。なぜか、その口元からは微笑が漏れ、うっすら満足げだった。
もっとも、その表情を覗かせたのは、ほんの数秒だけだ。アルベルトは、すぐにいつものやや堅苦しい顔つきに戻って、「葉の緑」広場の方を振り返る。
ナスターシャも、釣られてそちらを眼差した。
すでに市場の辺りから、先ほどの出来事の余韻は感じられなかった。
ルーファスと町長も、もはやあの場に留まってはいないだろう。
そもそも伯爵のヘルネ訪問は、非公式なもので、殊更衆目を集め続けることに、何の益体もない。かえって町長は迷惑していたわけだし、話があるにしろ、今頃は場所を変えているに違いなかった。
「さて。俺はこれから、まだ別の用事が残っている。もう、行かせてもらうぞ」
アルベルトは、それだけ告げると、二人の少女が来た方向と反対に、「葉の緑」広場を目指して歩きはじめた。
立ち去る青年の背中に、ナスターシャが頭を下げると、ニーナも僅かに遅れてそれに倣う。
アルベルトは、後ろを振り返ることなく、足早に町の中心部の雑踏へ入っていった。
「私たちも、そろそろ宿に戻りましょう。たぶん三時課の鐘まで、もうそんなに時間がないわ」
「――ええ、そうね……」
ナスターシャがうながすと、ニーナはまた少しだけ間を置いて、その提案に同意した。
代書人の少女は、どことなく思案顔だった。そして、彼女の夏空みたいに青い瞳は、アルベルトの姿が広場の人波に呑まれ、見えなくなったあとも、まだしばらくそちらをじっと見詰めていた。