5:西通りの店
下働き娘のナスターシャは、最初に酒場でアルベルトを見掛けた翌日、ニーナにそっと耳打ちで懸念を示してきた。
「あのゴアルスハウゼンから来たお客様だけど、もしかすると先日まで『鐘を鳴らす天使』亭に連泊していたっていう、噂の旅の人じゃないかしら」
「――本当に?」
ニーナが驚いて問い返すと、ナスターシャは不安そうな面持ちでうなずいた。
「山吹色の短髪で、外出時には暗緑色の外套を羽織った服装だって、雑貨屋のご主人が教えてくださったもの」
たしかにアルベルトは、年齢的な特徴も、人によってはニーナたちと同じぐらいに見えるかもしれない(実際には、少し年上だと思われるが)。
出身地が北部の大都市だという点も、噂の旅人について抱いた想像と合致する。
ニーナは、思わず考え込んだ。
ナスターシャの言葉が事実なら、アルベルトは「黄昏の白馬」亭を訪れる前まで、町の広場に近い「鐘を鳴らす天使」亭に泊っていたことになる。
アルベルトが宿泊先を変更した意図は、何なのか。
理由は、いくつか推察できなくもない。
例えば、高級宿屋の「鐘を鳴らす天使」亭で連泊し続けるのに、路銀が少々心許なくなった、というのはありえる。
アルベルトは、仕事の都合で、人捜しをする羽目になった、と言っていた。
噂話によると、見知らぬ顔の旅人が「鐘を鳴らす天使」亭で連泊しはじめたのは、おおよそ一週間ほど前からだったという。
その間に必要な宿泊費は、おそらく金貨一五枚を下らない。ニーナが一ヶ月間、休みなく働いて、ぎりぎり手に出来るかどうかという金額だ。それも宿屋の下働きの仕事と、代書の儲けを全部合わせなければ、不可能である。
つまり、特定の手に職のある人間とか、稼ぎのいい商人でない限り、一般の平民にとってはそれなりの大金、といってよかろう。
普通、収入のない旅人が、いつまでも支払い続けられるものではない。
いまひとつ考えられるのは、アルベルトの人探しが「鐘を鳴らす天使」亭では思うように進まず、拠点変更を判断させたのではないか、ということだ。
もし、噂の旅人とアルベルトが、本当に同一人物だとすれば、そこから更なる憶測が広がる。
まず、件の旅人は、雑貨屋で羊皮紙や蜜蝋の売れ行きを気に掛けていた。
これは、たぶんアルベルトがこの町で、読み書きの出来る人間を捜しているからだと、ニーナは睨んでいる。
ニーナが受付で、宿の台帳に彼の名前や出身地を記入したとき、アルベルトは妙に感心した態度を示し、「文章を書くことはできない」とはっきり言った。
それゆえ、彼は自分で手紙を書いたりすることが目的で、雑貨屋の主人に羊皮紙や蜜蝋についてたずねたのではないはずだ。
そこで仮に、アルベルトの捜している知人の素性を連想すると、おそらく裕福な旅行中の商人か、どこかの官吏、あるいは名の知れた芸術家などが思い浮かぶ。
読み書きの技能を持ち、かつ接触を試みるにあたって、高級宿屋を真っ先に探すような人間の身分となれば、そのあたりが妥当ではなかろうか。
そして、アルベルトはそういった人物と、どこか旅の途中で、なぜかこのヘルネで落ち合う約束を取り付けた――
彼の言葉をそのまま信用するなら、そういう推理が成り立つ。
ところが、きっと「鐘を鳴らす天使」亭では、アルベルトの捜す相手は、思惑が外れて見付けられなかったのではないか。
それで今度は、「黄昏の白馬」亭に宿泊先を変えてみた。
ニーナに客室で銀貨を手渡し、自分以外の逗留客がいないか聞き出そうとした理由も、そう考えれば得心がいく。
もちろん他にも、推測の余地はある。
しかし、ひとまずニーナは、それ以上の想像を思い止まった。
何しろ、噂の旅人がアルベルトだという前提からして、これはいかにも不確かな命題だ。いたずらに決め付けるのは、危険すぎる。
しかも、そのアルベルトは、今現在「黄昏の白馬」亭の宿泊客なのだ。
妙な先入観から、必要以上に身の上を詮索するのは、客への礼を失することにもなりかねない……
「ニーナは、アルベルトさんを接客したときに、何か気付いたことはなかった?」
「――そうね。特に、何もなかったかしら」
ナスターシャに問われ、ニーナは一瞬考えてから、平静を装って答えた。
アルベルトが人探しをしているらしいことや、情報提供の見返りに金銭の授受を持ち掛けてきたことは、あえて話さなかった。
「そう。それならいいけれど……お客様にも色々な人が居るから、お互い気をつけましょうね。特に、ニーナは美人だから」
いつものように心配性のナスターシャは、そう言ってニーナに注意をうながした。
そうして、アルベルトとローラントが「黄昏の白馬」亭に滞在してから、三日が経過した。二人は、共に連泊期間を三泊四日ずつ延長し、宿泊費を追加で支払った。
クレイグを加え、逗留客が三人になっても、そのあいだに目立って変わったことは、宿屋の中でこれといって何も起こらなかった。
アルベルトとローラントは、いずれも明らかにクレイグより、素行のきちんとした客に思われた。
三人の連泊客の中で、毎朝起床が一番早いのはローラントだった。いつも朝陽の鐘を合図にベッドを出て、身形を整えているらしかった。
そして、いち早く朝の祈りを済ませるために、一人で教会へ出掛けていく。
ただし、宿に戻ってくるのは、三時課の鐘が鳴るよりもあとだ。本人の話すところによると、礼拝にはわざわざ北地区にある教会まで足を伸ばしているそうだった。
「帰りの途中で、広場の朝市を見てくることにしているんです……」
ローラントは、控え目だが、殊勝な態度で言った。
「他所の土地の商売を調べておくのも、色々と勉強になるので……。やはりヘルネは、王国南部ですから――アレンドルフやラーヴェンスブルグとは、市場の品揃えが随分違いますね……」
次に起床が早いのは、無論アルベルトだ。
だいたい三時課の鐘が鳴る前後に、客室から出てくる。
それから旅人風の青年は、すぐさま隣の酒場へ向かい、軽めの朝食を取るのだが、そこで教会から戻ってきたローラントと、毎回顔を合わせるのだった。
朝食を終えると、アルベルトはふらりと町へ姿を消す。
別段、誰にも行く先は告げない。
例の人捜しのため、町のあちこちで何らかの訊き込みを行っているのだろうか……
ローラントも、朝食を済ませたあとは、再び宿を出て、ヘルネ近郊の農村に向かう。
この地域の葡萄の作付け状況を視察し、生産者と繰り返し話し合いの場を持っている、とのことだった。
クレイグが起床し、酒場の入り口を潜るのは、それよりさらに遅い時間帯になる。
○ ○ ○
「多少、食材の備蓄が心細いな」
酒場の食料庫を確認して、主人のヨハンが低く唸っていた。
逗留客が三人に増え、食材を消費する速度が、これまでよりやや早くなっている。
「黄昏の白馬」亭では、週に一度、風精霊の日に、ヨハンがまとめて荷馬車で酒や食材を仕入れてくるのが慣例だった。
次の買出し予定日までは、あと二日待たねばならない。
「ニーナ。ちょっと今から市場へ行って、ナスターシャと一緒にいくつか食材を買い足してきてくれ。荷馬車を出すほどじゃないが、一人で持つには重いだろう」
「ナスターシャも一緒にですか?」
ニーナが問い返したのは、宿の仕事の人手が足りるか、一応気に掛けたからだ。
「何、九時課の鐘の前に戻ってきて、おまえが受付に入ってくれさえすりゃ、こっちは俺とマリアで大丈夫だろう。酒場で昼間から飲み食いしてる客は、クレイグぐらいのもんだ」
ヨハンの言葉通り、正午の鐘が鳴るより先に、もう昨夜の宿泊客は大半が「黄昏の白馬」亭を発っている。
アルベルトとローラントは、各々自分の都合で外へ出掛けていた。これまでの傾向を鑑みれば、二人とも夕方までは帰って来ないはずだ。
「……ええと、だったらヨハンさん」
ナスターシャが、酒場の厨房から姿を見せて、控え目に申し出た。
「お買い物の前に、少し寄らせてもらいたい場所があるんですけど、かまいませんか? もちろん、九時課の鐘の前には戻ってきます」
「ほう。いったい突然、何の用件だ」
「実は、私の幼馴染に、ニーナに代書の仕事を頼みたいという人が居て――少し前に、今度彼女を紹介すると、約束していたのです」
この話は、ニーナも初耳だった。
ナスターシャは、ちらりといったんニーナの顔を見てから、先を続けた。
「その幼馴染は、西三番通りにある鍛冶屋さんの見習い職人なんです。今日は営業日なので、昼間のうちに行きさえすれば、彼に会えると思うんです」
ヨハンは、そういうことか、とゆっくりうなずいてみせる。
「代書の依頼なら、仕方ねぇな。そういう客は、大事にしなきゃ駄目だ。行って来い」
「ありがとうございます。――ニーナも、まずは会って、彼の話を聞いてくれるでしょう?」
ナスターシャは、ヨハンに頭を下げてから、ニーナの方を振り向いて言った。
もちろん、無下に断れるはずがなかった。
……こうしたいきさつで、ニーナとナスターシャは、この日の昼に町へ繰り出すと、まずは西三番通りの鍛冶屋を目指すことになった。
ヨハンから頼まれた食材の買出しは、他の用件が済むまで荷物になるので、後回しでいいことになっている。
ヘルネの西三番通りに出るには、町の中心部から、ウルム河方面へ向かう。
雑貨屋の前を通過し、河に架かる木造の橋を渡ったすぐ先に、「クビツェク鍛冶店」はあった。
都市によっては、河川沿いの地域と言うと、貧民居住地になりやすい。大雨で増水したとき、真っ先に危険が及ぶ一帯だからだ。
しかし、遥か下流で巨大河川と合流するウルムの水も、ヘルネ流域に限っては、他の土地とは事情が異なる。このあたりは流れが緩やかで、悪天候でも然程荒れず、町の歴史を紐解いても、水害で死者を出したという記録が、過去に見当たらなかった。
それで、ヘルネの西地区には、ごく平均的な層の町民・職工・商人が、住居や店を多く構えている。
鍛冶屋の建物に踏み込むと、ニーナは蒸し返るような熱気を感じて、思わず額から流れ出た汗を掌で拭った。
工房で常時高温に保たれた炉が、周囲の空気をも熱しているのだ。
ナスターシャは、作業場の中央へ進み出て、髭面の男性に挨拶した。一見すると、四〇代後半といった容貌だが、汗まみれの身体は筋骨隆々として、案外もう少し年上かもしれない。
彼が鍛冶屋の主人である、クビツェクらしかった。
ニーナは、ナスターシャが何度かクビツェクに頭を下げて、ここへ来た用件を説明している様子を、少し下がったところに控えて聞いていた。
話がまとまると、クビツェクは工房の奥に向かって声を張り上げ、まだ若い職工を一人呼び付けた。こちらは一八、九歳ぐらいの少年で、ニーナたちと明らかに同年代と見て取れる。
彼がナスターシャの幼馴染で、見習いのパウルだった。
「君が、代書人のニーナか……」
パウルは、ニーナの姿を見ると、両目を見開きながら言った。
「僕は、ナスターシャの幼馴染でパウル。それにしても、驚いた――まさか、こんなに凄い美人だなんて! 知り合えて、光栄だよ」
「はじめまして、パウル」
ニーナは、本当はあまり異性から、自分の容姿や女性であることについて、話題にされるのが好きではない。仕事の際は、尚更である。
何となく自分の能力が、「外見」という窓枠越しに評価されているような気がして、軽んじられてしまう感覚を抱くからだ。
けれども、さすがに初対面の相手に、自分の心情の理解を求めるのが難しいこともわかっている。まして、パウルはナスターシャの幼馴染だし、これは社交辞令の一種だろう。普通は、容姿を褒められて、喜ばない少女が居るとは考えない。
だからニーナは、柔和な物腰で微笑んで、パウルと握手した。
「ひとまず、ここで立ち話も何だから、向こうの部屋へ来てくれないか?」
パウルはそう提案すると、ニーナとナスターシャを、いったん工房の外へ連れ出した。
建物の裏手に回り込み、二人の少女を勝手口から改めて招き入れる。そこは、椅子や机が雑然と置かれた狭い部屋で、この店の事務所らしかった。
「君に頼みたかったのは、役場と職工組合に提出する書類の代筆仕事なんだ」
パウルは、ニーナとナスターシャに椅子を勧めながら、早速用件を切り出した。
「僕も、ここで見習い修行を積んで、そろそろ四年になる。親方の下を離れて、自分の店を構えてもいい時期だと思ってね」
「独立開業するんですか?」
今度は、ニーナが軽く目を見開く番だった。
職工の徒弟制度には、いくつか伝統的な慣習がある。
見習い職人は、個々人の才能や努力の差もあるが、大概四年ぐらいで一通りの仕事を身につける。
ただし、一人前と認められても、そこからすぐさま独立できる者はまれだ。
技術はあっても、開業資金が足りない場合が多い。
それに、ヘルネのようにちいさな町だと、住民人口に比して、どうしても職人の割合が高くなってしまう。それで職工組合は、既存店の利益確保の観点から、新規事業者が従事を希望する仕事の内容を精査し、開業の認可についてかなり慎重になる。
西方諸国の産業構造は、自由競争社会ではないのだ。
それゆえ、大抵の若い職人は、六年程度まで徒弟を続けたあと、地元を離れて、人口の多い大都市の店へ奉公に出る。
そこで改めて数年経験を積み、開業資金を調達してから、別の土地でようやく独立に踏み切るのがもっとも一般的だった。
「これまでも、この店の仕事で貰った給料を、地道に積み立てていたんだけどね。最近、ちょっとまとまった資金の目処が立ったんだ」
パウルは、少し得意げに言った。
「南地区の外れに、手頃な土地が売りに出ててるんだよ。そこなら、親方に頼んで、あと少しだけ融通してもらいさえすれば、僕も独立に踏み切れる」
「職工組合の審査は、大丈夫なんですか」
「ああ、この町には今、クビツェク親方の工房の他に、七件ばかり鍛冶屋があるけどね。僕のところでは、きちんと独立することさえできれば、ひとまず組合を通じて、一般家庭で使われるナイフやフォークとか、荷車に使う部品といったような、ちいさい仕事を中心に斡旋してもらえることになっている」
もちろん、それも親方が組合に口を利いてくれたおかげだけど――と、パウルは師匠に対する感謝の言葉を付け加えて、ニーナに説明した。
どうやら、この少年は、なかなかクビツェクに可愛がられているようだ。
「そこで、君が書類を揃えて、代わりに関係各所へ提出してくれれば、僕としては非常に助かるのだけど」
「なるほど……。あの、ナスターシャからは、私が普段は宿屋の下働きをしていて、専業の代書人ではないことは、すでにお聞きになってらっしゃるのかしら」
「その話なら、もちろん知っているよ」
パウルは、白い歯を見せて、ニーナに笑ってみせた。
「開業自体は、特に焦るような話じゃないからね。多少、時間が掛かっても問題ないよ」
「それと、これは書類の種類からいって、『紙』を使うご依頼になります」
ニーナは、さらに確認を重ねた。
「そのぶん、代書料金も、普通のお手紙を書くような作業より、若干経費の関係で割高になりますが、その点もご承諾頂けますか?」
東方諸国から伝わる「紙」は、最上質の書写素材である。
まだ西方諸国には、大量生産可能な工房が存在せず、植物繊維から製造する方法を習得した技術者も少ない。
それゆえ、エルベガルド経由で輸入されてくるものに頼らざるを得ず、羊皮紙より数倍高価なことが知られていた。
ただし、素材として厚手な羊皮紙と比べ、薄く書き心地の良い紙は、公的な機関に提出される証書に好んで用いられる。
記述した文章を、ナイフで削るなどして、偽装することが容易ではないからだ。
「ああ、たしかにそうだろうな。わかった、それも了解しよう」
パウルは、納得した様子でうなずく。
こうして、代書依頼はまとまった。
代書内容の詳細は、後日改めて詰めることになったが、土地の登記や開業申請の手続きを済ませるのに、何枚書類が必要なのかは、早速この場でたしかめた。
パウルは、ニーナに報酬の一割を、ひとまず前金として支払った。残りは納品時、完成書類と交換に受け取る約束になった。
「今日はありがとう。――もし、無事に独立開業まで漕ぎ着けたら」
パウルは、話が済むと、指で鼻の下を擦りながら、
「その折は、改めて君に、うちの店がお客と取り引きで交わす書面の代書も、年間契約で依頼しようかな。……その、もちろん君は、専業代書人じゃないから、都合を付けるのは難しいかもしれないけど。一応、考えておいてくれないか」
ニーナは、その申し出には、返事しなかった。
代わりに、お世話になります、とだけ礼を告げ、パウルと再び握手した。
それから、ニーナはナスターシャと連れ立って、クビツェクの工房を離れた。
○ ○ ○
鍛冶屋の事務所を出たあと、ニーナとナスターシャは、露店が並ぶ「葉の緑」広場で食材の買出しに取り掛かる前に、西二番通りの雑貨屋に寄ることにした。まだ、時間の余裕は充分にあった。
雑貨屋は、鍛冶屋に来たときの道を戻って、ウルム河に架かる橋を渡ると、すぐそこに建っている。
パウルの代書依頼が、証書の作成だとわかったので、新たに書類用の「紙」を仕入れねばならなかった。丁度、受け取った前金もあるので、店に置いてさえあれば、それで購入できる。
「ひょっとすると、今回の仕事って、わざわざ私のために探してきてくれたの?」
ニーナは、雑貨屋へ向かう道すがら、思い切ってナスターシャにたずねた。
先日、ナスターシャの前で、焼き菓子を頬張りながら、愚痴を漏らしてしまった自分のことが思い出される。あのときニーナは、「恋文の代筆より、書類作りのような仕事がしたい」と、彼女に向かって言ったのだ。
ナスターシャは、実は密かにそれを覚えていて、パウルからの依頼を取り付けてきてくれたのではないか。世話好きな彼女なら、いかにもありえそうなことだった。
だが、隣を歩く親友は、微笑みながら首を振った。
「そんなわけないでしょう。パウルが独立するのに、書類を作らなきゃいけない、って話していたのを私が聞いたのは、家がご近所だから。あくまで、たまたまだよ」
ニーナは、しかしその否定を、すっかり鵜呑みにはしなかった。
仮に、その話を耳にしたのが偶然だとしても、ナスターシャが事実関係を確認した上で、ニーナを紹介する旨を、パウルに持ち掛ける必要性はないのである。
「……あーあ。やっぱり私、ナスターシャがお嫁さんに欲しいなあ」
「ごめんね、ニーナ。私、お婿さんには、男の人を両親に紹介するつもりだから」
二人は取りとめのない会話を交わしつつ、西二番通りに至って、雑貨屋の店内へ踏み入った。
昼間なのに少し薄暗い店の奥へ進み、ニーナは主人に声を掛けた。
「書類に使う『紙』は、ちょっと今はおまえさんに売れる在庫がねぇな」
ニーナが事情を話すと、主人は腕組みしながら残念そうに言った。
「それに、卸し商人が来たときに訊いてみないと、すぐに仕入れられるかどうか……」
この雑貨屋では、毎週風精霊の日に、卸売業者がやってきて、商品の発注と納品を請けているらしい。「黄昏の白馬」亭で、ヨハンが食材を仕入れるために市場へ出るのと、同じ周期だ。おそらく、行商人が町の外から商材を運んでくる日程と、一定の関連性があるのだろう。
「風精霊の日は、明後日ですよね。そのとき、卸商の方が『紙』を持ってきていない場合は、そこで改めて発注することになると」
「まあ、そうなるな」
「注文をお願いして、その一週間後にはヘルネに届きますか?」
「さあ……そいつは、ちょっと断言し切れねぇや。何しろ、元は東の国で作られてる品物だ。ついこないだ、戦争があったばかりだろ? モスバッハ経由の通商路は、まだ安心して旅が出来る状態じゃないらしいからなあ」
卸し商人も、直接遠方の国まで出向いて買い付けるわけではない。途中、何度か仲買業者を介している。
しかし、不安定な世情の煽りを受けて、物流そのものが滞っては、打つ手なしというわけだった。
「これは、ちょっと困ったわね」
ニーナは、ほっそりとした白い指を、下唇に添えて考え込んだ。
このぶんだと、パウルに頼まれた書類を仕上げるまで、半月以上掛かりかねない。
他方、雑貨屋の主人が、「ニーナに売れる『紙』はない」と言ったのには、別の含意が汲み取れる。
すなわち、別の古株代書人には、以前から納品予定だった「紙」の在庫があるのだろう。あちらは専業で、これまで証書の仕事を常時請けているのだから、定期的に消耗品を発注しているのは当然だ。
手紙の代筆が中心で、兼業のニーナとは、手掛けている仕事の幅が違う。
こうなってしまうと、やはりパウルは、別の古株代書人に仕事を頼んだ方が、早く独立開業の手続きが済ませられる、ということになる。
もちろんパウルは、この発注にあたって、「開業自体を焦っていない」とは言っていたが……
「どうするの、ニーナ?」
「――仕方ないわ。次の風精霊の日になったら、『紙』が入荷できたかどうか、もう一度ここに来てご主人に訊いてみましょう」
ナスターシャの問い掛けに、ニーナは溜め息混じりで、
「それで、すぐに手に入らないようなら、改めてクビツェク鍛冶店へ行って、パウルにこのまま依頼を私に任せておいていいのか、確認を取ってみるわ」
「……なんだかすまねぇなあ。折角、うちの店を頼ってくれたのに」
雑貨屋の主人は、二人の少女のやり取りを見ながら、恐縮した様子で言った。
とはいえ、ヘルネでここ以外に、「紙」の仕入れが当てにできそうな小売業者は、ニーナたちには他に心当たりがなかった。
「それにしても、やけに近頃は、文字の読み書きに使う品を欲しがる客が増えたな」
「以前に噂だった旅の人のことですか?」
ナスターシャがたずねると、主人は真顔でかぶりを振った。
「それもあるが、一人だけじゃねぇ。あれからここ一週間ぐらいの間に、他にも二件、羊皮紙やインクを買っていったやつが居るんだ。しかも、どっちの客もやっぱり、これまでこの町じゃ見掛けたことのない顔でね」
「二件も?」
ニーナは、反射的に聞き返した。
思い掛けない事実に、つい好奇心を刺激されずにいられなかった。
「差し支えなければ教えて頂きたいんですけど、それはどういうお客さんでしたか?」
「そうだなあ……。最初に来たのは、中肉中背で三四、五歳といった風貌の男だっただろうか」
主人は、視線を店の天井へ向けて、記憶を手繰り寄せようとしているらしかった。
「外套で隠れていたが、下には胴衣の上から硬質の革鎧を身に着けていたようだった。もしかすると、旅の傭兵か、冒険者だったのかもな」
「もう一件のお客さんは?」
ニーナは、さらに主人をうながす。
「もう一人は、まだ若い――たぶん、おまえさんたちより年下のガキさ。妙に腰の低い、気弱そうなやつだった。両目に掛かるぐらい、邪魔臭そうに前髪が伸びていたな」
ニーナとナスターシャは、互いに顔を見合わせた。