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4:奇妙な連泊客

 青年の両目は、およそニーナのそれより頭ひとつ高いところから、彼女を真っ直ぐに眼差してきた。


「連泊をご希望ですか? 何日ぐらいのご滞在でしょうか」


 ニーナは、慇懃(いんぎん)な姿勢でたずねながら、改めて青年の姿を眺めた。

 彼女よりも少し年長で、二一、二歳ぐらいだろうか。初めて見る顔だ。

 外套の下に着込んだ濃い藍色の衣服は、厚手の丈夫そうな生地で、いかにも旅人風だった。荷物は、ざっと見たところ、肩から下げた大袋と、腰の左に吊るした長剣が一本。

 もし一人旅だとすれば、割り合い軽装と言えるだろう。

 ただ、それゆえかえって、どういう経緯で宿を求めに来た客かは、一見して判断がつかなかった。剣士などでなくとも、旅人ならば、護身用の武器を持ち歩くぐらいは、ごく普通である。


「何日になるかは、まだたしかなところが、ちょっとわからないのだが……」


 旅人風の青年は、妙に慎重な言い方で、


「しかし、たぶん三日以上は厄介になると思う」


「……はあ、何かお仕事の都合でしょうか。すっかり用事が済むまで、はっきり何日掛かるかわからない、というような」


 ニーナは、何となく気になって、やや遠慮がちに質問してみた。


「ああ、そんなところだ」


 青年は、気を悪くした様子もなく、平坦な口振りで答えた。ただし、返事は短く、曖昧なものでしかなかったけれども。

 ニーナは一応納得した素振りで、うなずいて見せなければいけなかった。あまり、ここでしつこく食い下がるわけにもいかない。


「この宿では、お泊りの代金は前払いとなっておりますが」


 ニーナは、いったん手元の宿帳に目を落とし、空室をたしかめながら、


「ひとまず、二泊三日で部屋をお取りしまして、三日目の六時課の鐘が鳴るまでに、その後の予定を延長するか確認させて頂く――ということで如何でしょう?」


「なるほど、承知した。それで頼もう」


 客の承諾を得たので、ニーナは羽根ペンの先端をインク壺に浸けた。空いた方の手で、台帳の名簿を一番新しいページまで捲る。


「それでは、お名前を頂戴してよろしいでしょうか。できれば、この町へはどちらからお越しになったのかも」


「俺の名か。――アルベルトだ」


 問われてから、一瞬間を置いて、青年は答えた。


「ゴアルスハウゼンのアルベルト」


「……これは、随分遠いところから……」


 アルベルトと名乗った青年の言葉に、ニーナは思わず感嘆めいたつぶやきを漏らした。


 ゴアルスハウゼンと言えば、アステルライヒ北西部ゼントリンガー公爵領の州都で、国内においてはラーヴェンスブルグに次ぐ規模の大都市だ。王国南東部にあるヘルネとは、ほぼ領土の対角線上の離れた位置にあって、北方ノルトシュタイン帝国の国境が近い。


 ニーナは、台帳の記入欄にそれぞれ、


 Albert(アルベルト)

 Sendlinger(ゼントリンガー)

 Goars(ゴアルス)hausen(ハウゼン)……


 と記入してから、ふと自分を見詰める視線に気付いて、ペンを止めた。

 アルベルトが、彼女の手元をじっと見ていた。


「――何か、ご用命がございましたでしょうか?」


「いや、すまない。少し驚いただけだ」


 アルベルトは、物珍しそうに、


「失礼だが、君のような若い女性が『ゴアルスハウゼン』の綴りを、そうも迷いなく書くところは、初めて見た」


「左様でしたか。これぐらいしか、取柄がないもので」


 ニーナは、愛想よく微笑してみせた。


「お客様も、西方共通語の読み書きをなさるのですか?」


「いや、俺は自分や家族の名前と、簡単な単語をいくつか――あとは、旅で地図を見るのに困らない程度、地名が読めるぐらいだ。書く方に至っては、全く無知蒙昧(もうまい)といったところさ」


 アルベルトは、不意に彼女と目が合って、やや慌てた様子で顔を逸らす。


「だから、君のように教養ある女性は、立派だと思う」


「宿屋の、つまらない下働き娘ですよ。賢しげとお思いでしょう」


「君は謙遜も、自ら卑下する必要もない」


「それは、ありがとうございます。お客様から、そういったお言葉を掛けて頂いたのは、初めてですわ」


 ニーナは、如才なく礼を述べる。

 この宿の中で代書人を副業に営んでいることは、今は説明を省いた。受付の仕事の最中には、余計な話だろう。


「……それで、いくら払えばいい?」


 何かを誤魔化すように、アルベルトはひとつ咳払いしてから言った。


「あ、はい――。二泊三日、お一人様一部屋で、お食事代は別になりますから……馬は、お持ちでしたでしょうか?」


「ああ、先に外の厩舎に繋がせてもらったが、かまわなかっただろうか」


「もちろん、差し支えございません。相部屋と個室、どちらに致しましょう。個室は、多少割高になりますが」


「個室で頼む」


「お支払いは、全て銀貨でよろしいですか?」


 いくつか細かい希望を確認した上で、ニーナは代金を計算して提示した。

 アルベルトは、懐から皮袋を取り出すと、金貨と銀貨で宿泊費を支払い、心付けとして銅貨を数枚受付の上に置いた。

 ニーナは、受け取った代金をたしかめてから、鍵付き金庫に納める。


 彼女が接客しているあいだに、二階から女将のマリアが下りてきた。

 客が発って空いた部屋を、丁度清掃し終えたところだった。



「それでは、すぐお部屋にご案内致します」


 ニーナは、マリアに合図を送って、入れ替わりに受付を離れた。

 心付けを渡された手前、彼女が直接アルベルトに部屋を教えるのが礼儀だ。

 上着と荷物をお預かりしましょうか、とニーナは申し出たが、アルベルトは鷹揚(おうよう)に辞退した。


 連泊を想定し、アルベルトに用意した部屋は、宿屋二階の東側にある一室だった。

 階段を昇った突き当たりから、左手へ曲がり、通路を進んだ先で三番目の扉を開ける。この並びに位置する部屋は、全て個室の客部屋になっている。

 二階の通路は、吹き抜けを回廊状に巡る構造だ。真向かいの西側に並ぶ客室は、いずれも二人部屋である。また、北側の奥まったところにある部屋のひとつが、ニーナが間借りしている自室兼事務所なのだった。


「荷物を部屋に置いてお出掛けになる際は、こちらの長持ちをお使いになってください。鍵を掛けておくことができるので、部屋の扉と二重の備えになります」


 ニーナは、先に客室へ入ると、奥に置かれていた樫の木造りの箱を開けて言った。

 次に、ベッド脇にあるちいさな(とう)編みの籠を、目で見て示す。


「不要になったものがあれば、こちらに入れておいてください。何日か置きに、私共が回収し、処分させて頂きますので」


「ありがとう、とても助かる」


 アルベルトは、彼女に続いて入り口の扉を潜ると、確認するように室内をぐるりと見回した。


「お食事は、この本館を出て、同じ敷地の隣に酒場がございます」


 ニーナは忙しなく、ベッドの枕とシーツ、毛布を整えながら、


「他に、何かご入用なものや、ご不明な点はございますか?」


「そうだな。今のところは、特に……いや――」


 アルベルトは、にわかに考え込むと、少し言葉に詰まった。

 それから、おそらく無意識に抑え気味の声音になって、思い掛けない質問をした。


「この宿には、俺より先に、連泊し続けている客は誰かいないか?」


「他のお客様のことですか?」


 ニーナは、思わず相手を訝しむような口調で、問い返してしまった。曲りなりにも客相手に見せる態度ではなかったが、咄嗟(とっさ)の自制が間に合わなかった。

 ただ幸いにして、アルベルトは、彼女の無礼を気に留めなかった。

 それどころか、どこかニーナに対して取り繕うように、言葉を付け加えてきた。


「いや、実は、この町を訪ねた用件とも関わることなのだ。ある知り合いと、ヘルネで落ち合うことになっていてね。しかし、何しろ旅の最中で取り付けた約束だったために、詳しい場所や日時が酷く曖昧で、人捜しをすることになってしまったと、こういうわけなのだが」


「……ああ、そのようなお話ですか」


「そうだ。できれば、取り引きの仕事に関わる秘密の話なので、他言は避けて欲しいのだが――」


 アルベルトは、話しながら、急に自分の懐へ右手を忍ばせた。何か取り出したかと思うと、そっとニーナの方に押し付けてきた。一枚の銀貨だった。


「どうだろう。君の立場からすると、他の客にも関わることは、話し難いところがあるかもしれないが、どうか教えてもらえないだろうか」


「そんな、困ります」


 ニーナは、びっくりして、アルベルトに銀貨を押し返した。

 いましがた受付で、余計に銅貨を受け取ったのに、殊更他に人が見ていない場所で心付けを手渡されるのは、いささか薄気味が悪かった。それも、硬貨の色が違う。

 アルベルトの第一印象には、真面目そうで、どちらかと言えば不器用そうな雰囲気を感じていたのだが、早まった思い込みだったのだろうか。もちろん、初対面で、すっかり相手の性格を洞察できるとまでは、決して思っていないつもりだが……


「お金を頂いても、これは宿の信用を損ねかねないことですので」


「……そうか。無理を言って、すまなかった」


 ニーナが断ると、アルベルトはゆっくりうなずいてから、銀貨を懐に戻して、存外あっさり謝罪した。

 もしかすると、彼自身も、本意から出た行動ではなかったのかもしれない。


「これから、俺はここでしばらく厄介になるわけだし、君にはあまり気を悪くしないでもらえると助かる。色々とありがとう」


「――いえ。こちらこそ、お力になれませんで。それでは……」


 ニーナは、最後に、ごゆっくりどうぞ、と付け加えてから、アルベルトを残して客室を辞した。

 廊下に出て、扉を閉めると、思わず大きく息を吐いた。


(――この宿には、俺より先に、連泊し続けている客は誰かいないか?)


 アルベルトの言葉を脳裏で反芻(はんすう)しつつ、ニーナは廊下の南側にある、二つ隣の部屋の扉を眼差した。宿の二階で、南東の一番隅に位置する部屋だ。

 そこが、数ヶ月前から逗留している、自称・流れの傭兵ことクレイグの客室だった。


     ○  ○  ○


 日没の鐘が鳴る頃には、「黄昏の白馬」亭の客室も半数程度は部屋が埋まった。

 なにぶん田舎町だから、いくらちいさな宿屋とはいえ、元々満室になるようなことは、一年を通してもほとんどなかった。まして、ナスターシャも言っていたように、最近は隣国も政情不安定だ。

 この日は、これでもかなり良好な客入りと言えた。


 夕陽が地平線に身を隠し、薄闇が降りはじめると、いつもであれば、もう新しい客が宿へやって来ることはない。

 大概の旅人は、夕暮れ前には、宿屋の部屋を押さえてしまう。そして、本格的にあたりが暗くなる頃には、酒場に入って一杯飲みはじめるのだ。

 

 それゆえ、他の客が皆、夕食で本館を空けている時間に、宿泊を希望する人物が「黄昏の白馬」亭を訪れたのは、ニーナにとって予想外の出来事だった。

 そのときニーナは、女将のマリアに頼まれて、すでに一日の売上金を確認している最中であった。まさか、空室があるのに追い返すわけにもいかず、慌てて作業を中断し、硬貨を金庫の中に戻さねばならなかった。


 客は、ローラントと名乗り、アレンドルフから来たと言った。

 アレンドルフは、王都ラーヴェンスブルグ近郊にある、割り合いに開けた町だ。


「出来れば――個室で、お願いしたいのですが……」


 ローラントは、大人しいというより、どことなく気弱そうな声で言った。

 ぱっと見たところ、ニーナと同い年か、少し年下に思われる。まだ、少年と言ってよい年齢だろう。

 やや青みがかった前髪は、両目に掛かるほど伸びて、立ち姿は少し猫背気味だった。どちらかというと、身体はあまり大きくなく、男性にしては肌の色が白い。オリーブ色の外套と、濃い灰色の衣服を身に纏っていた。大小二つの布袋を、荷物に背負っている。


「個室だと、二人部屋より少しお代が高くなりますが、よろしいですか?」


 ニーナが念のため確認すると、ローラントは「はい……」と、弱々しくうなずく。

 アルベルトといい、このローラントといい、今日は何やら珍しい客と縁のある日のようだ、とニーナは考えた。

 そう感じると、どうしても相手の素性が気になってしまう。


「ヘルネには、どういったご予定で?」


 ニーナは、これも一応、仕事の一環だ、と自分に言い聞かせつつ質問してみる。

 アルベルトのときに、あまり思わしい回答が得られなかったせいで、不躾(ぶしつけ)ながら直接的な訊き方になってしまったのは、致し方なかった。


「はあ。それは、家族に頼まれた仕事がありまして……」


 ローラントは、ぼそぼそと説明をはじめた。


「うちの父親は、アレンドルフの市場で、露天商をやっているのです……。干し肉や、干し魚、干し無花果(イチジク)――まあ、そういった乾物屋のようなものですね……。その父親が、今度は干し葡萄(ぶどう)をはじめてみようと……それで、素材の葡萄と言えば、国では南部が有名ですから。僕が、父親の代理で……」


「まあ、それでヘルネに?」


 葡萄の主な収穫時期は秋で、早い品種でも八月下旬だ。

 今は春で、まだ展葉の季節である。実も生っていない。

 もっとも、早いところでは来月頃から、今年の収穫分を見越し、倉庫の酒樽を空けはじめる時期でもある。


 ヘルネを遠方から訪れているローラントとしては、質のいい葡萄がワインにされることが決まるよりも、できるだけ先に契約をまとめておきたいのだろう。


「はい――。直接買い付けることができれば、仲買人を通すより安く仕入れられて、取引相手の農家も信頼の置ける方なのかどうかわかりますし……。それに、こういう田舎町なら、まだ他の商人ともあまり競争せず――」


 ローラントは、そこで不意に、いったん言葉を切った。自分の失言に気付いたからだ。

 気弱そうな少年は、ますます頼りない声になって、ニーナに許しを乞うた。


「……す、すみません――。地元の方の前で、田舎町だなんて……」


「いいえ、田舎は事実ですから、お気になさらないでください。こちらこそ、お客様に立ち入ったことをおたずねして、失礼しました」


 ニーナが柔らかく応じると、ローラントは恐縮し切ったように頭を下げた。

 おそらく年下とはいえ、男性なのに、宿の下働き娘に対して、随分と腰が低い。これが、商人の血筋というものだろうか。

 元々あまり大きくない少年の身体が、猫背と相まって尚更ちいさく感じられた。


「ええと、そういったわけなので……」


 ローラントは、まだ少しうつむきがちに続けた。ニーナの機嫌を窺うように、ちらりと彼女を見ては、すぐ目を逸らしていた。


「いい条件で買い付けが成立するまで、この町にはしばらく留まる予定なのです……。どれぐらいの期間になるかは、まだわかりませんが――それで、何日かまとまった日数、部屋をお借りできないでしょうか……?」


「連泊をご希望ですか」


 ニーナは、今日何度目かの軽い驚きを覚えた。

 この宿屋で、こうも連泊客が短い期間に集中することは、彼女が働きはじめてから過去に記憶がない。


「は、はい。あの、遅い時間にこちらを伺って、いきなり連泊をお願いするのは、やっぱりご迷惑だったでしょうか……」


「いえ、決してそんなことはございません。――それでは、ひとまず二泊三日からということでいかがでしょうか」


 ニーナは、すぐに気を取り直し、今後の状況に沿った計画を提案した。先ほど応対したアルベルトのときと、概ね同じ内容で話はまとまった。

 宿泊費を支払うとき、ローラントもはにかみながら、銅貨を一枚多く差し出してきた。

 ニーナは、それを微笑ましい気持ちで受け取って、少年を部屋に案内した。


 ローラントに割り当てたのは、二階東側の階段から四番目にある客室だ。廊下から見て、アルベルトの部屋のひとつ左隣に位置している。


「本館と隣接した酒場は、星見(ほしみ)の鐘の鳴る頃が過ぎてもまだしばらく開いていますから、お食事をご要望でしたら、そちらで召し上がれます」


 ニーナが手順通りに部屋の説明を済ませ、頭を下げて退室しようとすると、ローラントもぎこちない会釈で礼を返してきた。


 そのあと、一階の受付に戻って、ニーナは再び売上計算の仕事に戻った。

 丁度、残りの作業を終えたところで、ローラントが自室から出て、階段を下りてきた。

 ニーナの言葉に従って、酒場で遅めの夕食にするらしい。

 一言二言、彼女と挨拶を交わすと、ローラントはまるで何かに怯えるように、宿屋の入り口から早足で外へ出て行った。




 ほとんどそれと入れ替わるようにして、一人の大柄な青年が宿屋の建物に入ってきた。

 黒い短髪と、黒い双眸(そうぼう)。薄手で身軽そうな、深い茶褐色の着衣の上からは、見事に鍛え抜かれた体躯(たいく)がそれとわかった。飄々(ひょうひょう)としているようで、なぜか所作(しょさ)には隙がなく、不思議な存在感を漂わせている。

 彼こそ、傭兵のクレイグだった。

 相変わらず、昼間から酒の杯を傾けていたようだが、そろそろ今日のところは、一人で遊興に(ふけ)るのにも飽きたのかもしれない。


「なあ、ニーナ。今、ここを出て酒場の方へ歩いていったヤツは、何者だ?」


 クレイグは、おもむろに背後の入り口を振り返って、


「俺がここに泊るようになってから、初めて見る顔のガキだったが……」


「ローラントさんのこと? そんな言い方失礼ですよ、クレイグさん」


 ニーナは、気安い口調で、クレイグを諭した。

 クレイグは、彼女より四歳ほど年上らしいし、無論「黄昏の白馬」亭にとっても大事な連泊客だが、さすがに数ヶ月も滞在している顔馴染みとあって、すっかり打ち解けているのであった。

 それに、元々クレイグには、(たくま)しい身体と裏腹に、親しみやすさや憎めない雰囲気が言動に備わっていた。


「たった今、うちで部屋を取ってくださった新しいお客様なの。お仕事で、ヘルネまで葡萄の買い付けに来ているらしいわ。今晩から、しばらく連泊のご予定みたいだから、クレイグさんもご迷惑のないように、お願いしますね」


「俺があのガキに、どんな迷惑掛けるってんだよ」


「例えば、酒場で親睦(しんぼく)を深めようと言い寄って、無理やり酒盛りに付き合わせようとしたりとか」


「あのな……俺だって、誘う相手を選ぶぐらいの分別はあるつもりだぞ」


「ふーん。ローラントさんにお酒を勧めるつもりはないってこと?」


 ニーナが訊くと、クレイグは「まあ、そうだな」と短く返事した。


「そういえば、今日は陽が落ちる前にも、もう一人新しい連泊客が来てたみたいだな。旅人風の若い男だろ? さっき、酒場で女将と話しているのを見掛けたぜ。いったい、いつからこの町は、そんなに景気が良くなったんだ」


「私に訊かないでよ。――ところで、クレイグさん。今夜はもう、このあと本館の外には出ないの?」


「さあ、どうだろうな。また、星見の鐘の頃合に、ふらっとヨハンの親仁(おやじ)さんに、酒場へ一杯引っ掛けさせてもらいに出るかもしれん」


「……まったく、いいご身分なのね」


 ニーナが呆れ顔で言うと、クレイグはおどけた調子で、軽く肩を(すく)めてみせる。

 それから、大柄な青年は、今一度宿屋本館の入り口を振り返って、暗くなった屋外を眼差した。漠然と、誰もいない空間の一点を見詰め、片手で自分の黒い頭髪を()いた。



「――それにしても、今頃の遅い時間、一人で宿屋に来たガキか……」



 クレイグがちいさく漏らしたつぶやきは、しかしニーナの耳には届かなかった。

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