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3:田舎町ヘルネ

 ヘルネは、人口七五〇人足らずのちいさな町だ。

 とはいえ、アステルライヒ全土を見回しても、明確に「町」と呼べる規模の集落自体は、そうどこにでもあるわけではない。

 人口二〇〇〇人を超す共同体は、王国領内に合計一二〇と少しを数えるばかりである。

 その中でも、人口一万人以上の大都市ともなると、おそらく四万人近いと言われる王都ラーヴェンスブルグ、王国最古にして最大の大学を抱える学術都市シュマルカルデン他、二〇箇所程度といったところだった。

 人口五〇〇人から二〇〇〇人規模の市町村で九〇〇箇所、全体の約八割は人口五〇〇人未満の農村部というのが実情である。


 元々ヘルネは、土地の西部を南北に貫く、ウルム河の流域に発展した町である。河川沿いの傾斜地に拓いた畑で、ぶどう栽培をはじめた農村が端緒だった。

 収穫したぶどうを現在の町の中心部で、特産のワインとして加工する人物が現れ、ここ数百年ほどの間に、職工に携わる人々にとっても居住地の形態が整えられた。


 アステルライヒ南東部、隣国エルベガルドと国境近い、ビンゲン=ホルツハーケン州の郡部レムシャイトに属し、現在の統治者は若き伯爵ルーファスである。

 しばしばエルベガルドは、東方民族国家の侵略行為に悩まされていた。それゆえ、この近辺まで、血で血を洗う剣戟の音が、聞こえてくることも稀にある。

 けれども、幸いヘルネがそういった紛争に巻き込まれたことは、これまで町の歴史に一度としてなかった。

 仮に、東方民族の軍勢が遠征し、アステルライヒ国境まで突破したとしても、ヘルネは軍事上の要衝ではない。エルベガルドから王都までの街道途中には、もっと規模の大きい、拠点に適した都市が複数ある。ここは、攻略する意義がない土地だった。


 ヘルネは、静かで、平穏な、あくまで王国の片田舎なのだ。


     ○  ○  ○



 ……ニーナの一日は、早朝の薄暗い時刻からはじまる。

 教会が日の出の鐘を鳴らすより、少し前に起床する習慣だ。

 身支度を整え、自室を出て階段を下りると、しかし女将のマリアは、大抵彼女より先に起きていて、すでに(せわ)しなく働いている。

 受付前のホールで、ニーナが挨拶すると、マリアは宿の台帳へ視線を落としたまま、鷹揚(おうよう)な返事でそれに応じた。


 それから、「黄昏の白馬」亭本館の入り口を潜り、屋外へ出る。すでに春といっても、さすがに今の時間帯は、辺りがまだいささか肌寒い。澄んだ清涼な空気は、瞬く間に、彼女を眠気の鎖から解き放っていく。

 ニーナは、深呼吸してから、両腕を頭上に突き上げ、思い切り四肢を伸ばした。自分の全身に、新たな一日の訪れを、そうして教え込んでいるのだ。

 一頻(ひとしき)り身体を動かすと、いよいよ最初の仕事に取り掛かる。

 ニーナは、まずは倉庫の扉を開けて、その中に入った。そこから、(ほうき)と塵取り、木桶を取り出して、次に馬小屋に向かう。


 荷物を持って、宿の敷地を歩いていると、ナスターシャに声を掛けられた。この黒髪の少女も、早朝から自宅を出て、宿の準備を手伝いに来ていたのだった。

 ナスターシャは、両手に薪の束を抱えていた。


「おはよう、ナスターシャ。これから朝食の用意?」


「ええ。ニーナもご苦労様」


 ナスターシャは、にこやかに応じる。

 これから、酒場の厨房に入って、釜の火を入れるのだろう。

 昨日仕入れたカブを煮込むに違いない。(にわとり)の骨の煮出し汁と合わせ、岩塩で味付けしたスープは、朝食の定番だった。


「お客さん、今朝はみんな仕事始めの鐘より先に起きてくれるかしら」


「どうかしら……。今日中に発つお客さんは、正午の鐘よりは前に、お目覚めになると思うけど」


「やっぱり、問題はクレイグさんよねぇ」


 ニーナは、ナスターシャと並んで歩きながら、困り顔で言った。


「宿としては、悪いお客さんではないんだけど……」



 クレイグは、かれこれ数ヶ月ほども前から、ずっと「黄昏の白馬」亭に逗留(とうりゅう)している宿泊客だった。

 黒い短髪と、肩幅の広い長身が印象的な青年だ。

 いつも昼過ぎに起床してきたかと思うと、陽の高いうちから酒をあおり、夜は自室に引き上げてからも、果たしていつ頃就寝しているのか、皆目見当がつかない。ひどく不規則な生活を続けている。

 そのせいで、宿で働く人間としては、しばしば食事や掃除の都合を、クレイグに振り回されがちだった。


 ただ、宿泊費や食事代の金払いは、決して悪くない。

 一週間毎、太陽の休日が明ける都度、まとめて次の七日分の金額を、少し多めに前払いしてくれる。

 ヘルネのような田舎の宿屋は、時季によって、客の出入りに波がある。それゆえ、前払いの長期滞在客は、安定した売上げに繋がるので、滅多にいないがありがたかった。

 安宿とはいえ、それだけの連泊となれば、相応の金額になる。


「仕方ないよ。女将さんから聞いたけど、クレイグさん、今週の宿代は、特に多目に弾んでくれたそうだし」


 ナスターシャは、人の好い微笑を浮かべた。


「いくらだったかまではわからないけど、あの様子だと日割りで金貨二枚近かったんじゃないかしら」


「金貨二枚!?」


 ニーナは、びっくりして、思わず声が大きくなった。まだ早朝なので、周囲を気にして、慌てて口元を抑える。

 金貨二枚といえば、心付けを加味したとしても、宿代としては充分高級な部類に入る。少なくとも、安宿の部屋に払う額ではない。

 それだけの宿泊費が出せるなら、広場近くの「鐘を鳴らす天使」亭にだって部屋が取れるだろう。


「最初は、女将さんもこんなに受け取れないって、断ろうとしたそうなんだけど。結局、強引に押し付けられちゃったみたいで」


「ヨハンさんは?」


 ニーナは、恰幅(かっぷく)のいい宿の主人を思い浮かべながら、


「ヨハンさんは、気味悪がって断らなかったの?」


「ご主人もいい気はしなかったみたいなんだけど、じかにお金を手にすると、やっぱり断り切れなかったみたい。去年から今年にかけて、ここの宿も戦争の影響で、あまり儲かっていなかったし……」


 昨年冬の討伐軍派兵は、ヘルネのような田舎にも、僅かに暗い影を落としていた。

 戦場までは遠く、直接戦火に曝されることはない土地と言っても、エルベガルド国境の傍にある町を、あえてきな臭い時期に訪れる旅人は少なかったのだ。



 ところで、当のクレイグと、西方諸国の連合討伐軍派兵は、実は無関係ではない。

 クレイグは元々、様々な汚れ仕事を請け負う、流れの傭兵だそうなのだ。

 この町に来る直前までは、連合討伐軍のアステルライヒ王国陣営に与して、戦争に参加していたということだった。

 これまでの多額の宿泊費は、そこで何やら大きな仕事をしたときに得た褒美だ――と、本人は言っている。


 一応、傭兵だというのは本当の話で、ヘルネを訪れた当初の目的も、仕事の依頼を請けるためだというのは、たしかなことだと思われた。

 よく鍛えられた身体つきや、いかにも剣士風の身形(みなり)を見ても、それとわかる。



     ○  ○  ○


 昨年の秋頃から、ヘルネの北西ウルム河下流の森に、下級妖魔である邪鬼(ゴブリン)たちがねぐらを構えるようになり、少し前まで町の住人は手を焼いていた。

 ゴブリンは、夜中になると、巣穴にしている洞窟から這い出て、ヘルネの外周部近隣に位置する農村を襲い、しばしば家畜や収穫物を盗んでいたからだ。


 農村から出荷された生産物は、ヘルネの「葉の緑」広場に立つ市で取り引きされたり、あるいは職人の手で加工されている。

 町長ネッカーも、町中の酒屋と醸造所を経営する傍ら、郊外に自らも農園を所有し、そこで栽培したぶどうを使用してワインにしていたので、まさに被害の当事者だった。

 不幸中の幸いは、ゴブリンが現れたのは、この年の収穫を、ほとんどの農場では一通り終えたあとだったことだろうか。


 こうした経緯があって、町役場の議会(ごく小規模ながら、ヘルネでも市参議会にあたる会合だ)を通じ、ゴブリン退治の志願者を、民間の傭兵から募ることになった。

 当時は、折りしも東方民族遠征軍が、エルベガルド国境を越え、モスバッハを占拠した直後である。

 地元貴族も連合討伐軍へ協力姿勢を示す傍ら、この緊張状態を受けて、領地全域の警戒や軍事演習のため、多くの兵力を割いていた。公の軍に助力を期待するのは、いささか時期的に難しかったのだ。

 告知は、使者を通じて、街道沿いの大きな都市まで伝えられた。


 報酬として用意された金額は、金貨一〇〇枚。

 ヘルネの関係者は、充分な大金かと考えたが、請け負う者はなかなか現れなかった。

 たまたま連合討伐軍が傭兵を集めはじめた時期と重なっていたし、わざわざ田舎町まで出向かなくても、大都市には同程度の報酬を得られる魔物退治の仕事は、他にいくつもあったからだ。

 流れの傭兵や、自称「冒険者」――魔物狩りや遺跡探索で一山当てようと、危険な依頼を進んで請け負う人々は、しばしばそう名乗る――にとって、ヘルネの問題は、それほど訴求力のある仕事ではなかったのである。

 結局、以後もゴブリンによる被害は拡大し続け、打つ手が他にないまま、事態は越年を余儀なくされた。



 クレイグがヘルネを来訪したのは、討伐軍が東方民族の遠征軍から、モスバッハ奪還を達成する少し前で、まだ王国南部でも空気の肌寒い、今年の一月末だった。

 クレイグは、商業都市カーヴェンデルの酒場で依頼を聞きつけ、これを請け負いたいと、町役場へやって来て申し出た。連れの仲間は、誰もいなかった。


 役場の担当者は、驚き、(いぶか)しんだ。

 クレイグに、もしかして単身乗り込む気かとたずねたところ、「そうだ」と肯定の返事があったからだ。

 ゴブリンが下級妖魔といっても、ウルム河下流の森をねぐらにしているそれは、一五匹余りの一群である。とても一人で相手にできるものとは思えなかった。

 そもそも一〇〇枚の金貨も、腕利きの傭兵四、五人が、山分けするであろうことを想定した金額だったのだ。


 しかし、本人の強い希望とあっては、断るわけにもいかない。

 渋々、担当者は契約書を用意し、もしこの仕事によって落命したとしても、当局は一切の責任を負わない旨を承諾させた上で、依頼を任せることにした。


 ……余談になるが、そこにはいまひとつ興味深い噂がある。

 このとき役場の担当者は、契約書の内容確認と署名を、例の「葉の緑」広場の老舗代書人に任せるよう勧めた。

 だが、クレイグは受け取った書類をその場で確認し、ペンを借りて自ら署名したらしいのだった。



 さて、とにかくそうして「胡乱(うろん)な眼差しを背に受けつつ」、ゴブリンたちの住処(すみか)へ送り出されたクレイグだったが、結果は役場の担当者の想像を完全に裏切った。

 契約成立から三日と経たないうちに、クレイグ一人の手によって、ゴブリンの群れは一匹残らず駆逐されてしまったのだ。


 クレイグ本人から報告を受けたとき、町役場の関係者は再び驚き、我が耳を疑った。

 けれども、町の衛兵の中から歩哨を出して、ねぐらの様子を確認させたところ、たしかに一五体に上るゴブリンの屍が森の中から発見され、妖魔の群れは壊滅していたのだった。

 クレイグが戦っていたところを、じかに見た者は誰もいなかったが、ゴブリンの死体はいずれも縦ないし横に一撃で両断されていた。クレイグは、長さ一八〇アンテルほどもある両手剣(ツヴァイハンダー)を背負っており、妖魔の傷口と照らして、おそらく本人の申告通り、本当に彼一人で壊滅させたに間違いあるまい、ということになった。


 その一件のあとから、クレイグはずっと「黄昏の白馬」亭に泊り込んでいる。

 命懸けの仕事でせしめた大金を使って、ひととき羽振りのいい暮らしを決め込んでいるのではないだろうか……というのは、女将のマリアが先頃ニーナたち下働きの娘に語って聞かせた憶測だった。


 なるほど、一人でゴブリン一五匹をいとも容易(たやす)(ほふ)る実力があるなら、ここへ来る以前に戦場で手柄を立てたというのも、真実かもしれぬ。

 それでなくとも、ヘルネで手にした金貨一〇〇枚があれば、いましばらくは悠々自適の贅沢ができるだろう。


 いやはや凄腕の剣士というのは、なかなか夢のある商売ではないか。

 庶民の中に、冒険に憧れる若者が少なからずいるのもうなずけるところだ。ひとつ間違えば、常に死の危険に直面する仕事の見返りとして、果たしてその対価が適正なものと言えるかどうかは、判断しかねるところではあるけれども。



 とはいえ、クレイグの素行には、周囲に奇妙な違和感を与える要素がいくつかあった。


 例えば、それだけの大金を持ちながら、なぜ安宿である「黄昏の白馬」亭に泊り続けているのか。

 いや、そもそもなぜ、ヘルネの町に逗留し続けているのか、彼の真意を知らぬ者には理解しかねる。

 ヘルネは田舎町だけあって、長閑で保養向きな部分はあるかもしれないが、これといって面白い遊び場があるわけでもない。町外れに行けば、賭場や娼館ぐらいはないこともないが、それらにしても大都市の方が充実しているのは当然なのだ。


 特に、主人のヨハンや女将のマリアにとって、クレイグの詳しい素性は、それなりに重要な関心事だった。少なくとも、彼が昼まで寝ていること以上には。

 宿屋というのは、秋の収穫期に、臨時出張所になることからもわかる通り、公の行政機関と割り合い距離が近い。そういう店が、不審な客を、長期町内に逗留させていたとなれば、後々(とが)められかねなかった。

 多目に積まれた宿代の受け取りを渋った理由も、そこにある。


 以前にヨハンは、それとなくヘルネに長期滞在している理由を、ナスターシャからクレイグにたずねてみてくれと、頼み込んだことがあったそうだ。

 ナスターシャは気が進まなかったが、仕方なく引き受けた。

 酒場のテーブルに料理を並べつつ、彼女が遠回しにたずねてみると、


「この町の酒の味が気に入ったからさ」


 クレイグは、いつものように昼間から杯を傾け、そう答えたという……



     ○  ○  ○



 厩舎の前で、いったんニーナとナスターシャは別れた。

 ニーナは、馬小屋に入ると、改めて気持ちを入れ直して、作業に取り掛かった。

 宿泊客の馬の周りを(ほうき)で掃いて、(ふん)をひとまとめに集める。馬糞は、肥料にするため、建物の裏手にある堀へ捨てる。

 次に、厩舎の中に敷かれた寝藁(ねわら)を出して干し、傍に積んで乾燥させてあったものと入れ替えたあと、井戸へ向かった。

 木桶で汲んだ水は、馬の水飲み台へ注いで、餌箱には干草を運んで入れる。


 日常のことだから、すでに慣れているとはいえ、ニーナは小柄な少女なので、一度に運べる水や干草の量にも限界がある。一通りの仕事を終えるまでは、馬小屋の前と内部、裏手と井戸とを、何度も忙しく往復せねばならなかった。


 厩舎での作業を済ませ、道具を倉庫に片付けると、ニーナは酒場へ向かって、裏口から厨房に入った。

 釜の前には、沸かした湯でスープを調理するナスターシャの姿があった。

 互いに一言交わしてから、厨房の奥に立て掛けてあった清掃用具を取り出し、店のカウンターに出る通用口を潜る。


「よう、ニーナ。ご苦労さん」


「おはようございます、ヨハンさん」


 酒場の店内へ入ると、主人のヨハンが声を掛けてきた。カウンターの中で、酒瓶の在庫を確認している最中なのだった。

 ニーナは軽く一礼し、早速店の床を隅から箒で掃いていく。そののち、手桶に井戸の水を汲んできて、カウンターやテーブルをひとつ残らず拭き終えた頃には、朝日が白光で辺りを爽やかに照らしはじめていた。


「朝のまかない、できてるわよ」


 ナスターシャに呼ばれて、ニーナは厨房に下がった。作業台脇のちいさなテーブルに、黒パンとエンドウ豆のスープが並べられていた。

 ニーナは席に着くと、胸の前で印を切ってから食事をはじめた。


「三時課の鐘の前に、お客さんが誰も起きて来ないようだったら、合間を見て教会へ行きましょうか」


 ニーナが固い黒パンを手で千切っていると、ナスターシャが提案してきた。


「ニーナ、もう何日も行ってないでしょう、朝のお祈り」


「えー……。私は、いいよ。遠慮する」


「もう。ダメだよ、いつもこういうことになると、無精ばかり言って」


 ナスターシャは、世話焼きな姉のような口振りで(さと)してきた。

 実際、ナスターシャは、自宅では四人姉弟の長女なので、何かと面倒見の良いところがある。


「神父様のお話までは、聞かなくてもいいから。ちゃんと行かなきゃ、罰が当たるわよ」


「苦手なんだよなあ……。教会とか、聖書とか」


 ニーナは、視線を逸らしつつ、黒パンをスープに浸し、柔らかくしてから口の中に放り込んだ。

 神聖ザルヴァ教団の教えは、千年の古から、西方諸国に(あまね)く浸透している。

 人々の生活、文化や歴史、政治に至るまで、西方諸国における信教は、思想と実際的な日常生活の大きな比重を占めていた。

 ナスターシャならずとも、不信心が過ぎると、神罰が下ると誰しも真剣に考えている。

 ニーナのような少女の方が、ずっと珍しいのだ。日頃の言動から、身近な人に心配されるのも致し方なかった。


「ナスターシャの言う通りだぞ、ニーナ」


 不意に、酒場の方からヨハンが厨房を覗いて、ニーナを叱った。


「おまえは、同い年の娘と比べたら、えらく目端が利いて(さと)いくせに、そういうところはてんでだらしなくて良くないな。少しの間なら店は空けてもいいから、今朝は教会に行っておけ」


「はぁーい……」


 雇い主からここまで言われては、ニーナも従うほかない。


 手早く朝食を済ませると、ニーナとナスターシャは、揃って店の外へ出て、近所の教会へ向かった。

 この教区にある教会は、ザルヴァ教団の中でも、理智神カエルムの流れを汲む宗派だ。カエルムは、オクルスと同じ善なる神々の一人として、アステルライヒでも広く認知されている。


 教会に着くと、彼女たち以外にも、町人が入り口で列を作っていた。朝の祈りを捧げに来た人々と、すでにそれを終えて建物から出てきた人々だ。

 元々気乗りしないことだと、ニーナにとっては、ちょっと待つだけでも億劫(おっくう)である。


 それでも少しのあいだ我慢して、ナスターシャと一緒に行儀良く教会へ入った。

 礼拝堂の片隅に並んで、両手を合わせ、瞑目する。祈りの最中、ニーナはちらりと片目だけ開けて、前方の祭壇の様子を窺った。

 今カエルム像の前で祈っている聖職者の男性は、待祭だろうか。たぶん、司祭や助祭ではあるまい。

 聖職者の世界も、今日では割り合い複雑だ。

 教団上層部に近しい人々は、有力な王侯貴族に匹敵する富と権力を欲しいままにする一方、都市部であっても、下級の聖職者たちはあまり恵まれた立場になかった。

 また、ザルヴァ教団は、女性が聖職者として叙任される資格を認めていない。教義に反するというのである。女性が信仰の道へ進むには、修道会に入るしかなかった。

 そうした職業上の強い差別も、ニーナが教会を好きになれない一因だった。



 朝の短い祈りを終えて、ニーナとナスターシャは教会をあとにした。

 宿屋に戻ると、丁度三時課(午前九時)の鐘が鳴った。

 それから少しして、宿泊客のうちの一組が部屋から下りて来たので、二人はそれぞれ自分の仕事に追われた。

 逗留客のクレイグが起きたのは、いつも通り昼過ぎのことで、起き抜けから酒場で食事と一緒に酒をあおっていた。


 そうこうするうちに、九時課(午後三時)の鐘が聞こえてきた。忙しくなると、時が過ぎるのは早い。

 寝床を求めた新しい客が、「黄昏の白馬」亭の入り口を(また)ぎはじめた。

 文字が書けるニーナは、この時間帯には受付に立つのが店の決まりだ。



「――何日か、しばらく続けて泊りたいのだが」


 この日、彼女が最初に応対した客は、受付の前に進むと、しかつめらしい口調で申し出てきた。

 ニーナは、台帳から顔を上げて客を見た。


 山吹色の短髪で、暗緑色の外套に身を包んだ青年だった。

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