2:少女達の恋と噂
ナスターシャは、ニーナより一歳年下で、今年一八歳になるはずだった。
長く、真っ直ぐに伸ばした髪は、夜空のように黒く、少し垂れ気味の大きな瞳は、綺麗なすみれ色だ。ニーナのそれと似たアステルライヒ風の着衣は、サッシュが濃い緑で、スカートは明るい青の組み合わせだった。
彼女の柔和で、優しげな雰囲気が、佇まいから滲み出していた。
ニーナにとって、ナスターシャは気が置けない親友だ。
同じ「黄昏の白馬」亭で働いており、焼き菓子作りや裁縫が趣味という、どちらかといえば控え目な物腰の少女だった。
実家は、町の西を流れるウルム河の傍にあって、今も家族と同居している。そこから、歩いて宿まで通っているのだ。ナスターシャの父親は、南地区の詰め所で働く衛兵だった。
彼女も、今は仕事に休憩をもらっているのだろう。
「ううん、本当に丁度いいときに来てくれたわ。何かと気が滅入っちゃって、仕事が捗らなかったのよ」
ニーナは、すっかりくつろいだ様子で言って、ナスターシャを部屋に招き入れた。盆を受け取って、円形のテーブルに置くと、来客に手近な椅子を引いて勧める。
案内したのは、本来は仕事の依頼者を応接するときの場所だ。
代書人をはじめてから、宿屋の主人のヨハンは、彼女のために少し広めの部屋を都合してくれていた。その協力のおかげで、ニーナの部屋には、来客をもてなすための家具と空間的な余裕がある。
下働きの娘としては、破格の待遇と言えるだろう。
次いでニーナは、せわしなく机の傍まで戻り、黒板を裏返しに伏せる。それから、書きかけの手紙を、いったん片付けはじめた。
たとえ親しいナスターシャと言えど、依頼主の私事に関わる情報を、いたずらに知られるわけにはいかない。代書人としての信用の問題だ。
「また、誰かの恋文を代筆していたの?」
「まあ、そんなところね」
ニーナは、ナスターシャの問い掛けに、曖昧に返事した。
ナスターシャは、にこやかに、くすりと笑う。
「東一番通りのビアンカ、最近また別の男の子と仲良くなったから、ニーナに代筆をお願いしたいって言ってたわよ」
「ビアンカが?」
「うん。ペーターからは、一ヶ月前に別れを切り出されたみたいで、そのときは随分落ち込んでいたみたいだったけど、『新しい恋を見つけて生まれ変わった』って」
「……詳しいのね、ナスターシャ」
「ビアンカの方から、教えてくれるのよ。去年から、これで男の子に嫌われたのは四度目だとか、ニーナにはかれこれ四〇回ぐらい代筆のお仕事を頼んでるとか」
元々ヘルネは、それほど広くない田舎町だ。顔見知り同士であれば、それなりに注意していないと、秘密はあちこちへ簡単に知れ渡り、あっという間に秘密でなくなってしまう。
ナスターシャなど、常に人当たり柔らかく、聞き上手の話しやすい相手なので、誰しもついつい、余計なことまで打ち明けてしまうのかもしれない。
こうした現状を肌で知ると、ニーナは自分が生真面目に義理立てして、依頼人の秘密を固く守っているのが、ちょっと馬鹿らしくなってしまう。
ちなみに、東一番通りのビアンカは、ニーナより六つ年上の二五歳だ。仕立て屋で働いていて、女性ながら仕事の稼ぎが良く、それでかえってなかなか異性と縁がない、と本人はよく嘆いている。
だが、むしろ問題点は他にあることを、ニーナはよくよく察していた。
ビアンカは、恋文の通算発注回数もさることながら、要求してくる内容が特殊すぎて、いつも非常に苦労させられる依頼人なのだ。
羊皮紙全面を「愛してます」の文字で埋め尽くして欲しい、と頼まれたときには、本当に周囲の空気が凍り付いたかと錯覚した。
料金を受け取って代筆している手前、依頼内容に口出しするのもどうかとは思ったが、ニーナもさすがに危険なものを感じ、それはちょっと受け取った相手に重過ぎるのではないか、と遠回しに進言してしまった。
その際はなんとか思い止まってくれたものの、これでは他の男性と何人交際しても、上手くいかないのは致し方なかろう。
一言で言ってしまえば、怖すぎる。
「できれば、せめてもう少し、普通の依頼が来て欲しいんだけど」
「普通の依頼って?」
「それは例えば……どこかのお店の書類作り、とか」
ニーナは、つぶやきながら、心の中では、無理だろうなと思っていた。
それは、単純に彼女が専業代書人ではないから、というだけの理由ではない。
ヘルネの町の商店は、多くが中心部にある「葉の緑」広場の近くにあった。同じ地域に店を構えている、古株の代書人との付き合いが長い。たぶん、発注書や請求書、それに納品書といった書面の類を、まとめて代筆業務が年間いくら、というような形態で、契約しているに違いなかった。
春か秋に毎年契約の更新はあるかもしれないが、そこへ新参者のニーナが割って入る余地はないはずだ。
「もう、恋文の代筆は嫌?」
「嫌ってことはないわよ。これも凄く、稼ぎになるし……」
宿屋と酒場の仕事は、その日の労働時間にもよるが、住み込みの部屋と食事の代金などを差し引いて、銀貨一枚ないし六枚の賃金だ。
仮に二日か三日に一件依頼が舞い込めば、やはり代書人は割りがいい。なにぶん、ヘルネはちいさな田舎町なので、どうしても個人依頼主ばかり顧客にしていると、毎日安定した発注は見込めないのだが。
「――私ね、昔から、吟遊詩人の語る叙事詩が好きなのよ」
ニーナは、インク壺の蓋を閉めながら、不意に切り出した。
「この話、以前にしたことあったかしら?」
「うん。それで、ここで働こうと思ったって話は覚えてるけど」
町の宿屋や酒場には、よく旅の吟遊詩人が訪れる。
もちろん、他の客の前で芸を披露し、路銀を稼ぐためだ。
吟遊詩人には、楽器の演奏に乗せて、叙事詩の類を語り聴かせようとする者が多い。
ニーナは、「黄昏の白馬」亭に勤めれば、仕事の合間に、吟遊詩人の叙事詩を定期的に聴けるに違いないと考えたのだ。彼女自身、短絡的な着想だとは思ったが、実際その恩恵にあずかることもしばしばあったから、その目論見はそれほど的外れでもなかった。
「そう。ええと、それでね、叙事詩にも色々な種類があるじゃない。恋愛物とか、宮廷劇。それから冒険物、英雄譚――……」
ニーナは、机の上の整理を終えると、テーブルに歩み寄り、ナスターシャの正面の席に腰掛ける。
「そういうものの中だと、私って、恋愛物なんかより、英雄譚や冒険物の方が、断然好きなのよね。女の子なのに、変わってるって思われるかもしれないけど」
「だから、恋文も嫌いじゃないけど、あまり肌に合わないってこと?」
「ええ、まあそんなところ……」
ナスターシャが問うと、ニーナは歯切れ悪く答えてから、
「きっと、私は男の子に生まれればよかったんだわ」
「そんなに美人なのに?」
「美人かどうかなんて、知らないけど」
ニーナは、ちょっと声を荒げて言った。
「読み書き計算ができても、女の子じゃ損ばかりだもの。代書人の仕事をしていてもね、以前はここへ来て、代筆するのが私だってわかった途端、いきなり不機嫌になるような小父さんだって居たのよ」
「そうなの?」
「ええ。『女のくせに代書人だなんて、まったく生意気なやつだ』――って。じかに言われるわけじゃないけど、そんなふうに思ってるに違いないって。顔を見ればわかるもの」
ニーナの愚痴を、ナスターシャは嫌な顔ひとつせずに聞いている。ときどきちいさく相槌を挟みながら、手は彼女が運んできたポットから、木のカップに温めたミルクを注いでいた。
ニーナは、ナスターシャから手渡されたカップを受け取る。
「あー、私が男の子だったら、絶対ナスターシャをお嫁さんにするのに」
ミルクの湯気越しに、ニーナは親友の顔を眺めつつ言った。
「あと、男だったら旅に出て、大陸中の都を回るの。あちこちの歴史や伝説を聞き調べて、何世紀も後まで吟遊詩人に歌われるような、感動的な英雄叙事詩を書き上げてみせるわ。恋文の代筆よりも、そっちの方がずっと私に向いてるもの――どう、素敵な夢じゃない?」
「結婚しても、夢のために旅に出るのなら、すぐに私は捨てられちゃうの?」
「まさか。ナスターシャだって、私に付いて来るでしょう」
「……たしかに、ニーナは男の子に生まれた方がよかったのかもね。そういう身勝手なところは、すごく男の子みたい」
「なによ、それ。そんなふうに同意されても、ちっとも嬉しくないわ」
ナスターシャが冗談めかして言うと、ニーナはぷうっと頬を膨らませながら抗議した。
不本意そうな親友の反応を見て、ナスターシャはまた楽しげに微笑む。ごめんなさい、とちいさく舌を出して謝罪しつつ、包み紙から焼き菓子を取り出し、ニーナに勧めた。
小麦粉の生地から作った、ナスターシャお手製の一品だ。丁度、手の平に収まるぐらい大きさで、包みを開くと一〇枚ほど詰まっていた。
ニーナは、まだ少しだけ拗ねた素振りを見せたが、菓子を指で摘んで、口に運ぶ。
一口かじった途端に、表情が崩れて、幸せそうな溜め息が漏れた。
「どう、美味しい?」
「ナスターシャ、やっぱり私と結婚しましょう」
「はいはい。ニーナが来世で、男の子に生まれ変わったら、ね」
ナスターシャは、わざとぞんざいに応じつつ、自分のカップの縁に口をつけた。
ニーナも「ちぇーっ」と、あえて声に出して、つまらなそうに不満を訴える。食べかけの焼き菓子を平らげると、すぐまた二枚目のそれに手を伸ばした。
「……そういえば、『旅に出て、聞き調べる』って話で思い出したけど」
ふっと、ナスターシャは、傾けていたカップを口から離した。
「最近、ちょっと変わった旅の人を町で見掛けるって噂、知ってる?」
「変わった旅の人?」
ニーナは、二枚目の焼き菓子を口の中で味わいながら、鸚鵡返しにたずねる。
「あ、本当に旅の人なのかは、わからないんだけどね。見掛けない顔だから、他所の土地から来た人なのは、間違いないだろうって」
ナスターシャは、慌てて、少し表現を訂正した。
「まだ若くて、もしかすると年齢は、私たちと同じぐらいの男の人だそうなんだけど。なんでも、一週間ぐらい前から、『鐘を鳴らす天使』亭に泊ってるそうなの」
「鐘を鳴らす天使」亭というのは、町の中心部の「葉の緑」広場近くに位置する、立派な建物の老舗宿屋だ。他所からヘルネを訪ねた人々の中でも、貴族や官吏、富裕層の客に、好んで利用されている。施設や接客の質は、かなり上等だが、そのぶん宿泊料金も高いと評判だった。
「ふうん。あそこに泊ってるってことは、どこかの貴族か、お金持ちの商人のご子息といったところなのかしら」
ニーナは、焼き菓子を頬張った口を、むぐむぐと動かして言った。
「それで、その人のどこがちょっと変わってるの?」
「なんでも、町のあちこちで、何か調べて回っているらしいわ。詳しいことまでは、よくわからないんだけど……」
その旅人は数日前、西二番通りの雑貨屋にも姿を現したそうだ。西二番通りは、ウルム河に架かった橋のすぐ手前で、ナスターシャの実家の近所である。
それで、彼女の母親が耳に挟んだ話らしい。
噂の旅人は、雑貨屋で軒先に並んだ品物を一通り物色した際、不意に店の主人に声を掛け、「ここでは、羊皮紙や蜜蝋を扱っているか」と問い掛けてきた。
もちろんあるよ、と主人が言って、取り出して見せると、今度は「近頃、この品を買っていった客はどれぐらい居たか」と、不意に妙なことをたずねてきたらしい。
「――どういうこと?」
「私に訊かれても……」
小首を傾けてたずねるニーナに、ナスターシャは苦笑してみせた。
雑貨屋の主人は、旅人の質問を怪訝に思いつつも、「仕事で仕入れていく店の人間以外には、個人で羊皮紙買っていく人は、ほとんどいない」と答えた。
旅人は、主人の回答に、少し考え込むような素振りを見せたが、礼だけ告げて、結局、何も買わずに店を出て行ったという。
「羊皮紙と蜜蝋が欲しかったわけじゃなくて、そういうものを欲しがるような人が居るのかどうか、知りたかったってこと? ……違うわね」
ニーナは、二枚目の焼き菓子を食べ終えると、ちょっと思案顔になって、カップの中の白い液面をじっと見詰めた。
「この町に居て、手紙を書ける人――もしかしたら、読み書きができる人を捜していたのかしら。私みたいな代書人とか、商売をしている人たち以外で」
羊皮紙はもちろん、筆記するための道具であり、蜜蝋は巻物にした書簡に、封をするために使用するものだ。当然、ニーナも仕事柄、いつも使っている。
ただし、識字率の低いこの田舎町においては、自分の手で手紙をしたためられる人間は、ごく限られているはずだった。
「その、他にも噂は色々あるらしくて……。例えば、北地区の教会を訪れたと思ったら、礼拝堂の中で祈る素振りも見せず、建物の中の様子ばかり気にしているみたいだったとか」
ナスターシャは、少し真剣な面持ちになって、
「道端で呼び止められて、『酒屋のネッカーさんの自宅はどこか』と訊かれた人も居たらしいけど。でも、当のネッカーさんは、そんな余所者の訪問客が来る予定はないし、事実その後も会ったことがない、って言ってるみたいなの」
たしかに、不審な旅人だな、とニーナは思った。
北地区にある町で一番大きな教会は、その昔、州都ホルツハーケンから来た司祭が建てたという、神聖ザルヴァ教団のそれだ。だが、何か取り立てて歴史的な曰くのある建物というわけではない。
史跡的価値の薄い田舎の教会を、わざわざ旅先で訪れる意図は何だろうか。
しばらく旅で他の教会に立ち寄る機会がなかったので、単にどこかで礼拝しておこうと考えただけかもしれないが、ナスターシャの話を聞く限りは、どうも違和感がある。
酒屋のネッカーは、ヘルネの町の古い名士で、役場の町長も務める人物だ。私財も豊かで、東地区にある町の富裕層が多く住む場所に、大きな邸宅を構えている。
けれども、老齢の域に差し掛かったネッカーには、若い旅人の知り合いなど居ないし、何より実際に彼の自宅を、街の住人以外は訪ねていないという。
もちろんそれらは、ちょっと行動に妙な印象を受ける、というだけの話だ。
直接、誰かに危害が及ぶようなことは、今のところ何も起きていない。
ただ、このちいさな田舎町にあっては、どうにも怪しげに思われてしまうのだった。
ニーナは、改めてよく考えた。
ひょっとしたら、その旅人は、割り合い都会から来た人物なのかもしれない。
それで、やはり何か企てがあって動いているのだが、自分が思っている以上に目立っているとは、まだ気付いていないのではなかろうか。
……否、しかしそれ以前に、やはり――
「みんな、あれこれ気にしすぎなんじゃないかしら」
ニーナは、冷静な口調で言った。
あくまで噂は、噂にしかすぎない。
それも片田舎特有の、余所者に対する偏狭な排他性が生んだものと思えなくもなかった。あるいは、ヘルネが長閑であるがゆえに、刺激を求めて、些細な出来事に固執しているようにも感じられる。
ここがもし都会であれば、それぐらいのことで、いちいち誰も気に留めたりしないし、話題にもならないだろう。
「そうなのかな……。何事もなければいいけど」
「大丈夫よ、ナスターシャ。きっと都会に行ったら、もっと怪しい人なんて、数え切れないぐらいに居るんだから」
心配そうな親友を、ニーナは安心させるように言った。
ニーナは、心躍る冒険に対する憧れを抱いている。
とはいえ、叙事詩のように感動的な出来事は、現実にはそうあることではない。
ましてそれは、あくまで遠い世界の物語だからこそ楽しめるものだ。平穏な日常に勝る幸福はないということを、彼女はよく知っていた。