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1:宿屋の二階から

『 親愛なる伯爵閣下

 

  新緑の候、如何お過ごしでしょうか。

  ヘルネにも新たな草木が芽吹きはじめ、日に日に暖かな季節の

 訪れを実感致します。


  さて、先日は、私の(ごと)き町娘に、あのような美しいお花を頂き、

 心よりお礼を申し上げます。

  ルーファスさまのような、身分の高い貴族の方から、ああして

 贈り物を頂いたのは初めてのことで、本当に驚き、感激しました。

  天にも昇る心地というものを、我が身で経験する日が来るとは、

 まさか思いもよりませんでした。


  けれども、どうして花というものは、いずれしおれて枯れるの

 でしょうね。

  いくら水を注して陽に照らせど、やがて(はかな)く散ってしまう……

  頂いたお花を、ひねもす窓辺で眺め続けるにつけ、例えようの

 ない感傷に胸を締め付けられます。


  そして、そんなとき、いつも心に思い浮かぶのは、以前に町で

 お会いした、ルーファスさまのお姿です。

  私の焼いたパンを、美味しそうに食べてくださった、あの笑顔

 が脳裏に焼き付いて、どうしても忘れることができないのです。

  きっと私は、ルーファスさまとの出会いも、あの日の出来事も、

 頂いた花束のことも、すべてが目覚めると消えてしまう、そんな

 不確かな夢なのではないかと、恐れているのかもしれません。


  お花の一本は、今でも押し花にして、大切に保管しております。

  それを(なが)めるたび、いつでもルーファスさまのお顔を思い描く

 ことができるように……

                                 』



     ○  ○  ○



「――なあああああああっ! もう無理! ぜっッたいッ、無理だからっ!」


 ニーナは、羽根ペンを動かす手を止め、思わず椅子から立ち上がって絶叫した。荒く小刻みな呼吸に合わせて、肩が上下に揺れている。

 豊かに輝く、長い金色の髪を左手で跳ね上げ、ニーナはいったん、自分を落ち着かせるように大きく深呼吸した。

 晴れた夏空のように蒼い瞳で、改めて机の上の羊皮紙を眼差す。

 自ら書いた文面ながら、読み返しただけで、汗の雫が額に浮かんだ。


「はあ……仕事とはいえ、毎度のことながら、この手の文章は書いてて厳しいわ……。もう、はっきり言って辛い。相当辛い。精神的な意味で」


 ニーナは、おもむろに着衣の胸元を右手で広げ、左手で扇いで風を送り込んだ。まだ春なのに、蒸し暑くて耐え難い、とでも言うようだった。

 大きく開いた襟首から、パフスリーブにかけて、細部に刺繍(ししゅう)の入った白い胴衣。それに、赤いサッシュを腰の高い位置で巻き、丈が長い黒地のスカートを合わせた姿は、アステルライヒ女性によく見られる、伝統的な服装だ。

 ニーナの面立ちは、まずかなりの美少女と言って差し支えない。ところが、生来の気質と日頃の言動で、大概それを台無しにしていた。


「本気でアメリーも、こんな文面でいいと思ってるのかしら……。なんか、読んでるだけでも恥ずかしくて、常識的に絶対ありえない気がするんだけど」


 ニーナは、愚痴めいた独り言を漏らし続けながら、机の脇に立てかけてあった、小型の黒板へ視線を投げ掛ける。

 それは、速記で書かれたメモだった。

 昨日、アメリーがこの部屋を訪れ、ニーナに仕事を依頼したとき、熱心に語った内容を、その場で要約して書き止めておいたのだ。

 羊皮紙は、気軽に使うには、庶民にとってやや値が張る。だから、文面がまとまらないうちは、黒板に白墨でまずメモ書きするのが常だった。


 改めて、黒板のメモ書きを読み返してみる。

 しかし、いくら考えてみても、それを手紙に直すと、やはり今羊皮紙に清書したぐらいの文面は避けられそうになかった。

 いや、むしろニーナが無意識的に抑えを効かせて、ちょっと控え目な表現になっているほどですらある。


(――あのときのアメリー、物凄い浮かれ方だったもんなあ。すっかり、夢の世界に心が飛んでるみたいな雰囲気で……)


 ニーナは、アメリーが依頼に来たときの様子を思い浮かべた。アメリーの頬はバラ色に染まり、愛くるしい瞳は目の前の景色を見ていないようだった。

 これは、完全に病気だな、とニーナはそのとき思った。

 同年代の少女にありがちな症状で、いわゆる恋の病というやつだ。


「この仕事、どうしてもアメリーみたいな『患者さん』とのお付き合いが増えちゃうのが、最大の難点よねぇ」




 ニーナの仕事とは、すなわち【代書人】であった。


 文字の読み書きができない人々に代わって、必要書類や手紙をしたためる、代筆業務を請け負う仕事だ。


 アステルライヒの王国全域において、農村部まで含めると、全国民の平均識字率はたぶん一割にも満たない。概ね、読み書きまで出来る人間は、二〇人に一人といったところだ。

 都市部に限っても、せいぜい住民の一割から三割で、文章を記すことはもちろん、読むことすらままならぬ者がほとんどなのである。

 例外的に識字率が高い人々は、幼い頃から教育を受けた貴族、帳簿や台帳を扱う商人や官吏、あとは教典の朗読と写本を行う聖職者がほとんどだった。

 文章をしたためられることは、一種の技術であり、それを習得している人材は、多様な場面で重宝がられた。


 ニーナの父親は、名も無い学者だった。

 研究者としては、これといって何かを成したというわけでもなく、母親にも随分苦労をかけたりもしていた。あまり尊敬する気になれる父親ではなかった。

 ただし、自分に読み書きや算術の基礎を教えてくれたことについては、今でもそれなりに感謝している。今は別々の土地で、離れて暮らしてはいるものの、特に親子の仲が険悪ということもない。

 とにかく、読み書きができるおかげで、ニーナはこれまで食べるのにだけは困ったことがなかった。


 ニーナがヘルネの町へやってきたのは、二年前の春で、一七歳のときだ。

 知人の紹介で、宿屋「黄昏の白馬」亭を訪ね、住み込みで働かせて欲しい、と主人のヨハンに頼み込んだ。どちらかというと小柄で、色白なニーナは、当初使い物になるのかと、(いぶか)しげな目で見られた。

 だが、読み書きと計算ができるとわかって、宿の帳面の類を任せられ、すぐに彼女は自分の居場所を確保した。


 代書人の仕事をはじめたのは、その半年後のことだった。

 「黄昏の白馬」亭は、宿屋本館の横に、酒場が併設されている。

 宿屋は基本的に素泊まりだから、食事や飲み物は隣の酒場で注文するのだ。もちろん、どちらも同じ敷地の中にあって、ヨハンが妻のマリアと一緒に切り盛りしている。


 そうした酒場には、毎年秋頃になると、地域ごとの高級官吏がやってくる。

 西方諸国では収穫時期の季節、酒場が数日間だけ、州や郡部の領主から派遣された行政官が詰めて、臨時の出張所になるのだ。

 ヘルネの町の南地区でも、商人たちが一年の売上げから納税額を申告し、状況に応じて審査を受ける。このとき、まとめて他の各種手続きを申請することも可能で、酒場の広いホールには、地域住人がごった返す。

 都合、事務処理の人手が例年不足がちだ。

 そこで一昨年の秋は、宿屋と酒場の申告書類作りも任されていたニーナに、白羽の矢が立った。なし崩し的に、出張所の手伝いに借り出されたのである。

 ここで彼女が作成した書類は、思いのほか好評で、巡回官吏からもすっかり感心されてしまった。


 それがきっかけで、ニーナの才能を高く買ったヨハンの勧めもあり、代筆業務を請け負うようになったのだ。間借りしている宿屋二階の一部屋が、自室兼事務所になった。

 無論、書類作りで宿を訪れる人間が増えれば、店の宣伝にも繋がるという、ヨハンのしっかりした計算もあった。


 開業当初は、ニーナもかなり手探りだった。

 何度となく町役場へ足を運び、公の書類は記述書式について相談するなど、苦労を重ねることも多かった。

 けれども、宿屋の下働きと兼業だったので、金銭的には切羽詰っていなかったのが、彼女の場合はいい結果に繋がった。

 仕事が少なくても、焦らずマイペースで、個々の依頼を丁寧に対応できたし、代書の料金も控え目に設定できたからだ。


 元々、ヘルネの町には、他にも古株の代書人が一件店を構えている。

 その店は町の中央部、「葉の緑」広場の片隅で、文書の種類・内容・枚数にもよるが、だいたい証書一種につき銀貨一五枚(金貨一枚相当)で業務を受注していた。

 ニーナは同じ依頼を、銀貨一二枚で請けはじめ、書類の仕上がりも良かったので、利用者からはすぐに評判になった。


 もしこれが、大きな都市ではじめた仕事だったとしたら、こうも上手くことは運ばなかっただろう。

 都市部の商業圏には、大抵職業組合(ツンフト)が存在し、新規開業から商取引における価格設定まで、細かく(おきて)に定められているからだ。

 ヘルネでは、これまで代筆業務が、事実上ただ一件の店に独占されてきた。だから、代書人組合自体が存在していない。それが、ニーナにとっては幸いした。


 もっとも、商売敵が現れたからといって、ただちに古株の代書人の仕事が減ったというわけでもない。

 ニーナは専業ではないので、仕事を請けるのにどうしても都合の悪いときもあれば、文書が完成するまで多少時間を要することもある。急ぎの重要書類は、多少値が高くても、やはり専業の代書人に依頼した方が確実である点は否めなかった。


 他方、女性であるニーナが代書人をはじめたことで、それまで眠っていた潜在的な需要が掘り起こされ、新たに創出された客層もある。


 つまり、アメリーのような代書依頼者――

 「恋文」の代筆を希望する少女たちだった。


 元来、大陸西方諸国における恋文の文化は、王侯貴族のあいだで男性から女性に宛てて送られるもの、という歴史的経緯をたどっている。貞淑さや慎ましさを求められる女性が、自ら意中の相手に書簡で言い寄るというのは、価値観の古い人であれば「はしたない」とさえみる場合もあるだろう。

 だから、たとえ女性の側から好意を寄せたにしても、男性の側から送られてきた手紙に返信する、というかたちでの恋文がいまだ主流ではある。


 とはいえ、代書人の登場によって、恋文が庶民の暮らしの中にも根付きつつある昨今、少しずつ世の価値観は変容を見せている。恋愛に対して、積極的な意思表示をためらわない女性が随分増えた。

 このヘルネでも、日に日に「恋する乙女」たちからの代筆依頼は、増加の傾向にあるように思われる。

 そして、自分の恋文をしたためてくれる代書人には、やはり同性が望ましい、と考えるのは自然なことだろう。


 結果的に、ニーナの仕事はこの町において、古株代書人との棲み分けにも成功していた。


 ……ただし、商売としての観点を差し引けば、それがニーナにとって、必ずしもありがたい話かどうかは、まったく別の問題である。



「あ~あ。甘ったるいの、もう気持ち悪いぃ……」


 ニーナは、げんなりした顔でつぶやき、よろよろと再び椅子に腰掛け直した。机の上に片肘付いて、その手の平を頬に添えると、深く嘆息した。

 今日は、まだ宿屋の仕事も、客の出入りは少なく忙しくなかった。できれば陽の高いうちに、溜まった依頼をある程度まとめて片付けておきたいところだが、なかなか思うように進まない。

 アメリーの分を書き終えたら、次はイゾルデの恋文の代筆で、〆切は明日までだったかしら、などと思い出して、殊更(ことさら)気だるくなった。


 もちろんニーナも、他人の恋愛に一切興味がないとまでは言わない。

 だが、正直なところ、代書人をはじめたとき、この現状は予期していなかった。

 恋文の代筆という仕事は、あり得るだろうとまでは思っていたが、それでもごくごく少数だろうと考えていた。町の若年人口の割合と照らしても、それは自然な想定だったはずだ。

 だいたい、識字率が低い、ということは、手紙を受け取っても、読めない人間がそれだけ多い、ということでもある。

 それゆえ高をくくっていたのだが、いざ親密な異性から書簡を渡されると、何が書かれているのか気に掛かって、どうにか知りたくなるのも自然な心理だ。

 教会の中へ駆け込んで、司祭やシスターに代読してもらっている若者が少なくないと聞いたとき、ニーナは軽く眩暈(めまい)を覚えた。


 世の中には、彼女が思っていたよりずっと沢山、恋の花があちらこちらで咲き乱れていたようだ。

 それとも、春になって暖かくなってきたからだろうか……


 ニーナがぼんやり思いを巡らせていると、そのとき不意に部屋のドアをノックする音が耳に届いた。

 扉越しに、おっとりとして澄んだ声音が聞こえてくる。


「――ニーナ。私だけど、今大丈夫?」


「ナスターシャ? 待って、すぐに開けるから」


 ニーナは、聞き慣れた声で訪問者が誰か把握すると、急いで椅子から立ち上がった。

 ドアの前へ歩み寄り、鍵を外して蝶番(ちょうつがい)(ひね)る。

 扉を開くと、そこにはニーナと同年代の少女が、陶製のポットやカップ、白い紙包みを、木の盆に乗せて立っていた。ポットからは湯気が昇り、紙包みからは香ばしい匂いが漂ってくる。


「また、焼き菓子を作ってみたから、一緒に食べたいなと思って持ってきたんだけど、お邪魔しちゃったかな。お仕事、忙しくなかった?」

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