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21:ヘルネの町の代書人

 ニーナから要求を伝えられた直後、ヒューベルトは唖然とした面持ちになった。

 いったん状況を頭の中で整理し直しながら、己が相手にどのような反応を示すべきか、彼は必死に思考を巡らせているようにも、あるいは困り果てているようにも見えた。


「俺は、ゼントリンガー公の配下で、君たちを罠に陥れていたかもしれない男だぞ……」


 ややあってから、ヒューベルトはようやく、苦しげな声でつぶやいた。わけがわからない、と言いたげな様子だった。


「その俺を仲間に引き入れようとは、いったいどういう了見だ」


「でも、貴方はゼントリンガー公から、本当の目的を知らされていたわけではなかったわ」


 ニーナは、穏やかな口調で告げた。


「貴方の任務に対する精勤は、少なくとも当初、この国に正統な秩序をもたらすという、大きな理想の上に依拠していたはず。私は、その志を信頼します」


「だが同時に、名誉欲や出世欲があったのは否定できない。俺は結局、自分の栄達に目がくらんで、欲得を満たすための道理にかなった裏付けが必要だっただけかもしれぬ。決して、清廉の士などではなかった……」


「仮にそうだったとしても、貴方がアステルライヒの王位継承者を守るため、命懸けで戦おうとした事実に変わりはないわ」


 ニーナは、庇うように言った。

 けれども、ヒューベルトは、やはり煮え切らない態度で、口を閉ざしてしまった。


 どうやら、この若い騎士には、いまだに自分がゼントリンガー公の騎士であり、ニーナから見れば敵対勢力に与する側の人間なのだという、(ねじ)れた帰属意識のようなものがあるらしかった。

 裏切られても尚、主君と仰いだ人物に義理を感じているのかもしれない。

 まさしく、その生真面目で、いささか融通の利かない性格こそ、むしろニーナが好感を抱き、信用に足ると見ている部分なのだが、おそらく本人はその評価に納得しないだろう。

 とはいえニーナは、ここであまりヒューベルトの葛藤に付き合う気にもなれなかった。



「――ねぇ、ルーファス。それに、クレメンスとローレンツも」


 不意に、ニーナは立ち上がって、この場に居合わせた他の三人の名前を呼んだ。


「悪いけど、みんな少しだけ建物の外へ出て、外してくれないかしら。ヒューベルトと、二人だけで話がしたいの」


 ニーナの指示を受けて、ルーファスたちは互いに顔を見合わせた。

 大公女とゼントリンガー公配下の騎士を、この場に残して離れることについて、美貌の伯爵は一瞬思案したかに見えたが、すぐ口元に微笑を浮かべて首肯した。

 クレメンスも軽く肩を竦めてそれに従い、最後にローレンツが倣って、それぞれ順に「トカゲの塔」の出入り口を潜って退出していく。ただし、斥候の少年だけは、櫓を出る直前まで、どこか不満げな表情のまま、ヒューベルトに対して疑わしげな視線を投げ掛けていたが。



「……さて、他の人に話を聞かれる心配もなくなったし、この際ざっくばらんにいきましょう」


 ニーナは、すっかり皆が出て行って、建物の内部に自分とヒューベルトだけが残されると、大きく溜め息を付いてから言った。両腕を組んだ姿勢で、床の上に座る若い騎士の方へ向き直る。


「ねぇ、ヒューベルト。つい昨夜のことだけど――貴方は、宿屋の私の部屋まで来て、そのとき私にはっきり言ったわよね? 『君には将来、俺の妻になって欲しい』って」


 ヒューベルトが、弾かれたように顔を上げた。

 ニーナは、彼を間近で見下ろしながら、揶揄するような目つきになった。それから、確認するような口振りでたずねる。



「貴方、私のことが好きなんでしょう?」



 唐突に話題の毛色を変えられ、若い騎士の額にはうっすらと汗が浮き出ていた。ほんのいましがたまで青白かった頬には、急に熱が宿り、かすかに赤く染まっている。


「――あ、あれは、違う……」


 ヒューベルトは、羞恥のあまり取り乱し、やっと掠れた声で抗議した。

 しかし、ニーナは少し身体を前に乗り出して、ちょっぴり意地悪い声音で問い質す。


「あら、いったい何が違うのかしら。あのときは、私が単なる平民の娘だと思っていたから求婚したというの? アステルライヒのお姫様だとわかったら、途端に魅力が感じられなくなったとか」


 ヒューベルトは、またしても黙り込んだ。反論の言葉に詰まっているのが、明らかに見て取れる。

 自分の心と現実の立場との狭間で、彼は板挟みになっているのだ、とニーナは改めて察した。

 たとえ理性で得た答えでも、それを迷わず選び取ることは、時として難しい。正しさを測る尺度には、無数の価値観がある。それが今、たぶんこの若い騎士の中では、せめぎ合っている。


「……もちろん現実には、私の立場からすると、やはり貴方の気持ちに応えることはできないわ」


 ニーナは、ヒューベルトの表情を窺った上で、今度は諭すように言った。


「でも、それで貴方は、私のことを何もかも嫌いになってしまったのかしら」


 ――どのような地位や身分にあっても、それが人間の本質を決めるとは限らない。

 ラーヴェンスブルグの大公女は、暗にそれを若い騎士に示そうとしていた。


 翻って、ゼントリンガー公は、なぜヒューベルトを「捨て駒」にするような策謀を計画したのか。

 ニーナは、おそらく彼が下流貴族だったからではないか、と考えている。

 ヒューベルトは、与えられた任務に対する、充分な熱意や真摯さを持ち合わせた人材だ。しかも、剣の技量もローレンツと同等以上の腕前がある。まだ若く、これほど将来性のある騎士を、躊躇なく切り捨てられる理由は、能力以外の要素で彼を軽んじたからだとしか思われなかった。


 きっとゼントリンガー公は、ヒューベルトが最後まで忠誠を尽くすに足る君主ではない。ニーナには、その確信がある。

 そもそも、なぜ彼がゼントリンガー公に仕えているかと言えば、たまたまゴアルスハウゼンの騎士の家に生まれてしまったからだ。

 人間は、自分がどのような環境に生まれるかも、男と女のいずれに生まれるかも、何もかも自分で選択して生まれて来れるわけではない。それにも関わらず、現実にはいつどこの土地に、誰を両親に持って生まれたかで、その人物の多くの運命が意図せず定められてしまう。

 ニーナは、それをよく知っていて、そこに束縛されてしまう不条理を、殊のほか嫌悪している。



「――きっと今、君は俺を不甲斐ない男だと思っているのだろうな、ニーナ」


 ヒューベルトは、自嘲気味につぶやいた。


「目の前でこんな醜態を曝しても、本当に君は俺を必要としてくれるのか」


「その答えは、昨夜も言ったはずよ。もし私がゼントリンガー公だったなら、たとえ爵位を持たない下流貴族であるとしても、貴方は配下に得難い人材だと考えたでしょうと。……それに、もし貴方のちからを必要としていなければ、事件の真相を打ち明けたりもしていないわ」


 ニーナが応じたあとも、ヒューベルトは尚も少しだけ考え込んでいた。

 だがやがて、居住まいを正すと、石畳に片膝付いて、右手を己の左胸に当てた。いったん大公女の姿を眼差してから、彼女に向かって深く(こうべ)を垂れる。


「……貴女の申し出、たしかに承知した。ニーナ……いや、ラーヴェンスブルグ公爵令嬢にして、アステルライヒ王女レティーシア」


 ヒューベルトは、あたかも祝詞を詠むように言った。

 それは、剣を捧げる「騎士の誓い」とは違うが、略式の臣下の宣誓であった。彼は今、新たな主君を戴き、また同時にかつての主君との関係を断ち切ろうとしているのだった。


「この日このとき、この誓約を以て、我が魂、我が血液の一滴まで、すべてを御身のために捧げよう。――たとえ、明日の運命(さだめ)が刃となって、この胸を突き刺し果てるとしても、我が身命を()して御身をお守り申し上げる」


「……まあ、実際には、あまり簡単に死を覚悟されたりすると、私としては困るんですけどね」


 ニーナは、ヒューベルトが忠誠を表明するのを見届けたあと、左手の指で頬を掻きながら、少しおどけてつぶやいた。

 これは、あくまで主従の形式的な盟約でしかない。とはいえ、やはり面と向かって「命懸けで貴女を守る」などと言われると、ニーナとしてもいささか面映ゆいものなのだった。



「え、えーっと……とにかく。これで、ヒューベルトも今後、私たちに協力してくれることになったわけだし、夜が明けたら早速、次の根回しを済ませてしまわなくてはね」


 ニーナは、こほん、とわざとらしく咳払いしてみせてから、仕切り直すように言った。


「この一件の後始末というやつか?」


 ヒューベルトは、宣誓の姿勢を崩すと、立ち上がってたずねた。


「まあ、そんなところね。遅かれ早かれ、この町で例の『革鎧の男たち』が消息を絶ったことは、ゼントリンガー公も知ることになるでしょうし。その前に、こちらから先に手を打って、向こうの目先を欺いておかなくちゃ」


「どうやら、すでに君には妙計があるようだな」


「ええ。貴方のおかげでね、ヒューベルト」


「……俺の、おかげだと?」


 ヒューベルトは、ニーナの言葉の意味を把握し損ねて、反射的に問い返した。

 アステルライヒの美しい姫君は、すっと目を細めて若い騎士を眼差し、深く首肯してみせる。



「私は、この町では大公女レティーシアじゃなく、代書人のニーナですもの。――貴方が、私の仕事を頼ってくださって、助かったわ」




     ○  ○  ○





 ……こうして――


 架空の王位継承者「第二王子ヴィルフリート」に関わる一件は、一応の決着をみた。


 宿屋「黄昏の白馬」亭に逗留していた三人の連泊客――ヒューベルト、クレメンス、ローレンツ――は、「トカゲの塔」でニーナの仕組んだ企てが実行された翌朝のうちに、皆一斉にヘルネの町を立ち去ることになった。



 ヒューベルトは、ローレンツの案内で、クロイツナッハ侯爵領ゴスラー州のリッテンヴァイラーを目指して旅立った。その懐中には、同地の領主オルトウィーンへの紹介状を携えている。抜け目ない大公女は、彼の身柄をクロイツナッハの千騎長に委ねるため、事前に用意していたのであった。

 このあとヒューベルトは、オルトウィーンやローレンツの助力を得て、いったんゴアルスハウゼンへ戻ることになっている。


 ――ただし、それは大手を振っての凱旋ではなく、素性を隠しての侵入だ。

 ゼントリンガー公の所領たるゴアルスハウゼンは、もはやヒューベルトにとって懐かしい故郷ではなく、アステルライヒ転覆を策謀する敵対勢力の本拠地なのである。

 しかし一方で、そこには当然、彼の生まれ育ったハーニッシュ家が今も屋敷を構えている。

 ニーナは、ヒューベルトが自分の臣下に加わることで、彼の親族に危険が及ぶ可能性を、真っ先に憂慮していた。そこで、秘密裏にゴアルスハウゼンから、ヒューベルトの家族をゼントリンガー公爵領の外へ連れ出し、安全な土地で保護する計画を算段していた。

 あるいは、架空の王族を捜索することなどより、ずっと困難な任務になるかもしれない。

 だが、彼女が信頼を寄せる王国黒騎士団の協力があれば、きっとヒューベルトは自分の家族を守り抜くことができるだろう。



「君には、何から何まで世話になってしまうな」


 まだ夜も明けきらず、周囲の空気も肌寒い、旅立ちの朝――

 ヒューベルトは、「黄昏の白馬」亭の敷地内にある馬小屋の前で、ニーナに礼を言った。


「この恩には、いつか必ず俺の剣で報いよう。この騎士の名誉にかけて」


「そんなに何度も、改まって感謝されるようなことじゃないわ」


「いいや――自分に与えられた密命を妄信し続けていたら、今頃、俺はゼントリンガー公の真意も知らぬまま、君の指摘した通り謀殺されていたかもしれない。だとすれば、少なくとも俺は、君に命を救われたことになる」


「まったく、本当にいちいち義理堅いのね。……それよりも、はいこれ」


 ニーナは、呆れ笑いを浮かべながら、ヒューベルトにちいさな皮袋を手渡した。

 彼女がこの若い騎士から預かっていた、金貨や宝石、そして身分証代わりの指輪が入ったものだった。


「ヘルネを離れて、次の町に着いたら、これでまず真っ先に新しい剣を買うことね。クレメンスに刃を折られて、これまで持っていたのは、もう使い物にならないんでしょう? ――剣がないんじゃ、どんな誓いを立ててみても、騎士の恰好が付かないわよ」


「……まったくだ。君の言うことは、いつでも正しいな」


 ヒューベルトは、苦笑混じりに、皮袋を受け取った。

 すでに一度譲ったものだから、ニーナが取って置くべきではないか……と、一瞬思案した様子だったが、それが彼女には無用の長物であることに、若い騎士は即座に思い至ったらしい。

 この金髪の少女には、金銭で困窮するようなことはないのだ。当座必要な分は、仕事で稼いで蓄えもあるし、いざとなればいつでもレムシャイト伯が用立てるはずだった。もっとも、根本的にニーナは、他人からの施しを好むような性格ではないのだが。



 そのような会話を続けていると、不意に横から若い騎士をうながす声が聞こえた。


「――ヒューベルト、早く馬に乗ってもらえませんか。我々が愚図愚図していては、大公女殿下にもご迷惑ですよ……」


 馬を手綱で引いて、ローレンツが厩舎から出てきたところだった。不愉快そうな顔つきで傍に立ち、ヒューベルトを睨んでいる。新たに仲間となった騎士に向かって、いかにも気に食わない、と言いたげな視線を送っていた。


「すまない。今、すぐに準備する」


 ヒューベルトは、短く応じると、ニーナに片手で合図を送ってから、厩舎の中へ入っていく。

 それを牽制するように眼差しながら、斥候の少年は深い溜め息を吐いた。

 ニーナは、ローレンツと初めて宿屋の受付で接したときのことを思い出す。あのときの柔和そうな物腰から、今の姿は想像もつかない。口調に面影はあるが、本当に見事な演技だったと、改めて感心してしまう。

 ローレンツの馬は、昨日のうちに町の馬屋で買ったものらしい。ヘルネまでの旅は、素性を偽るために、あえて乗り合い馬車を使ってきたので、自分の馬がなかったのだ。


「ローレンツ。どうかリッテンヴァイラーまで、ヒューベルトのことをよろしくね」


「……はい――。それは、レティーシアさまの御命令とあらば、是非もありませんが……」


 ローレンツは、姿勢を正すと、右手を左胸に重ねて言う。


「あのヒューベルトという騎士、本当に信用に足る男でしょうか――剣の腕はそれなりに立つようですが、何しろ元はゼントリンガー公の手先です。それに、一度寝返った人間は、何度でも味方を裏切るもの――どうも僕には、まだ奴が心から我々の味方とは認められません……」


「心配ないわ、ローレンツ」


 ニーナは、明るい声で、請け合った。


「彼は、ちゃんと約束してくれたから。これからは、弱い立場の人たちのために戦うって」


「――はあ、そうですか……。レティーシアさまが、そのようにおっしゃるのであれば……」


 ローレンツは、敬愛する大公女に微笑まれ、渋々といった態度でうなずいた。まだ、その面持ちには、本心で納得した様子はなかったけれども。


「待たせたな、ローレンツ。それでは行くとしようか」


 やがて、ヒューベルトも自分の馬を伴って、馬小屋の前に戻ってきた。

 ローレンツは、若い騎士に一瞥くれて、無言で応じる。次いで、ニーナに対しては、対照的に恭しく一礼してから、ひらりと馬の鞍に跨った。

 ヒューベルトも、それに倣う。


「いいですか、ヒューベルト。僕は、昨夜の君との勝負――あれで決着が付いただなんて、決して思っていませんからね……」


「……どうやら存外、根に持つ性格のようだな、ローレンツ」


 少年と騎士は、取るに足らないやり取りを交わしつつ、互いに馬上の身となった。

 案外、この二人はいい取り合わせかもしれない、とニーナは隣で見ていて可笑しくなった。


 ローレンツが手綱を握り直し、軽く足の内側で馬の腹を蹴ると、短い(いなな)きが朝の薄明に響き渡った。少年の駿馬は、馬首を巡らせ、町の外を目指して駆け出した。すぐにそれを追うようにして、若い騎士の馬も続く。

 ニーナは、急いで宿屋の前のヨーゼフ通りへ出て、二人を見送ろうとした。

 ヒューベルトとローレンツは、馬を飛ばし、共に外套を翻しながら、みるみるうちに遠くへ離れていく。たちまち、後ろ姿は黒い二つの馬影となり、通りの先の少し曲がったところで、彼女が立つ位置から見えなくなってしまった。



「――おう。ローレンツとヒューベルトは、先に行ったみたいだな」


 宿屋へ引き返すと、入れ替わりにクレメンスが馬小屋の前に居た。片手を挙げながら、ニーナに陽気な声を掛けてくる。

 見れば、その隣には、フード付きの外套を纏った男性が並んでいた。頭部を覆った布の下から覗く中性的な容貌は、見紛うはずもないレムシャイト伯ルーファスそのひとだ。

 おそらく、転移魔法で城を密かに抜け出し、裏手から「黄昏の白馬」亭の敷地に入っていたのだろう。ニーナも「魔法」の使い手ゆえ、あまり他人のことを言えた義理ではないが、まさしく神出鬼没、油断のならぬ人物である。


「おはよう、クレメンス。それにルーファスも来てたのね」


「姫様におかれましては、今朝も誠にご機嫌麗しく、お顔を拝謁賜り感に堪えません」


 いつものようにルーファスは、一礼して芝居がかった挨拶を寄越してきた。

 ニーナは、それをやはりいつも通り、うるさそうに手の平をひらひらと翻して退ける。


「あー、はいはい。そういうのいらないから。それより、またひょっこりヘルネに来ていることが町長さんに知れたら、面倒なことになるわよ。くれぐれも気を付けなさいよね」


「ええ、それは重々承知しておりますとも」


 ルーファスは、平凡な町娘なら、誰もが無意識に目を奪われかねない微笑を浮かべる。


「それにしても、ヒューベルト殿やローレンツ殿のことも、ここで見送らせて頂くつもりだったのですが、どうも一足違いで、すでに出立されてしまったようで。やはり『魔法』の心得がある身といえど、万事都合よくは望みを叶えられませんね」


 ニーナは、ルーファスのぼやきに、苦笑いで応じるしかなかった。

 昨夜の出来事のあと、まだ日の出の鐘も鳴っていない。

 ゼントリンガー公の手下を捕縛し、この美貌の伯爵はあれから城へ連れ帰ったのだ。事後処理などの対応に追われ、おそらく不眠のまま現在まで至っているに違いなかった。

 何しろ、ルーファスは安易に持ち上げると、悪ふざけで切り返してくるような捻くれた性質(たち)なので、ニーナは決してその貢献を言葉に出して労ったりはしない。だが、本心では、大きな信頼を寄せている。

 かつて亡きヴィルヘルムが、レムシャイト伯爵領に異母妹の身柄を預けようと思い立ったのも、やはり妥当な判断だったのだろう。


「さて。俺も(ほう)けてばかりいないで、早いところ行かなくちゃな」


 ニーナとルーファスが立ち話している間に、クレメンスも厩舎の中から、馬の手綱を引いて出てきた。大柄な身体をひらりと舞わせ、馬の鞍に跨る。さすがに傭兵隊長だけあって、馬上で背筋を伸ばすと、居住まいに落ち着きが漂っていた。


「クレメンスにも色々手間を掛けさせてしまうけど、どうかよろしくね」


「ああ、任せとけって。ここの町じゃ、なんだかんだと毎日二ヶ月も酒浸りだったからな。さすがに俺も、飽きが来てたところだ――やっぱり人間ってやつは、多少は刺激のある生き方をしなきゃ、身体が(なま)っちまって良くねぇな」


 クロイツナッハの傭兵隊長は、白い歯を見せて、馬上から大公女に笑いかけた。

 クレメンスが新たに請け負った仕事は、アステルライヒ東部の国境を越え、隣国エルベガルドで偽装工作を働くことだった。

 この任務は、架空の王位継承者「第二王子ヴィルフリート」を演出する、総仕上げとも言うべきものだ。



 代書人ニーナは、ヒューベルトから過去二度に渡って、ゼントリンガー公への報告書簡の作成を依頼されていた。

 実は、これを利用し、ニーナ――すなわち大公女レティーシアは、ヒューベルト名義を用いて、虚偽の内容を含んだ報告を、敵方へ堂々と送り付けていたのである。

 ゼントリンガー公は、ルーファスが捕縛した「革鎧の男たち」からも定期連絡を受け取っていた。

 しかし、そちらはあくまで、ヒューベルトとは一定の距離を置きつつ、監視の結果得られた情報に終始していたはずなのだ。ヒューベルトが任務の最中、ニーナやクレメンスとどのような会話を交わしたのかなど、仔細な事情までは伝わっていない。

 もし、仮にそこまで把握されていたとするなら、「トカゲの塔」での作戦も成功していなかったはずである。


 ニーナは、数日中に新たなヒューベルト名義の報告書簡を作成し、再びゼントリンガー公宛てに発送するつもりだった。

 この書簡の内容は、概ね文面が決まっている。


 事前にニーナは、「第二王子」が予想通りルーファスと昵懇(じっこん)の関係にあり、ヒューベルトの説得もいまだ聞き入れられていないという作り話を、最初の書簡でしたためていた。

 そのような状況下、「ルーファスが私兵を用い、ヘルネをはじめとする所領内で、突如旅人や外部から流入した移民の素性を、一斉に調査しはじめた」と、虚偽の連絡を入れるのだ。ヒューベルトは、この追求を際どく逃れ、ヴィルフリートとの交渉についても、一切ルーファス側には気取られていないこととしておく。

 その上で、次の報告をする――


『ただし、ヘルネ近郊の村落などでは、何やら嫌疑を掛けられた集団が、過日夜間のうちに捕縛された。その一団の素性までは判然としないが、自分と似たような潜伏任務に関わる武装勢力と見られ、ルーファスの居城へ連行されたようだ……』


 これでおそらくゼントリンガー公は、すでに配下の「革鎧の男たち」が、ルーファスの手に落ちたことを察するに違いない。


 他方、さらに新たな情報も得たと偽る。

 第二王子ヴィルフリートは、ルーファスの勧めで、エルベガルドへの出国を企図している、と書簡に記述するのだ。かの隣国には、ルーファスと面識があり、フィンダイゼン侯爵家と長年縁故も深い貴族があるから、そこで改めて身を隠すということにする。これはたぶん、国外への出奔という点に驚きはあるかもしれないが、それほど不自然な展開でもない。


 そうしてヒューベルトは、自発的にゼントリンガー公への書簡で、第二王子の追跡を申し出るのだ。

 つまり、隣国まで国境を越えて、「架空の人物の足取りを、追い掛ける素振りを装う」のである。

 そのあいだに、実際のヒューベルト本人は、あべこべにゴアルスハウゼンに舞い戻り、家族の救出を試みる。エルベガルドへ向かうのは、第二王子に擬態したクレメンスだ。

 クレメンスは、ゼントリンガー公の手下がエルベガルドまでやって来るのを先回りし、現地で相手の捜索を欺く。それこそ、ルーファスに罪状が転嫁されずに済むのであれば、いっそ異国で第二王子は、偶然ヒューベルトと共に事故死してしまったことにしても構わない……


 これこそ、ニーナが代書人で、ヒューベルトの依頼を請けていたから可能な詭計であった。



「――それじゃあな、ニーナ。それにルーファスも」


「じゃあね、クレメンス。身体に気をつけて――なんて、殺そうとしても死にそうもない貴方には、余計な別れの挨拶かしら」


 大公女が付け加えるように告げると、傭兵隊長は声に出して笑った。

 それから、掛け声と同時に、クレメンスは馬の腹を蹴って駆け出す。宿の敷地から出ると、いましがたのヒューベルトたちと同じように、その後ろ姿もほどなく黒い馬影となって、町の通りの先へ遠ざかっていった。


「……なんとか、ナスターシャが宿へ勤めに出てくる前に、三人とも送り出せたわね。ご主人や女将さんは、もう起きて仕事をはじめているかもしれないし、まだ少し細工が残っているけど」


 ニーナは、ほっと安堵の溜め息を吐いた。

 ヒューベルトとクレメンスが同じ日に宿の部屋を引き払ったのは、今後の筋書きと照らしても差し支えない。

 けれども、ローレンツに関しては、少し台帳に手を加えておく必要がある。あとから巡回官吏を通じて、ヨハンに金品を渡し、宿の従業員には口裏を合わさせる約束を取り付けさせよう。役人の手配は、ルーファスに任せれば良い。回りくどいし、少々汚いやり方だから、本心から言えばあまり気が進まないが、この際は致し方なしというものだろう。

 ただ、いずれにしろ当面の難事は、これで大方解決したはずであった。



「――さあ、果たして、これで本当に良かったのでしょうか」


 ところが、ニーナの傍で、美貌の伯爵がそっとつぶやいた。

 代書人の少女は、音楽的な声に釣られて、彼の方を振り返る。そして、言葉の真意を探るように、フードの下の端正な顔を、まじまじと眼差した。

 ルーファスは、囁くように、先を続けた。


「このまま時が流れれば、いずれローテンベルガー公爵家のアルブレヒトが新王となり、叔父の私が宰相の任を拝命するでしょう。そのとき、あるいはゼントリンガー公の息女ザビーネ嬢も同時に新王妃となるかもしれない。――私とゼントリンガー公、それにローテンベルガー家の血族との間で、おそらく陰惨な権力闘争がはじまります。最悪の場合、この国で暮らす罪もない大勢の人々を巻き込んでね」


「……何が言いたいのかしら、ルーファス」


 ニーナは、わざと(とぼ)けてたずねた。

 しかし、このときばかりはルーファスも、珍しく食い下がった。


「私は、貴女の御父上ではありません。ですから、娘に苦労させたくないとか、人間の醜い部分を見せたくないとか、そういう親心は持ち合わせていないということですよ」


 ルーファスは、そこでいったん息を吸い込み、不意に強い口調で言い放った。


「やはり可能ならば、貴女が新たな王位に就くべきなのです、レティーシア姫。――もちろん、貴女が今から継承者としての名乗りを挙げ、公にラーヴェンスブルグ王家の子女と認められたとしても、血生臭い諍いは免れ得ないでしょう。それでも、幼児のアルブレヒトが戴冠するよりは、たぶんいくらかましなはずです。何より、貴女にはその聡明な頭脳があるのですから」


「私が即位するということは、王家が神聖ザルヴァ教団の手を借るということよ。彼らが贖宥状の利権を拡大すれば、かえって余計に多くの人が苦しむことになるかもしれないわ」


「姫様は、あんなただの紙切れに踊らされて、民衆が皆、いつまでも騙され続けるほど愚かだとお考えなのですか?」


 ルーファスに問い詰められ、ニーナは咄嗟に反論できなかった。

 彼女は、人間の資質を出自に求めない。だから、平民や下流貴族、帝国出身の人間であっても、能力さえあれば味方に引き入れるし、積極的に重用するのである。

 そのような価値観の持ち主である大公女が、民衆を侮るはずがなかった。


「……ルーファス。私は前々から、貴方のことが苦手だけど」


 ニーナは、少し間を置いてから、苦々しげに言った。


「なんだか、その理由が少しわかった気がするわ。貴方と私は、正反対のようでいて、妙にどこか考えが似ているのね。だから、貴方を見ていると、自分の欠点を見せ付けられているような気持ちになって、苛々するんだわ」


 ルーファスは、権力に執着する種類の人間ではない。むしろ、フランツや故人のヴィルヘルム、また大公女と同様に、その腐臭を嫌悪している。

 それにも関わらず、アルブレヒトの戴冠に伴って、宰相の地位に就こうとしている。

 だからきっと、王族のしがらみから逃れ続けようとするニーナを、ルーファスが恨みがましく責める心情は、彼女と根底で共通なのだろう。

 ルーファスは、ニーナの見解に同意する代わりに、わざとらしく両手を左右に広げてみせた。


「姫様を措いて、このアステルライヒには、王国黒騎士団の忠誠を完全に掌握できる人物など、他にないと思っているのですけどね、私は。麗しの大公女殿下のためとなれば、数千の騎士たちも皆、己の身命を賭して、貴女をお守りするでしょうに」


「まったく貴方と来たら、ふざけた妄言ばかりね。手に負えないわ」


 ニーナは、かぶりを振りながら応じる。ふと一瞬、オルトウィーンやヒューベルトのことが想起されたが、すぐに脳裏から追い出した。

 今の彼女は、ただの平民で、ヘルネの町の代書人だ。

 誰かからの忠誠を集める王女ではないし、将来もそうであっては欲しくないと思っている。

 姫君一人のために、幾人もの有能な騎士たちが全身全霊を捧げて戦うなど、いかにも馬鹿げた話だし、自分がそれに見合うだけの価値を持つ人間だとも思わない。


 ニーナは、「黄昏の白馬」亭の本館へ向かって、おもむろに歩き出した。宿の仕事がそろそろはじまる。ヒューベルトたちの出発前に、馬小屋の清掃は一通り済ませてしまったので、今朝は女将のマリアを手伝うつもりだった。


 背後から、ルーファスの「やれやれ……」という諦観したような声が聞こえたが、金髪の少女は無視して、立ち止まらなかった。


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