20:新たなる盟約
石階段を下りきると、ニーナは薄闇に包まれた建物の中を、ぐるりと改めて見回した。
この金髪の少女を含め、「トカゲの塔」内部の空間には、今五人の人物が居合わせている。
傭兵隊長クレメンス、斥候のローレンツ、レムシャイト伯ルーファス……
彼ら三名は、いずれも彼女の心強い味方だ。今夜の急な計画にも、各自がよく的確な判断で役目を果たしてくれたと思う。
そして、いま一人の青年――
ゴアルスハウゼンの騎士ヒューベルトは、両膝を折り、半ば放心した様子で、石畳の中央付近に座り込んでいる。
まだ、自分が目の当たりにした真実を、見たままに受け入れられる精神状態ではないのだろう。
それもまた、無理からぬことであった。
この一件に限れば、ある意味で最大の被害者は、この若い騎士であるに違いないのだから。
「よう、ニーナ……いや、今は姫さんと呼ぶべきか」
クレメンスが、左手で黒い短髪を掻きながら、陽気な口振りで声を掛けてきた。
「概ね注文通りに、敵は全員生け捕りにしたぜ。あとは、ここに居るゼントリンガー公の騎士殿をどうするかだけだ」
「ありがとう、クレメンス。――でも、その『姫さん』は止して。この町では、あくまで『宿屋の下働き兼代書人のニーナ』でお願いね」
ニーナが注文を付けると、クレメンスは笑みを浮かべて承諾した。
一方、素直に従おうとせず、かすかに眉根を寄せたのはローレンツだった。
「いけません、レティーシアさま。……僕の本心としては、町中で芝居を打っているときでさえ、本来大公女で在らせられる殿下に対して、普通の平民と同じようにお話することを、心底畏れ多いと感じているのですから――。せめて、衆目のない場所では、臣下の礼を尽くさせて頂かねば……」
なぜか斥候の少年は、妙にむきになって反対してくる。
ニーナは、つい苦笑せざるを得なかった。
彼女より年少のローレンツは、どうしても「アステルライヒの姫君」に対する敬意の念が先行するらしい。元々、彼が平民を出自とするがゆえだろうか。生まれついて心に根を張った意識は、やはり簡単に取り除けはしないのかもしれぬ。
「やめてよ、そういう堅苦しいのは。息が詰まりそうだし、お互い楽にしましょう」
ニーナは、片手をひらひらと翻してみせ、ローレンツの申し出を退けた。
それから、ゆっくりと場の中央部へ歩み寄る。
若い騎士の目の前まで進み出ると、金髪の少女は穏やかな物腰で声を掛けた。
「まずは、今まで騙し続けていてごめんなさい、ヒューベルト」
ニーナもまた、左右の膝を曲げ、長いスカートの裾を手で押さえながらしゃがみ込んだ。小柄な彼女の視線は、たちまち座しているヒューベルトのそれより低い位置まで下がる。夏空色の瞳は、そこから青年の顔を、真っ直ぐに覗き込んできた。
「いましがた、ルーファスが言っていたけど――私の本当の名前は、レティーシア。アステルライヒ王フランツの私生児で、ラーヴェンスブルグ公爵家の子女よ。亡くなった王子ヴィルヘルムは、私にとって腹違いの兄にあたるわ」
ニーナが改めて名乗ると、ヒューベルトはようやく我に返った様子だった。彼女と目が合うなり、面持ちに険しさが宿る。
ややあって、ヒューベルトの喉から、掠れかかった声が漏れ出した。切り出すまでに少し時間が必要だったのは、ニーナを大公女と知り、言葉遣いを正すべきか逡巡したためかもしれない。
「……何もかも、君はこの一件について知り尽くしていたのか?」
どうやらヒューベルトは、あくまで目の前の少女に「代書人のニーナ」として接することを選択したようだった。
ニーナは、彼の質問にかぶりを振った。
「いいえ。私にも、最初から知っていたことと、あとから知ったこととがあったわ」
聡明な彼女も、全能の女神というわけではない。
この事件の落としどころとして、ニーナは自分の判断が及ぶ限り最善の方法を模索したつもりではある。だが、何もかもを、物事の起点から操舵することまでは、もちろん不可能であった。
「例えば、『第二王子ヴィルフリート』なんて名前は、貴方から聞かされたときに、私も初めて知ったことだったのよ」
「――本当なのか?」
目を見開くヒューベルトに向かって、ニーナは深くうなずいた。
不意にやんわりと、ルーファスが横から口を挟んだ。
「その点については、私の方から詳しくお話しましょうか。何しろ、『第二王子ヴィルフリート』なる架空の人物を創作したのは、この私ですから」
一連の事件について、その発端をどこに求めるかは、やや見解が分かれる部分だろう。
ただ、ゴアルスハウゼンの騎士であるヒューベルトが、アステルライヒ遠方のレムシャイト郡へ派遣されることになった直接の原因は、明らかである。
ゼントリンガー公ゲオルグの耳に、「国王の隠し子」に関する情報が入ったことだ。
実は、その内容をゼントリンガー公よりも先に察知し、伝達する途中で工作して、虚偽の要素を混入したのが、他ならぬルーファスだったらしい。
「人づての噂話というのは、面白いものでしてね。それがある程度信用できる筋からもたらされると、途中で肝心な点が欠落していたり、逆に脚色されて誇張されていたり、ときにはまったくありもしない妄言が付け加えられていたとしてさえ、聞いた人物はうっかり鵜呑みにしがちになるものなのですよ」
ルーファスは、いかにも人の悪い笑みを湛えて言った。なまじっか秀麗な面立ちのせいで、余計に性根の悪い人間に悪く見える。
伝言に尾ひれが付く、というのはよくあることだ。この伯爵は、智謀の士だから、きっと巧みに情報を歪曲したに違いない、とニーナは想像していた。
神聖ザルヴァ教団内で、過去に大公女レティーシアの秘密を正しく把握していた人物と言えば、まず明らかなのは王都の司教ルイトポルトであった。
だが、大公女出生の折、すでに老齢の域にあった彼は、かれこれ一〇年以上も前に遷化している。
今回の噂は、ルーファスが調査した限りだと、かつてルイトポルトの下で働いていた教団関係者の言葉が出所になっているそうだ。
ルイトポルトは、生前密かに「この国には、隠匿された王族が居る」と漏らしていたというのである。
何しろ、神に仕える聖職者によって語られた一説である。国家機密の事情通であっても、根も葉もない風聞と、即座に無視できる人ばかりではなかった。
ルイトポルトは昔、ラーヴェンスブルグへ派遣され、教団の使者として、王宮で枢要な地位に置かれていた時期もあった。その事実を考慮すれば、かの司教が何らかの秘密を握っていたことも、たしかにあり得なくはないのである。
これが単に非嫡出子の話であれば、あえて厳格に存在を覆い隠す意味はなかったはずだ――
噂を知って、興味を示した人間の中には、そのような考えを抱いた者も居ただろう。また、それ自体はある程度、的を射た推測だと言えた。
そこから、王家の隠し子には、実は王位継承権があるのではないか、という疑いが生まれることは、然程不思議な話ではない。
そのような不確かな憶測を含む流説に、ルーファスが細工を施すことは、割合に容易だっただろう。
レティーシア女王擁立の策謀には、教団側が贖宥状の頒布権限拡大を要求した事実がある。
けれども、今となっては、これを知る人間は(大公女の実在を認識している人たちの中にすら)極めて少ない。まして、敬虔な聖職者であれば、そのような組織の腐敗した一面など、信じたくはないだろう。
だから、常識的に考えて、「王位継承者と言えば、当然王子に決まっている」わけだ。
これは、彼女の素性を隠蔽する立場にとっては、大変好都合な先入観である。
「こうして、『第二王子ヴィルフリート』という名前は、将来この国の利権を我が物にせんとする勢力にも浸透し、疑われることが少なかったのです」
「この国の利権というが……」
ヒューベルトは、説明を終えたルーファスを、鋭い目つきで見た。
「それが架空の王子ヴィルフリートにしろ、大公女レティーシアであるにしろ――現状を鑑みれば、王位継承者に取り入って、将来の地位をもっとも保障され得る人物は、まず誰を措いても貴方ではないのか。俺には、結局事件を引き起こした根本的な要因は、貴方にあるとしか思われないのだが、如何かルーファス卿」
ヒューベルトの語調には、攻撃的で、糾弾するような厳しさが表れていた。いくら相手が己の主君と対立する田舎貴族といっても、彼は爵位を持たない騎士である。上流貴族たるルーファスへの態度としては、はっきり無礼と取れる発言だった。
ルーファスは、右手を腰に添え、左手で細い顎のあたりを撫でながら、無言で苦笑いを浮かべた。ヒューベルトの指摘を、暗に認めざるを得ない、といった態度だった。
そこでニーナは、騎士と伯爵の間に入って言った。
「ねぇ、ヒューベルト。これは、私もローレンツ経由で裏を取ってもらって、確認した話なんだけど――貴方は、ゼントリンガー公が近頃水面下で、ローテンベルガー公爵家と頻りに接触を持っていることをご存知かしら?」
「……それは、何の話だ?」
「やっぱり、聞かされていなかったのね」
ヒューベルトは、戸惑い、僅かに狼狽の色を顔に浮かべている。
ニーナは、思わず瞳を伏せ、ちいさく嘆息した。
「自分の娘であるザビーネ嬢との婚姻を、かのローテンベルガー公爵家の次期当主アルブレヒトに対して、ゼントリンガー公は何度もしつこく勧めているそうよ。……もし、両家の縁組みが成立し、このまま他の王位継承者が現れなければ、いずれゼントリンガー公はアステルライヒ国王にとって義理の父親になるわね」
「――そんな、バカな!」
まだ幼児のアルブレヒトは三歳、ゼントリンガー公爵令嬢ザビーネは今年一五歳である。
当然、両者の年齢を考慮すれば、その縁談に恋愛感情などあり得ないのは明らかだ。王侯貴族間では珍しくないものの、年齢の釣り合いなど無視した、露骨な政略結婚であった。
「信じられん。……仮に、それが事実とすれば」
ヒューベルトは、少し声を荒げ、抗議するように言う。
「なぜ、ゼントリンガー公は、王位継承者の捜索を命じられたのだ――閣下は、第二王子を保護し、次期国王に即位して頂くために、俺をレムシャイトへ派遣したのだぞ」
「さて。それでは、どうして斯様に重大な任務を、貴方一人だけに命じたのでしょう」
そこで、ルーファスがまた疑問を提起してみせた。
「それも、代書人を通さねば、貴方は文章の読み書きが充分にはできませんよね、ヒューベルト。秘密の任務なのに、ゼントリンガー公は何ゆえ、報告書簡を自分で書けない騎士を起用したのか?」
ヒューベルトは、言葉に詰まって、一瞬黙り込む。
ルーファスが指摘した事実の半分は、かつてニーナも問い掛けたことだ。しかし、やはりこれという適切な返答は、即座に出て来ないらしい。
いや、本当は今、すでにヒューベルトも漠然と、ひとつの見込みに思い至っているのではないか。けれども、それを率直に是認し難い心情に囚われていたとしても、仕方ないだろう。
きっと、この若い騎士は、自分がゼントリンガー公から期待を寄せられ、この密命を授かったと考えていたのだ。ヒューベルトは、生真面目で、一途で、おそらく日頃から地道に、騎士としての研鑽を怠ることなどなかったに違いない。しかも、文盲であることを除けば、彼には単身で任務を成し遂げるだけの能力が実際にあった。あるいは、その点について、自分でも充分な自負を持っていたかもしれない。
しかし、たぶんそれが逆に、この怪しげな任務に対する疑念を抱かせなかったらしい。
忠義に厚く、前向きな性格のヒューベルトは、これが出世の好機だとは考えても、あえて自分が主君に欺かれているとは、考えようとしなかったのではないか――
「よく思い出して、ヒューベルト。ひょっとしたら、貴方は任務を与えられたとき、ゼントリンガー公から報告書簡について、特に定期連絡を要求されなかったのではないかしら?」
ニーナは、問い掛けの答えを引き取って、彼に言った。
「でも、律儀な貴方は、レムシャイト郡で王子捜索を開始してから、早晩ゼントリンガー公へ報告書簡を送付せねばならないと考え続けていた。とはいえ、手紙をしたためるにも、自分で読み書きができないから、代書人を通じねばならない。しかも、その代書作業は、口が堅く、秘密を決して他言しないことに、普段からよく慣れた人間に依頼せねばならなかった……」
「考えてみれば、こちらの騎士殿もゼントリンガー公も、一連の件で中途半端に妥当な人選をしてしまったせいで、自ら墓穴を掘ったと言えるのかもしれませんね」
ルーファスは、軽くかぶりを振りつつ、
「ゼントリンガー公が今回の陰謀に利用するには、いかにも生真面目なヒューベルト殿は理想的な人物でした。ところが、適任すぎて、頼まれてもいない報告書簡を作成せねばならないと考えてしまった。これが実は、第一の失敗だったのです。第二の失敗は、姫様の正体をそれと知らず、代書依頼を発注してしまったこと。――なるほど、長年ご自分の真の素性を隠し続けてらっしゃる姫様以上に、この町で秘密を守ることが得意な御方は、たしかに二人といないでしょう」
ヒューベルトの顔は、蒼白だった。櫓の小窓から注ぐ月明かりのせいばかりではあるまい。
ニーナは、さすがに少し気の毒に思った。だが、彼をいっそう悲嘆させるだろう事実を、改めて明言し、事情を確認してみせねばならなかった。
「ゼントリンガー公は、第二王子捜索にあたって、万が一の場合であっても、自分の本当の狙いを世間に悟られぬよう、迂遠な策略を施していたのでしょうね」
「……本当の狙いだと……」
ヒューベルトは、鸚鵡返しにつぶやく。まさに暴かれつつある真相を、予感はしていても、いまだ受け入れることに抵抗を抱いているように見えた。
ニーナは、静かに、ゆっくりと告げた。
「貴方も以前、この国には『第二王子ヴィルフリート』を暗殺しようとしている、不穏な勢力があると言っていたでしょう。――その中心的指導者の正体こそ、他ならぬゼントリンガー公ゲオルグそのひとだったのよ」
将来、ゼントリンガー公が新国王の義父になるには、まず何よりもアルブレヒトに即位させねばならない。第二王子の存在は、戴冠の妨げになる。
また、仮に五年先にアルブレヒトが即位したとしても、この幼い新王を意のままの傀儡とするには、今一人邪魔な人間が存在している。
ローテンベルガー公爵家と縁故があって、次期宰相候補とも噂されるレムシャイト伯ルーファスだ。この美貌の伯爵が国家の中枢にあれば、たとえ新王との親族関係を利用しても、ゼントリンガー公はあらゆる利権を掌握することまではかなうまい。
ところが、おそらくあるとき、第二王子の情報を聞いたゼントリンガー公の脳裏に、これを逆手に取って、二つの障害を一度に取り除く妙案が浮かんだ。
――第二王子を抹殺し、その罪をレムシャイト伯ルーファスになすり付けようとしたのである。
まずゼントリンガー公は、偽装工作の一環として、騎士ヒューベルトに第二王子の捜索を命じた。
この忠誠心の強い青年には、あくまで行方不明の王位継承者を保護し、アステルライヒを正しい方向へ導くためだと吹き込んだ。
策略の中心的な役割を担うことになったのは、あの「革鎧の男たち」だった。
この実動部隊が負わされた密命は、たぶん複数に渡っていた。
ヒューベルトの監視と追跡の他、報告書簡による定期報告も彼らの任務だったのだろう。だから、ゼントリンガー公は、別段ヒューベルト当人から連絡がなくとも、ヴィルフリート捜索の進捗状況を、遠く離れたゴアルスハウゼンから把握していたに違いない。
ニーナは、ヘルネ西地区の雑貨屋で、「革鎧の男たち」の一人が羊皮紙を購入していたことから嫌疑を掛けていたのだが、先ほどルーファス配下の兵士が押収した書簡で、確証を得た。
何も知らされていないヒューベルトは、この一団の存在をヘルネ到着後に察知したものの、情報の錯誤もあって、第二王子の護衛だと思い込んだ。結果、自分以外にゼントリンガー公から密令を授かった人間が居るとは、気付かなかった。
ヘルネの町中を、「革鎧の男たち」が代わる代わるうろついていたのは、ヴィルフリートの身辺警護などではない。ヒューベルトの行動経過を、第二王子と目された人物と共に、間近で見張るためだったのである。
もちろん実際には、彼らはヒューベルトと同様、ヴィルフリートの消息を追っていたはずだ。
けれども、あくまで捜索を若い騎士一人に任せ、その監視役に徹することで、より重要な目的を擬態する意図もあったのかもしれない。
そう、何しろ――
「革鎧の男たち」にとって最大の任務は、第二王子ヴィルフリートの暗殺だったのだ。
実行に際しては、きっとヒューベルトも、その場で一緒に殺害してしまう計画だったのだろう、とニーナは推測している。
もし襲撃に遭えば、ヒューベルトは第二王子を守って、まず確実に応戦を試みる。
このとき「革鎧の男たち」が、レムシャイト兵の羽飾りを着用して交戦し、殺害後はわざと現場にそれを残して立ち去るとすればどうか。羽飾りは、ターレの駐屯地から盗み出した身分証だ。
死闘の末に、二人の亡骸と実行犯の遺留品が発見される。
被害者は、これまで隠匿されていた王族の一人と、ローテンベルガー公配下の騎士だ。
国王の私生児を、ルーファスが己の伯爵領で匿っている件は、そもそも公表不可能な秘密である。
ゆえに、ヴィルフリートがなぜレムシャイトに居たのかについて、ルーファスは明確に申し開きする術を持たない。裏を知る余人も、彼を庇うことができない。
一方で、アルブレヒトの国王即位は、ルーファスにとって宰相就任の確実な担保である。
行方不明の第二王子を殺害する動機として、これは誰の目にも充分すぎるだろう。
そこまで事態が運べば、ゼントリンガー公は時節を見計らって、第二王子と部下の死を、大々的に世間に公表すればよい。
(我々は、密かに真実を突き止め、真なる王位継承者として、ヴィルフリート殿下をお迎えすべく、騎士ヒューベルトを遣わせた。しかし、卑劣なる野心家レムシャイト伯ルーファスの手によって、高貴な王子と我が忠実なる下僕は、永遠にその生命を奪われてしまった――!)
最期まで己の使命を全うした騎士の美談は、畏怖すべき魔法使いでもあるルーファスを、見事に悪逆の徒と印象付けるはずだ。
真の経緯を知らぬ世論は、きっとゼントリンガー公に味方する。
大義名分さえ得られれば、大手を振って武力に訴えられる。一地方領主に過ぎないルーファスと、選定公の一人に数えられる大領主ゼントリンガー公とでは、物理的には到底勝負になるまい。
そこまで至ればゼントリンガー公は、アステルライヒ支配の実権に大きく接近する……
「君が、この町で二年前から隠れ住んでいたということは」
ヒューベルトは、おもむろに口を開いて、問い掛けてきた。必死に、動揺を抑え付けようとしているかに見えた。
「俺がヘルネの市場で見た、君とルーファス卿との険悪な会話は、すべて素性を偽っているがゆえの芝居だったというわけか」
「ええ、まあ……たしかに、私とルーファスには、以前からお互い面識があったけど」
改めて問われ、ニーナは事実を肯定しつつも、不本意そうに少し顔を歪める。
代わりに、ルーファスがあとを引き取った。
「どうも私は、姫様にあまり好かれていないようでしてね。私の方は、こんなにも姫様をお慕いしているというのに――南方フォルキアの空のように蒼く輝く瞳、人の手がまだ触れない山頂の雪のように白い肌、そして長く豊かな髪は、世の果ての黄昏を想起させる黄金! ああ、姫様はそのお姿で、私をどれだけ幻惑なさるのか……」
「だからそういうのやめて、苛々するから。しかも、あからさまに外見しか褒めてないあたり、実は完璧にバカにしてるわよね。ほんと気持ち悪いわ」
ニーナは、嫌悪感を刺激され、冷淡に切り捨てようとしたが、むしろルーファスは面白がって、いっそう軽薄な言葉を並べてくる。ますます不愉快になって、大公女はじっとりと湿った目つきで伯爵を睨み付けた。
目の前では、ヒューベルトが一人落胆している。敵の騎士とはいっても、少しは傍に居る人間を気遣って言動を選べ、と言ってやりたかった。
「おやおや、相変わらず姫様は、何でも穿った見方ばかりなさる。しかし、こうした賛辞で安易に浮ついたりなさらないところも、大変魅力的でらっしゃいます」
だが、ルーファスは懲りもせず、楽しげに微笑み返すだけだ。
ニーナは呆れて、もはや重ねて戒告する気にもなれず、深い溜め息を吐いた。
「――他にも、いくつか引っ掛かることがある」
ヒューベルトが、再び低い声でつぶやいた。それから、彼は視線を正面から逸らし、にわかに暗い櫓の中を彷徨わせた。だが、すぐに大柄な体躯の傭兵隊長を見付けて、そちらを眼差す。
「『鋼鉄の悪鬼』クレメンスとは、いったい何者なのだ。第二王子を名乗っていたとき、とてもあの立ち居振る舞いは、付け焼刃の演技などと思えなかった。――然りとて、貴族の出だとすれば、なぜ騎士ではなく傭兵を率いる立場なのか……」
クレメンスの武勇は、明らかに常人の域を超えている。いましがたローレンツも言及した通り、アステルライヒ最強の騎士たるオルトウィーンを追随しているほどなのだ。
おそらくヒューベルトも、それを斬り合いで実感したことだろう。
出自が貴族であれば、彼もまた相応の騎士の地位で遇されるべきだと考えるのは、ごく自然な感覚かもしれない。
逆にもし平民出身だとすれば、クレメンスが文字の読み書きに習熟しており、貴族的な所作を身につけている事実には、疑問が生ずるのである。
「クレメンスは、たしかに貴族の出自よ」
ニーナは、苦笑混じりに答えた。
「ただし、アステルライヒではなく、ノルトシュタインに生家があるの」
ヒューベルトは、思わず息を呑んで、ニーナの方へ視線を戻した。
帝国生まれの出奔貴族――
若い騎士の脳裏には、咄嗟にそのような連想が浮かんだかもしれない。
そして、この傭兵隊長の素性として、それは少なくとも過去において間違っていなかった。
帝国名門貴族のヴォルムス侯爵家に生まれこそしたものの、今現在のクレメンスは、自らその身分を捨て、アステルライヒに一平民として根を下ろしているのだ。
「――まあ、親兄弟との関係ってやつは、生まれた家によっちゃ面倒くせぇもんだよな」
クレメンスは、穏やかな声でつぶやくと、ふっと頭上に空いた壁面の小窓を見上げた。夜空の月を眼差して、僅かに両目を細めて凝らす。
「だから俺は、姫さんの気持ちが多少わからんではないぜ」
クレメンスがヘルネを訪れたのは、もちろんクロイツナッハ候オルトウィーンの要請に応じたためである。
昨冬、エルベガルドでの東方民族討伐遠征の最中、オルトウィーンはモスバッハ奪還の陣中にありながら、ルーファスからの定期連絡で、ゼントリンガー公の不穏な動向を知った。それで、ニーナの身を案じ、自国領地に指示を飛ばして、即座にこの町へ「鋼鉄の悪鬼」を送り込んだ。
ルーファスが「第二王子」の虚像を流布していたことから、貴族の作法を弁えている傭兵隊長は、いざというとき大公女の身代わりを演じ、敵の目を欺く役割にも適任だったのだ。
ニーナも、これらについてはオルトウィーンからの手紙で、あらかじめ知らされていた。
クレメンスは、本来の目的を気取られぬよう、ヘルネへ至る途中、商業都市カーヴェンデルで見掛けた妖魔退治の依頼を引き受けた。たった一人で一五匹余りのゴブリンを壊滅させたことで、仮に素性を疑われても、相手の見当違いを誘うには有効だと睨んでいた。
後日、ヒューベルトと「革鎧の男たち」がヘルネへやって来たのを察すると、クレメンスは密かに西通りのクビツェク鍛冶店に出掛け、先回りして見習い職工のパウルに金銭を手渡した。
ここへ彼が妖魔退治の前に訪れたときのことを聞き込みに来る者があったら、二つ嘘を吐いてくれと頼み込んだのである。
ひとつは、「南地区の安宿に逗留している傭兵風の男は、他に何人もの革鎧の男たちを連れていた」ということ。もうひとつは、「その男の使っている両手剣には、ラーヴェンスブルグ王家の紋章と銘が刻まれていた」ということ――
クレメンスは、ヘルネ滞在中の経費をクロイツナッハ候から得ていたので、工作資金には一切事欠かなかった。独立開業を目指すパウルからは、新規店舗の建築資金を部分的に提供する旨を申し出ると、全面的な協力を取り付けることができた。
後々、ヒューベルトからパウルが受け取った金額は、実はこの数分の一に満たないものだった。
ところで、そのような使命を帯びていたクレメンスでも、やはり大公女と同様、事件の一部始終を常に承知した上で行動していたとは言い難い。
彼は、ローレンツが「黄昏の白馬」亭に逗留した当初、この少年がオルトウィーンから「情報の連絡役」として派遣された味方であることを、あらかじめ知らされてはいなかった。
ローレンツの側から、ようやく事情を伝えられたのは、初めて顔を合わせた数日後だ。それによってクレメンスは、ヒューベルトと「革鎧の男たち」の複雑な関係性を理解し、パウルを利用した詭計の着想を得たのだという。
ニーナがすべての人間関係を把握したのは、さらにそれよりもあとになる。
何しろ、ヒューベルトが代書作業中のニーナの部屋を、夜間に一番最初に訪れたとき、彼女はまだローレンツの正体を明確に理解していなかった。
だから、あのときニーナは、自分の素性を見抜かれないよう、実際には真相を掴んでいる謎についても、故意にヒューベルトの憶測と迎合するような素振りをみせながら――しかし、物事を能動的に対処するような判断は、その場で下すことができなかったのである。
もっとも、自室へヒューベルトが二度目にやって来たときには、ニーナもクレメンスと内密に相談していて、粗方事件の全容を推知していた。
それで、「トカゲの塔」に敵対勢力をおびき寄せ、生け捕りにする計画を立案した。
ニーナの思惑は、ヒューベルトにローレンツを尾行させておきながら、そのあいだに「革鎧の男たち」の勢力を分散させ、個別に掃討する段取りだった。
クレメンスは、レムシャイトの正規兵と協力し、ヒューベルトや「第二王子」を監視するために追跡してきた敵の一団を、「トカゲの塔」の前で迎撃した。
ヒューベルトが櫓に接近する直前、林の中で見掛けた人影こそ、実はルーファスの指示で合流したレムシャイト兵だったのだ。暗がりで視界が悪く、潜伏していた位置も距離があったために、外套を羽織った着衣の輪郭で、敵であるはずの兵士を、味方と思い込んでしまっていたのである。
作戦実行中の緊張感や、まだこの時点ではヴィルフリートの実在を信用していたことなども、彼の認知を狂わせていたに違いない。
他方、「革鎧の男たち」は、ヘルネ郊外の隠れ家にも、半数近い人員が残っていた。
こちらには、「トカゲの塔」で戦闘がはじまる頃合を見計らって、ルーファスが兵士を率いて奇襲を仕掛けた。
夜闇に紛れて建物まで接近すると、美貌の伯爵は手筈通りに、睡眠の魔法を用いた。
無警戒だった敵勢力は、その効果で半数以上が途端に眠りに落ちたらしい。
ルーファスから改めて報告されたところによると、残りの辛うじて意識を保っていた「革鎧の男たち」も、レムシャイト兵が一斉に家屋の中へ踏み込むと、戦意喪失したのか次々に投降したという。
「……結局、何も知らずに踊らされていたのは、俺だけだったというわけか……」
ニーナの説明を一通り聞き終えると、ヒューベルトはやや間を置いてからつぶやいた。その顔には、自虐的な笑みが張り付いていた。
「それで、俺の身柄をこれからどうするつもりだ?」
いまだ石畳の上で座したまま、ヒューベルトはかえって挑むような口振りで言った。物腰には、ある種の開き直りが窺える。
生真面目で、騎士精神の強い彼としては、もはや自棄にも等しい心境かもしれない。
信頼していた主君に裏切られ、さらにはニーナをラーヴェンスブルグ公爵家の血族と見抜けずに頼り、あまつさえ敵側からいいように利用されてしまったのだ。
自尊心は、深く傷付いているに違いない。
しかしながら、ヒューベルトが「すぐさま殺せ」と言わなかったのは、たぶんニーナの真意を訝しみ、量りかねているからだろう。
なぜ、この大公女は、敗残の敵を即座に殺しも捕縛もせず、むしろわざわざ事件の裏側を説明し、自ら秘匿していた素性を明かしてみせたのか――
ヒューベルトの有様は、彼女のそうした対応について、まだ理解が及ばず、疑念を抱いているように見て取れた。
「貴方の処遇をどう扱うかは、すでにきちんと決めてあります」
ニーナは、ヒューベルトを正面から眼差し、はっきりと告げる。
彼女は、夏空色の瞳に悪戯っぽい光彩をはらませた。
「これからは、私の騎士として働きなさい、ヒューベルト。――貴方の剣と身命を、目先の名誉や君主個人にではなく、より多くの人々のために捧げてほしいのよ」