プロローグ
その姿は、採魂の死神かと思われた。
長さ三オーデルに近い斧槍は、宙で振るわれる都度、地上から生命をひとつ確実に摘み取っていく。
黒一色だった騎士の鎧は、いまや多量の返り血を浴びて、紅い染みが錆さながらにこびり付いていた。
もう、どれだけ人を斬ったのか知れぬ。
彼の騎乗する馬にも、さすがに疲労の色が濃い。
ここは、戦場だった。
野原と言わず谷間と言わず、数多の死体が積み重なり、大地は飽きる様子もなく人血を吸い続けている。
神刻暦一〇二四年の冬、エルベガルド東南部ハーナウ丘陵地帯。
のちに「ハーナウの戦い」と名付けられる、これが西方諸国連合の討伐軍と、東方民族国家エンリル朝セレウケイアの武力衝突だった。
二ヶ月前、東方民族はエルベガルド国境を越え、同国東端の都市モスバッハを大軍によって包囲した。
討伐軍は、これを撃退した上でのモスバッハ奪還を目指して、「主神オクルスの御名の下に」神聖ザルヴァ教団教皇の招集で実現したものだ。
黒騎士は近付く敵兵を、斧槍で切り伏せ、退け続けた。夕暮れ泥む荒野で、彼は手勢二三〇余りを率い、敵軍の猛攻に曝されながらも戦線を維持していた。
彼――
アステルライヒ王国黒騎士団千騎長が一人、クロイツナッハ候オルトウィーンは、身の丈一九〇アンテル弱、遠目にも鮮烈な印象を与える風貌だ。銀髪緑眼の端整な面立ちには、しかし研ぎ澄まされた精悍さが備わっている。
オルトウィーンは、改めて自軍の損害を顧みると、苦々しく口元を歪めた。
彼の下で戦うことが出来た兵士たちは、この地獄にあって、幸運だったと言えるだろう。
オルトウィーンは、己の領地の部隊から、当初三〇〇人を選んで遠征に参加していた。現在、すでにその四分の一に迫る兵力が失われたものの、彼らは討伐軍の中では、これでも比較的被害の少ない一隊なのだった。
無論、大規模集団戦闘において、指揮下二割強の兵力を失うというのは、大きな損耗と言わざるを得ない。
味方全体の損害が、深刻すぎるのだ。
他の部隊と合流し、軍勢を再編したいが、それもままならなかった。長時間に渡る戦いで、いまや他の味方はどこに自陣を敷いているかさえ、散り散りとなって見当が付かないのである。
彼一個人が無双の武勇を示したところで、戦場全体の大勢は覆らない。
どうして、かくも拙い戦になったのか、とオルトウィーンは煩悶した。
軍議に割り込み、挟撃戦術を強硬に主張した、ザルヴァ教団司祭の姿が思い浮かぶ。
(異教徒には、主神オクルスの加護なきゆえ、必ずや勝利は我が方にもたらされる!)
議場の上座に立ち、拳を掲げ、司祭は紅潮気味の顔で熱弁を振るっていた。
討伐軍の参加将兵は、教会権力の威光に屈し、その提案を容れるしかなかった。
結果、自ら兵力分散の愚を犯したのだ。
敵軍の東方民族は、規律ある用兵で、的確に討伐軍の急所を突いてきた……
「――閣下! ヴィルヘルム殿下の隊より、早馬が参りました!」
オルトウィーンが、いったん自陣の前方から引いて、部隊中央まで戻ると、横合いから伝令の声が耳に届いた。
馬を寄せつつ、自分の傍へ近付いてくる騎兵を眼差す。
伝令が身に帯びた黒い鎧は、紛れもなく彼の配下の装束だ。兜の下には、硬く緊張感に満ちた表情が覗く。
オルトウィーンは、不吉な予感を覚えた。
「殿下の部隊は、卑劣な敵軍に謀られた模様。奇襲によって隊列を乱し、被害は甚大との報告です」
「――殿下の御身は?」
オルトウィーンは、半ば詰問するような口調で、
「殿下は、ご無事だったのか?」
問い掛けに、伝令は一瞬、返答の言葉を詰まらせた。両眼には沈痛な色が宿る。
「殿下は……近侍の若い騎士殿を庇って、手傷を負われたとか」
「近侍を庇ってだと」
オルトウィーンは、思わず確認した。怒りとも呆れともつかぬ口調だった。
本来、戦場における近侍の兵となれば、その身を挺しても主君を危険から守らねばならない。それが主君に守られては、本末転倒というものだ。
ただ、事態そのものに、不思議と驚きはなかった。
きっと、王子ヴィルヘルム傍付きの若い騎士となれば、育ちのよい王国貴族の子息だったに違いなかろう。戦の始まる前は、自軍で最も身分の高い人間の近辺が、一番安全な場所だと考えるからだ。
戦慣れしない若い騎士を、反射的に庇護して、負傷するヴィルヘルムの姿は、容易に想像できる光景だった。
ヴィルヘルムは、将来必ず名君になると、誰もがはっきり確信していた。
公正明大にして、他者を惹き付ける徳に恵まれ、理知的で、常に善と悪とを問い続ける心を持っている。
ただし、惜しむらくは清廉すぎ、また優しすぎた。
それは、権謀術数渦巻く大陸諸国の中にあって、必ずしも王侯貴族としての美点ではない。
「それで、殿下のご容態は」
「かなり重篤なものと伝え及んでおります」
苦しげな声で、伝令は答えた。
オルトウィーンは、強く奥歯を噛み、さらに質問を続ける。
「早馬の者は、殿下が今どちらに居られると申している?」
「殿下の部隊は、ここより一七リールほど西南の森へ兵を引き、再編を企図しておられるとか。敵も日没が近いとみて、深追いは避けたようです」
大きく、深い森は、危険な土地だ。
野獣や魔物の類が多く住み着き、人を襲う。ときには怪しげな妖精族が姿を現し、永遠に木々の狭間へ閉じ込めるという伝承もあった。
平時であれば、おいそれと立ち入るべきではない。
しかし、追っ手を逃れるには、それゆえ都合のいい場所だろう。
「なるほど、相分かった」
うなずくと、オルトウィーンは馬首を巡らせ、斧槍を担ぎ直す。
そして、伝令の騎兵に背を向けたまま、よく通る声で告げた。
「我が隊も前線から撤退する。西南の森で、ヴィルヘルム殿下の隊と合流するのだ。遣いの馬を出し、疾く兵に伝えよ」
○ ○ ○
王子ヴィルヘルムの本営は、黒々と針葉樹が生い茂る森の中で、ちいさな泉のほとりに置かれていた。樹林の合間に、ぽっかりと開けた場所だ。
将兵が一塊になって休むには、足場に高低の段差があるし、決して充分な広さでもなかったが、もちろん贅沢は言えなかった。彼らは敗残の身であり、ここは故国の土地ではない。
オルトウィーンは、この一帯が土地の者には「邪龍の伏せる森」と呼ばれている、と伝令から聞かされた。
それで、どこか聞き覚えのある名だ、と少し考え込んでから、思い出した。
大陸西方に伝わる、昔話に出てくる森の名前だったのだ。
エルフが銀から加工した指輪に、邪悪な龍が己の血を注いだという伝説。
その指輪は、人の手に余る魔力を備え、それゆえ祝福と呪い、奇跡と悲劇を同時にもたらす。
《エルフと龍の指輪の叙事詩》――……。
この森が、その古い古い言い伝えの舞台と謳われた場所だったのだ。
所詮は、あくまで御伽噺でしかないのだろうが。
森の入り口から、奥へ進むには、途中まで細く荒れた道をたどり、その先は馬を下りて手綱を引くしかなかった。
それは、千騎長のオルトウィーンですら、他の将兵と同様である。重い鎧を着用したまま、柔らかく、起伏のある森の土を踏んで歩くのは、すでに戦場で疲弊した身体に堪えた。
隊列は伸び切り、もし奇襲を受けていれば、一溜まりもなかっただろう。
もっとも、そのためには、敵もこの森へ立ち入らねばならないが。
樹木と夜闇が視界を狭め、方向感覚を鈍らせる。二三〇名の兵士は、仲間の姿を見失わないように、足並み揃えて行軍するだけでも、かなりの大儀だった。
それだけに、王子ヴィルヘルムの部隊と合流を果たしたとき、オルトウィーン配下の兵士たちが、どれほど安堵に胸を撫で下ろしたかは、誰しも想像するに難しくなかろう。
故国を同じくする者同士、ふたつの部隊の兵士たちは、互いの生存を確かめると、無事を喜び、讃え、あるいは一方で、これまでに失った戦友を哀悼した。
オルトウィーンは、配下将兵に休息を命じると、自らは鎧の上から羽織った外套を翻し、早足で本営中央の天幕へ向かった。
負傷したヴィルヘルムは、そこで手当てを受け、休んでいるという話だった。
仮設された天幕は、泉のすぐ傍にあって、外のくつわに軍馬が繋がれている。王子の愛馬だった。
天幕の入り口に歩み寄ると、手桶を抱えた軽装の兵士が中から出てきた。まだ若い、少年といってよい年頃に見えた。
少年は、濃い茶色の頭髪で、眉目に育ちの良さそうな雰囲気があった。
オルトウィーンに気付くと、うつむきがちだった顔を上げ、声を掛けるよりも先に、敬礼の姿勢を取った。
少年の頬に、泣きはらした跡があるのを見て、オルトウィーンは言外に事情を察した。
たぶん、この少年こそ、ヴィルヘルムが命を救った近侍の騎士だろう。今は、泉の水を汲んで、負傷した王子の世話をしていたに違いない。
「侯爵閣下、お戻りでしたか」
少年は、かすかに語尾を震わせながら、しかし自分を律するように言った。
ご無事で、などとは言わない。
大陸西方で「神槍の黒騎士」なる異称を響かせるオルトウィーンが、無事で帰らないはずはないのだ。
仮に、アステルライヒ最高の武将であるオルトウィーンが、討ち取られる日が来るとすれば、おそらくそれは王国の滅ぶときだ――味方の将兵は皆、そんなことを冗談めかして言う。
「殿下のご様子は如何か」
「はい――今、お眠りになったところです」
少年は、オルトウィーンの問いに、必死に声を振り絞り、
「しかし、肩から腰に掛けて、背中から受けた傷は深く……。果たして、どうすればいいのか……」
最後の一言は、すでに少年自身の心境だろう。
堪えていた涙が再び込み上げてきたらしく、喉を詰まらせ、それ以上言葉が続かない。自責の念で、押し潰されそうになっているのがわかった。
「そうか。……ご苦労だった」
オルトウィーンは、それだけ告げると、少年を残し、天幕の入り口を潜った。
天幕の中へ入ると、背後から掠れた嗚咽の声が聞こえてきた。千騎長の姿が見えなくなって、また少年は堪え切れなくなったのだろう。
先ほど抱いた、怒りも呆れも、オルトウィーンは結局やり場を失った。
これから帰国後、王国の人々は少年にどんな仕打ちをするだろうか。彼の将来を想像し、かえってオルトウィーンはそのことに気が沈んだ。
天幕の奥へ進むと、木組みの簡易寝台があって、そこに鳶色の髪の青年が身体を横たえていた。
ラーヴェンスブルグ公フランツが嫡子、アステルライヒ王位継承権第一位の座にある、王子ヴィルヘルムだ。
オルトウィーンは、寝台の傍へ歩み寄ると、静かに木製の椅子に腰掛けた。
瞳を閉じた王子の秀麗な顔は、血色が悪く、肌も青白い。明らかに、危険な兆候が見て取れた。
「……オルトウィーンか」
不意に、ヴィルヘルムの口が動いて、隣に座る黒騎士の名を呼んだ。ゆっくりと瞳が開き、枕の上でかすかに首が横を向く。
「起こしたか、ヴィルヘルム」
オルトウィーンもまた、ヴィルヘルムと二人だけのときに限った気安さで、長年の親友でもある彼の名を呼んだ。
二人は、一歳差で、幼少から続く親交があった。
「いや、最初から起きていた。だが、寝たところを見せねば、近侍の若い騎士が落ち着かぬ様子だったのでな」
ヴィルヘルムは、弱々しくつぶやくと、無理に苦笑してみせた。それが今は、むしろ痛々しく見えた。
「ヴィルヘルム、今はあまりしゃべるな」
オルトウィーンは、親友の体力を気遣って言った。
けれども、ヴィルヘルムは従おうとしなかった。
「オルトウィーン、おまえに頼みたいことがある」
「……今は、断る。おまえがその怪我を治してから、改めて聞こう」
「それでは、間に合わんよ」
ヴィルヘルムは、今度は愉快そうに微笑んだ。
性質の悪い冗談を言うな、とオルトウィーンは叱責しようとしたが、できなかった。声が喉に詰まって、上手く出せなかったからだ。
次いで、僅かに目の前が歪み、親友がどんな面持ちで自分をベッドから見上げているかも、きちんと視認するのが困難になってきた。
「おまえにしか、頼めないことなのだ」
ヴィルヘルムは、最期のちからを振り絞るように、シーツの下から手を伸ばす。
オルトウィーンは、それを自分の両手で、包み込むようにして掴んだ。