16:追憶(前)
……時代を遡れば、その端緒に至る――
ラーヴェンスブルグ公爵にして、先々代のアステルライヒ王ループレヒトには、三人の嫡子があった。
すなわち、長兄カール、次兄ルドルフ、そして末弟のフランツである。
長兄や次兄と比し、末弟のフランツは取り分け諍いを好まない気質で、少年期から剣術や馬術、軍略の類にはどうしても馴染まなかった。穏やかで心根が優しく、理知的ではあるが、他の者を鼓舞するような勇ましさにも欠けていた。
王者の器とは、およそ目されていなかった。
もっとも、彼の二人の兄は、どちらも統治者としての才気に溢れていた。カールは、文武双方に秀で、徳も大いに優れていた。ルドルフは、武芸が達者で、剛毅な性情が畏敬を集めていた。
相対的に、フランツは他の兄弟よりも、多くを期待されることがなかった。
ループレヒトが崩御すると、王国議会が開かれ、新王に誰を据えるかが当然の議題となった。
アステルライヒの王位承認には、選定公からの信任が必要になる。
選定公は、ラーヴェンスブルグ、ゼントリンガー、ローテンベルガー、ミッテンヴァルト、ゴルトバッハら世俗の有力五諸侯に、フロイデンベルグ、ケルハイム、ツヴィンゲンという司教座聖堂の三大司教を加えた八名から構成されている。
この議会では、王位継承順位に従い、長兄カールが新国王に指名された。信任投票により、全会一致の結果を経て、無事に即位が認められることとなった。
これを受けて、次兄ルドルフはミッテンヴァルト公爵家へ養子に入り、家督を継いで同家の当主に就く。カールは、この王弟を大将軍に任じ、軍事部門の最高責任者とした。
こうしてカール新王の下、新国家の枠組みが形成されていく中で、末弟フランツだけは政治の世界と大きく距離を置く道を選んだ。
彼の興味は、一時代の権力や名声にはなく、より不変の概念に対して向けられていた。
つまり、学術知識である。
フランツは、剣よりも羽根ペンを、軍馬よりも古文書を好む少年に成長したのだった。
フランツは、一四歳の秋、単身王都を離れて、学術都市シュマルカルデンの大学へ入学する。語学、法学、哲学、天体運行、錬金術、古代魔法を熱心に研究した。
通常、学士号取得に六年、博士号取得に一二年掛かると言われるところを、それぞれ五年と一〇年で修了し、二〇代のうちに学者になった。特に、哲学分野の成果は目覚しく、このまま研究を続ければ、あと一五年と待たず、大きな功績を後世に残すのではないかと囁かれるほどであった。
ところで、まだ博士号取得前だった二七歳の春、フランツのもとへカールから一通の書簡が届いている。婚姻相手を取り決めたので、王都へ一時的帰還するようにという王命だった。
あまりにも突然の出来事であった。
しかし、西方諸国の王侯貴族にとって、本来婚姻は政略上避けられぬ義務のひとつだ。
当事者の自由意志よりも、政治的な利害関係で縁組みが成されるのは、割合に普通である。
ただ、ほとんどフランツに相談もないまま、いつの間にかカールが縁談をまとめてしまったのは、さすがに急な話だし、強引という印象は拭えなかった。
とはいえ、何しろフランツは、それまでずっと学問にばかり打ち込んできた。だから、王家の事情など、そもそもまったく自分から関わろうともしていなかったのだ。王侯貴族の世界の感覚に照らせば、むしろ彼はあれこれ文句を言える立場ではなかった。
だが、当初フランツは、結婚相手の名を書簡で見て、さすがに悪い冗談だろうと思った。
彼の妻に決まった女性は、ヴァレンツォレルン公爵令嬢アーデルハイト。
ノルトシュタイン帝国皇室の第二皇女だったのである。
アステルライヒと北に国境を接するノルトシュタインとは、この数百年来互いを牽制し合う敵手同士だった。その統治者たる皇帝の娘と、アステルライヒ現王家の子息である自分に結婚せよというのだ。にわかには信じられなかった。
驚くフランツに向かって、カールは静かに告げた。
「将来に、無用な争いの芽を摘むには、二つの国の結び付きが一番確実だろう」
「それにしても、まさか私が帝国の姫君を娶るとは、アステルライヒの人間には誰しも夢想し得なかったことでしょう」
「しかし、そなただからこそ成った縁組みだ」
カールは、強い信念を示して言った。
「世間というのは、人の身分に釣り合いを求める。先方も、我が国の王室の血縁者でなければ、アーデルハイト姫の輿入れを是認しなかったに違いない」
フランツは、兄王の言い分に対して、反論の術を持たなかった。
このときカールは、すでに病床にあり、身体の調子は優れない様子だった。あるいは、もう己の命数が遠からず尽きることを、うっすら予感していたのかもしれぬ。
カールと王妃テオドーレのあいだには、嫡子がなかった。
王たる長兄の死後は、次兄ルドルフが新王に即位することになる。そうすると、王家の地位はミッテンヴァルト公爵家へと移るのだ。
さらに、ラーヴェンスブルグ公爵家の新たな当主は、他ならぬフランツに引き継がれる。
フランツには、王弟として一定の役割が求められるようになるだろう。帝国皇室関係者からすれば、第二皇女の夫が近い将来、隣国で権威ある立場が約束されることになる。少なくとも、ラーヴェンスブルグ公爵家当主は、王国議会での選定公の一人なのだ。
もちろん、フランツ個人としては、自分が国政に接近することは、あまり心楽しまない。
フランツは、地位のしがらみや権力の危険な面を承知していた。彼が望むことは、ひっそりと大学で学問を続け、静かな生活を送ることだった。
「兄上。お大事になさって、また賢政で民草を導いてください」
それゆえ、フランツが長兄の快癒を願って、懇談の最後に付け加えた一言は、単なる気遣い以上の祈念から来ていたものであった。
さて、そのような経緯はあったものの、フランツの婚姻は滞りなく成立した。
妻となったアーデルハイトは、儚げな美しさのある控え目な女性で、フランツより六つ年下だった。
長兄カールの身に何かない限りは、大学に残って研究を続けるつもり――というフランツの考えに対しても、アーデルハイトは何一つ不満は述べず、従順にうなずいた。
これは、フランツからすると、少々意外だった。
さすがに結婚生活をはじめるにあたり、大学の学生寮を出て、シュマルカルデン郊外に屋敷を構えたが、それは王族の住まいとしては、かなり質素なものだった。住み込みの使用人こそ数名居たものの、帝国皇室出身の姫君ともなれば、もっと贅沢な暮らしを経験してきたに違いないと思っていた。
しかし、アーデルハイトは、いつも素直に従うばかりで、嫌そうな顔を見せることは一度としてなかった。
「フランツさまをお慕いし、そのご意思に添うことが、妻の務めと存じております」
この生活に不満はないかとたずねると、アーデルハイトは優しげに微笑して言った。
「だが、帝国の姫君としてお生まれになった貴女が、こんなちいさな屋敷で、私のように国の中枢から離れた男と地味に暮らすなど、日々に面白味がないのではありませんか」
「そんなことはありません。フランツさまが学問に打ち込んでらっしゃる姿を拝見していると、いつも大変幸福な気持ちになれます。――私には、そのように熱意を傾けられるものが、これまで何もありませんでしたから」
「これまでというと、今は何かお持ちなのですか」
「はい。今は、フランツさまが居てくださいます」
アーデルハイトは、冗談を言うような性格ではない。
だから、真正面から目を見て告げられ、フランツは赤面せざるをえなかった。
こうして、フランツとアーデルハイトの生活がはじまった。
結婚の翌年には、長子ヴィルヘルムが生まれ、フランツは大学の研究にもますます精力的に取り組んだ。二九歳で博士号を得て、学者としての一歩を踏み出した。
あとになって振り返れば、これ以後三〇年弱の期間において、この頃がフランツにとって一番満ち足りた時間だったかもしれない。
だが、平穏は、それほど長く続かなかった。
フランツが三二歳になる年の晩夏、次兄ルドルフの訃報が届いたのだ。
あまりにも突然で、また容易には信じ難い出来事だった。
病身のカールと違って、頑健なルドルフが若くして鬼籍に入るとは、到底予知し得ぬ事態であった。
ルドルフの死因は、崖からの転落だった。鹿狩りの最中に、馬が足場を踏み外したというのである。崖下の岩盤に全身を打ちつけ、手の施しようもなかったという。
ところが、この事故死には、後々いくつか不審な点が見付かった。
転落した崖は、狩場としては初めて出掛けた場所だったし、ルドルフが騎乗していた馬も、なぜか日頃乗り慣れたものではなかった。狩りに付き添った雑用の者の中に、ほんの数ヶ月前からミッテンヴァルトの館で働きはじめたばかりの使用人が含まれていて、しかもこの人物は事故直後から行方知れずだというのである。
実は、何者かの画策で、王弟ルドルフは暗殺されたのだ――
そのような陰謀説が、王国貴族のあいだでは、殊更まことしやかに囁かれた。
王弟ルドルフのあとを追うように、翌年には病床にあった国王カールが崩御する。
フランツは、これを期に学者の道を断念し、ラーヴェンスブルグ公爵家の家督を継ぐことになるのであった。
博士号取得から、たった四年足らずの期間では、いくら優秀な研究者であるとしても、明確な形に残る成果を挙げることはできなかった。
フランツは、「名もない学者」のまま、学術の世界から身を引いた。
王都に戻ると、またすぐに王国議会が召集された。
次のアステルライヒ王を決めるための信任投票が行われ、王位継承順位に従って、フランツの即位が承認された。候補者であったラーヴェンスブルグ公爵家の当主本人を除き、七選定公の投票内容は、信任四、不信任一、棄権二で、辛うじて過半数を得た恰好だった。
不信任の一票を投じたのは、ゴルトバッハ公爵家である。
文人肌の上に、これまで他の貴族と距離を措いてきたフランツに対して、国王の威厳や格式を重視する立場から、賛意を示そうとしなかった。
棄権の二票は、ローテンベルガー公爵家とツヴィンゲン大司教だ。
前者は、フランツの即位が不成立になる場合、次の王位継承権を持つ人物が同公爵アウグストだったことと無関係ではない。微妙な立場が生んだ判断だったと言えよう。
後者は、フランツ自身の資質ではなく、彼の妻アーデルハイトの血筋に懸念を指摘した。
「ラーヴェンスブルグ公爵夫人は、帝国皇室のご出身です。これはごく近い将来、王国の安寧に暗い影を落としかねないのではありませんか」
ツヴィンゲン大司教の発言は、あくまで不確かな可能性の予見でしかない。とはいえ、過去のアステルライヒとノルトシュタインの関係を鑑みれば、完全に無視することもできない事実だった。
しかし結局、「王位継承手続きの慣例を尊重すべし」という観点から、新王フランツの戴冠が認められた。
ツヴィンゲン大司教の憂慮も、ラーヴェンスブルグ公爵家の地位を、積極的に否定までする材料とはなり得なかったのである。――フランツ自身は、決して自分が権力の座に就くことを、心中では歓迎していなかったけれども。
「もし、王弟ルドルフの死が暗殺だったとするなら、何者が裏で根回しをしたのか」
歴史書に記されざる多くの謎と同じく、それは様々な風聞を生んだ。
最も有力とされた説は、剛毅さと正義感を兼ね備えたルドルフの気性が、既得権益の剥奪を恐れる貴族勢力に嫌われ、標的とされたというものだ。次期国王を任せるのなら、柔弱そうなフランツの方が、与し易いと見られたのではないかとする憶測である。
ところが他方、実はごく一部ながら、陰でより大胆な風説を流布する者があった。
――ルドルフ卿を暗殺したのは、ノルトシュタイン帝国と所縁の人間だ!
フランツを新王に就けることで、アーデルハイトを新王妃とし、帝国皇室の影響力を、王国の内政に及ぼそうと企てたのではないかというのだ。
この俗説の発端が、王国議会におけるツヴィンゲン大司教の指摘にあったかどうかまでは、定かではない。
たしかに、病身だった長兄カールと、夫人が死産を経験した次兄ルドルフには、共に嫡子がなかった。それゆえ、王位継承順位でフランツが第二位にあったことは事実である。
また、いくらフランツは王家の出自とはいえ、アーデルハイトとの婚姻当時、特定の領地を治める当主などではなかった。貴族の末弟にはよくあることだが(学者としての道を歩みつつあったにしろ)、そうした立場にあったフランツと、第二皇女との縁組みを了承した裏には、最初から陰謀があったのではないか。そのようなうがった見方をする人間もあった。
もちろん、こうした風聞には、冷静に考えれば、やはり安易に首肯しかねる要素がある。
例えば仮に、フランツとアーデルハイトの婚姻当初から、帝国側に後ろ暗い目論見があったとすれば、なぜ暗殺は長子ヴィルヘルムが産まれてすぐに行われなかったのか。
再びミッテンヴァルト公爵夫人が懐妊すれば、王位継承順位も入れ替わってしまう。月日が経過するのを待つ意味はなく、かえって帝国の利益にならないのだ……
ただ、いずれにしろ、新王妃となったアーデルハイトの立場が、王家の中で極めて居心地の悪いものだったことには、疑う余地がなさそうであった。
ほどなく心労から身体を壊し、病臥に伏すことが多くなった。
フランツの即位から二年ほどで見る間にやつれ、二九歳という若さで他界してしまう。
「陛下には、沢山のご迷惑をお掛けして、申し訳ございませんでした」
それが、アーデルハイトの最期の言葉だったと伝えられている。フランツは、ベッドの傍らで彼女の手を取り、何ひとつ迷惑を掛けられたことはない、と告げたけれども、その声が耳に届いていたかは判然としなかった。
結婚当初から、フランツへの献身に幸せを見出していた王妃にとって、たぶん王都での生活は、苦しみに満ちたものだったに違いない。他の王国貴族から存在そのものを疎まれ、ありもせぬ疑いを掛けられ、時として帝国の人間だと敵視されねばならなかったのだから。
アーデルハイトの死は、フランツの心に大きな空虚感をもたらした。
性質にそぐわぬ王の責務に日々追われ、妻を守ることができなかった。
その罪過の意識が、フランツを強く苛んだ。
○ ○ ○
……心の空隙を癒すため、やがてフランツは政務の合間を見付けては、人目を忍んで王都の外れを散策するようになった。
現在もラーヴェンスブルグを囲む市壁の付近には、旧時代に建てられた石造の建築がいくつも残されている。いっとき現実から離れ、史跡を眺めて回ることは、ささやかな慰めだった。
地味な身形を選んで歩くと、案外国王という素性を気取られることはなかった。決して、供を連れたりもしない。万一、危険に巻き込まれたとしても、「魔法」で身を守ることぐらいはできる。自分を知る人間は遠ざけ、立場から解放される時間が欲しかった。
古い建物の傍で、石柱に刻まれた彫刻を見ていると、かつてシュマルカルデン大学で研究に没頭していた頃が思い出され、懐かしくなった。
だが、この散策こそが新たな運命の発端になった。
ある日、フランツは見物に訪れた史跡で、一人の少女と出会う。豊かな金髪を肩の高さで切り揃え、驚くべきことにスカートではなく、職工の作業着めいた服装だった。動きやすさを重視した着衣なのは、一目見てわかった。
少女は、忙しなく石造建築の周りを歩き回っては、一人で壁の装飾を見詰めて、ふむふむとうなずきながら納得顔を覗かせたりしていた。
ひどく風変わりな女の子なのは、間違いなかった。
つい物珍しさから、何をしているのかと声を掛けると、少女はどうやら歴史に興味があって、史跡をあれこれ調べていたらしい。
少女は、自らをシャルロッテと名乗った。
言葉を交わしても、フランツの素性にはまるで気付いていないようだった。
シャルロッテが歴史に興味を持ったきっかけは、自宅にあった本だという。
それで、フランツは彼女が裕福な家の娘であることを察した。
書物は、富と教養の象徴だ。一冊で、希少な貴金属ほどの価値がある。平民の家にあるような代物ではない。
果たして、詳しくたずねると、この金髪の少女はロルシュ男爵の息女だった。爵位は低いが、その家名にはフランツも覚えがあった。
ロルシュ男爵家の初代当主は、平民出身ながら、数々の武功を挙げて騎士に取り立てられ、晩年には爵位を下賜された人物として知られていたからだ。すでに今日では過去の英雄となり、功績も風化しつつあるが、稀有な才覚の持ち主だったことはたしかだろう。
同家は、ラーヴェンスブルグ公爵領近隣に、ちいさな屋敷と農場を構えているはずであった。
フランツは、「クルト」という偽名を名乗り、彼女と世間話を続けた。いい気晴らしになりそうだと思った。
シャルロッテは、明朗快活で、頭の回転も早く、よく笑う少女だった。
「クルトさんも、貴族のお生まれなのでしょう?」
シャルロッテは、屈託なくたずねてきた。
いくら地味な服を着ていても、やはり生地や仕立ての良さで、平民でないことはあっさりと見抜かれていた。
「……ケルトナー子爵家だよ。そこの四男さ」
咄嗟に、フランツは嘘に嘘を重ねて塗り固めた。
「今は、国王陛下のお引き立てがあって、王都で官僚のような仕事をしている」
ケルトナー子爵家は、王国北部の古い家柄だ。現当主はもうかなり老齢だが、実際には嫡子に四男などいない。
「家名だけは、存じていますわ」
礼を失した言い様だったが、笑顔ではきはきと話すシャルロッテには、妙に憎めない雰囲気があった。
「私がまだ子供だった頃――五、六歳だったかしら? 数回だけど、王宮の舞踏会に招かれたことがあって、そこの席上で御当主をお見かけしたの。一〇年以上も前のことですけど、あのときもう白いお髭のお爺さんだったわ! 今もお元気かしら」
「さて、最近の舞踏会には、出席していないのかね?」
「ええ、出ていないわ。だって、ほら――私がひらひらしたドレスでダンスだなんて、まるで似合わないでしょう?」
シャルロッテは、くるりとフランツの目の前で身体を翻してみせ、また冗談めかして笑った。
一〇年以上前と言えば、フランツが大学に居た頃だ。つまり、間近でシャルロッテが彼の顔を見たのも、これが初めてだったのである。
「そんなことはないと思うがね。君は、とても魅力的だよ」
「まあ、クルトさんはお上手なのね! でも、ドレスなんてどうでもいいの」
フランツの言葉を型通りの社交辞令と受け取ったらしく、シャルロッテは素っ気無かった。
そして、再び史跡の壁面に向き直り、古い彫刻をうっとりと眼差す。
「私、着飾ったりできなくてもいいから、男の子に生まれたかったわ。それで、大陸中の遺跡を巡って、世界の歴史を研究するの。女の子じゃ、曾お爺さまみたいな英雄にもなれないし、大学への入学も許可されないから、学問もままならないもの」
「ほう……大学に行きたかったのかね?」
「ええ、もちろんよ!」
フランツが訊くと、シャルロッテは力一杯うなずいた。
「大学――そう、どうせならシュマルカルデンがいいわ! 歴史や法学、哲学とか……あまり神学には心惹かれないけど。この史跡の彫刻の制作年代とか、どういう経緯で誰が作ったのかとか、あの大学で勉強すれば、きっと事実がわかると思うの」
シャルロッテは、饒舌に話し続けた。その有様が、とても眩しかった。
好奇心に突き動かされ、夢中になる姿に、フランツは過去の己を見出さずに居られなかった。
知的な興味を満たすため、ひたすら研究に没頭することができた、あの幸せな日々。そう、手狭な屋敷は、ただ広く冷たい王宮などよりも、遥かに心安らぐ場所だった! 机に積まれた書物や心覚えの羊皮紙、インクの臭いと、すぐ傍に居る家族――妻、アーデルハイト……
「その彫刻が作られたのは、神刻暦五〇〇年代だね。作者は不詳だが、当時大陸南方からここへ入植したザルヴァ民の職人が手掛けたものだと推測される。クラッセンの『ボレアス軍記』に、それとわかる記述があるのさ」
フランツは、ほとんど無意識のうちに、シャルロッテの疑問に答えていた。
「そのお話、本当のこと?」
金髪の少女は、びっくりした様子で、フランツを見詰め返してきた。
「クルトさん、博識でらっしゃるのね! どこでお知りになったの?」
「……昔、件の大学に籍を置いていたことがあってね」
フランツは、致し方ないとばかり、観念して言った。
「何も成果は残せなかったが、今の仕事に就くまでは、学者の端くれだったのだよ」
彼の返事を聞くと、シャルロッテの瞳は大きく見開かれ、次いできらきらと輝いた。少女の両目は、まるで吸い込まれそうな、晴れ渡った夏空色の宝石みたいだった。
それから、シャルロッテからの嵐のような質問攻めがはじまった。
この付近の史跡のこと、自宅で読んだ書物のこと、世界の仕組みに関わること……
フランツは、久方ぶりに大学時代の講義を思い出し、その問い掛けに一つずつ丁寧に答えていった。
シャルロッテは、呑み込みの早い、優秀な生徒だった。夢見るような面持ちで、かつて学者だった壮年貴族の話に聞き入った。
思いがけず長い時間をその場で過ごし、フランツが史跡の前を離れたときは、もう西の空が朱に染まっていた。
「クルトさん、また今日みたいなお話を伺いたいわ。――次は、いつこのあたりへお散歩にいらっしゃるのかしら?」
別れ際、シャルロッテは、名残惜しそうにたずねた。




