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17/24

15:渦の反転

「――第二王子は、存在していない……?」


 ヒューベルトは、かすかに肩を震わせながらつぶやいた。

 これまで、彼がヘルネの町で地道に積み重ねた調査の成果が、クレメンスのたった一言で突如否定されたのだ。どのように取り繕っても、まったくの平静で居られるはずはない。


 とはいえ、昨晩から今夜に掛けて、いくつか理解の困難な事実があったこともたしかである。

 仮に、クレメンスの告げた言葉が真実だったとすれば、それらの疑問に明確な回答が得られるというのだろうか? 


 今夜、「トカゲの塔」に集結するはずの敵対勢力とは、いったい何だったのか。

 第二王子の護衛と呼ばれていた「革鎧の男たち」は、どうなってしまったのか。

 クレメンスとローレンツは、いつから交流を持っていたのか。

 それに、ヒューベルトの素性は、どうして彼らに知られていたのか……


 いや、それらすべてに説明が付くとしても、次は新たな別の問題に行き当たる。

 最初から第二王子が存在しないというのであれば、逆説的にクレメンスやローレンツがこの町を来訪した理由がわからなくなるのだ。

 さらに、ゼントリンガー公が神聖ザルヴァ教団の関係者から得たとされる、第二王子に関する極秘情報とは、単なる虚偽の噂だったのだろうか。

 そういった、一連の件の根本に関わる謎が浮かんでくる。

 わからない。やはり、判然としないことばかりだ。


 ただ、目の前に居る大柄な青年が、本人の主張する通り、第二王子ヴィルフリートではなく、まったく別人の傭兵だとするなら――

 ひとつだけ、明確な事実は把握できる。



「……俺のことを、(たばか)ったのか」


 ヒューベルトは、悔しさを噛み殺すように言った。もはや言葉遣いに、身分の遠慮もない。

 クレメンスが、かぶりを振りつつ、それに応じる。


「結果から言えば、そういうことになるな」


「ふざけるな!」


 ヒューベルトは、思わず激情に駆られて叫んだ。

 憤慨に突き動かされるまま、クレメンスに長剣の先端を向ける。


「俺が、この任務にどんな思いで取り組んでいたか……」


 ヒューベルトは、溢れ出る感情を抑え切れず、僅かに吐露してしまった。

 ゼントリンガー公からの期待。国を変えるという理想。騎士としての名誉と栄達。

 そして、町で出会った代書人の少女への申し出――

 すべてが、儚く消え失せようとしている。

 何もかも得られぬまま、ただ喪失感だけをわだかまらせて。


 クレメンスは、彼の様子を見て取ると、かぶりを振りつつ、穏やかに左右の手を広げてみせる。


「おい、落ち着けって。こっちの話も、少し詳しく――」


「すでに語る言葉はない!」


 ヒューベルトは、吐き捨てるように峻拒して、ほとんど同時に石畳を蹴った。

 長剣を中段に構え、クレメンスに斬り掛かったのだ。怒り任せの衝動的な行動だった。

 大柄な青年は、ヒューベルトの斬撃に対して、何ら備えていたように見えなかった。むしろ、彼が攻撃に移るその刹那まで、相手の説得を試みようとしていたから、無防備であったようにすら感じられた。

 それだけに、ヒューベルトは次の瞬間、眼前で見た光景に驚嘆させられた。


 クレメンスが己の両手剣で、彼の斬撃を受け、弾き返したのである。

 常軌を逸した抜剣の速度だった。重い両手剣を、まさに軽々と扱っている。しかも、長剣の軌道と、彼我の間合いを的確に見切った、完璧な防御なのだ。


「――なっ!?」


 ヒューベルトは、斬撃を押し返され、数歩後ろへよろめいた。それでも、懸命に体勢を立て直し、長剣を正面で構えようとする。

 しかし、若い騎士がこれ以上斬り合いを続けることは、すぐ不可能になった。


 彼が二撃目を放とうとするより先に――

 長剣の刃は、中ほどで二つに切断されてしまったのだ!


 クレメンスの反撃が、ヒューベルトの得物を破壊したのである。

 この傭兵を自称する青年は、再び恐るべき速さで両手剣を振り抜き、対峙した相手を傷付けることなく、無力化を試みたのだった。圧倒的な剣技であった。


「これは、なんという……」


 ヒューベルトは、半ば呆然と、折れた長剣を見詰めて呻いた。刃渡りは、元の半分ほどにも短くなり、もうとても使い物にならない。



「どうだ。少しは、俺の話を聞く気になったか?」


 クレメンスは、大きく呼気を吐き出し、気さくな口調で言った。斬り合いの構えを解くと、両手剣を背中の鞘へ戻す。

 ふと、このときヒューベルトは、クレメンスの得物を見て、また新たな事実に気が付いた。

 両手剣の刃の根元には、「何の銘も紋章も刻まれてはいなかった」のである。

 かつて、鍛冶屋の見習いパウルから聞いた話によると、そこには王家の銘と紋章がなければいけないはずなのだ。

 けれども、これで逆説的に、クレメンスがアステルライヒ第二王子ではないことが、本当に証明されたとみてよさそうだった。


「――ヴォルムス派の帝国伝統剣術……」


 ローレンツが、つまらなさそうにつぶやいた。


「あのクロイツナッハ侯が一目置くだけあって、噂通りのえげつない太刀筋ですね……」


「相手の打ち込みが鋭かったから、手を抜く余裕もなかったんだよ」


 クレメンスは、軽く肩を竦めて、如才なく言った。

 大柄なクレメンスと小柄なローレンツは、頭二つぶんほども背丈が違う。その二人が並んで言葉を交わす様子は、傍から見れば滑稽な趣きがあった。


(それにしても、クロイツナッハ候だと)


 ヒューベルトは、やり取りの中で挙がった名に、反応せざるを得なかった。


(この二人は、かの『神槍の黒騎士』と接点があるのか。……いや、待て)


 不意に、若い騎士の脳裏で、連想から閃くものがあった。

 この大柄な青年とクロイツナッハ候オルトウィーン、それにあの凄まじい剣の技量。

 到底、一介の流れの傭兵とは思えなかった。

 また、クレイグという偽名を名乗りながら、以前に彼は「戦場で大きな手柄を立てたことがある」とうそぶいていたらしい。怪しげな素性から、おそらくいまだに眉唾と感じている人間が大半だろう。

 だが、こうして目の前で実力を見せ付けられた今では、見方や印象がまったく違ってくる。

 これらの要素をつなぎ合わせたとき、そこから浮上する青年の正体とは――


「そうか。クロイツナッハ候直属傭兵部隊の隊長、『鋼鉄の悪鬼』クレメンスか!」


 記憶の欠片に行き当たり、ヒューベルトは思わずその名を口走っていた。

 ほんのここ一年ばかり、クロイツナッハ候オルトウィーンの右腕として、しばしば戦場での目覚しい武功が取り沙汰されるようになった、凄腕の傭兵隊長。

 まさか、そのような人物がこの数ヶ月もの期間、ヘルネのような片田舎に逗留し、酒浸りの生活を送っているなどと、いったい誰が想像するだろうか? とても常識では考えられぬ。


「……その妙な二つ名で呼ばれるのは、正直言って本意じゃないが」


 クレメンスは、少しだけ渋い顔になって、


「どうやら、すでに俺の素性を知っているみたいだな」


「しかし、そこのローレンツとは、どういうつながりなんだ。この小僧は、ローテンベルガー公爵家の――」


「いや、残念だが、あれは虚言だ。ちょっと、こいつについては、ややこしい立場かもしれんな」


 ヒューベルトの問い掛けを、クレメンスは否定した。

 水を向けられ、ローレンツは不承不承といった態度で、あとを引き取る。


「僕は、黒騎士団所属の斥候として、クロイツナッハ候にお仕えしています。――とはいえ、騎士の身分などではなく、平民出身の一騎兵に過ぎませんがね……」


 ちなみに、実家が元は商人だったというのは本当です、とローレンツは言い足した。

 もっとも、王都に近いアレンドルフではなく、城塞都市として有名なミゼンブルグの出身らしい。王国北部に位置し、昔から商工業が盛んで、多くの富を産むため、たびたび戦火に巻き込まれてきた土地だ。


 いずれにしても、これはヒューベルトにとって、思いがけない事実だった。

 何しろ、ローレンツに関しては、これまでローテンベルガー公爵家の配下にある人間だとばかり思っていたのだ。


「まあ、公の扱いとしてはそういうことになっているが、どうもクロイツナッハ候はこいつを高く買っているらしくてな。隠密任務の類を与えて、重用しているそうなのだ。とはいえ、俺もローレンツとじかに共同して、仕事にあたるのはこれが初めてなんだが……」


 ローレンツの言葉を受けて、クレメンスは指で自分の頬を掻きながら言った。

 いまや二人とも、互いの素性を隠し立てするつもりはないようだった。擬態とも思えない。

 その点も、どういう腹積もりなのか、いまひとつ真意が汲み取れなかった。



「……俺のことを、これからどうする気だ」


 ヒューベルトは、低い声でたずねた。抵抗は無意味だろう。

 得物の長剣を折られ、すでに戦う術もない。

 かといって、背を向けて逃げ出そうにも、ここからヘルネまで落ち延びるのは、ほぼ不可能と思われた。この建物は閉鎖的な構造で、出入り口は二つしかない。正面出入り口の傍にはクレメンスが立ち、裏口から出ると目の前はウルム河の断崖だ。櫓の壁面伝いに走っても、正面側から回り込まれれば、すぐに捕捉されてしまう。


「まあ、そう物事を()くな。おまえさんの処遇に関しては、俺やローレンツの判断でどうこう決める段取りじゃないんでな」


 クレメンスは、鷹揚に言って、微笑を口の端に刻んだ。およそ、「鋼鉄の悪鬼」という異名にそぐわぬ表情だった。



 ほどなく、再び建物の外から、こちらへ駆け足気味で近付いてくる気配があった。「トカゲの塔」の正面出入り口の前に、新たな人影が立った。

 土色の外套を羽織り、鉄製の胸当て(ブレストプレート)を着用した男だ。

 その防具には、水鳥の紋章があしらわれている。レムシャイト伯爵家の(しるし)だった。

 ルーファスに仕える兵士だ、とヒューベルトは直感した。あの「革鎧の男たち」も、所属を偽るために水鳥の羽飾りを身につけているはずだが、以前に見た彼らとはどうも雰囲気が違う。


「――クレメンス殿。手配していた馬車が到着しました。先ほど捕縛した敵三名、護送の準備は整っております」


「おう。連中の様子はどうだ?」


 兵士に名を呼ばれ、クレメンスは出入り口の方へ顔を向けながらたずねた。


「まだ自白はありませんが、一人の所持品を検めたところ、盗難に合っていた水鳥の羽飾りと、書簡の類が出てきました」


「そうか。書簡の方を見せてもらおう」


「はっ。こちらです」


 兵士は、大柄な青年の隣へ進み出て、懐から蜜蝋で留めた羊皮紙の巻物を取り出した。

 クレメンスは、それを受け取り、封を解くと、縦に広げて目を通す。



「――間違いない。あの『革鎧の男たち』は、ゼントリンガー公の手の者だな」



 ヒューベルトは、驚愕に目を見開き、心臓が凍て付くような感覚に襲われた。知らず知らずに、手から折れた長剣が滑り落ち、足元で散文的な金属音を立てた。

 まさしく、不可解極まる事実だった。


 「革鎧の男たち」は、第二王子ヴィルフリートの護衛ではなかった。

 いや、第二王子が本当に架空の人物であるとすれば、その点について疑念を挟む余地はない。

 しかし、あの男たちがゼントリンガー公の配下だというのは、まったく夢想だにし得ぬ話だ。いつの間に、ヒューベルト以外の人間が、このヘルネに潜伏することを命ぜられていたのか。

 しかも、そのゼントリンガー公の部下たちと、クロイツナッハ候の片腕であるクレメンスや、レムシャイト伯に仕える兵士たちは、たった今「トカゲの塔」の外で交戦したらしいのである。

 事情は、ますます複雑怪奇だ。


 クレメンスとローレンツは、それぞれ押収した書簡を回し読むと、伯爵の兵士に捕虜の護送を命じた。

 レムシャイト家の居城まで連行し、地下牢に投獄しておくつもりらしい。名目上は、ターレの駐屯地から身分証の盗難を働いた賊として、鎖に繋いでおくようだった。

 それは事実であるし、余人には事件の背後を、おいそれと追求する手段はないだろう。

 むしろ、露見して困るのは、ゼントリンガー公に違いない。



 兵士が指示を受けて下がろうとすると、入れ替わりに建物の外から歩み寄ってくる人影があった。兵士は、いったん出入り口の前で立ち止まると、右拳を左胸に当てて姿勢を正した。


「――やあ、皆さん。無事に予定が済んだようですね」


 その中性的な風貌と音楽的な美声は、一度接する機会があれば、誰しも二度とは忘れまい。

 新たに姿を現したのは、かのレムシャイト伯ルーファスそのひとである。


 ヒューベルトは、ただ黙然と立ち尽くすしかなかった。そろそろ、脳に驚きを伝える神経の役割が、麻痺しはじめてきそうだった。

 なぜ田舎町の近郊で、特殊な肩書きを持つ人物と、こうも次々に出会うのか。それも今は夜更けなのだ。ルーファス自ら様子を見に来たのだとすれば、一連の事件にはやはり相応に重要な意味があったことになる。

 ヒューベルトの心中を知ってか知らずか、ルーファスは至って自然な所作で櫓の中へ歩み入ってきた。任務に戻る兵士の敬礼に、軽く片手で応じてから、改めて辺りを見回す。


「お疲れ様です、クレメンス殿。外の敵兵を全員殺さず捕らえた手並み、さすが噂に名高いクロイツナッハの傭兵隊長というべきでしょうか」


「さて、どうかな。いざ敵が町に潜伏しはじめると、連絡役といって隣のローレンツも送り込まれて来たあたり、まだ俺も侯爵の信頼を充分には得ておらぬかもしれんぜ」


「いや、いや――。クロイツナッハ候は、あの御方のこととなると、過剰に心配性なのです。まあ、もちろん今回の件では、それで随分助かりましたが」


 ルーファスは、くっく、とさも面白そうに喉の奥を鳴らして笑った。

 どうやら、クロイツナッハ候とレムシャイト伯のあいだには、深い接着があるようだった。いましがたのクレメンスと兵士のやり取りを見ても、明らかに思われる。


 それでは、その結び付きを成立させている要点は何なのか。

 また、両者が協力関係によって、このヘルネにかかずらう意味もわからない。

 第二王子ヴィルフリートが架空の人物で、ゼントリンガー公が得ていた情報も、そもそも作り話だったとするなら、こんな田舎町に固執する()われは、どこにもないはずなのである。

 ――それに、何度か会話の中に登場した「あの御方」とは誰のことなのか。


 ルーファスが、ゆっくりと振り返って、ヒューベルトの顔を眼差した。


「ところで、貴方がゴアルスハウゼンの騎士ヒューベルトですね。一応、初めまして――と、申し上げておくべきでしょうか。まあ、私のことは、今更名乗るまでもなく、ご存知のようですが」


「……ルーファス卿、ひとつ伺いたい」


 ヒューベルトは、努めて感情を抑えながら言おうとした。しかし、意に反して、喉からは擦れかかった声しか出なかった。


「この一連の事件は、すべて貴方が書いた台本なのか?」


 それは、あらゆる謎の核心だった。

 この町を巡る、いまだ全容の見えない物語。

 果たして、誰が、何のために作り上げた筋書きなのか。


 いまやヒューベルトは、生殺与奪の術を、すべて相手に握られている身だ。失う物は何もない、という開き直りから発した問い掛けだった。


「ふむ。先に結論だけ申し上げると、『すべてではない』ということになるでしょうか」


 ルーファスは、腕組みし、ちょっと考え込むような素振りをみせた。


「騎士ヒューベルト。貴方は、叙事詩(サーガ)の類には、お詳しい方ですか?」


「……叙事詩について?」


 ヒューベルトは、訝しげな口調で、反射的に問い返してしまった。

 あまりに、突拍子もない話題の転換であった。


「はい。恋愛物に、宮廷劇。冒険物や英雄譚など、時に雄々しく、時にしとやかに、人から人へと歌い継がれる物語――……」


 ルーファスは、うなずいて、妙に楽しげに続けた。

 その語り口には、この伯爵独特の芝居がかった雰囲気がある。

 生真面目なヒューベルトは、さすがに面食らったし、どこか揶揄されているような気分になって眉を顰めた。だが、あえて口を挟むことはしなかった。


「叙事詩には、大抵その元になる伝承があるものです。それを、あとから編纂し、ちゃんと筋の通った物語に組み立て直す。そういうものが、吟遊詩人などによって演奏され、後の世に語り伝えられる。花や女神の美しさ、騎士の忠義と勇ましさ――」


 ルーファスは、ややおどけた仕草を交えてしゃべる。それから、改めて若い騎士の方を振り返った。切れ長の目が、すっと細くなっていた。


「今夜の出来事について言えば、私やクロイツナッハ候は、叙事詩を構成する舞台や人物を用意したにすぎません」


 すなわち、この事件を裏から概観し、目の前の決着へ導いた人間は、他に居る。

 ルーファスは、遠回しにそう告げているのだ。

 きっと、それこそが「あの御方」と呼ばれた人物なのだろう。

 千騎長オルトウィーンやレムシャイト伯爵を動かし、おそらくはその忠誠なり献身を得ているような何者か。


 しかしどうしても、それは誰なのかが、ヒューベルトには思い当たらない。

 それほどの人間は、やはりラーヴェンスブルグ王家の関係者ぐらいしか、想像が及ばないのである。だが、第二王子は、架空の人物だというのだ。

 結局、謎はそこに戻ってくる……


「怪訝に思う気持ちは、よくわかりますとも」


 ルーファスは、若い騎士の反応を見ながら言った。

 相変わらず、表情に諧謔(かいぎゃく)が滲んでいる。


「ですが、ご安心なさい。――実は、あの御方も、貴方と折り入って、きちんとお話したいと望んでらっしゃいます」


「……俺と?」


 ヒューベルトは、要領を得ずに、またしても問い返す。

 やはり、相手の考えが掴めない。どうやらルーファスは、もったいぶってこそいるものの、謎の人物の正体自体を、別段秘密にしておくつもりはないようだった。

 それこそ、この美貌の伯爵が好む、一種の演出のようなものなのだろう。


「はい。たぶん予定通りであれば、夜空の星の位置からいって、もうそろそろこちらへお見えになるはず――」



 そのとき、ルーファスが言い終えるよりも早く、この建物にささやかな異変が生じた。

 頭上で、突然、まばゆい白光が煌いたのだ。ほんの瞬間的な事象だが、夜闇に染まっていたはずの塔の内部が、奇妙な物音と共に白昼のように照らされた。

 明かりが収束するまでは、三つ数える余裕もない、短い時間の現象だった。


 何事かと、ヒューベルトは「トカゲの塔」の上層を見上げた。

 とはいえ、この櫓の石階段を昇った場所には、見張り台しか存在しない。


「――今の光は、転移魔法を使用した際に発生するものです。どうやら、ご到着なされたようですね」


 ルーファスも、頭上を見上げながら、皆に説明するように言った。


(黒幕の正体は、『魔法』の使い手というわけか)


 ヒューベルトは、緊張感で、無意識に左右の拳を握り締めていた。

 見張り台から、人の気配が感じ取れる。闇で覆われた静寂の中に、カツーン、カツーン……と、乾いた音が鳴り響いていた。

 一歩、また一歩と、石階段を降りているのだ。

 クレメンスやローレンツも、視線をそちらへ注いでいる。


 ところが、ヒューベルトは、石階段を降りる気配が近付いてくるにつれ、不思議な違和感を抱きはじめた。

 思った以上に、足音が軽いのである。

 とても、成人男性のそれとは思えない。普通の大人なら、もう少し音に体重が乗るはずだ。まるで、女子供の足音に聴こえる。

 やがて、石階段の途中で、人影は小窓の傍を通り過ぎ、彼は咄嗟に、あっと声を上げそうになった。


 青白い月光に照らされ、そこに映えた人物の輪郭は、ひどく小柄で、けれども森の妖精族(エルフ)のように優美だったのだ。

 ふわりと豊かに流れる金髪に、華奢な身体をゆったりと包み込む着衣。

 白く透き通るような肌と、夏空色に輝く瞳は、決して見紛うはずもない。




「――ニーナ……!?」



 この夜、ヒューベルトは何度驚愕させられたかわからない。

 しかし、あらゆる他の出来事が霞むほど、その真実は彼の心に突き刺さり、全身のちからを奪い去ってしまった。

 痺れるような悪寒が両足を襲って、若い騎士は石畳に膝から崩れる。

 その視線は、石階段を降りてくる金髪の少女へと向けられてこそいたものの、虚ろに焦点がぶれていた。


 運命の巨大な渦は、ヒューベルトの視界に映る世界を呑み込み、すべてを反転させていく。


「ニーナというのは、姫様の本当のお名前ではありません。幼少のみぎり、養育にあたっていた乳母のそれから借りたものだそうです」


 ルーファスは、ヒューベルトの傍へ歩み寄り、厳かな口振りで告げた。



「アステルライヒ王フランツが御息女にして、ラーヴェンスブルグ公爵令嬢。あの御方こそ、現王家ただ一人の正統な王女――大公女レティーシアさまです!」


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