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14:月影の剣舞

(まさか、そんなはずはない)


 ヒューベルトは、身体を硬く強張らせ、努めて冷静を保とうとした。

 改めて、小窓から視覚に入る建物の中を、目を凝らして探ってみる。

 だが、ここから見える範囲に、やはり人影はない。


 ヒューベルトは、どうしても怪しげに感じられ、再び櫓の外側を壁面沿いに移動することにした。

 異なる角度から「トカゲの塔」の内部を覗くことができる、別の小窓を探しはじめたのだ。何しろ、狭い正方形の穴だから、一箇所から眺めただけでは、死角になってわからない場所もあるのだ。

 若い騎士は、建物の裏手へ向かって、石壁の横を時計回りに歩く。忍び足で進むと、左側の林が疎らに開け、断崖になった。夜闇の眼下に見えるのは、ほのかに水面で星の明かりを反射するウルム河の流れだ。


 別の小窓は、すぐに見付かった。

 そこから、ここでも顔だけ出して建物の中を眼差す。

 ところが、またしても人影は見当たらなかった。

 ヒューベルトは、言い知れぬ疑心に囚われた。


(バカな。俺は、たしかにあの少年が、この塔に入るところを見たのだぞ)


 ふと、ヒューベルトは、また何気なく「トカゲの塔」の外壁へ視線を戻した。

 そうすると、彼が今居る位置よりも、さらに櫓の裏手へ進んだ先に、長方形の出入り口があることに気付いた。建物の正面にあったそれより、もう一回りちいさい。

 おそらく、塔の裏口だろう。


 ヒューベルトは、僅かに逡巡したが、その出入り口に近付いた。

 本当に誰も塔の内部が無人だとすれば、計画そのものが根本から失敗となる。それを明確にして、ヴィルフリートに伝えねばならぬ。

 仮に、見張り台に上った人間が残っているとしても、手品でも使わない限り、敵の数は一人か二人とみて、間違いなさそうだと思われた。


 石壁づたいに移動し、やや頭を下げて、低い姿勢で裏口を潜る。

 右手は、腰に吊るした長剣の柄に添えながら、建物の中へ踏み込んだ。



 ……まさに、その直後であった。


「――どうやら、予定通りに来てもらえたみたいですね……」


 頭上から、どこか冷たく、抑揚の少ない声が聴こえてきた。

 ヒューベルトは、声音の主を探し、弾かれたように視線を前方斜め上へ動かす。見上げた先は、壁面に沿って緩い螺旋を描く、櫓の見張り台に続いた石階段の中ほどだ。

 そこに、外套を纏った小柄な少年が立っている。

 「黄昏の白馬」亭の連泊客の一人、ローラントだった。

 青みがかった長い前髪の隙間から、感情の窺い知れない目で、少年は真っ直ぐヒューベルトを見下ろしている。声を掛けられるまで、不気味なほど存在が感ぜられなかった。

 宿屋で見掛けてきた内気そうな姿とは、すっかり様子が違っている。


 今一度、ヒューベルトは素早く視線だけで、頭上の薄暗い空間を探った。

 建物の外から見た通りで、ここに他の仲間はいないように思われる。だが、はっきりとした確信までは持てない。ローラントのように気配を消して隠れていたら、そう容易に察知できるものではないだろう。


「予定通りだと?」


 ヒューベルトは、少年を見上げたまま、問い返した。


「それは、どういう意味だ」


「そのままの意味ですよ……」


 ローラントは、張りのない口調で、素っ気無く答える。

 そして、足場の石段の縁から、前へ身を乗り出すと――

 階下に向かって、おもむろに飛び降りた。


 ローラントが落下した高さは、およそ六オーデルに近い。

 けれども、この小柄な少年は、外套を翻しながら、宙で身体を一回転させると、ふわりと石畳に着地してみせた。やわらかい、見事な体捌(たいさば)きだった。

 想像した通り、ただの乾物商人の息子などではないな、とヒューベルトは考えた。

 明らかに、この少年の動きは、特殊な訓練を受けた人間のそれと見て取れる。


「――貴様は、俺の尾行に気付いていたのか?」


 ヒューベルトは、腰から長剣を抜き、正面で構えた。


「そして、俺がこの櫓に侵入するまで、待っていたとでもいうのか」


「やれやれ……。剣を抜いて、詰問ですか――穏やかではありませんね……」


 ローラントは、騎士の青年と向かい合って立つと、軽く左右の手を広げてみせる。

 口調は淡々としているが、どこか態度に挑発的な雰囲気があった。


「俺の質問に答えろ!」


 ヒューベルトは、警戒心を強めつつも、語気荒く問い質した。

 相手の物腰が、なぜか彼には無根拠な余裕だとは思えなかった。

 何か、裏がある。本能的に、そのような推察を抱いた。


「おっしゃる通りですよ、騎士ヒューベルト……」


 ローラントは、浅く首肯しながら、目の前の若い騎士を「偽名ではなく、本名で呼んだ」。

 すでに、そこまで知られていたのだ。


「今夜の僕は、ある御方の指示に従って動いています――。貴方の尾行を許したのも、この櫓の中まで入ってもらってたのも、すべてその御方の算段通り……」


「誰のことだ、それは」


 ヒューベルトは、奥歯を強く噛み鳴らした。


「ローテンベルガー公自身か。それとも、その臣下の者か」


「……そんなことより」


 ローラントは、ヒューベルトの言葉には応じず、代わりに少しだけ首を捻って、自分の背後を気遣わしげに眼差した。視線の先には、「トカゲの塔」正面の出入り口がある。

 少年は、騎士の注意を、屋外へ誘導しようとしたのだった。


「――もう、はじまったようですよ」


 あえて、何が、とは訊くまでもなかった。

 建物の外から、(かす)れがすれにだったが――

 甲高い剣戟の音が聴こえてきたのである!


 ヒューベルトは、驚き、混乱しかけた頭を、懸命に整理しようとした。

 この櫓の外で、戦闘がはじまっている。夜闇で暗く、ここからは距離もあって、しかも彼は屋内に居るため、その正確な状況はまるで把握できない。

 ただ、敵対勢力への奇襲計画が失敗したことは、疑う余地がなさそうだった。


 そうだ、この作戦を指揮するヴィルフリートは……

 アステルライヒ第二王子は、この事態に直面し、危険に曝されては居まいか?



 危機感に急き立てられ、塔の出入り口へ向かって、ヒューベルトは咄嗟に駆け出そうとする。

 しかし、その彼の前に、ローラントが回り込むように立ち、行く手を遮ろうとした。


「申し訳ありませんが――」


 前髪が目に掛かった少年は、右手を腰の後ろに、左手は自分の懐へと伸ばす。

 次いで、やや前傾気味の姿勢を取ったかと思うと、両手にそれぞれ異なる得物を抜いていた。


「貴方のことは、ここでしばらく足止めするようにと、仰せ付かっているので……」


 右手には、刃渡り七〇アンテルほどの小剣(ショートソード)

 左手には、同じく二〇アンテルほどの短刀(ダガー)

 大小ふたつの武器を握り、ローラントは間合いを計るように身構えている。


 ――かつて噂に聞いた覚えのある、暗殺者の戦闘術だ。


 ヒューベルトは、直感した。

 いわゆる二刀流剣術とも違う、剣術と体術を組み合わせた特殊な近距離戦闘技法。特に東方の殺し屋(アサシン)に好まれ、セレウケイアで発祥したと伝えられている。

 彼もその使い手と、現実に対峙するのは初めてだった。


(やはり、油断できる相手ではない)


 ヒューベルトは、改めて長剣を構え直す。

 互いの武器が届く距離は、もちろん彼の方が二〇アンテル以上有利だ。刃の重量にも、武器の大きさと相応の差があるだろう。それはそのまま打撃力の差につながる。

 だが、ローラントの得物は軽いぶん、斬撃の隙は多くないはずなのだ。

 逆にヒューベルトは、相手の刃が届く位置で攻撃を外せば、非常に危険な展開になる。防御姿勢を取るよりも先に、反撃を浴びる恐れが強い。


(とはいえ、悠長に睨み合いをするわけにはいかぬ)


 ヒューベルトの意識は、目の前の少年に注意を払いつつも、建物の外で生じている出来事を、無視することはできない。

 こうしている間にも、ヴィルフリートの身が案じられた。予測に(たが)わねば、敵方の総数は味方を上回っているはずなのだ。正面から戦えば、苦戦は必定である。まして、奇襲を見抜かれ、今となってはかえって相手の思惑に嵌められた見込みさえある。

 どうして、そのような状況で、ローラントは「殊更ヒューベルト一人だけを、足止めしようとするのか?」という疑問は浮かんだものの、深い考察を持つような余裕はなかった。

 とにかく、この少年を倒して突破し、櫓の外で味方と合流せねばならない。


「どうあっても、俺を通さぬというのか」


「何度も言わねば、わかりませんか……」


 ローラントは、あくまで冷ややかに応じる。

 それで、ヒューベルトも迷いは消えた。


「――ならば、斬るまで!」


 ヒューベルトは、敢然と言い放つや、石畳を蹴った。

 いったん、長剣を手前へ引くと、左足から強く相手に向かって踏み込む。こちらの攻撃が届き、かつ敵の反撃が辛うじて届かない、ぎりぎりの距離である。

 ヒューベルトは、正確な自分の間合いで、最初の一撃を繰り出した。


 キン!と、澄んだ金属音が薄暗い闇の中に響く。

 ローラントが、右手の小剣を掲げ、若い騎士の斬撃を受け流したのだ。

 容易く長剣の軌道を逸らされ、内心ヒューベルトは舌を巻いた。正面からの一撃で、直線的に斬り込んだとはいえ、いかにも相手の防御には余裕がある。


 もはや、難敵であることは、疑う余地がなかった。

 大概の相手なら、初撃を弾かれても余勢を活かして、そのまま二撃目を叩き込むところだ。

 けれども、嫌な予感がして、ヒューベルトはすぐに長剣を引き、上体を気持ち後ろへ退かせた。

 それは、一撃目を防いだ少年の反応を見て、咄嗟の判断だった。果たして、彼の見識に誤りがなかったことは、すぐ明確になる。


 掲げた小剣の下を潜るようにして、ローラントの短刀が突き出されたのだ。

 敵の少年は、振り下ろされた斬撃をいなす一方、逆に前方へ鋭く踏み込んで、自分の間合いに彼を引き付けていたのである。まさに、攻防一体の戦闘術であった。

 ローラントは、宙で軽く短刀の柄を一回転させ、逆手に持ち替える。

 水平に薙ぐような攻撃が、若い騎士に襲い掛かった!


「くそッ!」


 ヒューベルトは、瞬間的に身体を捻り、短刀の一撃から逃れる。

 しかし、ローラントの短刀は、恐るべき早業で、立て続けに斬り付けてきた。左右へ往復するように、ヒューベルトの懐近くで刃が二度閃く。

 どうにか一閃目こそ避けたものの、わずかに二閃目は腹部を掠ってしまった。胴衣が裂けて、赤く細い液体が中空に糸を引く。


 文字通り、間一髪だった。

 もし侮って、ヒューベルトが連撃を試みていれば、おそらく深手を負っていたに違いない。

 急所こそ外れていたかもしれないが、この少年を相手に戦い続けることは、おそらく困難を極めただろう。敵の思惑に従って、ここで足止めを余儀なくされていたはずである。


 必死にローラントから距離を取って、ヒューベルトは姿勢を立て直した。

 呼吸を整え、再び相手を正面に眼差す。冷や汗が滝になって、背中を滑り落ちていた。


「――なるほど……」


 ローラントが、感心したようにつぶやいた。


「即座に殺さないよう、幾分手心を加えていたとはいえ、今の攻撃をかわしたのは、なかなか大したものです――。案外、ゼントリンガー公も見る目があるのか……いや、それともその逆でしょうか……」


 目が前髪で隠れた少年は、相変わらず表情が窺い知れない。感情の篭もらない口調で、また何やら意味ありげな言葉を漏らすばかりだ。


(この少年、単純な攻撃が通用する手合いではない)


 ヒューベルトは、次の斬り合いに備えつつ、さらに考えを巡らせていた。

 互いに相手と睨み合ったまま、数秒の時が流れる。


 先に動き出したのは、やはりヒューベルトだった。

 長剣をやや上段に構え、前方に駆け出す。彼我の距離を詰めたところで、縦へ弧を描くように得物を振るった。

 だが、斬撃は、ローラントの身体に届かない――

 いや、それは最初から、「僅かに届かない距離で振るわれた」のである。


 この攻撃には、いささかローラントも意表を衝かれたようだった。

 最初の斬り合いの感触からすれば、この若い騎士が焦って間合いを見誤るとは、敵の少年にも考え難かったのだろう。彼の高い剣術の技量は、すでに正しく相手に把握されていた。

 ヒューベルトの長剣は、何もない空間を縦断する。右足から踏み込んだ、速いが軽い一撃であった。


 けれども、そこから長剣の二撃目は、これまでと異なる軌道でローラントに襲い掛かった。

 縦横の「斬る」動きではない。前へと「突く」攻撃である。ヒューベルトは、長剣を片手で真っ直ぐに伸ばし、利き足を同じ方向へ揃え、標的目掛けて突き出したのだ。

 長剣は、細剣(レイピア)突剣(エストック)のように、刺すための武器ではない。それでも、硬く鋭利な先端は、直撃すれば無傷では済まないだろう。

 その一撃が、今度こそ確実に、少年の胸部を狙っている。

 とはいえ、多少目先を変えられようと、やはりローラントの対応は冷静だった。


「剣の軌道に変化を付ける発想は、悪くありませんが――」


 ローラントは、即座にそのヒューベルトの突きを、小剣で横薙ぎに払う。


「僕はその程度で、誤魔化されません……」


 そして、また少年は低い姿勢から、若い騎士の懐近くに飛び込もうとした。

 このとき、ヒューベルトの体勢は、肩口から背中にかけて、ひどく無防備に見えたのだろう。

 ローラントからすると、右肩を負傷させてしまえば、相手は利き手で満足に長剣を扱うことができなくなる。それによって、確実な勝利につながるはずだった。


 ところが、少年の思惑は、実現しなかった。

 ローラントの小剣と、ヒューベルトの長剣とが、いつの間にか刃を絡め合って――

 一方の得物が、不意に高く宙を舞ったのだ!


「――まさか……!」


 声音に驚愕を滲ませ、後ろへ飛び退いたのはローラントである。

 右手の武器を、ヒューベルトによって弾かれ、今は左手に短刀を握るだけだ。小剣は、くるくると中空で円を描くと、乾いた音色を奏でて、離れた石畳の上に落ちた。


「どうだ。これでもう、得意の戦闘術は使えまい」


 ヒューベルトは、大きく呼気を吐き出しながら言った。

 この一連の斬り合いは、完全に彼がローラントの一枚上を行っていた。

 開いた脇を相手に向け、利き手一本で繰り出す「突き」の攻撃は、僅かだが「斬る」よりも間合いが広い。上段からの斬撃は、敵の驚きを誘うと共に、次の突きの距離を確認するために、放たれたものだったのである。

 間合いが広がったぶん、ほんの数瞬だったが、ヒューベルトは防御の余裕を得ていたのだ。


 二撃目の突きを払って、ローラントは咄嗟にそのまま反撃に転じようとしてしまった。敵の騎士が、あらかじめそれに備えているとまでは、思い至らなかった。あるいは、ささいな油断があったかもしれない。

 いずれにしろ、少年が身構え、前へ踏み出そうとする動作を、ヒューベルトは逆に利用した。

 長剣の突きが逸らされると、流れに任せて手首を捻り、相手の小剣の刃に、己の得物のそれを噛み合わせたのだ。

 応用的な実戦剣術だった。


 とにかく、形勢は逆転した。

 あとは、このまま隙を見せずに、こちらの優位を活かして押し切るのみである。



 しかし――

 ヒューベルトは、更なる状況の変化に気付いて、はっと我に返った。

 にわかに、櫓の外が静かになったのだ。

 遠くで一瞬、短い悲鳴が聴こえたように思われたが、それきり剣戟の音も止み、急に月夜の静寂が戻ってきたようだった。


(どういうことだ!?)


 ヒューベルトは、動揺を自制するのに、苦心した。

 彼とローラントの斬り合いには、決して多くの手数が費やされたわけではない。互いの剣を合わせた回数にして、五合に満たないはずだ。間合いを計り、相手の技量を探りながらの一騎打ちとはいえ、それほど長い時間が過ぎたとも思えなかった。


 外では、ヴィルフリートたちと敵対勢力が、総力戦を繰り広げていたのではなかったのか?

 仮に、奇襲を事前に見抜かれ、味方が無力化させられたとしても、決着が早すぎる。

 いや、そもそも櫓の外から聴こえてきた剣戟の音は、冷静になって思い返すと、本当に集団戦闘のそれだったのだろうか。作戦の重大さに対する先入観と、ローラントから挑発的に注意をうながされたことで、殊更危機感を煽られた印象は拭えない。

 よくよく思い返すと、あれはせいぜい、小競り合い程度の物音だったのではないか……



 ヒューベルトが想像を巡らせていると、しかしそれを不意に中断させる気配があった。

 この建物の正面出入り口に、月光を背にした大柄な人影が覗いたのだ。

 意識を引き付けられて、ヒューベルトは自然とそちらに目を向ける。


 そこに直立していた人物は、他ならぬアステルライヒ第二王子ヴィルフリートだった。

 ヒューベルトは、その姿を目にして、思わず歓喜と安堵が込み上げた。


「殿下! ご無事でしたか」


「……ほう。大したもんだな、ヒューベルト。どうやら、思った以上に剣の腕も立つようだ」


 ヴィルフリートは、薄暗い建物の中を眼差して、低い声で唸った。その視線は、騎士と少年を交互に行き来して、つぶさに様子を観察していた。


 その反応を見て、ヒューベルトは何か、微妙な違和感を抱いた。

 奇妙な点は、ヴィルフリートの着衣に乱れや汚れが見付からないことだ。つい先ほど、林の中で別れたときと、ほとんど変わった雰囲気が感じられない。

 ついいましがたまで、ヴィルフリートは「トカゲの塔」の外で、敵対者と戦闘に及んでいたのではなかったのか? 奇襲は失敗し、劣勢の味方は、かえって相手に裏を掛かれるかたちで襲撃されたはずだ。

 それにしては、どうも様子が不自然なのである。


 直後、ヒューベルトの印象を裏付けるように、いきなりヴィルフリートは彼の理解を超えた言葉を発した。


「おい、ローレンツ。おまえの方は、無事だったか?」


 ヴィルフリートが声を掛けた相手は、騎士ではなく、少年の方だったのだ。

 しかも、「ローラント」ではなく、「ローレンツ」という名で呼んだ。決して、聞き間違いではない。


「……断っておきますが、僕はまだ負けたわけではありませんよ、クレメンス」


 ローラント――いや、「ローレンツ」と呼ばれた少年は、不満げな口調で返事する。

 ただし、彼もまた、ヴィルフリートを異なる名で呼んでいた。

 それも、「ヴィルフリート」という名でもなければ、「クレイグ」という名でさえない。

 この大柄な青年にとって、三つ目の名前「クレメンス」。


 ヒューベルトは、混乱した。

 今ここで交わされている会話の意味を、彼だけが把握していないのだ。

 いったい、自分の目の前で、何が起こっているというのか。


「その強がりが言えるうちは、心配するにゃ及ばないようだな」


 少年からクレメンスと呼ばれた青年は、片手で自分の顎を撫でつつ、愉快そうな口振りで言った。屈託のない表情だ。


 それを見て、ヒューベルトは直感的に気が付いた。

 これは、貴族の立ち居振る舞いではない。

 現在、大柄な青年の有様は、あの「流れの傭兵」のそれだった。普段、昼間から酒場で杯を(あお)っていて、陽気で親しみやすいが、自堕落な雰囲気の漂う物腰。


「命令で、『相手を殺さないように』なんて指示が出ていなければ……。最初から殺すつもりで戦えていれば、遅れを取るようなことはありません……」


「おまえさんの言い分は、よくわかってるさ」


 悔しげに弁解するローレンツを、クレメンスは苦笑混じりになだめた。


「だがな、ヘルネは元来、長閑な片田舎なんだ。――この町に、血の臭いを染み付かせるのは、やっぱり俺も気が引ける。極力、穏便に済ませられれば、それに越したことはないだろうよ」


「――ふん。まったく、どうしてあの御方の周りに居る人間は、こう揃いも揃って、甘い連中ばかりなのやら……」


 ローレンツは、苛々した口調でつぶやく。

 小柄な少年と大柄な青年という、対照的な両者のあいだには、明らかに気安い関係が見て取れた。

 もはや、疑う余地などない。ローレンツとクレメンスは、ごく近い間柄なのだ。

 二人のやり取りからして、そうとしか考えられなかった。



「――ヴィルフリート殿下。これは、いったいどういうことなのですか……!?」


 ヒューベルトは、やっとの思いで、櫓の出入り口に立つ青年にたずねた。

 ただし、彼の知る第二王子の名で呼び掛けたものの、もはや内心そこに居る人物が、本当はどこの何者なのか、まったくわからなくなっていた。

 クレイグ――ヴィルフリート――それとも、クレメンス?


 にわかに、好ましからざる予感だけが生まれつつあった。

 この大柄な青年と、ローレンツは敵対していない。

 それが確実であれば、ヒューベルトから見て、この場に居合わせている三人は、実は全員が敵対関係ではないか、あるいは彼だけが二人と敵対していることになる。

 そして、真実がいずれにしろ、明らかにヒューベルトは、これまで騙され続けていたことになるのだ。


「ああ、もうその名で呼ぶのは止してくれ、ヒューベルト」


 クレメンスは、片手をひらひらと翻しながら、建物の中へ踏み込んできた。ゆっくりとした歩調で、騎士と少年の中間の位置まで進む。


「今聞いた通り、俺の本当の名はクレメンスという。ヴィルフリートなんかじゃない」


「……何をおっしゃっているのか、意味がわかりません」


 ヒューベルトは、呻くように重ねて問うた。喉の奥が乾いて、自然と声が擦れてしまう。

 まだ、心のどこかで、この事実を受け入れ難い気持ちがあった。


「もし、貴方がヴィルフリートでないなら、貴方はいったい何者で、本当のヴィルフリート殿下は、何処(いずこ)に居られるというのですか」


「俺は、単なるしがない傭兵だ」


 クレメンスは、溜め息混じりに言った。両手を腰に当て、少しだけ首を傾げながら、若い騎士を見据えている。どことなく、気の毒そうな眼差しだった。

 それから、おもむろにまた口を開き、驚くべき言葉を告げてきた。



「――そして、元々『アステルライヒ第二王子ヴィルフリート』なんて人間は、最初からこの世界のどこにも存在してやいなかったのさ」



 ヒューベルトは、突然、眼前が揺らぎ、平衡を失ったかのような錯覚に囚われた。我が耳を、疑わずには居られない。ほんの僅かな時間だが、頭の中が真っ白になって、彼のあらゆる事物を思考するちからが静止した。


 彼の求めていたものが、ことごとく崩れ去ろうとしていた。

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