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13:密やかな闇の中で

 想定外の出来事は、たとえ入念な算段であっても、すべて排除できるわけではない。


 ヴィルフリートの持ち掛けてきた奇襲計画が失敗する見込みも、当然にあり得る。

 根本的な前提として、味方の戦力が敵方に勝っているなら、奇策を弄する必要は薄い。これが王家の秘匿に関わる事件だという要素を差し引けば、優位にある側は戦闘行為に際して、正攻法で挑むのが最も確実な制圧手段である。

 しかし、その不利を覆さねばならぬゆえ、相手の裏を掻こうとするのだ。


 さて、そのような条件下の作戦だから、ヒューベルトは最悪の事態も考えてはいた。例えば、奇襲が奏功するに及ばず、味方が敗北し、彼自身もまた落命した場合などだ。

 無論、ヒューベルトは、弱気だったわけではない。だが、彼には死したとしても、果たすべき最低限の責任があった。

 すなわち、ニーナの無事の確保である。


 おそらく、ニーナが第二王子の秘密を知っていることは、まだ敵方には悟られていない。

 けれども、仮に今後その事実が伝わり、奇襲も失敗したら、ヴィルフリート抹殺を目論む勢力は、彼女を生かし続けようとはしないだろう。


 そこでヒューベルトは、奇襲前夜のうちに、自分の客室に置かれた長持ちの鍵を、ニーナに預けた。樫の木造りの箱の中には、金貨七〇枚と宝石八個、それに公爵家を表す銘が刻まれた指輪を納めておいた。いずれも今回の任務に際し、ゼントリンガー公から与えられたものだ。

 いざというとき、代書人の少女には、これらを使ってゴアルスハウゼンまで逃亡するように、と言って聞かせた。宝石は、余程不当な取引を持ち掛けられなければ、一個金貨五〇枚前後で換金できる。指輪には、ゼントリンガー公の領地に入ってから、官吏を相手に事情を説明するとき、信用を得るのに役立つはずだった。


「できることなら、こんな備えには頼らずに済むことを祈りたいな」


 ヒューベルトは、手筈を整えたあと、努めて明るい態度でニーナに言った。

 あまり戦いに臨む危険を露わに示し、彼女を心配させたくなかったからだ。


「使命に生命(いのち)()すのには、もちろん少しの躊躇もありはしないが、まだ出会ったばかり君のために、たったこれだけのことしかできずに死ぬのは、悔いが残る」


 ところが唐突に、ニーナは思いがけないことをつぶやいた。


「――私には、実は前々から、どうにもわからないことがあります」


 代書人の少女は、受け取った鍵を握り締めながら、


「まだ短い期間ですが、私にはヒューベルトさんがどのような方なのか、一連の件の中で色々と知る機会がありました。それこそ、ヒューベルトさんが私のことを、どういった人間なのか見ていてくださっていたように」


 ヒューベルトは、彼女が何を告げようとしているのか、咄嗟にわからなくて、つい口を閉ざした。

 ニーナは、彼の沈黙にうながされるように、先を続けた。


「ヒューベルトさんは、多少強引なところは目立ちますが、仕事に熱心で、いかにも騎士らしい高潔さをお持ちでらっしゃいます。……もし、私が公爵閣下だったなら、たとえ出自が爵位のある貴族ではなかったとしても、配下に得難い人材だと考えたでしょう」


 ヒューベルトと、ニーナの視線が重なった。

 彼女の晴れた夏空色の瞳で見据えられ、若い騎士は思わずたじろいだ。



「なぜ、公爵閣下は、今回のような重大で、危険かもしれない任務を――ヒューベルトさんに、たった一人で当たるように命じたのでしょうか?」



 ニーナは、珍しく、鋭い口調で問い掛けてきた。この代書人の少女は、物事を複眼的に眺望し、推知することに関して、ヒューベルトよりずっと冷静であるらしかった。

 そう、今回の使命を、「たった一人の騎士のみに任せる意義」は、どこにあったのか。

 改めてたずねられると、ヒューベルトは明確な回答に窮する。


 無論、あまりに大人数では、捜査が目立って、かえってやり難くなる部分はある。

 とはいえ、本来であれば、同じ任務をあと四、五人ぐらいで分担した方が、もっと確実で、不便は少なかったのではなかろうか。

 また、敵対勢力と接触し、使命の途中でヒューベルトが死亡する危惧も、皆無ではなかったはずだ。彼が事前に死の危険を予見し、ゼントリンガー公に不測の事態になる見込みを、先んじて連絡しておければ望ましいが、突然の事故という場合も当然あり得る。

 つまり、最初から、彼が負ったこの密命には――決定的な欠陥があった。


「……ゼントリンガー公は、俺に期待を掛けてくださったのだ」


 ヒューベルトは、搾り出すように言った。しかし、なぜか自然と己の目を、ニーナのそれから、つと逸らしてしまった。


「すでに言ったが、この任務さえ達せられれば、きっと俺には多くの名誉が約束されている。――下級貴族に生まれた俺が、どうしてこの好機をふいにできるものか」


「ヒューベルトさんも、やはり人の価値は、生まれの身分や性別、信教や肌の色、仕事の貴賎などで測れるものだと、お考えなのですか」


 ニーナは、小柄な少女だ。ヒューベルトよりも、背丈は頭一つ分は低い。今も彼を眼差す視線は、下から斜めに見上げる格好である。

 しかし、ニーナはこのとき、不思議と鮮烈な存在感を身に纏っているかに見えた。真剣な面持ちを覗かせた彼女には、それほどまばゆい高貴さが漂っていたのだ。

 それが、ヒューベルトを怯ませた。


「なぜヒューベルトさんは、私のような平民の娘を、妻にしたいとおっしゃったのでしょう? ……そういう貴方が、自分の出自や地位について、殊更執着する有様は、私にはとても滑稽に見えます。矛盾していて、裏腹だわ」


 若い騎士は、もうそれ以上、代書人の少女と交わす言葉を持たなかった。



     ○  ○  ○



 ……町の灯は、すでにほとんど消え失せていた。雲間から降る青白い月の光が、柔らかに辺りを照らす時刻である。しばらく経てば、夜闇の静謐(せいひつ)な空気を震わすように、控え目な鐘の音が聴こえてくるだろう。それは、日付の境を跨ぐ報せだ。

 この日の夜警の巡回は、この時間帯になると、いったんヘルネの中心部を離れ、東地区の外周部寄りへ多く人員が割かれる。規則で決められているのではないが、長年自警団の担当者がそういう習慣で歩いているらしい。


 その頃合を見計らって、「黄昏の白馬」亭の敷地から町へ出る人影があった。

 さらに、ほんの少し遅れて、それをまた別の人影が追跡する。

 薄暗がりに浮かぶふたつの輪郭は、前を歩く人影が少年で、後ろから追うそれは青年のものだ。この二人は、いずれも宿屋の連泊客だった。


 先行して暗闇を歩く少年――ローラントは、人気ない町の通りを、足早に進んでいく。

 しかし、自分が尾行されていることには、どうやら気付いていないように見えた。夜警以外の目的で、夜更けに戸外へ出歩く非常識な人間は、普通はいない。あるいは、それで警戒を怠っているのかもしれなかった。時折、背後を気にして振り返るような仕草もあるが、あくまで決まり事に従った動作以上には見えなかった。


 一方、その跡をつけていた青年――ヒューベルトは、己の気配を悟られぬように、細心の注意を払っていた。

 もし、ここで相手に尾行を看破されれば、すべての計画が破綻する。

 彼はヴィルフリートから、一戦力であると同時に、斥候としての役割を任ぜられていた。これまでの隠密捜査の経験を買われた恰好だった。


 今夜、月影の鐘が鳴る少し前に、ローテンベルガー公爵家配下の勢力は、ヘルネ北西の近郊に集結するという。

 その目印とされている場所は、「トカゲの塔」――

 先日、同様にヒューベルトがローラントを尾行した際にも、葡萄栽培を営んでいる農村の付近で見掛けた、古い石組みの櫓である。


 ひとまずヒューベルトは、間諜の少年を追跡しつつ、単独で先行して、目的地を目指すことになっている。そのあいだに、ヴィルフリートが別の場所で、護衛の兵士たちと落ち合う段取りだ。

 「トカゲの塔」に到着したあとは、建物の傍で身を隠しながら、味方が到着するまで密かに様子を窺う。実際に奇襲を仕掛ける前に、櫓の中へ入っていく人物に注意を払い、彼がある程度敵方の戦力を測っておくわけである。人数だけでなく、飛び道具の有無など、あらかじめ相手の武装が分かれば、それだけ計画成功の見込みも増す。


(――俺がしくじらなければ、必ず企ては達せられる)


 そういった経緯から、この若い騎士は大いに意気込んでいた。

 ローラントは、足早に町中を進んで行く。ただし、先日ヘルネの防壁の外へ出た際とは、たどる道が違っていた。

 町の内外をつなぐ門は、夜遅い時間帯だと封鎖されている。治安の観点から、人の出入りが禁じられているのだ。

 ただし、ヴィルフリートは、「トカゲの塔」に一番近いヘルネ北西の門を、夜間でも通行する手段を持っているという。実は、あの髭面の門番には、金品を渡してあり、いざというとき融通を利かせてもらう話が付いているのだそうだ。

 他方、ローラントは、どうやら異なる方法で町の外へ出るつもりらしい。それをたしかめることは、あくまで追跡の副産物だが、多少興味を刺激される部分だった。


 ローラントは、南地区ヨーゼフ通りを途中でいったん西地区方面へ左折し、細くて薄暗い道に入ると、またすぐ北へ向かって右折する。中央広場を迂回するように北地区へ入って、さらに歩き進んだ先にあったのは、神聖ザルヴァ教団の教会だった。

 この「自称・乾物商人の息子」が、ヘルネに逗留して以来、いつも朝の礼拝に訪れていたという建物だ。この町にある建築物としては、他の目立ったものより一回り大きい。現在の西方諸国で主流な、双塔バジリカ式で玄関西構えの教会である。


 教会の建物を裏手へ回ると、そこからヘルネ北側の外縁部に面して、墓地が広がっていた。

 ローラントは、そこへ躊躇なく立ち入っていく。

 さすがにあまり気乗りはしなかったが、ヒューベルトも仕方なくあとに続いた。

 静まり返った闇夜の墓場を、間諜の少年は慣れた様子で奥へ向かう。墓石のあいだをすり抜け、手近な樹木や茂みの物陰に隠れつつ追うと、やがてその先に暗い森があった。

 いよいよローラントは、墓地の敷地を外れ、木々の密集した空間へ踏み込んでいった。


(つくづく、森の中を歩くのが好きなやつだ)


 ヒューベルトは、前回の尾行を思い返しながら、内心毒づいた。


(そもそも一人で踏み入るのが大概だが、ましてやこんな月夜に……。どうも、好き好んで死霊に呪われたがっているようにしか思えん)


 とはいえ、ローラントの背中を見失うわけにもいかない。ヒューベルトは、慎重に彼我の距離を保ちつつ、気を引き締めて足取りをたどった。

 夜の森を、明かりもなしで歩くのは、目が暗闇に慣れても難しかった。

 さらに、用心しないと、地面の枯れ落ちた枝を、うっかり踏み鳴らしかねない。横に伸びた葉に外套が擦れても、気配を察知されかねない。森の奥へ入り込むほど、夜風は木々のあいだを潜り難くなり、些細な物音でも意識される。足場にも所々緩い起伏があり、神経を鋭く研ぎ澄ませて歩かねばならない。


 暗がりをしばらく歩くと、やや離れた左手の前方に、大きな黒い物体が見えてきた。

 それが何かは、ヒューベルトにもすぐにわかった。

 ヘルネの外縁部に建てられた防壁である。それが一塊の影のようにそそり立っているのだ。

 しかし、この森の中では、完全に連続した石積みとして立ち塞がっているのではなかった。

 ここは、町を囲う壁が途切れた場所だった。


(そうか! この森は、きっとヘルネが拓ける以前からあったものなのだ。それでさすがに、防壁もここまで巡らせることができなかったのだな)


 ヒューベルトは、意外な町の出口を理解し、かすかに感嘆に似た思いを抱いた。

 尚も樹木の密集した狭間を進むと、やがて開けた道が姿を現した。

 夜の暗い景色だが、ヒューベルトは見覚えのある場所だと感じた。

 少し考えて、ここは以前に「革鎧の男たち」――つまり、ヴィルフリートの護衛の兵士たちを見掛けた集落の傍だと、はっと気付いた。森を出た位置から北東と思しき方角に、ライ麦畑が広がっていたからだ。深い夜闇に染まって雰囲気は違うが、この景観を見紛うはずはない。


 もし最初から、ローラントを尾行することで、ここへ出ることがわかっていたとすれば、ヴィルフリートたちとの合流も、もっと異なる段取りがあったのではないか……

 ふと、ヒューベルトはそんな考えが浮かんだが、すぐに脳裏から追い出した。今となれば、詮無きことである。


 いずれにしろ、ここまでくれば「トカゲの塔」は遠くない。

 ローラントは、南西に伸びた坂道を、いったんヘルネ方面へ戻って上っていく。

 ヒューベルトもそれに倣って、追跡を続けた。

 途中の二又の道を、さらに南西方向へ進むと、再び分岐点が来る。

 そこの坂道を、やはり物陰に隠れつつ、北西に上ってウルム河岸寄りに歩けば、石造りの櫓が見えてくるのだ。


(ついに来たか……)


 ヒューベルトは、(たかぶ)る気持ちを抑えつつ、「トカゲの塔」を臨んだ手近な林に身を潜めた。

 櫓の南側に面した位置で、茂みや樹木の裏に屈む。この場所からであれば、建物の様子を監視しながら、坂道を上ってくる人影がないか、双方に注意を向けることができるのだ。多少、塔まで距離はあるが、そのぶん敵にも見付かり難く、安全に思われた。


 若い騎士に見守られながら、ローラントは「トカゲの塔」に歩み寄っていく。石造りの外壁に開いた縦長の入り口からは、内部の暗闇が覗くばかりで、扉などは据え付けられていない。

 ローラントは、建物の前でいったん立ち止まり、周囲を少し気にする素振りを見せてから、おもむろに中へ入って行った。

 ローラントより先に櫓へ入って、待っていた人間はいないのだろうか。途中の道では、少年が他の仲間と合流するような場面はなかった。また、建物の外側を見る限り、くつわの傍にも馬は見当たらない。少なくとも、これまでのところ徒歩以外の手段で、今夜この塔に近付いた人間はいないようだった。


(――灯りを使わないのは、やはり用心のためだろうか)


 ヒューベルトは、遠目に様子を窺いながら考えた。

 ローラントが「トカゲの塔」の中へ入ったあとも、建物の内側から光は一切漏れ出ていない。

 あくまで、敵はここで極秘に集結するつもりで、これもその意思の表れかもしれない。




 ……しかし、しばらく経って、ヒューベルトは徐々に違和感を覚えはじめた。


(おかしい。どうなっているのだ?)


 若い騎士は、戸惑い、疑念を深めた。


 ローラントの他に、敵が一人もやって来ないのだ。

 決して、見落としということはない。彼が身を隠した場所は、櫓の周囲を観察するのに、おそらくこれ以上ない位置である。


 元々「トカゲの塔」は、アステルライヒに現在の統治秩序が確立されるより以前の旧時代、ウルム河を行き来する舟を見張るために造られた建物だという。当時、この一帯をねぐらに定住していた土着の一族が、河川の通行料を取り立てるのが目的だったらしい。

 それゆえ、立地の北と西は、ウルム河を見下ろす断崖によって地面が途切れ、この櫓まで至るための方法もごく限られている。


 具体的には、ヒューベルトが見張っていた坂道をたどる以外だと、「魔法」のちからに頼りでもしない限り、ほとんど建物へ近付く手段はないはずなのだ。

 ところが、ローラントが櫓の中へ入って行ったあと、まるでそれに続く人影はない。

 ヒューベルトの心には、もはや不安や焦燥めいた感情が芽生えさえしていた。



 背後から忍び寄る気配を感じたのは、丁度そのときだった。

 土の露出した道を外れ、わざわざ茂みの中をこちらへ歩み寄る人影があったのだ。

 外套の上から、背中にベルトで両手剣を吊るした大柄な青年である。やや背中を丸め、頭部を低く落とした姿勢で、こちらへ物音を立てないように近付いてきた。

 傭兵クレイグこと、アステルライヒ第二王子ヴィルフリートである。

 当初の計画に従って、ヒューベルトとの合流を果たしたのだった。


「待たせたようだな、ヒューベルト。敵の様子はどうか」


 ヴィルフリートは、低く囁くように、声を掛けてきた。


「はっ……。殿下、実は――」


 ヒューベルトは、神妙な口調で、これまでの状況を説明した。

 その報告を伝え聞くと、ヴィルフリートは眉を(ひそ)め、やや厳しい面持ちを覗かせる。


「まさか、この奇襲が相手に気取られたのでしょうか」


「そうではない、と信じておきたいところだが……」


 ヴィルフリートは、「トカゲの塔」へ視線を投げ掛けつつ、少し言葉を濁した。若い騎士の懸念を、すっかり否定する術までは、彼も持ち合わせていないようだった。

 ヒューベルトは、不可解な展開に緊張感を強めながらも、ヴィルフリートの首尾を確認した。

 合流した味方の護衛――あの「革鎧の男たち」についてだ。


「ところで、他の兵士たちも、すでにここへ?」


「ああ。それぞれ個別の位置に就き、あの櫓を取り囲んで隠れている」


 ヴィルフリートは、浅く首肯してから、目と(あご)だけを動かし、隣の林を指し示した。

 そちらを見ると、なるほど茂みの影に、一瞬(うごめ)く人影のようなものが見えた。何しろ夜闇に紛れ、やや距離もあるので、はっきりとはわからないけれども、たしかに数人の兵士が身を潜めている気配が感じ取れた。

 敵に悟られ難いように、味方が少人数ずつに分かれ、「トカゲの塔」を包囲するという計画も、事前に伝えられていた通りだ。この場所には、ヒューベルトが先行して張り込んでいたので、ヴィルフリートは単独で合流したのだろう。


 ヒューベルトたちが、そうして事態の行方を測りかねているうち――

 にわかに遠方から金属を打つ音色が、夜空を渡って聞こえてきた。

 月影の鐘の音である。今、日付が変わったのだ。


「……どうやら、このまま茂みに隠れ続けていても、(らち)が明かないようだ」


 ヴィルフリートが、舌打ち交じりにつぶやいた。落ち着かない様子で、背中の両手剣の柄へ手を伸ばしている。


「せめて、あの櫓の中がどうなっているのか、それをたしかめられさえすれば。こちらもどう出るべきかの判断材料になるのだが」


 ヒューベルトは、「トカゲの塔」と第二王子の横顔を交互に見比べて、少し考え込んだ。

 あの石造り櫓は、それほど大きな建物ではない。たぶん、内部は円筒形の空間が一部屋と、階段を昇った上に見張り台があるだけで、簡単な構造だろう。

 本当に、あそこにはローラントがたった一人だけで、暗闇に息を潜めているのだろうか?

 もし、今夜はすでに他の仲間と合流する予定がないとすれば、それは何のためなのか……


「――殿下。ここは私が、あの建物の傍まで近付き、内部の様子を探って参りましょう」


 ヒューベルトは、決意して言った。

 幸いにして、ここから「トカゲの塔」側面まで、回り込むように林の一部が続いている。

 慎重に移動すれば、仮に建物の中に敵が居たとしても、何とか察知されずに接近できそうな見込みはありそうだった。


「やれそうか、ヒューベルト」


 ヴィルフリートは、暗がりで若い騎士を眼差し、唸るようにたずねる。

 表情を引き締め、ヒューベルトは請け合った。


「はい。どうぞお任せください」


「……わかった。だが、無茶はするなよ」


 ヴィルフリートは、やや渋い顔でうなずく。

 その上で、万一この偵察が敵方に悟られた場合、状況次第では周辺に伏せている味方に、「トカゲの塔」への一斉突撃を命じる考えを、第二王子は彼に伝えてきた。

 しかし、それがヴィルフリートの配慮であることは明らかだったので、ヒューベルトは遠回しに申し出を辞退した。


「殿下。いかなるときも、あくまで展開に応じた最善をお選びください」


 ヒューベルトは、それだけ告げると、ヴィルフリートの傍から離れた。

 暗い木々のあいだをすり抜け、目的の建物を目指して注意深く移動してゆく。

 少しずつ、ゆっくりと進むうち、櫓までの距離が、八〇オーデル、五〇、二〇……と、徐々に詰まってくる。

 ところが、それでも塔の内側から、人間が居る雰囲気は感じ取れない。

 明らかに奇妙だった。少なくとも、彼はローラントが「トカゲの塔」へ入っていくのは、その目で見たのである。あるいは、隠密行動を常とする人間だから、建物の中であっても極力気配を抑えているのかもしれない。

 だが、仲間との合流を待つあいだに、なぜその必要があるのか?


 様々な疑念を掻き立てられつつ、ヒューベルトは尚も櫓を目指して歩く。

 そして、ついに「トカゲの塔」の側面に到達した。

 暗闇に紛れながら、建物へ駆け寄って、石壁にぴたりと背を付ける。そのままの体勢で、櫓の壁に沿って横へ動いた。

 石積みの壁面にある、手近な小窓の傍に立つ。頭部一つがやっと入るぐらいの大きさで、正方形の覗き穴めいたものだ。


 ヒューベルトは、充分辺りに警戒しながら、静かに呼吸を整えた。

 そっと小窓へ顔を寄せて、薄暗い建物の内部を眼差す。



 そこに、人影らしきものは見当たらなかった。


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