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12:未来への選択

 傭兵のクレイグ――

 いや、アステルライヒ第二王子ヴィルフリートの声音には、独特の重厚さが備わっていた。

 年の差にして、たぶんヒューベルトは、この大柄な青年より二、三歳ほど年少でしかないように思われる。けれども、こうして対峙するヴィルフリートには、実年齢以上の威厳めいた雰囲気があり、やはりこの人物が特殊な生まれであることを信じさせるに充分だった。

 まるで、生まれながら戦場で一軍を率いる資質を持つ人間に感ぜられたのだ。


「ああ、やはり……!」


 ヒューベルトは、思わず感嘆が喉から漏れた。

 若い騎士は、興奮に突き動かされるまま、前へ進み出る。ヴィルフリートの傍に早足で近付くと、己の右手を左胸の上へ重ね、部屋の床に片膝ついた。


「これまでの無礼を御容赦ください、殿下」


 (こうべ)を垂れ、ヒューベルトはひたすら慇懃に言った。


「ご明察通り、私はゼントリンガー公ゲオルグ閣下に仕える騎士で、ヒューベルト・ハーニッシュと申します。此度(こたび)は公爵閣下より、ヴィルフリート殿下をお捜しし、我が主君の意向をお伝えせよとの密命を承って、不肖ながらこちらへ(まか)り越しました」


「礼はよい。まずは(おもて)を上げよ、ハーニッシュ」


 ヴィルフリートは、低いがよく通る声でうながす。

 その言葉に従って、若い騎士が顔を上げるのを見てから、第二王子は先を続けた。


「遠路ヘルネまで斯様(かよう)な騎士の務め、大儀である。私も故あってとはいえ、平民に身をやつして衆目を欺いていたために、そなたには要らぬ骨を折らせたようだ。許せ」


「もったいない御言葉、痛み入ります」


 第二王子に(ねぎら)われ、ヒューベルトはますます恐縮した。

 ヴィルフリートは、その返事に悠然とうなずく。


「それで、ゼントリンガー公からの言伝(ことづて)とは、どのようなものだ」


「はっ……」


 ヒューベルトは、短く返事すると、必死で緊張に耐えつつ、いよいよ本題に移った。


「公爵閣下は、我が国で次の玉座に最も相応しい御方こそ、他ならぬヴィルフリート殿下とお考えです。殿下がご自身の姿を、本来あるべきところへ御見せになり、遍く大陸に正しい秩序を示されねば、王国の未来に暗い影が差すと、憂慮なされておられます」


「だが、ローテンベルガー公爵家所縁の者は、良い心証を抱かぬだろう」


 ヴィルフリートは、冷静に言った。


「まして、私はこれまで野に身を隠し、王族としての責務にずっと背を向け続けてきた。そういう者が、兄の他界を契機に、いきなり王位を要求したとなれば、誰しも筋の通らぬ話とみるに違いない」


「しかし、ローテンベルガー公爵家の長子アルブレヒトさまは、まだ幼子にございます」


 ヒューベルトは、自分の喉の奥が、少し乾燥するのを感じながら、


「いたずらに若すぎる王を戴けば、必ずや臣下の中に隙を窺う者が現れ、(まつりごと)にも乱れが生じましょう。それはいずれ民草を苦しめ、引いては国を窮地に陥れかねません」


「私が王になったところで、やはり国は乱れるかもしれぬ」


 ヴィルフリートは、自嘲気味につぶやいた。


「ローテンベルガー公爵家と、縁の深い貴族は多い。今こうして私が世話になっている、レムシャイト伯爵家にしてもそうだ。私が後継者に名乗り出ると言えば、ルーファスがどのように申すか……」


「失礼ながら、殿下。ゼントリンガー公は、まさにルーファス卿に対して、もっとも大きな懸念を抱いてらっしゃいます」


 ヒューベルトは、真剣に訴えた。


「ルーファス卿は、殿下に無用の恩を押し付け、己の利得を保護せんとしているとしか思えません。仮に、このまま殿下が身を引けば、ローテンベルガー公爵家との縁故によって、かの伯爵は大きな恩恵を受けるでしょう。ですが、翻ってお考えください――殿下が王位に就いたとしても、やはり彼には義理を感じて、何か特別の引き立てをなさるのではありませんか」


 功臣の労に報いるのは、統治者として人事の当然である。

 けれども、ルーファスの信条と忠誠の所在は、明らかでない。

 いっそ、ヒューベルトには、第二王子殺害を企てる勢力の方が、まだしも明確な意思を持っているようにさえみえていた。


 判然としている事実関係の中から、唯一妥当性のありそうな理由は、ルーファス自身の利己心に依拠するものだけなのだ。

 しかし果たして、そのような動機から第二王子を匿っているのだとすれば、これはただ野心を満たすため、国益を生け贄に捧げ、道義にも反する行いにほかならないのである。


「……それが、そなたやゼントリンガー公の見立てか」


「左様にございます、殿下」


「レムシャイト伯とは手を切り、私に己の足で立てと?」


「殿下がご決意くださりさえすれば、微力ながらお手伝い致します」


 ヴィルフリートの確認を、ヒューベルトは力強く肯定した。

 若い騎士の答えを聞いて、第二王子はベッドに腰掛けたまま、おもむろに腕組みした。それから、一度大きく呼気を吐き出したあと、考え深げに瞑目する。

 室内を、深い静寂が満たしたまま、ゆっくりと時間が流れた。

 いや、実際のところ、ヴィルフリートがそうして思案に耽っていたのは、それほど長いことではなかった。だが、その張り詰めた沈黙は、自らの使命に重責を覚えていたヒューベルトにとって、永遠にも匹敵する数十秒をもたらしていたのだ。


「……父上は、権力にかかずらって、私がその腐臭に毒されるのを嫌ったのだ」


 ほどなく、ヴィルフリートが口を開いた。


「だが、もはや世に蔓延(はびこ)る悪徳から、目を逸らす時節は過ぎたのかもしれぬ」


「それでは、殿下――」


 ヒューベルトは、固唾を呑んで、第二王子の顔を見上げた。

 引き締まった面持ちの中に、ヴィルフリートは穏やかな微笑を湛えている。若い騎士の捜し求めていた王位継承者は、大きくうなずいてみせた。


「ゼントリンガー公の進言を容れよう、騎士ハーニッシュ。私のような、ただ運命から逃げ続けてきた臆病者の男を、いったい新たな王と認めてくれる民草がどれだけいるか、見当はつかぬがな」


 ヒューベルトの全身を、(いかずち)で打たれたような震えが走った。

 ついに、成し得た。

 ゼントリンガー公より下命された任務を、彼はやり遂げたのだ!

 込み上げる歓喜が胸を満たし、溢れ出る感情を()き止めるのに、ヒューベルトは苦心を強いられた。まさか、近い将来、次期国王の座に就こうという人物の前で、(むせ)び泣くわけにもいかぬ。

 ヒューベルトは、懸命に平静を取り繕いながら、感謝の意を示そうとした。


 しかし、そのときヴィルフリートが、彼に先んじて思いがけないことを告げてきた。



「……ところで、大事に取り掛かる前に、いずれにしろ片付けねばならぬことがある」


 やや不意を衝かれ、ヒューベルトは、咄嗟にヴィルフリートの意図を汲み取ることができなかった。自分の使命を達成したことで、すぐには異なる思考を巡らすまでに至らなかったのだ。もっとも、それは彼がこれまで抱えていた重圧からすれば、致し方ないだろう。

 ヴィルフリートは、それを察してか否か、言葉を続けた。


「そなたも、すでに気付いているかもしれぬことだが――私と部下の身辺を窺い、陰謀を働いている人間が、ごく近くに潜んでいる。それも、ゼントリンガー公のような志があってのものではなく、私を亡き者にせんと企てている勢力の手先だ」


 ヒューベルトはそれで、はっと我に返った。

 ようやく、ローラントのことだ、と理解した。

 ヴィルフリートは、己の命を狙う刺客の接近にも、やはり感づいていたのだ。


「それは――やはり、この宿に泊まっている乾物商人の少年でしょうか」


「そうだ。そなたも見抜いていたか、大したものだ。私のように部下を使って動いていたわけでもなかろう。よくぞ一人で、そこまで調べたものだ」


 ヒューベルトが控え目にたしかめると、ヴィルフリートは感心した様子で応じた。地道な捜査の成果を称えられ、下流貴族の彼としては、ただ恐縮するしかない。


「私の下で働いている者たちは、元々クロイツナッハ侯を介して集められた傭兵なのだ」


 ヴィルフリートは、どこか淡々として、


「実は、あのローラントという少年には、あえてこちらの動向を探らせていた。それで油断を誘って、逆に我々の側からも相手の出方を調べていたのだ」


 クロイツナッハ侯オルトウィーンが集めた傭兵!

 ヒューベルトは、軽い驚きこそあれ、ひどく得心させられた。


 千騎長オルトウィーンは、王国黒騎士団を率いる一方、しばしば戦場では選りすぐりの傭兵によって組織された部隊を用いることでも、よく知られていた。

 とりわけ近頃は、恐ろしく剣の腕が立つ人物が隊長の任に就くようになって、その精強さは対峙した敵軍にも大きな脅威として迎えられているのだとか。

 なるほど、たしかに素性を隠匿した第二王子の護衛任務となれば、黒騎士団の正規兵などより、傭兵の方が小回りも利き、信頼さえ置けるなら適任かもしれない。そもそも硬質の革鎧などは、いかにも傭兵や冒険者が好むいでたちだと、最初からわかっていたではないか……


「あの少年は、どうやらローテンベルガー公爵家の手の者らしい」


 ヴィルフリートは、少し声を潜めて言った。


「それで、調査にあたった部下の報告がたしかなら、いよいよ明後日にも目立った動きがある見込みだという。――この町の近郊に、ローテンベルガー公の協力者を集め、謀略を実行に移そうとしているようなのだ」


「まさか、明後日とは」


 ヒューベルトは、思わず唸った。随分、急な話だった。


「もしかすると、そなたと今夜のうちに、こうして話す機会を得られたのは、この際大きな僥倖(ぎょうこう)だったのかもしれぬ」


 にわかにヴィルフリートは、ヒューベルトの目を覗き込んできた。

 王族らしく、大柄な青年の双眸には、強く他者を惹き込むような力強さがある。


「我々も、敵の様子をただ漫然と見守っていただけではない。相手が集結しようとするところを逆手(さかて)に利用し、一挙に誅伐する用意を進めている」


「敵の数は、どの程度なのでしょうか」


 ヒューベルトは、事態の切迫を感じてたずねた。

 これまでローラントは、計画実行にあたって、ヴィルフリートの身辺をずっと偵察し続けてきている。つまり、敵方にはこちらの戦力が充分把握されているはずなのだ。

 それを思えば、相手が劣勢で戦いを仕掛けてくる可能性は低い。


「はっきりとはわからない。ただ、人数だけで言えば、おそらく我々の方が敵に勝るとは考え難いだろう」


 果たして、ヴィルフリートは厳しい顔つきで言った。


「しかし、私の護衛は、かのクロイツナッハ侯の下で働いてきた兵だ。彼らは雇われ兵といっても、幾多の死地を潜り抜けた精鋭ばかりだし、私を安易に裏切るような人間はいないと信じている。――それに、何より敵はまだ、我々が相手の意図を察知しているとも気付いていないはずだ。そこを突いて奇襲すれば、勝算は充分にある」


 ヴィルフリートは、むしろ好機は我が方にあり、と確信めいた口振りで強調した。

 その有様を、ヒューベルトはささやかに感じ入って見詰めていた。

 やはり、ヴィルフリートの語り口には、生まれながらの指揮官とでも言うべき、頼り甲斐が漂っている。従う者の不安を払拭し、士気を高揚させる雰囲気があるのだ。


「そうして敵勢を退けた後、町を出て王都へ向かおう」


 敵方に一撃加えておけば、仮にヘルネから離れたあとに、改めて追っ手が掛かるにしても、かなりの時間稼ぎになる。ヘルネから王都までの道程を妨げるには、間に合わないだろう。

 それが、ヴィルフリートの狙いなのだった。


「この戦い、そなたにも力を貸してもらえるか、ハーニッシュ」


 ヴィルフリートは、腰掛けていたベッドから、少し前に身を乗り出した。


「ゼントリンガー公の使者たる騎士を、このような面倒に巻き込むことは、私としても心苦しいのだが……。今は、一人でも味方が欲しいのだ」


 ヴィルフリートの誘いは、ヒューベルトの心は一際(ひときわ)揺れた。

 自分は、きっと運命に試されている、と若い騎士は直感的に思った。

 ゼントリンガー公から下命された任務には、すでに望んだ回答を得た。それだけでも、本来なら充分な成果だ。

 けれども、それが本当に評価されるのは、ヴィルフリートが実際王位に就いてからのことだろう。それ以前に、第二王子が敵の手にかかっては意味がない。

 だから、ヴィルフリートへの助力は、彼としても望むところである。


 それでいて、この難事を乗り越えたとすれば、その後どうなるか。

 ヒューベルトは、任務達成の実績のみならず、第二王子と共に戦った騎士として、より大きな名誉を手にすることになるだろう。

 たしかにヴィルフリートには、他にも護衛はいる。だが、彼らは皆、傭兵であり、この国を憂いて、第二王子に付き従っているわけではない。

 下流とはいえ、貴族の出自にあり、真に気高い動機からヴィルフリートを支えようとしているのは、彼を措いて今ほかにいないのだ。


 この試練を越えた先、その未来にあるのは――

 新王ヴィルフリートの苦境を救った、若き騎士ヒューベルト・ハーニッシュ!



「是非もありませぬ、殿下」


 ヒューベルトの答えは、すでに決まっていた。


「――我が一命に代えても」




     ○  ○  ○



 夜が更けて、ニーナはその日の代書作業に一区切り付けた。

 机の上の整理を済ませ、灯りの蝋燭を継ぎ足す。星見の鐘が鳴り終わる頃、彼女が予想していた通り、木製の扉を叩く音が聞こえた。

 出迎えると、若い騎士が部屋の前に立っていた。


 昨日の晩、ヒューベルトは、ニーナの取り成しでクレイグと密会したはずだった。

 代書人の少女は、おそらく彼がその顛末を、今夜のうちに伝えに来るだろうと憶測していたのだった。何しろ、日中は宿や酒場で見掛けても、秘密に進めていた話なので、互いに内容を確認できない。

 ただ、ヒューベルトにしろ、もう一方の当事者であるクレイグにしろ、ニーナは昼間に何度か姿を見掛けている。そのときの様子から、密談がまったくの不調だったいうことは、たぶんなさそうだという雰囲気を看取していた。

 そして、その推察が正しかったことを、彼女はすぐに知らされるのだった。


「君のおかげで、俺の使命もあと少しで達せられそうだ。礼を言いたい」


 ヒューベルトは、ニーナの部屋へ入ると、いつも通り勧められるまま椅子に腰掛けた。

 それから代書人の少女に、密会の一部始終を、順を追って説明した。もちろん、この件についても、あとからゼントリンガー公への報告書簡にまとめなければならないからだ。

 とはいえ、刺客の一団を奇襲する計画の実行日は、もう明日の深夜に迫っている。それゆえ書簡の発送は、計画の成功と失敗の如何(いかん)に関わらず、事後報告となるのが避けられない状況なのだが。


「……やはり、クレイグさんがヴィルフリート殿下だったんですね」


 ニーナは、一通りヒューベルトの話を聞き終えると、溜め息混じりに言った。


「でも、悪い方の想像も当たってるだなんて。これから、いったい何もかもどうなってしまうのかしら」


 彼女が「悪い想像」と表現したのは、無論ローラントの件である。

 ヒューベルトは、生真面目そうに応じた。


「あの少年については、俺も残念だ。――それに将来、ヴィルフリート殿下即位の後に、あるいは一時貴族同士の諍いがあるかもしれぬ。しかし、それさえ乗り越えれば、アステルライヒはより平和で美しい国に、生まれ変わるはずだ」


 明日、ヴィルフリートと共に、ローテンベルガー公爵家の兵を討てば、今後敵対勢力との衝突は避けられないだろう。おそらくは、正統な継承権を巡る、大規模な内乱に発展するかもしれない。

 ヒューベルトは、それを否定はしなかった。けれども、より先の未来に、彼はもっと優れた希望があること訴えようとしているのだった。


「少なくとも明日、敵方の陰謀を打ち砕いてしまえば、このヘルネはまた、これまで通りの長閑な町になるはずさ。何も変わらない日常が戻ってくる。この宿屋にも、君の周りの親しい人たちにも……」


 そこまで言って、ヒューベルトはいったん言葉を切った。

 ニーナは、少し戸惑って、目の前に座る若い騎士を見た。彼が不意に黙り込む理由を、咄嗟に把握できなかったからだ。

 ヒューベルトは、代書人の少女を真っ直ぐに見詰めていた。

 ニーナには、このあとの彼の言葉と、それまでの話題とに、何のつながりがあるのか理解するまで、少しの時間が必要だった。

 しかし、それはつまるところ、それぞれの未来についての問題だった。


「ニーナ。明日の戦いが終わったら、俺と共に王都へ来てもらえないか。その後、いずれはゴアルスハウゼンで暮らそう」


 ヒューベルトの申し出に、ニーナは驚き、戸惑った。


「……その、それはどういう意味で……」


「数日前だが、君には改めて相談したいことがあると言ったのを覚えているか」


「ええ、おっしゃられていました。けれど、あれは全てが達せられたら、という話ではありませんでしたか?」


「たしかに、まだ俺の任務は、完全には終わっていない。だから、多少順序は前後するが、この際はもう差し支えないだろう」


 ヒューベルトは、少し息を吸い込んでから、


「君のことは、今回の案件に関わってもらったときから、常々素晴らしい女性だと思ってきた。――読み書き計算に長じた教養。物事を鋭敏に洞察する聡明さ。それに、誰とも等しく接しようとする心の気高さ。ヘルネはいい町だが、やはり片田舎だ。君の能力を、ここに埋もれさせたままにしておくのは、もったいない……」


 ヒューベルトは、いつもよりやや饒舌になって、自分の想いを打ち明けてきた。

 しかしまだニーナは、いまひとつ要領を得ず、ただただ若い騎士の言葉に、耳を傾けるしかなかった。

 何しろ、彼女は非常に実際的な性格で、ヒューベルトの指摘通り、高い教養も犀利な頭脳も持ち合わせていたけれど、男女の心の機微には相当疎いのだった。日頃から、「男の子に生まれればよかった」などとばかり言っている少女なのだ。


「これからも君の才能を、この国の――いや、俺のために役立ててもらいたいのだ」


「それで、私にヘルネを出て、王都やゴアルスハウゼンに行くべきだと?」


「ああ、いや。だから、つまりだな……」


 ようやくヒューベルトは、普段は賢明なニーナにも、こういうことに関しては自分の意図が上手く伝わらないと、悟ったらしい。

 少し言葉を詰まらせたあと、改めて姿勢を正し、彼女に向き直った。ここまで会話の趣旨をずらされながら、それでも彼の目には、強い、熱っぽさが篭もっていた。



「――君には将来、俺の妻になって欲しいのだ。どうだろう、ニーナ」



 ヒューベルトは、今度は迂遠な言い回しを止めて告げた。

 率直に、求婚したのである。

 ニーナは、言葉を失って、呆然とした表情で固まった。たっぷり三つ数えるだけの間を挟んでから、瞳を何度か瞬かせたあと、ようやく口を開くことができた。


「そんなのいけません、私なんて。それに、無理です。その、私は――」


「平民だから、貴族とは釣り合わない、と?」


 ニーナは、慌ててうなずいた。

 いくら彼女の才知をヒューベルトが認めたところで、常識的に考えて貴族と平民の婚姻関係はありえない。


「それについては、俺に考えがある」


 ところが、ヒューベルトは思いがけない返答を用意していた。


「これは帝国自由都市での前例だが、近頃ある裕福な商人の娘が、地方貴族の子息と結婚したという。ただし、その娘は、婚姻関係成立の数週間ほど前から、すでに平民の身分ではなくなっていたのだ」


 歴代ノルトシュタイン帝国皇帝を輩出するヴァレンツォレルン公爵家は、この数年自由都市商人との結び付きを、急速に強めつつあった。本来身分違いである帝国貴族と商人の子の婚姻をうながすことも、そうした背景の一部分とみられていた。


 具体的な手続きとしては、例えば婚姻前に商人の娘を、いったん貴族の養女に迎えてしまうのである。当然普通は、平民の娘を引き取ることを望む物好きな貴族など、まず居るわけがない。だが、皇帝から直接の要請となれば、事情は自然と違う。

 これによって、帝国では身分差による婚姻問題を、解決した事例があるのだった。

 ヒューベルトは、この手段に倣おうと言うのだ。


「――ひょっとして、ヒューベルトさんは、いずれ殿下に私のことを……!?」


 はっとして、ニーナは思わず夏空色の瞳を見開いた。


「その通りだ」


 ヒューベルトは、彼女の想像を肯定する。


「幸運にして、俺たちはヴィルフリート殿下と顔見知りになれた。そして、遠からず殿下は、新たな王権継承者として名乗りを上げられる。その折には、一連の件の協力者として、君にも貴族の身分が下賜されるよう、俺から殿下に願い出るつもりだ」


 ニーナにとって、これはまったく思考の外にあった提案だった。

 いや、そもそも、ついほんの少し前まで、自分がヒューベルトから求婚されることになるとは、露ほどにも考えていなかったのだから、当たり前ではあるのだが……


「とはいえ、さすがに今即座に返事は難しかろう」


 ヒューベルトは、不思議とすっきりした面持ちで言った。


「王都までヴィルフリート殿下の供をするため、何日か後にはこの町を離れねばならぬから、それまでに答えを貰えればいい。……いや、たとえ、俺がゴアルスハウゼンまで帰り着いたあとでも、君が応じてくれさえするのなら、またヘルネまで迎えに来よう」


「まさか。私みたいな娘に、ご冗談が過ぎます」


「俺は本気だ、ニーナ。疑うようなら、今ここで(つるぎ)を捧げてもかまわない」


 ニーナは、いよいよ困惑し、何と言っていいのかわからなくなった。

 剣を捧げるというのは、「騎士の誓い」を立てることだ。

 生涯ただ一人、相手に己の名誉と生命を懸けて尽くすという宣誓――

 大陸西方の国々においては、およそこれより強い戒めとなって、貴族を縛る契約はない。

 だから大概、騎士の剣は、君主や貴婦人に対して捧げられるものだ。いくら、ヒューベルトが本当に将来ニーナを(めと)る心積もりにしろ、今は一介の平民の娘にすぎぬ彼女に対し、そのような誓いを立てるというのは、尋常なことではなかった。


「ニーナ。俺は、それだけ君に懸想(けそう)しているのだ」


 ヒューベルトの声は、どこか誇らしげだった。

 その目には、たしかな勇気のようなものが宿っているかにもみえる。


「できることなら、明日の奇襲で手柄を立てて、君からも慕われることのできる自分になりたい。今の俺は、心からそう思っている」



 ニーナは、やはり言葉に詰まったまま、うつむきがちに顔を伏せ、正面から視線を逸らさずにはいられなかった。

 彼女は、決してヒューベルトを嫌っているわけではない。半ば無理やりに、彼の任務に協力させられたことについても、いくらか不満は拭い去れないものの、そのぶん充分すぎるほどの対価を受け取っていた。この騎士は少なくとも、金払いの悪い客ではなかったのだから。

 ただし、結局それは、あくまで代書人と顧客としての関係である。


 今、ニーナがヒューベルトから寄せられているものは、異性としての熱心な好意だ。

 これは彼女にとって、どうしても苦悩せざるをえないことだった。


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