１１：王位を継ぐ者
新しい風精霊の日になった。
ニーナは、宿屋の受付仕事の合間に、雑貨屋へ出掛けて、注文しておいた「紙」を受け取った。たまたま、商業都市カーヴェンデルで雑貨を扱っていた東方商人が在庫を持ち合わせていたため、割合早く手に入れることができた。運が良かったのだ。
宿屋の下働きを日没過ぎまでに済ませ、酒場の厨房でまかないの夕食を済ませると、自室に戻って依頼の代筆に取り掛かった。
机の引き出しから、正式な書面を作る前に、別の羊皮紙で試した下書きを取り出す。
何しろ「紙」は貴重品だから、慎重を期さねばならない。下書きしてみた内容に、記入漏れの必要事項などはないか、ニーナは繰り返し丹念に確認した。
充分に推敲を重ねたあとで、ようやく羽根ペンを手に取る。
深呼吸して、居住まいを正してから、清書のために「紙」と向き合った。
一筆ずつ集中して、単語の綴りはもちろん、文字の大きさや行間にも細心の注意を払いつつ、ゆっくりと書き進めていく。いつもより、やや余計に時間を掛けて、ペンを運ぶ指を動かした。
しばらくして、「紙」の白い表面全体が、黒いインクの単語で埋められた。羊皮紙に下書きした内容と、寸分の違いもない。見た目にも、綺麗な筆記体で記入することができたように思う。
まだ、最初の一枚だけだが、ニーナにとって満足のいく仕上がりだ。この調子で、残りの書類も、ひとつずつ丁寧に書き上げていけばいい。
そうして、ニーナはいつものように、星見の鐘が鳴るまで作業を続けた。
一息付く頃合には、丁度申請書類も三枚目が完成した。
……彼女の部屋の扉を叩く音が聞こえたのは、丁度そのときだった。
来訪の時間帯から、自然と先日の出来事が想起された。
扉を開けて応じると、思った通りヒューベルトが立っていた。
「ひょっとして、仕事の邪魔をしてしまっただろうか」
「いいえ。今、丁度一区切りしたところですので、お気になさらないでください」
ニーナは、この密命を帯びた若い騎士を室内へ通すと、来客用の椅子を勧めた。
灯りの蝋燭をテーブルに運んでから、自分も彼の正面の席に着く。
ヒューベルトは、早速用件を切り出してきた。
「今回は、君に二つ頼み事がある」
「二つ、ですか」
ニーナは、探るように問い返した。
何となく、ヒューベルトの言い回しで、厄介な相談を持ち掛けられそうな直感が働いたからだ。すでに、第二王子に関わる秘密を打ち明けられただけでも、彼女としては充分に迷惑していた。この上、必要以上に深入りしたくない。
「そのように身構えられると、俺としても言い出し難いのだが」
ヒューベルトは、ニーナの反応を見て、苦笑した。
「ひとつは、新しい報告書簡の代書依頼だ」
「前回承った書簡は、ほんの二日前、広場の飛脚に渡したばかりですが」
ニーナは、思わず確認した。平民感覚からすれば、代書依頼の料金は安くない。同じ依頼主から、これほど短期間に、続けて書簡の代筆を発注されたのは、彼女も初めてのことだった。
「度々すまないが、ここ数日でまた重大な事実が発覚してな」
ヒューベルトは、順を追って説明した。
かねてから、彼がローラントの素性を疑っていたこと。他所の土地から葡萄農家を訪ねて、作物の買い付けを申し出た商人はいないらしいこと。町の郊外まで少年を尾行し、そこで目の当たりにした不審な光景……
そして、それらの事実から導き出した推論。
「まさか、ローラントさんが暗殺者かもしれないだなんて」
ニーナは、眉をひそめてみせ、
「とても、そんな人には見えませんけど」
「そう見えないから、怪しまれずに済むのだ。隠密任務を負った者には、そういうことが珍しくない」
ヒューベルトは、断定的に言った。
「君ほど聡い女性なら、理解できるだろう。――宿屋としては、あまり物騒な人間を滞在させていたことを、信じたくはないかもしれないが」
「……ええ、はい。何しろ、私が受付で対応したお客様ですから」
ニーナは、つと正面から視線を外し、不安げな口振りでつぶやいた。自分の右手を胸の前で、所在なさそうに握り締める。
ヒューベルトは、そうした彼女の仕草を、労わるような目で眼差した。
「気に病む必要はないさ。元々、ヘルネのように閑静な町に、これは似つかわしい事件ではないのだ。あの少年の正体を見破ることは、陰謀に詳しい人間でなければ、普通は無理だろう」
その若い騎士の言葉は、ニーナに対する気遣いから出ただけではなく、彼自身の実感に基づくものだそうだ。
一連の第二王子捜索に関係している人々は、誰もが巧みに素性を偽っている、とヒューベルトは言う。
クレイグやローラントは言うに及ばず、「革鎧の男たち」でさえ、町で注意深く聞き込みしていなければ、存在すら明らかにならなかったとみているようだった。
複数人で代わる代わるヘルネを巡回している「革鎧の男たち」は、町の住人の中にも明確な印象を抱いている者が少ない。
対照的に、単独行動で捜索していたヒューベルトは、早い段階で「余所者」と噂の種にされてしまったことを、実は密かに悔いていたらしかった。
「とはいえ、俺は本来騎士だからな。隠密捜査に多少稚拙な面がある点は、この際致し方なかろう」
ヒューベルトの口調は、半ばは自らに言い聞かせるようだった。
「もちろん自分の失敗を持ち出して、君と同じ傷を舐め合うつもりはない。だが、ある程度の割り切りは、何事にも必要だと思っている。……大切なのは、先を見て行動することだろう」
そこまで話すと、ほんの少しだけ、若い騎士は困ったような表情を覗かせた。つい教訓めいたことを口走って、恥じ入ったのかもしれない。
ヒューベルトは、仕切り直すように、いったん深呼吸を挟む。それから、おもむろに次の話題へ移ろうとした。
「もうひとつの用件だが、君から俺のことをクレイグ――つまり、ヴィルフリート殿下に取り成してもらいたいのだ」
「取り成す、というと？」
「なに、あまり難しく考える必要はない」
ヒューベルトは、ニーナを安心させるように、穏やかな表情を浮かべる。
「見たところ、君は日頃傭兵を装っているときの殿下と、割合に親密なようだ。そこで、君の方から殿下に、俺が密会を求めていると伝えて欲しいのさ」
「私が殿下に、ですか？」
「そうだ。……密会が実現すれば、俺はそこでゼントリンガー公から承った密命を打ち明け、殿下の次期国王即位を陳情させて頂く」
クレイグは、普段、宿屋や酒場でいかにも気さくな雰囲気を漂わせている。
しかし、ヒューベルトの観察では、さすがに第二王子だけあって、己の素性や立場も弁えていると看取できるらしい。よくよく周囲との会話の内容を窺っていると、一定のところから先には巧みに踏み込ませない様子があるのだそうだ。
特に、ヒューベルトやローラントに対しては、「黄昏の白馬」亭に連泊しはじめた当初から、明らかに距離を置こうとしているという。
きっと、ヴィルフリートは、それぞれ目的はまったく異なるにしろ、二人には何かしら裏があると踏んで、警戒しているのではないか。ヒューベルトのことは町中での噂を耳に入れていたかもしれないし、ローラントは日没後に宿を訪れた事実を訝しく感じていたとしても、おかしくはない――
ヒューベルトは、そういった考えを持っているのだった。
たしかに、ときどきクレイグには、対話相手を煙に巻くような言動がある。
それは、ニーナにもわかっていた。彼がナスターシャに告げた、この町に長期滞在する理由などは、まさしくそういう種類のものだろう。
三人の連泊客同士に、まるで親しくなる気配がないことも、常々察していた。
「ですが、唐突に私からお伝えして……その、殿下に応じて頂けるものでしょうか」
ニーナは、ちょっとだけ、言葉に閊えながら言った。
クレイグの顔を思い浮かべ、あの飄々とした傭兵を、どうしても「殿下」と呼ぶのに慣れなかったからだ。
「少なくとも、俺がいきなり殿下に話を持ち掛けるよりは、君に頼った方が見込みはあると思っている」
ヒューベルトは、明快に答えた。
当人同士で申し合わせもなく接触するのは、危険も大きいという。万一、ローラントのような人物に動向を気取られ、敵対勢力を刺激すると厄介だからだ。いったん、両者のあいだにニーナを立てて、確実に人目を避けられる場を持ちたいらしかった。
「そして、密会に際しての条件は、すべてヴィルフリート殿下のご要望に沿うと――そのように伝えて欲しい」
「……それは、さすがに危険ではありませんか」
ニーナは、改めてヒューベルトの表情を眼差し、やや戸惑いがちに訊いた。
この若い騎士は、密会の場所や時間はもちろん、付き添いの人間の有無まで、相手の指定する条件を残らず受け入れると言っているのだ。
たとえ彼の主君ゼントリンガー公が、第二王子の王座擁立を支持しているといっても、それを信用してくれるとは限らない。最悪の展開を想定するなら、たった一人で出向いた先で、罠に嵌められ、口封じに斬り殺されたとしても、ヒューベルトには何ら不平を申し立てる術はないのだった。
「無論、危険は承知の上さ」
ヒューベルトは、きっぱりと言った。その口調は、微塵の迷いも感じさせなかった。
「いずれ忠誠を誓う御方に対し、身命を懸けた礼を尽くさずに、どうして信頼を得ることがかなうものか。もし、それで果てるとすれば、すべては俺の至らなさだ」
ああ、これが騎士の精神か！――と、ニーナは、苦々しく悟った。
ヒューベルトの両目には、誇らしげな光にさえ宿っているかに見える。おそらく、彼はこの使命に、己の生死を超えた名誉の実在を、信じて疑っていないのだ。
「……でも、ヒューベルトさんの身に何かあったら、私はどうなるのでしょう」
ニーナは、ほんの少し考え込んでから、静かな口調で問うた。
「たぶん、御二方のあいだに入って橋渡ししたとなれば、クレイグさん――ヴィルフリート殿下は、きっと私も事情を知っているとお疑いになるのでは」
ヒューベルトは、「ニーナの身は自分が守る」と（彼女が協力者である限りにおいてだが）、つい先日請け合ったのである。その彼が先に死ねば、誰もこの代書人の少女を庇護する者はいなくなってしまう。
ニーナは、まさにその点を指摘したのだ。
「密会の件は改めようもないが、君との約束も決して反故にはするまい」
若い騎士は、僅かに目を細め、うなずきながら答えた。
「何より、無事にすべてが達せられたときには――君には、改めて相談したいことがあるのだ」
ニーナは結局、ヒューベルトからの依頼を、二件とも引き受けざるを得なかった。
いまや、一連の出来事に関して、彼女は必ずしも意思を自由に主張できる立場にない。
ヒューベルトからの相談を受けた翌日、ニーナは早速クレイグに密会の話を持ち掛ける機会を得た。
クレイグは、他の宿泊客より起床時間が遅い。そこで、ニーナは割り当てられた仕事へ入る直前に、客室から出てくるところを捕まえたのだ。
少しの間だけだが、正午の鐘が鳴る頃合に、宿屋の本館から人影がほとんどなくなるときがある。大抵の客は、すでに部屋を引き払っているか、酒場で食事を取っているからだ。
他人に聞かれたくない話をするには、かえって夜中などより都合がよかった。
彼女が廊下で呼び止めると、クレイグはまだ眠そうな目を瞬かせつつ、いつもの鷹揚な態度で返事した。
「――よう、ニーナ。こんなところで何の用だ」
「こんにちは、クレイグさん」
起き抜けの傭兵に向かって、ニーナはわざとらしく昼間の挨拶で応じた。
「実は、他のお客さんから、伝言を頼まれたの」
「……へぇ。俺に？」
クレイグは、意外そうに問い返してきたが、驚いた様子は表情に窺えなかった。
「半月ぐらい前から、この宿で逗留しているアルベルトさんからよ」
ニーナは、念のため、ヒューベルトの偽名を使って話を進めた。いったん、近くに他の人間の気配がないか、用心して周囲を軽く見回す。
「……その――アルベルトさんは、近々どこかで内密な話をしたいから、クレイグさんに時間を割いてもらいたいそうなのだけど」
クレイグは、やや猫背気味だった上半身を、すっと伸ばし、改めて彼女に向き直った。姿勢を正すと、やはりクレイグは肩幅も広く、大柄でがっしりとした体格だ。厚い胸板の前で、左右の太い腕を組み、どこか考え深げな面持ちになった。
「ほう。そいつは、面白い」
クレイグは、興味深げにつぶやく。
そうして、この傭兵を自称する大柄な青年は、密会にあたっての具体的な場所や日時を、ニーナに詳しく質問してきた。
代書人の少女は、伝言を預かった騎士の意向を、そのまま話した。
すべて要求された指示に従う、というヒューベルトの話を聞いて、このときクレイグはむしろいっそう真剣な目つきになった。それから、いくつかニーナと事務的なやり取りを重ね、ヒューベルトとの密談に際する条件を提示してきた。
クレイグの出した要求を、ニーナがヒューベルトに伝えたのは、その日の夜である。
密会場所と日時、それに付添人についての指示を伝え聞き、ヒューベルトはやや興奮気味に表情を輝かせた。
「――誠に、ヴィルフリート殿下はそのようにおっしゃったのか」
「はい。たしかに、はっきりと」
ニーナは、神妙にうなずいてみせた。
指定された密会場所は、この宿のクレイグの客室なのだった。日時は、三日後の星見の鐘が鳴る刻限。また先方は、互いに護衛の類は伴わないことを申し出たのである。
この条件が、ヒューベルトを昂らせたのも無理はないだろう。
クレイグの客室は、「黄昏の白馬」亭の中でも、他のそれより多少広い部屋だ。とはいえ、だからといって、何人もの人間が居合わせられるほどの余裕がある場所ではない。剣を抜いて斬り合うにも、狭くて不自由なはずだ。何より、声を荒げて騒ごうものなら、すぐにでも他の宿泊客の耳に届く。
これは何より、クレイグが穏便な対話を望んでおり、かつその意図に偽りがないことを示唆しているとみて、間違いない。
また、代書人の少女の安全を確保する面からいっても、この条件は望ましい。
仮に、もっと罠の恐れが強いと看取される密会場所を指定されていたら、ヒューベルトはニーナをヘルネの町から引き離す必要まで想定していた。最悪の場合でも、ゼントリンガー公爵領まで逃亡すれば、敵対勢力はいたずらに彼女へ危害を加えられない。
しかし、そのような懸念も、これで霧散した。
「さすが、誉れ高きラーヴェンスブルグ王家の血に連なる御方だ。俺の心を酌んでくださったか」
すでに我が意を得た、とヒューベルトは第二王子の説得に自信を深めていた。
○ ○ ○
時が巡り、やがて約束の夜が来た。
ヒューベルトは、星見の鐘が鳴るのを待ってから、自室を出た。ひっそりと静まった回廊状の廊下を、南側へ二つ隣の部屋まで歩く。
その前で立ち止まり、いったん呼吸を整えてから、若い騎士は右手の甲で軽く扉を叩いた。
「――開いてるぜ。早く入れよ」
客室の内側から、野太い声が聴こえてきた。
ヒューベルトは、うながされて蝶番を捻ると、意を決して室内へ踏み込んだ。身体を扉の隙間へ滑り込ませるようにして、極力音を立てずに入室する。部屋の中へ視線を向けたまま、後ろ手に背後の扉を閉めた。
「ニーナから聞いたぜ。なんでも、俺に用があるみたいだな」
声の主は、もちろんクレイグだ。
傭兵を自称する青年は、客室の奥に置かれたベッドに腰掛け、ヒューベルトに値踏みするような眼差しを向けていた。日頃と変わらぬ薄手の着衣を身につけ、楽な姿勢でくつろいでいる。それでいて、不思議な泰然とした雰囲気があり、居住まいに隙は見当たらなかった。
「……まず、初めに質問させて頂きたい」
ヒューベルトは、探るような口調でたずねた。
何はともあれ、クレイグの正体を確認せねばならない。目の前の傭兵が、アステルライヒ第二王子と同一人物であることには、ほぼ確信を得ている。
とはいえ、改めてそれを裏付ける証し立てが必要だった。
それで、あとはヴィルフリートの説得に専心できるのだ。
ところが、不意にクレイグは、意外な言葉を返してきた。
「ほう。この俺に何が訊きたいんだ、『ヒューベルト・ハーニッシュ』？」
ヒューベルトは、出鼻を挫かれ、一瞬二の句が継げなかった。
クレイグには、アルベルトという名が擬態であることを知られていたのだ。しかも、家名まで把握されている。いくらゼントリンガー公配下の騎士とはいえ、彼のような下級貴族の家柄まで調べが付いているというのは、いささか尋常ではない。
身体を硬直させたヒューベルトを見て、クレイグは口元に笑みを浮かべた。
「密かに俺も、部下におまえさんの身元を洗わせていたのさ。それほど驚くことでもあるまい」
あの「革鎧の男たち」のことか――
ヒューベルトは、動揺を気取られまいと、表面上は平静を装いつつ、察しを付けた。彼らは、ただ護衛で町に出入りしていただけではなかったらしい。
「――しかし、そうすると、やはり貴方は……」
ヒューベルトは、絞り出すような声でたずねる。
クレイグの顔つきが、すっと改まり、ベッドに腰掛けた身体の背筋が伸びた。射るような視線で、大柄な青年は若い騎士を見詰めてきた。
「アステルライヒ王たるラーヴェンスブルグ公フランツが子息、ヴィルフリート。それが、私の真の名だ」
