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10:陰謀の証左

 ヒューベルトにとって、第二王子との接触は、その任務の特殊さゆえ、いかなる失敗も許されない状況にあった。


 ヴィルフリートは、己の素性を隠して潜伏している。それは、はっきり自明だ。

 しかし、何者に身をやつしているかは、捜索当初ほとんど判然としていなかったのである。

 それでいて、第二王子の実在自体が機密事項なので、いたずらにたずね人の名を出すわけにもいかない。これと直感した人物を見出しても、気安く声を掛け、おいそれと任務の内容を明かすことはできなかった。

 もし、接触を試みた相手が、ヴィルフリートそのひとでなければ、自ら秘匿漏洩の手抜かりを犯すことになりかねないのだ。


 だから、ヒューベルトは、クレイグの身辺を洗い出すに当たり、彼にとって可能な限りの労力を費やした。慎重を期したのである。

 それだけに、鍛冶屋で得られた証言は大きかった。

 王家の紋章と銘、護衛と思しき一団の存在……。

 パウルの口から語られた情報は、ヒューベルトの推理に裏付けを与えてくれた。

 「革鎧の男が雑貨屋を訪れた」というニーナの話も、彼の確信をいっそう深めた。護衛の兵は書簡によって、定期連絡や活動資金の陳情を行っているはずだと、かねてから予想していたためだ。


 ――やはりクレイグは、第二王子ヴィルフリートなのだ。


 ヒューベルトは、この難しい任務に、大きなやり甲斐を感じていた。

 かつてゴアルスハウゼンで、ゼントリンガー公ゲオルグ当人に呼び出され、密命が下されたときの高揚を思い出す。

 その任務の重大さに、初めて聞かされたときは、我が耳を疑った。

 まさか、自分のような下流貴族を出自とする騎士に、一国の行方を左右しかねない責務が負わされるとは、夢想だにしないことだった。


 だが、驚きはすぐ、強烈な使命感と意気込みに変わった。

 これまで、目立つような役割を与えられてきたことはなかったが、ヒューベルトは彼なりに、地道な貢献を続けてきたつもりだった。ゼントリンガー公爵家のため、常に騎士としての研鑽(けんさん)を怠らなかった。

 きっと、その努力が認められたのだと思った。彼はまだ若い。逆説的に言えば、それだけ飛躍の余地があるのだ。ゲオルグ卿も、そこを買って、この役目を与えてくれたのではないか。

 たとえ華やかな立場になくとも、真摯な忠節を尽くすことで、それを正しく評価してくれる人は必ずいるのだ……


 ヒューベルトは、この大きな栄誉に浴し得るかもしれぬ好機を、決して逃すつもりはなかった。それが、結果的に公爵の恩義に報いることでもある。

 近い将来、ヴィルフリートの戴冠が成れば、その第一の功労者が彼と目されるようになるのは、間違いなかった。そうすれば、彼にも爵位や称号が下賜(かし)され、上流貴族への道が開かれる。



 また、ヒューベルトにとっては、この任務の中で、もうひとつの大きな幸運があった。


 それは、代書人のニーナとの出会いだ。


 ニーナは、その器量を、心から賛嘆すべき少女だった。

 容姿以上に、むしろその身に備えた才覚や人格において、特に彼を惹き付けずにはおかなかった。

 読み書き計算といった技能や、自分の仕事に対する誠実さ。

 加えて、どのような人物に対しても、決して道理を曲げずに、真っ直ぐ向き合おうとする気高さ。

 代書人の少女は、いつでもまぶしく、魅力的だった。

 ニーナと何度か会話の機会を持つにつれ、ヒューベルトは否応なく彼女に心奪われつつあることを、自覚せざるを得なかった。


 いや、もはやこの若い騎士は、自分がこの先、大望を遂げるには、ニーナの存在をなくしてはありえないとさえ考えていた。



     ○  ○  ○



 報告書簡の代書依頼を発注した数日後、ヒューベルトは朝食を済ませると、「葉の緑」広場の市場へ向かった。

 買い物の予定があるわけではない。通行人に紛れながら、それとなくあたりの気配を窺って歩いている。市場から北地区へ抜ける通りの付近を、特に注意を払いつつ、何度となく行き来していた。

 時折、露店の前で立ち止まって、見物でもしている風体を装ってみる。だが、彼の視線はそのあいだにも、まったく別の目的のために、行き交う人の波を抜け目なく観察していたのであった。


 しばらくあって――

 ヒューベルトは、己の視界の片隅に、密かに動向を探っている人物を発見した。

 青果商の露店の前を離れ、相手に気取られないように、一定の距離を保ったままで足取りを追う。


 彼が追跡しているのは、少年だった。

 やや青みがかった頭髪で、小柄な身体つき。オリーブ色の外套と、濃い灰色の衣服。紐付きのちいさな荷袋を、ひとつ背負っている。

 ローラントである。「黄昏の白馬」亭で、彼とまったく同じ日から、すでに二週間近くも連泊し続けている、自称「乾物商人の息子」。


 町中を歩くローラントからは、宿屋で見掛けるときのような、所在なさそうにした様子が感ぜられない。背筋はすっと伸び、両目は真っ直ぐ進行方向を見ている。周囲の通行人を避けつつ、道行く足運びはいかにも自然体だ。


 ローラントは、北地区の目抜き通りを進み、三番地の大きな十字路に至った。そこを左折し、木骨組の家が立ち並ぶ道へ入る。

 その先にあるのは、白ワインの醸造所や穀物倉だ。他方、十字路を直進すれば、ザルヴァ教団の教会があり、右折した先には仕立て屋や織物職工の店が軒を連ねているはずだった。

 ヒューベルトも、少年に倣って、同じ道へ入った。


 そこは、ヘルネの北西部である。

 先へ進むにつれ、徐々に路面は傾斜を帯び、上り坂になっていった。

 ローラントは、緩やかに町外れへ向かって曲がりながら続く道を、規則的な歩調で登って行く。その姿は、やはりここでもごく何でもない歩行者然として、町の雰囲気に溶け込んでいる。

 しかし、ヒューベルトには、もうこのとき、それが逆に作為的な立ち居振る舞いであるようにしか見えなかった。

 あたかも、かつてゴアルスハウゼンの芝居小屋で観劇した、無害な町民を演じる役者のそれのように。


(……そうだ。むしろ全部、芝居なのだろう)


 ヒューベルトは、いまやその疑心を強くしている。



 ローラントに対して、彼が不審の念を抱きはじめたのは、「黄昏の白馬」亭に連泊するようになってから、四日ほど経過した頃だ。

 当初は、自分が宿泊手続きをしたのと、同じ日から同じ宿で滞在している客が他に居ると知って、変わった偶然もあるものだと感じた程度だった。


 だが、同じ連泊客同士なのに、どうしても打ち解け難い、妙な距離感のようなものを覚える少年だとも思った。あとから考えると、あれは互いに秘密を抱えている人間同士が、間合いを測り合っていたために生まれる感覚だったのかもしれない。

 果たして、この少年はどういった人物なのか。やけに気に掛かった。

 それで、念のために町中で聞き込みするうち、まずはローラントが乾物商人の息子を名乗っていることがわかった。ヘルネ近郊の葡萄農家を訪ねに来たらしいとも判明し、なるほどといったんは納得した。


 けれども、そのあと、酒場で常連客から驚くべき話を聞かされた。

 ローラントが宿を初めて訪れたときのことだ。どうやらその日、少年が受付で宿泊手続きを済ませた時間帯は、もう夕暮れをずっと過ぎた夜だった、というのである。

 これは、西方諸国の旅人としては、かなり常識外れだ。

 いくらヘルネが長閑な片田舎といっても、少し町の外へ出れば、追い剥ぎや山賊、夜行性の魔物が跋扈(ばっこ)している。町の中であってさえ、暗くなれば夜警の任にある衛兵の目を逃れ、犯罪に手を染める物盗(ものと)り・悪漢の類は、珍しくなかった。

 無用の被害を予防するのであれば、陽が落ちる頃合になってまで、宿も取らずに歩き続けるということは、普通の旅人にはまずあり得ないのだ。


 しかも、ローラントは、一人旅であるらしい。

 これは、あまりに不自然だった。


(柔和そうな少年がたった一人で、アレンドルフから何事もなく、このヘルネまでたどり着けるものだろうか)


 ヒューベルトは、ローラントを尾行し続けながら、考えていた。

 王都ラーヴェンスブルグに近いアレンドルフは、ゴアルスハウゼンほどには遠くない。それでも街道沿いの都市をいくつか経由し、そのたび馬車を乗り換えるなどせねばならぬ。属している州も異なる。


(絶対にあり得ぬとは言えない。――ただし、あの少年が『見掛け通りの素性ではないとすれば』の話だが)


 それが、ヒューベルトの至った結論である。

 彼は、表層的な先入観だけで、他者を安易に値定めしない。

 だからこそ、少女ながら読み書きのできるニーナを、代書人として信頼し、高く評価した。彼女を、宿の下働き娘だからとか、平民だからといって、軽んじようと思わなかった。

 クレイグに目をつけ、その正体を訝しんだのも、上辺や肩書きに目を奪われない判断力があればこそだ。


 果たして、ローラントに対する疑心も、そうした観察眼から生まれた。

 いかにも無害と見える少年だからといって、ヒューベルトは気を許さなかった。

 むしろ、こうしてローラントの身辺を調べるほど、ますます警戒心を刺激された。この少年は、自分が柔弱と見えることを逆手に取って、周囲の油断を誘っているのではないか。そのように思われてならなかった。


 そう、例えば陰謀の手練手管(てれんてくだ)の一種で、あえて特定の仕事を、年端の行かぬ少年少女や見目の良い女性に委ねることは、珍しくない。



 ――間諜か、暗殺者の類か。



 ヘルネに第二王子があるとすれば、それは充分に見込みとして考えられた。

 ローラントは、まだ事実が世で明らかに知れ渡る前に、ヴィルフリートを亡きものにしようと、策動しているのではあるまいか。

 隠匿された後継者が戴冠するのを、秘密のうちに阻止せんとする人間から送り込まれた、その手先……

 あの少年は、そういった勢力の側に属しているのかもしれない。

 憶測が正しければ、ローラントは夜間に一人旅していたとしても、自分の身ひとつぐらいなら、ちゃんと守る術を持っているに違いなかった。


(敵対勢力とつながっているとすれば、その首謀者は何者か)


 ヒューベルトは、追跡中の少年から目を話すことなく、思考を続ける。


(もっとも有力なのは、もちろんローテンベルガー公爵家だ。次いで、それに所縁のありそうな貴族の家柄だが……。アステルライヒの混乱を望む、帝国をはじめとした他国の勢力もあり得る。いや、それだけではないか――)


 王位継承者が入れ替わることで、どのような利権の()()が移ろうのか、その全容を咄嗟に把握することは困難だ。

 そうして考えていくと、第二王子ヴィルフリートの敵対者は、決して少なくない。

 子息の将来を憂い、その実在を世に明かすまいとした現王フランツの心中も、推して知れるように思われた。



 上り坂を進んでいくと、白ワインの醸造所が見えてきた。

 石造りの立派な建築物である。平屋だが、地下には地上にある建物よりも大きな空間の倉が存在しているはずだった。そこで、樽に納められた大量の葡萄が、発酵のために寝かし付けられているのだ。


 ところが、ローラントの足は、醸造所の前まで来ても止まらなかった。

 建物の入り口を横目に通り過ぎ、さらに坂道を先へ上っていく。

 無論ヒューベルトも、少年を気取られないようにあとを追った。


 尚も歩き続け、ついにローラントはヘルネの外縁部に至った。

 帯のような石積みの外壁が、前方から迫り来る。

 古びた木造の門にたどり着くと、そのまま直進して、町の外へ出た。

 開放された門扉の脇には、槍を抱えた衛兵が番をしていたが、怪しむ様子もなく少年を通した。もうローラントがここを行き来するのは、何度となく見慣れているので、いちいち意に介していないのだろう。

 ヒューベルトは、ここでもすぐに少年に続こうとした。だが、この極秘な任務を負った青年については、衛兵は門の前で一声掛けて呼び止めてきた。


「おう、おまえは先日も来た旅の男だったか」


 衛兵は、陽気な四〇年輩と見える髭面の人物だった。

 ヒューベルトが、以前にも一度この門を潜ったことを、覚えているらしかった。

 あのときも、ローラントを尾行してのことだったのだが、衛兵には「ヘルネ近郊の農村に遠い身寄りがあって、所在を探している」と告げてあった。


「探してる親戚は、見付かったのか?」


 衛兵は、ヒューベルトの虚言を、今でも信じているようだった。いかにも、長閑な田舎の門番らしい。


「いいや。残念ながら、思うように(はかど)らなくてな」


 ヒューベルトは、いったん立ち止まって、衛兵に肩を竦めながら返事した。

 こうしている間にも、少し先行しているローラントとの距離が気掛かりだったが、慌てた素振りを見せて、怪しまれるのは余計に好ましくない。


「そうか。見付かるといいな」


「そう願いたいな。ありがとう」


 ヒューベルトは、形通りの挨拶をして、門から町の外へ出た。

 元々、外から入ってくる余所者の動向に比べると、内から出て行く人間のそれに対して、あまり番兵は関心を示さないものである。

 とはいえヒューベルトには、前回ここを通る際に、虚偽の事情を衛兵に説明しているうち、思いのほか時間を取られ、ローラントの姿を見失った経緯があった。

 今日は、同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。


 門の傍を離れたところで、ヒューベルトはやや早足になり、少年を追った。



 幸いにして、ローラントには、ほどなく追い付いた。

 だが、ヘルネから少し離れ、あたりを道行く人は極端に減っている。道路も町中と違って、黄色い土が露出し、舗装は施されていない。

 そこでヒューベルトは、道端へ逸れ、片側の林に入った。いささか歩き難いが、ここからは木々や茂みに紛れつつ、少年を追うことにしたのだった。


 少し先へ進むと、道の西側に面した林が開けてきた。ヒューベルトが身を隠しているのとは、反対側のそれだ。

 木々が開けた向こうには、遠目に大きな河の流れが見えた。

 ウルム河の支流である。ヘルネの西地区を横断し、緩い曲線を描きながら、その下流域がここに至っているのだ。


 さらに尾行を続けていくと、やがて道が二手に分かれた。

 一方はより高地へ上がる坂道で、もう一方は直進する平らな道だった。

 ローラントは、平らな道の方へ、迷わず真っ直ぐに歩いた。


(やはり、あの少年は、葡萄農家を訪れようとしているのではないな)


 ヒューベルトは、改めて推察を肯定された思いだった。


 実は、先日ローラントを追って、見失ったあと、ヒューベルトは坂道を選んで進んだことがあったのだ。

 そちらを上がった先には、ウルム河を見下ろす傾斜地がある。大きな葡萄畑が広がり、石組みの(やぐら)が建っていた。

 ここには、ヘルネに一番近い農村が形成されていて、醸造所に出荷するワイン向けの葡萄を栽培しているのだった。

 石組みの櫓は、地元の農民からは「トカゲの塔」と呼ばれている建物らしい。

 もっとも、塔とは名ばかりで、内部は狭く、背も低い、ちいさく古い石造建築なのだが。


 農村では、あの日、ローラントの足取りは掴めなかった。

 代わりにヒューベルトは、何件か主立った農家を直接訪ねて回り、聞き込みを試みた。

 表向きは、彼がヘルネの北門で衛兵に吐いた嘘をなぞり、自分の身寄りを探す素振りをみせながら、遠回しに別の情報を集めたのだ。

 それで、ヘルネ産の葡萄を褒め称えつつ、今年は地元業者以外で作物に買い手が付くようなことはなかったかをたずねた。

 農民たちは皆、この質問に首を横に振った。


 他所の土地から、葡萄の買い付けのために、このあたりの農村を訪ねてきた者は、誰もいないというのである。


(――ローラントは、まったく別の目的で、この周辺を散策しているのだ)


 ヒューベルトは、細心の注意を払いながら、樹木や茂みの物陰を伝うようにして、少年の追跡を続けた。


 またしばらく歩き続けると、再び分かれ道に差し掛かった。

 今度は、一方が北東方向へ下り坂になった道で、もう一方はやはりこのまま直進する平らな道だ。

 ローラントは、またしても平坦な道を選び、ヒューベルトもそれに続いた。


(いったい、どこへ行くつもりだ)


 ヒューベルトは、訝しみつつ、片時も少年から目を離すまいとしていた。

 周囲は、まだヘルネ近郊とはいえ、もう人の気配も薄くなっている。ローラントが選んだ道は、先へ進むほど狭まり、足元もごつごつとして、歩き難くなってきた。

 左右の道端に立つ木々は、徐々に深く茂り、頭上から無数の葉が鬱蒼(うっそう)とした影を落としていた。

 身を隠すには都合がいいものの、ますますローラントの目的地は判然としない。

 そのうち、道はすっかり群生する木々に呑まれ、森の中に入っていった。


(まさか、妖魔の類に出くわしはするまいな)


 ヒューベルトは念のため、警戒して、腰から吊るした長剣の柄を手で探った。

 しかし、それほど森は広くなかったらしい。そのまま樹木の狭間を歩いていくと、少し経って不意に、行く手の先で光が見えた。

 この向こうに、開けた空間があるようだった。


(――なんだ、ここは……?)


 森を抜けたところにあったのは、ちいさな草むらだった。

 これといって特徴的なものは、取り立てて何も見当たらない。

 強いて言えば、土地の東に臨んだ景観には、遥か遠方の山々が青白く霞んで、見事な稜線を描いている。たぶん、そちらは下り斜面か、崖になっているのだろう。そこだけ遠景が、樹木によって見通しを遮られていなかった。

 ローラントは、その草むらを、まさに東側の奥へ歩み寄っていく。


(こんな場所で、何をするつもりだ)


 ヒューベルトは、いまだ森の茂みに身を隠したまま、少年の所作を注視していた。

 ローラントは、ひときわ小高くなった位置まで来ると、そこで身を屈め、背中から荷袋を下ろした。丈の低い草の中に、半身埋もれるような姿勢になって、ごそごそと手元を動かしている。袋の中から、荷か取り出したようだった。

 ヒューベルトは、ローラントの目的を把握しかねて、少し苛々(いらいら)した。

 けれども、ほどなく少年が顔を上げ、その手にしていたものを見て取ると、思わず、あっ、と声を上げそうになるのを、咄嗟に自制せねばならなかった。

 ローラントは、両手に細長い、円筒形の道具を持っていたのだ。


(あれは、『望遠鏡』だ)


 ヒューベルトは、息を呑んだ。

 望遠鏡は、遠めがねとも呼ばれる発明で、ノルトシュタイン帝国の眼鏡職工が考案したと言われている。円筒に取り付けた二枚のレンズを覗くことで、あの道具は遠い場所にあるものを見ることができるのだ。

 遠洋航海や地図測量、戦場での索敵など、いまやその用途は多岐に渡っていた。

 だが、旅の乾物商人が持つ道具とは思えない。


 ローラントは、おもむろに望遠鏡を、水平に顔の高さまで持ち上げると、円筒の底の一方を右目に当てた。


(何を見ているのか……。まさか、葡萄畑の視察ではあるまい)


 ヒューベルトは、少年の様子を窺いつつ、思考を巡らせていた。

 この付近にある葡萄畑は、こことは高地の反対側に面している。

 それに、ローラントがこれまで主張してきた通り、農家との買い付けが目的でそれを眺めているのだとすれば、何もこんな草むらから、こそこそと望遠鏡で覗く必要はない。


 それから、ローラントは、しばしば何度か円筒形の道具の向きを変え、レンズのずっと先にあるものを観察しているようだった。

 すでに陽は南中し、空は澄み渡って高い。少し前に、ヘルネの町のある方角から、ここまで微かに鐘の音が聴こえてきた気がした。あれは、おそらく北地区の教会で鳴らされた、正午のそれだ。


 ヒューベルトは、じっと息を殺して見守っていたが、ついにローラントが草むらから立ち上がった。

 少年は、望遠鏡を荷物の中にしまい込むと、来た道を引き返しはじめる。

 ヒューベルトは、茂みの物陰で、身じろぎもせずに、そのままやり過ごそうとした。

 ローラントは、樹木の脇に隠れた人影に、これといって気付いた素振りも見せず、悠然とした足取りで歩いていく。

 そうして、少年が町の方へ戻っていくのを、その場で待って見届けた。



(――どうやら行ったようだな。さて……)


 ヒューベルトは、ローラントの後ろ姿が遠ざかったのをたしかめると、ようやく茂みの中から姿を現した。

 少年の立ち去った方向に一瞥くれたあと、若い騎士は入れ替わりで草むらへ立ち入った。先ほど、ローラントが望遠鏡を構えていた位置を探す。

 周囲の草の状態や、地面の足跡を見て、それと思しき場所はすぐに見当が付いた。

 草むらの東端は、やはり切り立った崖になっていた。

 見晴らし良く、高地からずっと遠くの景色が見渡せた。


(しかし、まさか山の風景を眺めていたわけではなかろう)


 ヒューベルトは、ローラントに倣って、草むらで身を屈めてみた。もっとも、望遠鏡は持ち合わせていないので、ここから少年が何を見ていたのかは、遠目に見えるものだけで推測するしかない。

 視線の高さを下げると、視野に入ってくるものは、眼下に広がる土地だった。

 ヘルネの豊かな自然と、それに囲まれた小さな集落がある。ライ麦畑や牧場が視認できた。(まば)らだが、住居らしき木造の小屋も、いくつか見えた。

 だが、その雄大な光景に、ふとヒューベルトは既視感を覚えた。


(……待て。これは、ひょっとすると――)


 ヒューベルトは、ある閃きを感じて立ち上がり、慌てて草むらから、元来た道へと取って返した。

 (はや)る気持ちを抑えつつ、下り坂と分岐する地点まで戻る。

 途中、ローラントの姿は、もう見当たらなかった。用件を済ませたあとは、来たときと同じように、寄り道などせず町へ戻ったらしい。

 ヒューベルトは、今度は分かれ道を、北東方面の低地側へ向かって進んだ。

 斜面を下り、一人で黙々と道を歩く。


(この先には、いましがた上から見た場所があるはずだ)


 ヒューベルトは、周囲の景色を、きょろきょろと何度も見回した。

 自分の脳裏にある記憶と、今ここで目にしている場所の特徴を、懸命に照らし合わせているのだった。


 やがて、道の右手にライ麦畑が広がりはじめる。

 それを横目に進んでいくと、少し離れたところに、古びた二棟の建築物が見えてきた。いずれも木造だが、細長く、簡素な佇まいの一方は、馬小屋である。町中で見掛ける木骨組のものなどに比べると、ずっと粗末な外観だ。長年風雨に曝されてきたためか、壁には薄黒い染みが目立つ。


 ヒューベルトは、その建物を見て取ると、はっとして、また道から外れ、近くの茂みに身を隠した。手頃な樹木の物陰に入り、そこから顔だけ出して、建物の方を窺う。


(やはりそうだ。俺は、この場所を知っている)


 ヒューベルトは、たしかな手応えを感じていた。

 彼は、つい最近、この農村を別の機会に調査したことがあった。

 高地から見下ろしたときは、遠目だったし、以前にここを訪れた際と、全く違う角度からあたり全体を眺望したせいで、それと理解するのに一瞬考え込んだ。

 だが、実際にこの場所まで下りてきて、見知った建物を間近に見れば、明らかにわかる。


 ヒューベルトは、少しのあいだ、そこでまた張り込み、建物の中から人が出てくるのを待った。彼の記憶と考察が正しければ、この粗末な木造建築は、しかしただの打ち捨てられた廃屋などではない……



 ややあって、彼の見立ては証明された。

 おもむろに建物の入り口の扉が、内側から開いたのだ。


 そこから姿を現したのは、外套の下に「硬質の革鎧を着た男」だった。



(ああ、思った通りだ――ここに、間違いなかったのだ!)


 ヒューベルトは、予想通りの事実を目の当たりにし、今一度考えを整理しようとした。自然と興奮気味だったので、心を落ち着けるには苦心した。


 ここは、あの「革鎧の男たち」の隠れ家なのだ。

 ヒューベルトは、これまでヘルネで第二王子の捜索を続けてきて、彼らが近郊の農村部に潜伏していることを突き止めていた。



 他方、ローラントが高地から望遠鏡で観察していたのも、この古びた建物だったに違いない。

 きっと、ヒューベルトの憶測は正しくて、あの少年はヴィルフリートと敵対する勢力の手先なのだろう。少なくとも、身辺を調査している間諜などの類で、最悪の仮定としては暗殺者だ。

 ローラントは、ヘルネで第二王子を発見するや、接近を試みた。本来なら、もっと親しげな関係を築いて相手を油断させるか、あるいはただちに殺害してしまおうとさえ、予定していたかもしれない。


 けれども、町中には常時何名か、交代で「革鎧の男」が入り込んでいて、遠巻きにヴィルフリートの身辺を警戒していた。

 ローラントは、それをすぐさま敏感に察知し、計画に修正を余儀なくされたのではあるまいか。

 仕方なく、「黄昏の白馬」亭に連泊し、第二王子を付かず離れず監視する一方、護衛の動向を窺うことにした。護衛が町中に滞在し続ける不都合にも、隠密任務の経験から即座に思い至った。それで、近郊の農村まで出向いても怪しまれ難い口実を作るため、乾物商人の息子を装い、「葡萄の買い付けでヘルネを訪れた」と偽った。

 経過報告は、自ら書簡にしたため、彼の主人(それが何者なのかは知れないが)に連絡していたのだろう。商人なら、読み書きに達者で、遠隔地へ商業通信を発送したとしても、怪しい印象はひとつもない。



 ――「革鎧の男」の一人が、建物の傍を離れ、目の前の道をヘルネ方面へ向かって歩き出した。ライ麦畑の脇を通り過ぎ、すぐに外套に覆われた背中はちいさくなった。

 ヒューベルトの存在には、まるで気付いた様子はなかった。

 たぶん、町で現在任務に当たっている仲間と、交代する時間になったのかもしれない。まさかヒューベルトやローラントに、拠点としている潜伏先まで目星を付けられているとは、想定外なのだろう。


 無論、だからといって、ここでおもむろにヒューベルトが名乗り出て、敵対勢力の密偵があることを、彼らに早速忠告するわけにもいかないが。

 このあと、協力関係を結ぶ段取りになるとしても、まずはヴィルフリートと接触する方が先である。第二王子からの紹介がなければ、「革鎧の男たち」もヒューベルトの素性を、容易には信用するまい。


(いずれにしろ、これで謎は一通り解けた)


 ヒューベルトは、いよいよ己に課せられた密命も、あともう少しで達せられるときが来たのだと思った。


 このたしかな陰謀の証左によって、必ずやヴィルフリートの説得を成さねばならぬ。

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