9:表と裏と
ところでニーナは、ヒューベルトとのやり取りの中から、これまで疑問を抱いていた点に、いくつか彼女なりの回答を得た思いだった。
まずは、かつてナスターシャから聞かされた、旅人の噂についてだ。
あの旅人は、やはりきっとヒューベルトだったのだろう。
町長であるネッカーの家を探っていたのも、ルーファスとの接点を疑っていたからではあるまいか。
例えば、「市参議会の重役と、郡部統治者のあいだには、第二王子がこの町で潜伏することに関わる、何らかの取り成しがあるかもしれない」……
ヒューベルトが、そのような疑念を抱いていたとしても、不思議ではなかった。
だから、先日の「葉の緑」広場でも、ヒューベルトは物陰から、ルーファスと町長の動向を追っていた。そのために、ニーナが市場で起こした騒ぎと、あのとき彼も遭遇したのだ。
因果なもので、あの光景を見たヒューベルトは、ニーナがルーファスに対し、強い悪感情を抱いているものと思い込んだらしい。
さらに前後して、彼女の代書人としての仕事ぶり――特に、高い守秘意識について――を、町の噂で耳にした。
それでヒューベルトは、口が堅く、通信書簡も書けるニーナを、第二王子の捜索任務において、打ってつけの協力者だと判断したに違いない。
次いで、神聖ザルヴァ教団の教会にしても、ヴィルフリートの潜伏先のひとつとして疑いを持ったために、辺りの様子を窺っていたとすれば、得心がいく。
ヘルネを訪れた当初、ヒューベルトは「鐘を鳴らす天使」亭に宿泊した。
第二王子が身を隠すのであれば、やはりまず高級宿屋を捜すべきだと考えたからであろう。ところが、いざ調べてみると、完全に当てが外れた。
そこで目を付けたのが、北地区の教会だった。
何しろ、第二王子に関する情報の自体が、ザルヴァ教団内部の司祭を出所としているというのだ。
実は、同じ教団に属する別の人間が、そもそも第二王子の潜伏に助力しているのではないか――ヒューベルトが、そういった疑念を抱いたというのは、いかにもあり得る。
すなわち、ゼントリンガー公爵にもたらされた情報は、教団の反対勢力による一種の内部告発だったという考察だ。あるいは、その裏付けを、どこかであらかじめ得ていたかもしれぬ。
そうした憶測を元に、ヴィルフリートの潜伏先の候補として、ヒューベルトはヘルネの教会に探りを入れていたのではなかろうか。
……それにしても、危険な橋を渡ったものだ。
近年の西方諸国では、「教会泥棒」と呼ばれる悪党がしばしば取り沙汰されている。都市部の教会に保管された、貴重な書物や祭具の類を狙って犯罪を働く、文字通り神をも恐れぬ盗賊の一団だ。
万が一、教会周辺を徘徊している姿を、そうした不穏分子と誤解されていたとしたら、ヒューベルトには悲劇的な末路が待っていたことだろう。
捕縛された教会泥棒は、町の司法の手を離れ、教会権力によって直々に宗教裁判に掛けられる。そして、多くは陰惨な拷問の末、極刑に処されるのだから……。
○ ○ ○
「とにかく、ヴィルフリート殿下の身柄は、何としても保護せねばならん。このまま、ルーファスの息が掛かった土地でお隠れになるのは、泥舟で河を下ろうとするようなものだ」
ヒューベルトは、気を引き締め直すように言った。
星見の鐘が鳴ってから、しばらく時間が経つ。夜の静けさは、いっそう深まり、部屋の中でも少し肌寒くなってきた。
ニーナは、いったん席を離れて、壁際に設えられた棚に歩み寄った。燭台の灯りが心許なくなってきたので、換えの蝋燭を取りに立ったのだ。
「あの、念のため、いまいちど伺いますが……本当に殿下は、ヘルネのような田舎町に身を伏せてらっしゃるのでしょうか?」
新しい蝋燭を持って戻ると、ニーナは燭台の火をその先端に移す。それを真鍮の皿の上に立ててから、自分の椅子に腰掛け直した。
「少なくとも、伯爵の城には、殿下を匿う適当な場所があるまい」
ヒューベルトは、ニーナの動作を目で追いながら答えた。
ルーファスの居城には、伯爵に仕える者以外にも、しばしば執務の都合上、国内外の要人が出入りする機会も多いはずだ。殊更そのような場所にヴィルフリートを住まわせ、秘匿の漏洩を恐れるのは馬鹿げている。
魔法のちからを借りれば、あるいは徹底して人目を避けることが可能かもしれない。
だが、いたずらに異能を用いて策謀すれば、やはりそれが明るみに出たとき、世間の心証はルーファスに味方しないであろう。
「――それに、実を言えばもう、俺はヴィルフリート殿下が、この町に居られるという確信を得ているのだ」
不意にヒューベルトは、ほとんど断定的に言った。
「もっと言えば、すでに捜索任務自体は、終了したと考えている」
「……それは、どういうことでしょうか」
これについては、ニーナも詳しく確認を求めねばならなかった。
ヒューベルトは、大きく息を吸い込んでから、改めて彼女の瞳を眼差した。
「この宿に、クレイグという逗留客が居るだろう。ほぼ間違いなく、彼がアステルライヒ第二王子ヴィルフリート殿下そのひとだ」
ニーナは、一拍置いて、瞳を数回瞬かせてみせた。ゆっくりと、意外そうな声を出して、ヒューベルトに問い返す。
「えっと、クレイグさんが――ですか?」
「そうだ。それとしか考えられない証拠が、いくつもある」
ヒューベルトは、順番に説明しはじめた。これまで、町中で密かに聞き込みを続けるなどして、彼が独自に情報を整理した成果らしい。
まずは、「黄昏の白馬」亭の連泊期間について。
クレイグが長期逗留を開始した時期から、なぜかルーファスは頻繁にこの町を訪れるようになっている。
仮にヴィルフリートとクレイグが同一人物だとするなら、当然ルーファスとの接点があるはずなのだ。それゆえ、この符合は注目に値するという。
「ゴブリン退治の仕事を請けるためにヘルネへ来た」というのも、ヒューベルトは信用していないらしい。あくまで、擬態に真実味を与えるための口実ではないのか、と考えているようだった。
高級宿屋である「鐘を鳴らす天使」亭ではなく、安宿の「黄昏の白馬」亭を滞在場所に選んだことも、身分を偽るためだろうと見ているのだった。
次に、クレイグ本人の特徴について。
剣一本を頼りに生きる傭兵なのに、文字の読み書きが達者だというのは、いかにも怪しい。これは、少年期以前に、何らかの教育を受ける機会があったとしか思えないというのである。
他にも、一見粗野であるかに感じられるが、そこはかとなく紳士的な所作が言動に垣間見えるときがあり、それでいて隙がない。生まれながら支配階級にある人間特有の、不思議な存在感すら漂っている――ヒューベルトは、そう主張する。
なるほど、たしかにニーナも、クレイグには日頃から、身に纏った独特の雰囲気があることは認めねばならない。
しかし、代書人の少女は念のため、いったん反論してみせた。
「クレイグさんが第二王子だなんて、ちょっと信じられませんけど」
ニーナは、何となく居心地悪く感じて、少し身を揺らしながら、
「ええと。王家に連なるような貴族の方は、どなたもクレイグさんみたいに、妖魔の群れを一人で倒せるほど、お強いものなのでしょうか?」
「その点について、俺は二通りの見込みがあり得ると思っている」
ヒューベルトは、片手を軽く下顎のあたりに添え、考え深げに言った。
「ひとつは、そのままヴィルフリート殿下が、勇猛な剣士であるという場合だ。たしかにアステルライヒの貴族には、そういった武将がしばしば居る」
第一王子ヴィルヘルムも、文武に優れた将官だった。ハーナウで戦没したとはいえ、剣の腕は凡庸な騎士を凌ぐものがあったとされる。
また、アステルライヒ王国黒騎士団が誇る千騎長たち――「神槍の黒騎士」の異名を取るオルトウィーンや、「隼」のエルハルトなどは、爵位を持つ貴族であると同時に、文字通り一騎当千の戦士だ。
「だが、俺はもうひとつの異なる答えが、あのゴブリン退治においては真実なのではないかと確信しているのだ」
ニーナは、無言でヒューベルトを見て、先をうながした。
ちょっと秘密めいた言い方になって、ヒューベルトは続けた。
「ニーナ。君は、本当に『ゴブリンのねぐらは、たった一人の傭兵の手によって壊滅した』と信じているか?」
「――それは……」
ニーナが少し言葉に詰まった素振りをみせると、ヒューベルトは重ねて続ける。
「町で聞いた話によると、妖魔の群れが壊滅したのは間違いない。しかし、誰も傭兵のクレイグがゴブリンを皆殺しにした場面を、直接に見てもいない――あくまで、一五匹のゴブリンの死骸をあとから確認して、誰もがそう思い込んでいるだけなのだ」
ヒューベルトは、テーブルの上で拳を握り、自分の言葉にちからを込める。
――状況証拠を利用した詭計。
クレイグは、身の上を偽るため、己が「腕利きの傭兵」を演じる材料を、それによって作り出したのではないか。
また、ヒューベルトは、そこから更なる推論を広げてみせた。
腕利きの傭兵として、周囲への印象付けが浸透すれば、「過去に戦場で手柄を立てて、多大な報奨金を所持している」という言い分にも、真実味が増す。
働きもせず、宿で長期逗留していても、王家から渡っているのであろう資金の出所を欺くには、好都合だというのだ。
「よく考えてみてもらいたいが、果たして多額の報奨金を得るほどの武功を成した人物が、軍籍を離れ、ヘルネで冒険者紛いの依頼を請ける理由は何だ?」
ヒューベルトの問い掛けは、たしかに尤もだった。
戦場での功績には、普通金貨と共に、武勲と見合った処遇が与えられる。
アステルライヒであれば、出自が貴族でなければ、騎兵部隊の指揮官格を任ぜられることは、ありえない。しかし、平民でも傭兵部隊の隊長に任ぜられることなどは、充分考え得るはずだった。
この田舎町で、取るに足りないゴブリン退治にかかずらう価値が、戦場から遠ざかる以上に大きいとは、普通誰しも考えないだろう。
クレイグは若く、隠居を決め込むような老齢の剣士ではないのだ。
「……ですが、そのお話が事実だとすれば」
ニーナは、さらに食い下がって、
「クレイグさんには、共にゴブリン退治で戦った、協力者が居たことになりますよね?」
「当然、そういうことになる」
ヒューベルトは、力強くうなずいた。
「その協力者の存在についても、俺は概ね目星を付けている。いや、むしろそれを明らかにした事実の中にこそ、動かぬ証拠があったのだ。――ヴィルフリート殿下が現在、この町でクレイグなる傭兵に身をやつしているという、そのたしかな裏付けが」
ニーナは、再び黙って、目の前の若い騎士に先をうながす。
ここでヒューベルトは、にわかに予期せぬ話題を切り出してきた。
「君も、この町の西三番通りにある、クビツェク鍛冶店という工房は知っているだろう」
「――はい。たしかに、存じていますけど……」
ニーナは、ヒューベルトの口から、思い掛けない店の名前を聞かされて、びっくりした。
先日、ナスターシャに連れられて訪れた、河沿いの鍛冶屋を思い出す。あの店で、彼女は見習い職工のパウルから、独立開業の話を聞かされ、その書類作成依頼を請けたのだ。
あれから雑貨屋では、代書業務に必要な「紙」が、幸いにして一週間程度で入荷を手配してもらえる目処が立った。パウルには、少し待たせてしまうことになったものの、おかげでニーナは引き続き、仕事を任せてもらえることになっていた。
ヒューベルトは、ニーナの返事を聞いてから、先を続けた。
「剣に命を預ける者にとって、刃の手入れは欠かせない。それが、実戦の前であれば尚更のことだ。――俺は、クレイグという人物も、きっとゴブリン退治を引き受けたとき、町の鍛冶屋を出発前に訪ね、武器を鍛え直したと踏んでいた」
果たして、ヒューベルトの推測は的中していた。
職工組合は、同じ鍛冶屋であっても、互いに商売が競合しないように、異なる業務を別々の店に割り振っている。
ヘルネで、大剣を打つことが認可されている鍛冶屋は、クビツェクの工房を措いて他にない。だから、クレイグがゴブリン退治の前に、クビツェク鍛冶店に立ち寄っていたことは、ヒューベルトにもすぐに足取りが掴めた。
「だが、あの店のクビツェクという工匠は、どうも無愛想で、仕事以外に興味がないらしくてな。まあ、職人としての腕はたしかなのだろうが、調査を進めるにあたって、あまり有用な情報源には成り得なかった」
ヒューベルトは、肩を竦めながら、ニーナに苦笑してみせた。
「それでは、どうやってクレイグさんのことを、聞き出したんですか?」
「実を言えば、クビツェクから情報を得ることは、断念した」
ニーナの質問に、ヒューベルトは意外な答えを返した。
「代わりに、あの店の見習い職工の少年から、詳しい話を引き出したのさ。……君は、好きになれないやり方かもしれないが、それなりの金貨を握らせてな」
ニーナは、一見無縁な二つの出来事に、今たしかな接点を悟った。
パウルは、ヒューベルトから情報料として、金銭を得ていたのだ。
それがどれぐらいの金額で、どの程度まで、あの少年にとって役立ったかは、明確にはわからない。けれども、きっとそれを、独立開業するために、パウルはいくらか資金の足しにしたのではあるまいか。
「パウルの話によると、たしかにクレイグはあの鍛冶屋を訪れていたのだ。それも、数人の仲間と思しき人間を引き連れて」
「その連れの方たちも、やはり傭兵か冒険者だったのでしょうか?」
「はっきりとした素性まではわからん。ただ、全員体格のいい男で、外套の下には硬質の革鎧を身につけていたようだった、とは聞いている」
外套の下には、「硬質の革鎧」――
ニーナは咄嗟に、雑貨屋で羊皮紙を買った客の一人を連想した。
三〇代半ばで、傭兵か冒険者風だったと、雑貨屋の主人は言っていた。
双方の証言には、共通して革鎧を着た客が登場するのである。
「しかも、店がクレイグから預かった大剣だが」
ヒューベルトは、真っ直ぐニーナを眼差し、さらに重大な情報を告げた。
「普段は鞘に隠れて見えない刃の根元に、王家の紋章とそれらしき銘が、はっきりと刻まれていたらしい」
ラーヴェンスブルグ公爵家を表す、飛龍の紋章。
アステルライヒにあって、それを見紛う者は多くなかろう。事実とすれば、たとえパウルが文盲で、彫られた銘を読めなかったにしろ、その大剣に王室所縁の印があることを訝しみ、記憶に留めていたとしてもおかしくはない。
「……あの、ヒューベルトさん。実は――」
ニーナは、決心すると、自分が雑貨屋で買い物したときに聞いた話を、若い騎士に掻い摘んで説明した。
もっとも、彼女とナスターシャが、ヒューベルトの噂を耳にしていたことについてなどは、彼の心証を損ねないように、あえて省いたが。
「なるほど。それは興味深い」
ヒューベルトは、ニーナの話に強い関心を寄せた様子だった。ほんの少しだけ黙り込んで、考えを巡らすような仕草のあと、ゆっくりとまた口を開いた。
「これは、あくまで俺の当て推量なのだが――あの革鎧の男たちは、ヴィルフリート殿下直属の護衛ではないかと思う。あるいは、王国黒騎士団の人間かもしれぬ」
「王国黒騎士団ですか?」
ニーナは、少しだけ擦れたような声でたずねた。
アステルライヒ王国黒騎士団といえば、王国軍切っての特選精鋭常備軍である。千騎長と呼ばれる将軍を指揮官に頂き、その勇名は北方ノルトシュタインの帝国白騎士団と共に、大陸西方諸国で遍く響き渡っていた。
「第一王子ヴィルヘルム殿下は、かの千騎長オルトウィーン閣下と、かねてより親交が深かったと聞く。ラーヴェンスブルグ公爵家の近衛兵でないとすれば、王室と縁深く、黒騎士団の実力者でもあるクロイツナッハ候が、信頼の置ける者をヴィルフリート殿下の護衛に遣わしている、というのもまったくあり得なくはない」
むしろ、ヒューベルトは、王室お抱えの近衛兵などより黒騎士団の所属騎士の方が、こうした状況では身軽に立ち回りやすいのではないかと見ているらしかった。
「少なくとも、ルーファスが私兵を動かし、ヴィルフリート殿下の身辺を守らせたり、それによって同時に監視しているというわけではないと思う」
ヴィルフリートは、ヘルネに身を匿われている点については、ルーファスに対して恩義を感じているかもしれぬ。
けれども、必要以上の干渉は、伯爵に求めていないのではないか。
ヒューベルトは、そのような想像を働かせているようだった。
「この任務をゼントリンガー公から承った際、俺がレムシャイト群の他の町も調査したことは、いましがた話したばかりだが――」
ヒューベルトは、彼自身も考えを整理するような口調で、
「ターレを訪れたとき、そこの酒場で、妙に引っ掛かる話を聞いた。今年に入ってから、レムシャイト兵の羽飾りが何枚か、砦で盗難被害にあったというのだ」
レムシャイト兵の羽飾りは、身分証の役割を兼ねている。伯爵家の家紋には、水鳥があしらわれており、それに因んだものだ。
ターレ近郊には、伯爵家所属の南方警備兵が駐屯する軍事施設があった。
「――何者かが、その盗品を利用して、郡部の所属兵を騙っていると……?」
ニーナは、ヒューベルトが持ち出した話題の意図を察して、たしかめるように言った。
無論、羽飾りを盗んだのは、革鎧の男たちだろう。それを使って、人目を欺いているのではないかという憶測だ。
ヒューベルトは、同意した。
「実際は、盗み出したのではなく、伯爵が殿下の護衛の者たちに譲渡したのだろうがな。しかし、身分証は普通、通し番号が打たれるなどし、支給の数を管理されているものだ」
「もし、後々それを秘密に貸与したことが世に知れれば、ルーファス卿も不都合なことになりかねない。それで表向きは、何者かによって持ち去られたことにした……」
「やはり君は、話が早いな」
ヒューベルトは、僅かに微笑らしきものを口元に覗かせ、
「もっとも、ヴィルフリート殿下の護衛兵は、ヘルネの町中に潜伏してはいない」
「町中では、本物の衛兵と出くわせば、素性が知れるかもしれないからですね」
たぶん、革鎧の男は、雑貨屋で買い物したときも、羽飾りを目立つところに身につけてはいなかった。それゆえ店の主人も、単に「傭兵か冒険者風」だと思ったのだ。
ヒューベルトは、すっかりニーナの鋭敏な推察に感心した様子だった。
「そういうことだ。そのあたりも、だいたい調べは付いている。――町からほど近い、とある農村を拠点としているようなのだ」
町を少し外れて、然程離れていない農村部まで出れば、怪しまれる危険はぐっと減る。
実際に、町より防備で劣る村落には、警備兵の巡回や一時駐留が珍しくないからだ。特に、昨冬近隣で大きな戦があったばかりである。
そこで、国境付近のこの地域で、羽飾りを身に帯び、伯爵の兵を名乗る。
派手な動きを見せさえしなければ、疑う者はほとんどあるまい。
護衛兵数名は、そこから時間毎に入れ替わりでヘルネを見回り、敵対勢力に与する人間の接近を警戒しているらしかった。
実務的な面から言えば、そうした警護の方法は、常時全員がヴィルフリートの傍に控えることがかなわないから、不自由な点は否めない。
とはいえ、過度に備えを固め、周囲に「傭兵のクレイグ」としての身の上を不審がられるわけにもいかないので、ある意味ではかえって丁度いい按配なのかもしれぬ。
「とりあえず、君に報告書簡でまとめてもらいたい内容は、こういったところだ」
ヒューベルトは、そこまで話すと、少しだけ肩のちからを弛緩させた。
「もう一度、要点に絞って最初から確認しておこうか」
「――ええ、お願いできますか」
ニーナは、作業机の脇に手を伸ばし、立て掛けてあった小型の黒板を手繰り寄せた。円形テーブルの縁と自分の足を支えにして、それを斜めに固定する。
白墨を利き手に取ると、ニーナはヒューベルトの挙げる要点を、完結にまとめ、黒い面の上に手控えていった。これを元に、改めて文書を作成するのだ。
「何はともあれ、任務が次の局面へ移る前に、君に代書を依頼できてよかった」
ヒューベルトは、どこかしら安堵した様子でつぶやいた。
「次の局面、ですか」
「そうだ」
ニーナが繰り返すと、ヒューベルトは短く答え、ふっとまた燭台の炎を吸い寄せられるように眼差す。
「あと、もう二、三調べ事が済んだら――。いよいよヴィルフリート殿下に、我が主君のお考えを直接具申せねばならん」
ニーナは、白墨を握った手を止め、顔を上げてを見た。
若い騎士は、薄暗い室内で燃焼する真紅の光を、やはり静かに見詰めている。
「殿下には、レムシャイトを離れ、御自身の足で、次代の王として立って頂かねば」
「……クレイグさんが、証拠の通り、本当に第二王子だったとして」
ニーナは、ちょっとだけためらいがちに、しかし思い切ってたずねた。
「クレイグさんは――ヴィルフリート殿下は、説得に応じてくださるでしょうか」
「信義を尽くせば、お聞き入れくださる見込みはあると思う」
ヒューベルトは、決然とした声音で言った。
「翻って、ヴィルフリート殿下が御自分の護衛を控えさせ、ルーファスの兵を頼らないのは、なぜか。俺は、ルーファスも結局、殿下の信用を得るには至っていないからだと思う」
つまり、自分自身やルーファスの立場を、ヴィルフリートも理解していないわけではないはずだというのである。
第二王子の生命を狙う者は、必ず存在する。
その脅威から庇護するため、彼を匿っている点において、ルーファスを「現時点では」という条件付きでのみ、ヴィルフリートは味方と見做しているのかもしれない。
ヒューベルトは、今ならまだ、そこに両者の間隙に入り込む余地があると見ているのだった。