表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

好きな子に意地悪する系男子な婚約者の育成は、可憐な令嬢のたしなみです

作者: 榎本モネ
掲載日:2026/02/26


 オリオンは、好きな子に意地悪をするタイプの男の子だった。

 6歳にしてそれはなかなか筋金入りで、ロゼッタの三つ編みを見つければ引っ張り、庭園を歩けばわざと先回りして道を塞ぎ、絵本を読んでいれば「読んでやる」と取り上げては、なぜか逆さまからページをめくる。

 両家の大人たちは、そんな様子を微笑ましく眺めていた。


「まあまあ。好きな子に意地悪する年頃ですわね」

「はは、公爵家の嫡男もまだまだ子どもだ」


 笑い声は柔らかく、どこまでも呑気だった。けれど――当のロゼッタは、少しも楽しくなかった。


 その日も庭園での顔合わせの最中、花壇の縁に立っていた彼女の腕を、オリオンが何気ない顔で引いた。


「おい、こっち来いよ」


 ぐい、と。ほんの軽い力だったのだろう。だが、6歳の少女には十分すぎる。

 小さな身体は簡単にバランスを崩し、石畳へと転んだ。石畳の冷たさが、じん、と膝を打つ。遅れて、ひりつくような痛みが広がり、視界がふわりとにじんだ。


「……っ、いた……」


 視界がにじむ。その瞬間だった。


 ――ああ。

 頭の奥で、静かに何かがほどけた。泣いているはずなのに、妙に冷静な思考が浮かぶ。


 好きな子に意地悪をする。構ってほしくて乱暴になる。でもそれを「子どもだから」で済ませてしまう大人たち。


(このまま放っておくと、将来わりと面倒な男に育つやつだわ)


 前世の記憶が、ゆっくりと形を取り始める。

 仕事帰りにスーパーで値引きシールを狙っていた、三十路目前の自分。職場で「好きだからつい意地悪しちゃうんです」と笑う後輩に、呆れ半分で説教をしていた自分の姿が、かすかに重なる。


(よりによって婚約者がそのタイプとは)


 けれど、今のロゼッタは6歳である。見た目はお人形のように可憐で、気弱で、少し泣き虫な伯爵令嬢。急に人格が変わったら、周囲に疑問を抱かれる。そんな面倒な事態を引き起こすわけにはいかない。

 ロゼッタはぽろっと涙をこぼし、震える声で言った。


「……こわい、です……」


 その一言で、場の空気が変わった。先ほどまでの笑い声が止まり、母が駆け寄る。


「ロゼッタ?」


 ロゼッタは母のドレスにしがみついた。


「……ひっぱられるの、いや……」


 震える肩は本物だ。嘘ではない。ただ、その涙の奥には、ほんのわずかに別の光が宿っている。


(さて。どう転ぶかしら)


 その日から、ロゼッタは部屋にこもった。

 食事は部屋で取る。オリオンが来ていると聞けば、なおさら外へ出ない。夜になると、思い出したように泣く。


「……こわい……」


 過剰ではない。けれど、確実に効く程度に。伯爵家は真剣になった。


「娘があそこまで怯えているのです」

「婚約を白紙に戻すことも、検討すべきでは」


 その話は、公爵家へ伝わる。知らせを聞いたオリオンは、初めて血の気が引いた。


「……白紙って、なんだよ」

「婚約解消だ」


 父の声は低い。


「お前は彼女を泣かせ、怖がらせた」


 怖がらせた。

 その言葉は、思いのほか重かった。



 数週間後、両家立ち会いのもとで話し合いの場が設けられた。

 応接間の扉が開き、ロゼッタが入ってくる。父の後ろに半歩隠れるようにして現れた彼女の視線は伏せられ、指先はドレスの裾をぎゅっと握っていた。

 オリオンが一歩近づいた瞬間、彼女はわずかに身を引く。ほんの小さな動きだった。だが、それがすべてを物語る。


 オリオンは胸が締めつけられた。ああ、と理解する。自分は、本当に怖がらせたのだと。


「……ロゼッタ」


 呼ぶ声は、以前よりもずっと小さい。ロゼッタは顔を上げないまま、かすれた声で言う。


「……ひっぱらないで、ください」


 それだけで十分だった。オリオンは、言い訳を呑み込む。


 好きだから。

 構ってほしくて。

 笑ってほしくて。


 どんな理由も、怖がらせた事実を消せない。


「……ごめん」


 初めての、まともな謝罪だった。ぎこちなくて、短くて、けれど逃げていない。

 ロゼッタはゆっくりと顔を上げる。潤んだ瞳が、まっすぐにオリオンを見た。


(うん、反省してる顔)


 内心でそっと頷く。自分たちは、オリオンがロゼッタのことを好きになったから、婚約者となった。お互いまだ6歳。まだオリオンはモラハラ予備軍男から引き返せるはずだ。

 ロゼッタは心の中で静かに息をつく。


「……はい」


 その返事に、オリオンの肩から力が抜けた。ほっとしたように、でもどんな言葉を出すべきか、行動をとるべきかわからず、まごついている小さな男の子。この小さな男の子が、ロゼッタの婚約者であり、将来の夫なのだ。


(6歳なら、まだ間に合う)


 こうして、婚約者更生計画はひっそりと幕を開けたのだった。



 オリオンが「改心しました」という顔で現れたのは、それから三日後のことであった。

 両家合同のお茶会。公爵家の庭のテーブルには焼き菓子と紅茶。ロゼッタは母の隣で、きちんと背筋を伸ばして座っている。表向きは、相変わらずの“お人形のような可憐な令嬢”である。

 視線の端に、大きな影。ばさっという音とともに広がる芳醇な花の香り。テーブルの上に、色とりどりの花束が叩きつけられた。


「やる」


 得意げに胸を張るオリオンに、ロゼッタは一瞬だけ目を瞬かせた。


 ――やる、とは。


 その花束は、どう考えても花屋から購入したものではなかった。根っこが見えている。公爵家の花壇の一部が荒れているので、おそらく、そこから豪快に引き抜いたものだろう。公爵夫人が涼しい表情をしつつも、内心苦い顔をしているのが伝わってくる。


「ロゼッタ、好きだろ。花」


 ロゼッタはしばし、花と彼を見比べた。そっと目の前の花を手に取り、目を潤ませる。


「……きれい、ですけれど……お花さん、いたい……」


 か細い声でそう言うと、場が静まり返った。オリオンの顔が、さっと赤くなる。


「い、痛いって……花だぞ!?」

「でも……引っこ抜かれて、びっくり、してます……」


 前世の記憶うんぬんではない。ただの情緒教育だ。庭師が遠くで肩を震わせている。好きな子に振り回されている公爵家の坊ちゃんに対して笑いをこらえているのか、荒らされた庭と無残な花に対して涙を流しているのかはわからない。

 オリオンは、しばらく花束を見つめていたが、やがて小さくうなだれた。


「……ごめん」



 数日後。今度は別の方向からのアプローチがやってきた。

 本日は伯爵家以上の貴族家子息令嬢が集まる交流会。ロゼッタが庭で読書をしていると、鬼ごっこをしていた子どもの一人が、うっかりぶつかる。


「あ、ご、ごめんね!」


 その子が謝った瞬間。


「何してるんだ!」


 雷のような怒声。オリオンである。


「ロゼッタに触るな!」


 びくり、と周囲が凍る。泣きそうになる子ども。そして、困惑するロゼッタ。


(“守る=威嚇”に進化したのね)


 ロゼッタは慌てて首を振った。


「ち、ちがうの……わざとじゃ、ないの……」

「でも、こいつはロゼッタを傷つけたんだぞ!」


 そして、震える声で続ける。


「怒鳴られると……こわい……」


 オリオンが、はっとする。


「俺は、守ろうと……」

「守るって……こわく、すること……?」


 問いかけは、あくまでやわらかく、責めずに。本人に考えさせることが大切だ。

 彼は言葉を失った。しばらくして、オリオンは怒鳴りつけた子どもに向き直る。


「……悪かった」


 ぶっきらぼうだが、確かに謝罪だった。子どもはぽかんとしながらも、「うん。僕もごめんなさい」と頷いた。




 三度目の事件は、少々厄介であった。オリオンが、ロゼッタの隣にぴったりと張りついて離れないのである。

 お茶会でも読書中でも、廊下を歩いているときでさえ。


「ここにいる」


 真顔で宣言。ロゼッタが席を立てば立つ。話しかけられれば睨む。近づく男子には無言の威圧。独占欲という名の新芽が、元気よく芽吹いていた。

 ロゼッタは、ほとほと困った顔を作る。


「……オリオン様が、そばにいると……」

「いると?」

「お話、できないの……」


 小さく俯く。


「お友だち、がほしい……」

「……俺が、いるとだめか?」


 彼の顔が、曇る。その声音は、怒りではなく、不安だった。この不安を解消せずに話を進めるとややこしくなる。


「だめ、じゃないの……でも……」


 そっと彼を見る。


「わたくしは、オリオン様の“もの”じゃ、ないの」


 しばしの沈黙が落ちる。

 彼はしばらく何かを考えていたが、やがてぽつりと呟いた。


「……優しくするって、難しいな」


 その言葉に、思わず笑いそうになる。


(そうよ。優しさは思いやりと技術よ)


 だが外面はあくまで可憐に。


「……いっしょに、練習……します?」


 恐る恐る差し出した言葉。オリオンは、目を見開いた。


「……いいのか?」


 こくり、と頷く。その日、彼は初めて、わたくしに向かってきちんと言った。


「……ごめん」


 ぎこちなく、たどたどしい。けれど確かに、わたくしへ向けられた謝罪だった。

 胸の奥が、ふわりとほどける。ロゼッタは、ほんの少しだけ微笑んだ。


「……はい」


 それは、小さな、小さな成功。


 優しさとは、支配ではない。

 守るとは、怒鳴ることではない。

 好きとは、囲い込むことではない。

 ――そんな当たり前を、彼はひとつずつ覚えていく。


 6歳の少年は、今日も方向音痴のまま前に進む。そしてわたくしは、ひ弱な顔でそっとハンドルを握るのだ。



 人というものは三歩進んで二歩下がる生き物らしいが、8歳児ともなれば、その傾向はさらに顕著になる。

 ある日のこと。貴族家子息令嬢が集まる交流会に、新たな来客があった。

 侯爵家の令嬢、エレノア様。年は同じく8歳。赤毛を高く結い上げ、元気いっぱいに駆け回る、いわゆる“活発系”のお嬢様である。彼女は外交官のお父様に連れられて最近まで、隣国で過ごしていたが、最近になって帰国したとのこと。


「オリオン様って、強いのね!」


 木剣の素振りを見て、彼女が目を輝かせた。


「さっきの振り、すごく男らしかったわ!」


 “男らしい”という甘美な響きに、オリオンの背筋が、みるみるうちに伸びていく。


「べ、別に普通だ」


 と言いつつ、振りは二割増しで豪快になる。


(ああ……わかりやすい)


 ロゼッタは少し離れたベンチに座り、紅茶を口に運ぶ。その姿はとても人形じみていると自負しているが、内心はというと、(褒められ耐性ゼロね、この子)と、腕組みして見守るおばちゃんモードであった。

 エレノア様は物怖じせず、ずかずかとオリオンの隣に立つ。


「もっと強く振ってみて!」

「おう!」


 勢いよく振られる木剣。その剣先が、近くで遊んでいた子の帽子を弾き飛ばした。ころり、と転がる帽子。驚いて、目を潤ませる子ども。


 一瞬の静寂。オリオンは、動かなかった。

 エレノア様が笑う。


「きゃっ、すごい! 当たっちゃったわね!」


 悪気は、たぶんない。だがその子は、もう泣きそうだ。オリオンの手が、わずかに震える。視線が泳ぐ。


(ほら。どうするの)


 ロゼッタは、立ち上がらない。駆け寄らない。ただ、静かに彼を見る。やがて、耐えきれなくなったのか、こちらのほうへ視線が向く。


 助けを求めるような、迷子の目。

 そのとき、ロゼッタはゆっくりと立ち上がった。ドレスの裾を整え、帽子の落ちた子のもとへ歩み寄る。


「大丈夫……?」


 小さく問いかけ、帽子を拾い、そっと被せる。


「……びっくりさせて、ごめんなさい」


 その子はこくりと頷く。わたくしは、くるりと振り返った。じっとロゼッタを見ていたオリオンと、目が合う。


「オリオン様は、強いふりをしているだけ。強い人は、怖いことしないの」


 風が、ぴたりと止まった気がした。エレノア様が「え?」と目を丸くする。

 オリオンは、何も言えない。その沈黙が、すべてだった。


「強い人は……守る人、だから」


 言い終えると、ロゼッタは再びベンチへ戻った。



 夕暮れ。庭の片隅で、オリオンは一人立っていた。

 帽子の子はもう笑っている。エレノア様は別の遊びに夢中だ。彼はしばらく拳を握っていたが、やがて歩き出した。

 帽子の子の前へ。


「……さっきは、悪かった。わざとじゃなかった。でも、怖かったよな」


 子どもは少し驚いたあと、小さく笑った。


「うん。でももう平気」


 その瞬間、オリオンの肩から力が抜けた。それを、ロゼッタは遠くから見ていた。


(よし)


 自分の立場や見栄ではなく、“相手の気持ち”を基準に動いた。着実に成長している一歩だ。

 しばらくして、彼はロゼッタの前に立った。


「……さっきの、俺のことか」

「どの、さっき……?」


 とぼける。


「強いふり、ってやつ」


 ロゼッタは、少しだけ首を傾げる。


「……どう、思いましたか?」


 質問で返す。彼は、長く息を吐いた。


「……図星だった」


 その顔は、悔しさよりも、どこか清々しかった。


「俺、本当は……怖いんだ。弱いって思われるの」


 ぽつりとこぼれる本音。それを聞いて、胸の奥がやわらかくなる。


(ああ、この子はちゃんと、自分と向き合える)


 ロゼッタは、小さく微笑んだ。


「それを言える人は……もう、弱くないです」


 オリオンが、目を見開く。夕陽が、彼の横顔を赤く染めていた。


 その日から、彼は少しだけ変わった。強く見せるためではなく、守るために動くようになった。

 もちろん、たまに天狗にもなる。だがそのたびに、わたくしがやんわりと鼻を折る。


 静かに。

 可憐に。

 気づかれないように。


 ……教育とは根気である。8歳児相手でも、それは同じなのだ。



 時は流れる。人は成長する。――少なくとも、身長は確実に伸びる。

 現在は10歳の初夏。オリオンは、以前よりもずいぶん背が高くなった。声も少し低くなり、木剣の振りも本格的だ。何より、無闇に怒鳴らなくなった。これは大いなる進歩である。


 一方のロゼッタも、10歳になった。相変わらず「儚げで可憐なお嬢様」という評価をいただいているが、内面は順調に熟成されつつある。


(10歳ともなると、子ども同士の勢力図が見えてくるのよねえ)


 貴族子女の集まりは、年齢が上がるほど“空気”が濃くなる。誰が中心で、誰が追従し、誰が一歩引いているか。そして――誰が、持ち上げられているか。


 今、その中心にいるのは。


「オリオン様って、本当に頼りになりますわ」

「剣術大会でも優勝されたのでしょう?」


 きゃあきゃあと黄色い声を浴びる、我が婚約者殿である。10歳にして、すでに“将来有望な若き貴公子”の片鱗を見せはじめているが――。


(ああ、これは危険な香り)


 本人は涼しい顔をしているが、口元がほんの少しだけ得意げだ。

 わかる。わかるわよ。努力が実を結び、周囲に認められるのは本当に嬉しいことだ。でも、そのまま放置すると、“選ばれし俺”が芽吹く。

 ロゼッタは一歩引いた場所で、紅茶をいただきながら観察する。



 その日の午後、年上の少年も混ざり、庭で簡易的な模擬試合が行われた。オリオンは順調に勝ち進み、最後は二歳年上の子との対戦になった。


 幼い年ごろの年齢差は対格差や技術差に直結する。それは当たり前のことであり、オリオンもその例に漏れなかった。

 決勝戦の結果は、敗北。まさか負けるとは思っていなかったであろう周囲の女子たちが、オリオンに向かってフォローの嵐を贈った。


「惜しかったですわ!」

「ほとんど勝っていましたのに!」


 だがそれは、慰めであり、事実ではない。オリオンは、笑った。


「次は勝つ」


 堂々とした態度。とても立派である。しかし、彼の拳が、わずかに強く握られているのを、ロゼッタは見逃さなかった。


 夕方。人が散った庭で、彼は一人、剣を振っていた。何度も、何度も。

 わたくしは、そっと近づく。


「……無理、しないでくださいませ」


 声をかけると、オリオンは驚いたように振り向いた。


「見てたのか」

「少しだけ」


 嘘である。全部見ていた。だがそれは言わない。


「負けたの、久しぶりだった」


 ぽつりとこぼす。


「俺、強くなったと思ってた」


 夕陽が、長い影を落とす。10歳の少年は、子どもと呼ぶには背が伸びすぎていて、大人と呼ぶにはまだ危うい。自尊心と現実のあいだで、彼は静かに揺れていた。

 ロゼッタは、少し考えてから言った。


「強くなったのは、本当です」


 彼が顔を上げる。


「でも……強くなる途中、なのも本当です」


 柔らかく続ける。


「途中で満足してしまったら……もったいない、です」


 オリオンは、しばらく黙っていた。


「……俺、天狗だったか?」

「少しだけ」


 正直に答えると、彼は苦笑した。


「やっぱりな」


 そして、剣を地面に立てる。


「ロゼッタはさ」

「はい」

「俺が浮かれてるとき、すぐわかるよな」


 どきりと胸が跳ねるが、できる限り表情は崩さない。


「……そうでしょうか?」

「うん、俺にはわかるよ」


 彼はじっとこちらを見る。その視線は、以前よりもずっと真っ直ぐだ。


「お前、何も言わないけど。目がさ」


 言葉を探すように、少し考えてから続ける。


「“あらあら”って顔してる」


 ……ばれている。


(10歳、侮れない)


 ロゼッタは慌てて視線を逸らす。


「そんなこと、ありません……」


 だが声がわずかに上ずった。彼はくつりと笑う。


「俺さ」


 少しだけ、照れくさそうに。


「ロゼッタにだけは、格好つけたいけど、格好つけたくないんだよな」


 わたくしはゆっくりと微笑んだ。


「では……格好つけなくて、よろしいのでは?」


 彼は一瞬ぽかんとしたあと、声を立てて笑った。


「それ、婚約者としてどうなんだ」

「事実ですもの」


 風が吹き、木々が揺れる。10歳の2人は、6歳の頃よりも、ずっと自然に並んで立っていた。


 それは支配でも恐れでもなく、まして教育という名の綱渡りでもない。

 少しずつ、対等に近づいていく距離。


(……そろそろ、わたくしも油断できないかもしれないわね)


 彼は確実に成長している。ロゼッタの手を借りなくても、考え、選び、立ち上がるようになってきた。それは喜ばしいことであり、ほんの少しだけ、寂しくもある。


 10歳の初夏。婚約者矯正計画は、いつの間にか“共に育つ時間”へと姿を変えはじめていた。




 12歳の社交界は、思っていたよりも騒がしい。

 年若い子どもたちの集まりだったはずの茶会や舞踏の練習は、いつの間にか“将来を見据えた顔合わせ”へと性質を変えつつあった。親たちの視線は一層慎重になり、子ども同士の距離には意味が生まれ、そして何より――噂が風よりも早く駆け巡る。


 その中心にいるのが、オリオンである。


 12歳にして剣術大会二連覇。学問の成績も上位を維持し、礼儀作法もそつがない。かつて花壇から花を引き抜いていた少年は、いまや“将来有望な若き貴公子”として名を挙げられるようになっていた。


「オリオン様、隣国の公爵令嬢とも親しくなさっているとか」

「王家からもお声がかかるかもしれませんわね」


 ひそやかな声が、あちらこちらで弾む。

 ロゼッタは会場の端で紅茶を口にしながら、そのざわめきを静かに聞いていた。相変わらず“控えめで儚げな婚約者”という立ち位置を崩すことはない。前に出ず、騒がず、ただ微笑む。


 けれど最近、その微笑みの奥を値踏みするような視線が増えてきた。


「ロゼッタ様はおとなしい方ですわよね」

「お美しいけれど……少し控えめすぎるのでは?」


 ――釣り合っているのかしら。

 直接口に出されることはなくとも、そんな含みがあるのはわかる。


 前世の自分なら、面倒だと肩をすくめて終わりだっただろう。だがいまはオリオンの婚約者であり、将来は彼の隣に立つ者だ。隣に立つということは、ただ守られるだけでは済まない。


 そんなことを考えていた折、舞踏の練習会が開かれた。

 12歳にもなると、基礎のステップはひと通り身につけている。今日の練習は、より本格的な形式に沿ったものだった。音楽が流れ、男女が組を作って並ぶ。

 当然のように、ロゼッタの前にはオリオンが立った。


「足、踏むなよ」


 子どもから抜けつつある声でそう言われ、わたくしは静かに首をかしげる。


「踏みません」


 淡々と返しながら差し出した手を取られた瞬間、思いのほか温かい体温が伝わってきて、わずかに息が詰まった。……落ち着きなさい、わたくし。

 音楽に合わせてステップを踏む。以前よりも背が伸びた彼と並ぶと、視界の高さが変わっていることに気づく。手を引かれる感覚も、6歳や8歳の頃とはまるで違った。

 周囲の視線が集まっているのを感じる。特に強いのは、会場の中央に立つひとりの少女からのものだった。

 隣国の公爵令嬢、アメリア様。背が高く、華やかな金髪を持ち、堂々とした佇まいで人目を引く少女である。オリオンと並べば、確かに絵になる。そう思わされるだけの存在感があった。


 曲が終わり、礼を交わした直後だった。


「オリオン様、次はわたくしといかが?」


 にこやかで、迷いのない誘い。

 一瞬、空気がぴんと張る。社交の場において、その申し出を断るのは容易ではない。ロゼッタは自然な動きで一歩下がり、微笑みを崩さず道を譲った。

 試すつもりも縛るつもりもない。ただ、彼がどう選ぶのかを見守るだけだ。

 オリオンは、アメリア様を見て、それからわたくしを見た。ほんのわずかな沈黙ののち、静かに口を開く。


「すまない。少し休憩する」


 そう言って、ロゼッタの手首を軽く取った。誇示するような強さではない。ただ自然に、そこにあるべきものに触れるような動きだった。


「水、飲みに行くぞ」


 その声音は穏やかで、揺らぎがない。周囲がわずかにざわめく。アメリア様も一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに優雅に微笑んだ。


「そう。ではまた今度」


 わたくしたちは会場の端へ移動し、給仕から水を受け取った。人目の少ない場所で、小さく問いかける。


「……よろしかったのですか?」

「何が」

「お誘いを、お断りになって」


 彼はグラスを傾けながら、あっさりと言う。


「踊りたい気分じゃなかった」


 それだけ、と言いたげな口調だったが、わたくしは視線を上げて彼を見る。


「それだけ……でしょうか?」


 問いかけると、彼はわずかに目を細めた。


「ロゼッタ。お前、俺を試してるわけじゃないよな」


 胸の奥が小さく跳ねる。けれど顔には出さない。


「そんなこと、いたしません」

「……ならいい」


 短く笑ってから、彼は続けた。


「誰と踊るかより、誰の隣にいるかのほうが大事なんだよ」


 その言葉は、誇示でも虚勢でもなかった。淡々としているのに、妙に重みがある。

 6歳の頃、花を引き抜いて「やる」と言っていた少年を思い出す。8歳で強いふりをし、10歳で天狗になりかけていた、あの子はもういない。いま目の前にいるのは、自分で選び、考え、立つことを覚えた少年だった。


「ロゼッタはさ」


 不意に、彼が言う。


「俺が誰かに褒められても、取られそうになっても、追いかけてこないよな」

「追いかける理由がありませんもの」

「自信があるのか?」

「いいえ」


 即座に首を振る。


「でも、信じております」


 彼を、と続けると、オリオンは一瞬だけ言葉を失ったように見えた。


「……そっか」


 やがて、かすかに笑う。


「ずるいな」

「何が、でしょう」

「お前のほうが、よっぽど肝が据わってる」


 その言葉に、心臓がどくりと鳴った。

 最近、彼は時折、わたくしの奥を覗き込むような目をする。可憐で控えめな仮面の、その奥にあるものを探るように。


 かつては教育する側とされる側だった関係は、いつの間にか形を変えている。いまはもう、片方だけが引っ張るのではなく、互いに歩幅を合わせているのだと、静かに実感した。

 それでも、完全に対等だと言い切るには、まだ少しだけ勇気がいる。


 彼がどこまでわたくしを見抜いているのか。もし本当にすべてを察しているのだとしたら――わたくしは、その視線を真正面から受け止められるだろうか。

 胸の奥に生まれた小さな緊張を抱えながら、ロゼッタはそっと目を伏せた。


 かつて“婚約者矯正計画”と名づけたものは、気づけば形を変えていた。

 並び立つということを、互いに学ぶ時間なのだと――ようやく、そう思えるようになっていた。



 14歳になると、世界が少しだけ近く感じられる。子ども扱いは減り、大人扱いにはまだ足りない。その曖昧な立ち位置が、どうにも落ち着かない年頃である。

 オリオンは、すっかり“若き公爵家の後継”という肩書きが板についていた。背はロゼッタより頭ひとつ分高くなり、声は低く落ち着き、剣の腕前はもはや同年代では敵なしと言われるほど。

 そして困ったことに、本人もそれを自覚している。自覚しているが、昔のように天狗にはならない。ならない――はずなのだが。


「最近、やけに静かですね」


 書庫の窓辺で本を読んでいる彼に声をかけると、オリオンはページから目を上げた。


「静かで悪いか」

「いえ。ただ、嵐の前触れかと」

「誰が嵐だ」


 眉をひそめる顔も、すっかり大人びている。14歳の彼は、以前より感情を外に出さなくなった。その代わり、内側でよく考えるようになった。成長としては喜ばしい。


 だが。


(抱え込みすぎる傾向があるわね)


 ロゼッタは本を閉じ、彼の向かいに座った。


「何か、お悩みですか?」

「別に」


 即答。これは“ある”の合図である。しばらく沈黙が流れた。庭から吹き込む風が、カーテンを揺らす。やがて彼は、ぽつりと口を開いた。


「父上に言われた」

「何を」

「“甘さを捨てろ”と」


 その一言に、含まれる重みを察する。公爵家の跡取りとして、いずれは厳しい決断を下す立場になる。情に流されるな、という意味なのだろう。


「俺は、甘いらしい」


 自嘲気味に笑う。


「優しすぎる、とも」


 かつて“優しさ=支配”だった少年が、いまや“優しすぎる”と言われている。


(教育、大成功では?)


 内心で小さくガッツポーズをしつつ、表情はあくまで穏やかに保つ。


「それで、甘さは捨てられそうですか?」


 彼は少し考え、首を振った。


「無理だな」


 即答だった。


「俺は、守りたいものを切り捨てるようなやり方は、たぶんできない」


 真っ直ぐな瞳。

 ――ああ、この子は、6歳の頃から、根っこはずっと同じだったのだ。方向を間違えていただけで。


「……でしたら、それでよろしいのでは?」


 わたくしがそう言うと、彼はわずかに目を細めた。


「簡単に言うな」

「簡単ではありません。でも」


 少しだけ身を乗り出す。


「甘さと優しさは、違います」


 彼が黙って聞いているのを確認してから、続ける。


「甘さは、自分が傷つきたくなくて譲ってしまうこと。優しさは、相手を守るために選ぶことです」


 言いながら、あら、と心の中で首をかしげる。


(わたくし、ずいぶん語るようになったわね)


 14歳ともなると、さすがに“ひ弱で可憐なだけ”ではいられない場面が増えてくる。オリオン様は、じっとわたくしを見つめていた。


「ロゼッタ」

「はい」

「お前、昔からそうだよな」

「何が、でしょう」

「俺が迷うと、ちょうどいい言葉を置いていく」


 どきりとする。


「偶然です」

「偶然にしては、出来すぎだ」


 彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。逆光の中、その横顔はすっかり青年のそれだ。


「6歳のときから思ってた」


 さらりと言う。


「お前、たまに年寄りみたいな顔するよな」


 ――はい?

 思わず咳き込む。


「な、何を……」

「“あらあら”って顔」


 10歳の頃にも言われたそれを、また。


「俺が失敗すると、“この子ったら”みたいな目で見てただろ」


 心臓が、嫌な音を立てる。

 ばれている。いや、薄々気づいていたのだろう。


「……買いかぶりです」

「そうか?」


 彼は振り返り、まっすぐにこちらを見る。


「俺はさ」


 一歩、近づく。


「お前が思ってるより、ちゃんと見てる」


 距離が縮まる。14歳ともなると、身長差がやけに意識される。


「お前は、可憐で、優しくて、ちょっと泣き虫で」

「ちょっと?」

「……けど」


 言葉を選ぶように、少し間を置く。


「本当は、めちゃくちゃ冷静で、達観してて、少し面倒くさがりだろ」


 ぐさり。核心を突かれた。

 わたくしは固まる。14年間、崩さずにきた仮面が、ひび割れる音がした気がした。


「俺がどれだけ失敗しても、最終的に見捨てないってわかってた」


 彼の声は静かだ。


「だから安心して、何度もやり直せた」


 その言葉に、胸の奥がきゅっと締まった。


「……怒りませんの?」


 思わず、そんな言葉がこぼれる。


「何に」

「わたくしが……少し、ずるいことをしていたかもしれないことに」


 誘導して、考えさせて、遠回しに矯正してきた。それを責められても、おかしくはない。

 だが彼は、ふっと笑った。


「怒るわけないだろ」


 迷いなく言う。


「そんなロゼッタだから、俺は好きなんだ」


 時間が、止まった。その告白は、驚くほど自然だった。


「俺のこと、ちゃんと見てくれてる。甘やかさないし、見捨てない」


 一歩、さらに近づく。


「表の顔も、裏の顔も、どっちもお前だろ」


 逃げ場はない。けれど、不思議と怖くなかった。


「……ずるいのは、どちらでしょう」


 小さく言うと、彼は笑う。


「さあな」


 そして、そっと手を差し出した。


「これからも、隣にいろよ」


 命令ではない。確認でもない。願いだった。


 わたくしは、しばらくその手を見つめる。


 6歳の頃、引き抜いた花を押しつけてきた手。

 8歳でぎこちなく謝った手。

 10歳で悔しさを握りしめた手。

 12歳で迷わず選んだ手。

 そしていま、わたくしを理解した上で差し出される手。


 そっと、自分の手を重ねる。


「……仕方ありませんね」


 くすりと笑う。


「まだ、教育の途中ですもの」

「まだあるのかよ」

「ええ、山ほど」


 顔をしかめる彼を見上げながら、わたくしは思う。


 婚約者矯正計画は、とうに形を変えていた。これはもう、教育ではない。

 互いの本音を知ったうえで、それでも選び続けるということ。


 14歳の初夏。わたくしたちは、ようやく本当の意味で、並び立ったのだった。




 王家からの打診が届いた16歳のある日。わたくしはいつもと変わらず優雅に紅茶を飲んでいた。


 ――マリアナ王女殿下の伴侶候補として、オリオン公爵令息の名が挙がっている。

 それは命令ではない。だが、断られることを想定していない書きぶりだった。執事が退室し、父が重々しく息を吐く。


「ロゼッタ……」

「ええ、お父様。存じておりますわ」


 にこり、と微笑む。いつも通り、可憐に。

 視線の質が変わっているのは感じていた。ここ数日、社交界で向けられる目はどこか探るようで、そして少しばかり憐れむようでもあった。


 ――王女殿下が本気らしい。

 ――公爵家もさすがに逆らえまい。


 勝手な予想が、ひそやかに広がっている。だが、わたくしの胸は、不思議なほど静かだった。

 選ぶのは、オリオンだ。……まあ、もしもふらりと王家に行こうものなら、そのときはそれなりの教育を施しますけれど。

 口元がわずかに緩みそうになり、慌てて扇で隠した。



 王城の庭園は、初夏の光に満ちていた。

 マリアナ王女は13歳にして、完成度の高い美しさを持っている。陽を透かす金髪も、まっすぐに伸びた背筋も、王族としての自負をそのまま形にしたようだった。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございますわ」


 淀みない所作。柔らかな声。だがその瞳には、疑いがない。自分が選ばれるのだという確信が見て取れた。


「公爵令息。あなたは優秀で、将来性もある。王家の一員として申し分ありませんわ」


 褒め言葉のはずなのに、オリオンの胸に響くのは、どこか乾いた音だった。

 王女は続ける。


「より高みへ行きたいとは思いませんこと?」


 高み。その言葉に、胸の奥がわずかにざわめいた。

 かつての自分なら、迷わず頷いただろう。誰よりも強く、誰よりも上に。選ばれる男であることが価値だと、疑いもしなかった頃の自分。


 ふと、別の光景が浮かぶ。


 泣き虫のふりをして、しかしどこか達観した瞳でこちらを見つめる少女。剣術の稽古帰り、泥だらけの自分に「素敵ですわ」と言って笑った顔。

 あの視線に、情けない姿を見せたくなかった。ただそれだけで、剣も、勉学も、死ぬ気で取り組んだ。選ばれるためではない。彼女の隣に立つに足る自分でいるために。

 そこまで思い描いて、静かに悟る。


(ロゼッタと出会わなければ、俺も殿下のように、当然の顔で“選ぶ側”に立っていたかもしれない)


 マリアナ王女は悪ではない。ただ、自分が正しいと疑っていないだけだ。


「殿下は、なぜ私をお望みなのですか」


 率直に問うと、マリアナ王女は小さく首を傾げた。


「当然でしょう。あなたが最もふさわしいからですわ」


 そこに迷いはない。だがそこには、“オリオン”はいない。あるのは、家柄と能力と、王家にとっての利点だけ。



 数日後、王との私的な謁見の場で、ついに核心が告げられた。


「王女はそなたを望んでいる。婚約は解消するのだな」


 断定に近い言い方だった。オリオンは一瞬、視線を落とす。

 もしここで頷けば、王家の一員となる未来が開ける。家の名も、権力も、さらに強固になるだろう。だがその未来に、ロゼッタの姿がないことを思うと、不思議なほど何の魅力も感じなかった。


「陛下」


 顔を上げる。


「私はすでに、人生を共にする相手を決めております」


 王の目が細められる。


「王命であれば?」


 空気が張り詰める。けれど、オリオンの声は静かだった。


「それでも変わりません」


 怒りも反抗もない。ただの事実。


「……理由は」

「私は、ある令嬢に恥じぬ自分でありたいと思い、ここまで来ました」


 王は黙る。


「彼女と出会わなければ、私は今頃、“高みへ行きたい”と思っていたかもしれません。ですが今は違う。私は、彼女の隣に立ちたいのです」


 オリオンの言葉を聞いて、王は息を吐いた。このような目は、それこそ死地に向かう戦士が持つものだ。王に歯向かうことが死に直結する可能性があることも理解したうえでの発言。


「王女には、私から話そう」


 公爵家嫡男を、王女との縁談を断ったぐらいで殺すわけにはいかない。そんなことをすれば、反発は避けられまい。



 オリオンがマリアナ王女と庭園で再び向き合ったとき、彼女の背は、以前よりもわずかに小さく見えた。


「断られたそうですわね」


 声音は平静。だが、握られた指先が白い。


「はい」

「わたくしでは不足でしたの?」


 それは誇りを守るための問いではなく、確かめるための問いだった。まだ13歳の少女の、不器用な確認。


「不足ではありません。ですが、違うのです。」


 王女は小さく首をかしげる。


「何が、違いますの?」


 オリオンは一瞬だけ視線を落とし、静かに言葉を選んだ。


「殿下は、かつての私に似ている。昔の私は、強ければいいと思っていた。優れていれば、それで十分だと。家柄も、能力も、将来性もある。だから――」


 そこで、わずかに自嘲を含ませる。


「自分が選ばれない可能性など、考えたことがなかった」


 王女のまなざしが、わずかに揺れた。


「常に、自分が選ぶ側だと疑っていなかったのです」


 それは傲慢というより、前提だった。呼吸のように自然な思い込み。


「殿下も、そうではありませんか」


 問いは穏やかだ。責める響きはない。

 王女はすぐには答えなかった。やがて、ゆっくりと口を開く。


「……わたくしは、あなたを最もふさわしいと判断いたしましたわ」

「はい」

「それが間違いだとは、思っておりません」

「ええ」

「ですが……」


 そこで初めて、言葉が詰まる。


「あなたは、それでは動かなかった」


 そこに、彼女の動揺の核心があった。オリオンは静かにうなずく。


「私は、かつて“価値があるかどうか”で人を測っていました。けれど――」


 脳裏に浮かぶのは、一人の少女の姿。強さでも、家柄でもなく。ただ隣に立ち続けた存在。


「初めて、自分が選ばれる立場になると知ったのです」


 隣に立つに足る人間でなければならないと。守るのではなく、並ぶのだと。


「殿下は、私を評価してくださった。ですが、私はすでに別の人を選んでいる」


 王女が目を伏せた。


「わたくしは、あなたを選ぶ立場だと思っておりました」


 オリオンは静かに否定する。


「殿下が選ぶ立場ではなかった、という意味ではありません。ただ私は、最初から彼女と並ぶと決めていただけです」


 王女はしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと顔を上げた。


「わたくしは……常に、選ぶ側であることが当然だと思っておりました」


 初めて、自分で口にする。


「選ばれないということを、考えたことがなかった」


 悔しさはある。だが、その悔しさは他者への怒りではない。自分の未熟さへの気づきだ。


「ならば」


 背筋を伸ばす。


「わたくしも、選ばれるに値する人間になりますわ」


 涙はない。13歳の少女は、そこで初めて“基準”を自分の外に置いた。

 オリオンは小さく息を吐く。

 ――やはり、自分と似ている。だが、自分と同じなら、きっと変われる。



 数日後、ロゼッタは自邸の庭でオリオンを迎えた。いつも通りの軽やかなやり取りのあと、ふと真面目な顔になる。


「……本当に、よろしかったのですか?」


 その問いに、オリオンは眉をひそめた。


「何がだ」

「高みにいかなくて」


 わずかにからかうように言う。オリオンは一歩近づき、ロゼッタの額を軽く弾いた。


「痛いですわ」

「俺の高みは、ここだ」


 彼女の目の高さに合わせる。


「お前の隣以上に上はない」


 ロゼッタは一瞬だけ目を見開き、それからふふっと笑った。


「まあ。随分と育ちましたこと」

「誰のせいだと思っている」

「わたくしは何もしておりませんわ」


 そう言いながら、内心では思う。

 本当に、少しだけ。あの王女は、昔の彼に似ていた。ならばきっと、あの子も変われる。





 婚約解消騒動から二年。

 社交界は、噂よりも早く次の話題を探す生き物だ。あれほど騒がれた王女の縁談話も、いまでは「ああ、そんなこともあったわね」と優雅に笑われる程度になっていた。

 そして迎えた、ロゼッタ18歳の春。結婚式の日、王都はめずらしく晴れ渡っていた。


「緊張していらっしゃるの?」


 花嫁衣装に身を包みながら、ロゼッタは鏡越しに隣の青年を見上げた。


「していない」

「まあ。ではその手の震えは?」


 指摘され、オリオンは一瞬だけ視線を逸らす。


「……お前が階段から落ちないように確認しているだけだ」

「落ちませんわ。重いドレスで歩く練習もしておりますもの。」

「そんな練習をするな」


 ぴしゃりと言いながら、手はしっかりと彼女を支えている。

 二年前、王の前で静かに拒否を言い切った青年は、今も変わらず無駄に真面目で、そして相変わらず、ロゼッタにだけは過保護だった。


「18歳にもなって、まだ意地悪ですのね」

「誰にだ」

「わたくしにですわ」

「……お前が悪い」

「まあ」


 口ではそう言いながら、目はやわらかい。


 式は滞りなく進み、王族も参列した。マリアナ王女は、二年前よりも背が伸び、表情も落ち着いている。だがその瞳の奥にある負けず嫌いな光は、消えていなかった。

 誓いの言葉を交わす二人を、まっすぐに見つめている。羨望でも、悔恨でもない。観察する目だ。



 結婚から数か月後。

 公爵邸に、王家から正式な書状が届いた。差出人は――マリアナ王女。

 封を切ったロゼッタは、目を細める。


「まあ」

「何だ」


 隣で書類を読んでいたオリオンが顔を上げる。


「王女殿下が、わたくしをお招きですって」

「断れ」


 即答だった。


「最後まで読んでくださいませ」


 ロゼッタは声を整え、文面を読み上げる。


 ――ロゼッタ公爵夫人を、王女付指南役として迎えたい。


 王女付指南役。形式上は助言者とされる役目だが、実質は教育係に近い。王族の人格形成や社交判断に関わる、重い役目だ。

 オリオンの眉間に皺が寄る。


「理由は」

「……『あなたは、あの方を変えた。わたくしも学びたい』と」


 沈黙が落ちる。二年前の庭園が、ふと蘇る。

 自分をかつての姿だと言われた少女。選ばれるに値する人間になる、と宣言した13歳。


「……本気か」

「ええ」


 ロゼッタは書状を畳み、微笑んだ。


「どうなさいます?」

「どうもこうもない」


 即答だが、今度は少しだけ迷いがある。


「危険はないか」

「ございませんわ。むしろ光栄に存じますわ」


 オリオンはしばらく黙り、それから低く言った。


「何かあれば、すぐ戻れ」

「まあ。追いかけてくださるの?」

「当然だ」


 ロゼッタはくすりと笑う。


「本当に、立派になりましたわね」

「誰のせいだ」

「わたくしは何も」


 そう言いながら、胸の奥で小さく頷く。ええ、次は王女殿下ですのね。



 王城の応接室で、15歳になったマリアナ王女は、まっすぐロゼッタを迎えた。


「本日はありがとうございます、公爵夫人」

「こちらこそ、お招き光栄に存じますわ」


 儀礼を終えたあと、王女は一度だけ息を吸い込んだ。


「単刀直入に申し上げます。わたくしは、あなたに学びたい」


 率直だった。


「何を、でございましょう」

「対等に立つということを」


 迷いのない答え。


「わたくしはかつて、肩書きと能力でしか人を測っておりませんでした……そして、自分の判断が正しいことを疑いませんでした」


 自嘲気味に微笑む。


「あなたのご主人は、それを否定なさいましたわ」


 ロゼッタは静かに聞いている。


「わたくしは、常に選ぶ側に立っていた。……けれど、あのとき初めて、選ばれなかった」


 悔しさではなく、理解の色。


「あの方が変わられた理由は、あなたなのでしょう?」


 問いではなく、確認。ロゼッタはゆっくりと首を傾げる。


「変えた、というよりは……少し背を押しただけですわ」

「その方法を、教えてほしいのです」


 15歳の王女は、二年前よりずっと素直だった。ロゼッタはしばし考え、それから微笑む。


「ではまず、殿下」

「はい」

「ご自分が間違える可能性を、常に一つ残しておくことです」


 王女は瞬きをする。


「……それだけ?」

「それだけですわ」


 かつてのオリオンに欠けていたもの。自分が正しいと疑わない姿勢。

 王女はゆっくりと頷いた。


「……難しそうですわね」

「ええ。とても」


 ロゼッタは楽しそうに笑う。


「ですが、殿下はもう一度負けたことがありますもの。素質は十分ですわ」


 一瞬、王女が吹き出した。


「あなた、本当に恐ろしい方ですわね」

「まあ。褒め言葉として受け取ります」


 応接室の外で、遠巻きに見守っていたオリオンは、小さく息を吐いた。


「……育成対象が増えたな」


 呟きは、誰にも聞こえない。だが部屋の中では、15歳の王女が真剣な顔でペンを走らせている。そしてロゼッタは、いつもの可憐な微笑みでそれを見守っていた。


「ロゼッタ」


 帰りの馬車で、オリオンが呼ぶ。


「はい?」

「俺の教育はもう終わりか?王女よりは優秀だと思うが」


 少しだけ不安げで、ちょっと妬いている表情だ。ロゼッタはにっこりと微笑む。


「さて。どうでしょう」

「おい」

「安心なさって。殿下よりは手がかかりませんわ」

「比較するな」


 不満げな声に、ロゼッタは楽しそうに笑った。

 好きな子に意地悪する系男子な婚約者は、立派に夫となった。それでもたまに拗ねるあたり、まだほんの少しだけ、伸びしろがあるのかもしれない。

 その可能性を考えながら、ロゼッタはそっと彼の腕に寄り添った。


 ええ。教育は、一生続くものですもの。

 ――とりあえず、夫から。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
人を教育するのはこれほどの熱意と時間がなければ難しいのだなぁ…とも思う話でもありました。子供だから使える手管、というものはありますよね…。それをなんと効果的に使われたことか! 怖いことを人に素直に言え…
転生していたとはいえロゼッタは気が長いですね。オリオンも素直に話を聞き入れるタイプでよかったです。素敵なお話をありがとうございました。
オリオンが転生者でもない限り「……俺、天狗だったか?」って台詞は不自然かと思います。 まあもしかして天狗のいる世界観だったら申し訳ないですが。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ