Part 4:記録は変わる
概要:
ソフィアは再び書架へ向かい、以前記した紙片に“変化”が生じていることに気づく。
それは読み手の存在を示す応答であり、記録そのものが“書かれたとおりではなくなっている”という異変。
回廊に残るファーティマの気配が完全に消えるのを、ソフィアは柱の影でじっと待っていた。
音もなく、匂いも残さず、彼女は去った。けれどその言葉と視線の余韻だけが、空気に膜のように残っていた。
「……帳簿に紛れた紙。」
誰かが何かに近づいている――それはもはや予感ではなく、確信に近い。
それでも今は、それを追うことはできなかった。
彼女の胸の奥には、別の緊張があった。
あの紙片――書架に戻された、あの応答。
誰が“読んだ”のか。
その読者は、どこからアクセスしたのか。
そして、それは未来か、それともここにいる誰かなのか。
ソフィアはふたたび、扉の奥へと足を踏み入れた。
書架は沈黙していた。
だがその沈黙は、まるで息をひそめた生き物のように、生々しい。
巻紙を収めている棚を開く。そこには、彼女の過去の記録が、折り重なるように束ねられていた。
墨の色も、紙の質も、それぞれ違う。だがすべて、彼女の手から生まれた言葉たちだ。
その中から、一枚の紙片を取り出した。
たしかに、自分で書いたものだった。
けれど、違っていた。
記憶と文字の並びが、一致しなかった。
彼女が書いたはずの文――
「書かれる言葉は、沈黙の中でひとり歩き出す」
そう記した記憶がある。たしかにそうだった。
だが今、紙に書かれていたのはこうだ。
「沈黙が歩き出すとき、書かれる言葉は遅れてついてくる」
意味は似ている。だが構造が違う。
読み手によって読み替えられたような、そんな感触。
筆跡は間違いなく自分のものだ。
だが、どこかが違う。
筆圧、文字の角度、インクの乾き方――すべてが微妙に“後書き”を思わせた。
ページを裏返す。
そこにはさらにもう一文、記憶にない言葉が書かれていた。
「おまえの記録は、わたしに届いている。だが、私が誰であるかは、おまえが書き終えるまで知られない。」
ソフィアは言葉を失った。
これは夢ではない。
幻想でも、幻覚でもない。
この記録は、生きている。読む者に応答して、書き換えられていく。
この現象を、彼女は知識として知っていたわけではない。
だが、感じた。
書架が“読む存在”を受け入れ、その読み方に応じて、記録の構造を微かに変化させる。
記録とは、封じられたものではない。
書かれた瞬間から、読み手との“往復”が始まる。
「……これが、ナディームの言っていた意味……?」
以前、夢の中で語られた言葉が蘇る。
――読む者がいなければ、書かれたものはまだ未完成だ。
彼女は震える手で、筆を取った。
紙片の余白に、そっと言葉を書き添える。
「あなたは、すでに読んでいる。ならば私は、まだ書ける。」
それは記録であり、返信でもあった。
棚にその紙片を戻した瞬間、わずかに空気が揺れた。
彼女ははっきりとは見なかった。だが、紙片がしまわれた瞬間に、その文字がわずかに“位置をずらした”ように見えた。
読まれた記録は、変わる。
変わることによって、また新たに書かれる場所が生まれる。
書くこととは、いつも遅れてやってくる呼吸を追いかけること。
そうナディームは語っていた気がした。




