Part 3:気配と影とファーティマ
概要:
現在へ戻り、ソフィアが書架での異変に動揺している最中、ファーティマがさりげなく接近。
表面的には穏やかな会話だが、互いに“探り”を入れる応酬。
ファーティマが、ソフィアが何かを隠していることに気づいた兆し。
ソフィアは書架の空間を離れ、再び白い回廊を歩いていた。
身体は動いていたが、意識はさきほど見た紙片の余韻に囚われていた。
“夢に棲まう者よ。私は読んだ。”
あの文字は誰のものだったのか?
本当に「読者」がいるのか? それとも彼女自身が――
「ソフィア?」
その名が、回廊の外から響いた。
彼女は歩みを止めた。まるで、現実に引き戻されるように。
そこにいたのは、ファーティマだった。
柔らかな藍色の頭巾をかぶり、銀糸の縁飾りが控えめに光っていた。手には小さな籠。中には香草と綿布。いつも通りの、何気ない風貌。だが、その瞳だけは、何かをはかっていた。
「こんなところで、なにをしているの?」
声は穏やかだった。言葉にも咎めはなかった。
けれどその“穏やかさ”こそが、何よりも問いを含んでいた。
ソフィアは一瞬、答えを探したが、微笑みを先に浮かべた。
「祈りの回廊は静かだから。少し、詩の断片を書きたくて。」
「……詩ね。」
ファーティマはにこやかに頷きながら、二歩だけ近づいた。
「ソフィアの“詩”は、いつも少し難しい。私にはよく分からないの。」
「わからない詩のほうが、残るものよ。言いすぎた詩は、ただの喋りに過ぎない。」
「……本当にそう思う?」
ファーティマは首をかしげた。小さく、優雅な仕草。だがその動きの中に、何かが刺さっていた。
籠の中から香草を一枝取り出し、指で遊びながら彼女は言った。
「昨日ね、レオノール様がおっしゃっていたわ。記録室の帳簿に、見慣れない紙が紛れていたって。」
ソフィアの胸の奥が一瞬だけ沈んだ。だが表情は動かない。
「帳簿に?」
「ええ。あなたの筆跡によく似ていたって。」
香草の葉を指先でちぎる音が、妙に響いた。
「わたしの手紙や記録が、あちこちで迷子になるのは昔からよ。」
「ええ、きっとそうね。」
ファーティマはそのまま微笑んだ。だがその笑みは、いつもよりわずかに深かった。
沈黙が生まれた。ふたりの間に音がなかった。
そしてファーティマは、まるで何でもない雑談をするように言った。
「あなたの書きもの、誰かに見せたことある?」
ソフィアはそれにすぐ答えなかった。
返答のために時間が必要だったわけではない。
ただ、その質問の“形”があまりに整いすぎていて、どこかで準備されていたように感じたからだ。
「見せたことはないわ。」
「でも、読む人がいると信じて、書いてる。」
ファーティマの眉がわずかに動いた。口元が引き締まり、次の言葉を選ぶ気配を見せたが、言い換えたようだった。
「それって……誰かに向けた手紙みたいなもの?」
「そうね。手紙。だけど返事は来ない。ずっと。」
「いつか、返事がくると思ってる?」
「――いいえ。来ないと分かってるから、書くのよ。」
その瞬間、ふたりの目が合った。
どちらも、わずかに笑っていた。
だがその笑みの奥にある感情は、まったく違うものだった。
ファーティマは礼儀正しく頭を下げ、何かを口にせずに踵を返した。
その後ろ姿には、いっさいの敵意も焦りもなかった。むしろ、満足に近い沈黙が残されていた。
ソフィアは一歩も動かなかった。
風が通り、白い回廊の柱に音がぶつかった。
音はすぐに吸い込まれ、何も残さなかった。




