Part 2:最初の迷い(回想)
幼い頃のソフィアが、偶然この場所に入り込んだ夜の記憶。そこでナディームの“最初の声”を聞く。
回廊が呼ぶ前に、彼女は一度、迷い込んでいた。
まだ年端もいかぬ頃だった。
齢で言えば八つか九つ。記憶のなかでは、それすらはっきりしない。
その夜、ソフィアは迷子だった。
星が見えなかった。
父がいない日だった。母の機嫌が悪く、台所では火と怒声が揺れていた。
空気の密度が嫌で、逃げ出した。
宮殿の中庭には出入りの自由があった。彼女は書記官の娘としてある程度の移動を許されていたし、誰もその小さな影を追わなかった。
だがその夜に限って、彼女は一度も通ったことのない石廊へと迷い込んだ。
白い回廊。
そこに名前などないことを、彼女はこのときまだ知らなかった。
だが入った瞬間、空気が違うのを感じた。
音が吸われる。
光が壁に染み込んでいく。
歩けば歩くほど、「戻れない感じ」が強くなる。
今にして思えば、あれは一種の“夢”だったのかもしれない。
だが、夢にはない細部が、はっきりと残っている。
壁に浮かぶ紋様。
それは文字ではなかった。だが「読むことができた」。
幾何学模様の中に、ある種の運動を感じたのだ。
目で追うだけで、物語のようなものが流れていく。
そのとき初めて、ソフィアは「読む」という行為が言葉に限られないことを知った。
空間の奥に、小さな棚があった。
書がない棚。
何も載っていない、ただの石の枠組み。
だが彼女にはそこに、**何かが“ある”**と確信できた。
手を伸ばす。
すると、壁の一部が淡く光を帯びた。
その光が語った。
声ではない。耳には届かない。
だが確かに、**その存在が彼女の心の奥に“言葉を投げかけた”**のだ。
――おまえは、読むより前に、書いてしまった。
ソフィアは息を呑んだ。
誰もいなかった。だが確かに、何者かがそこにいた。
――書くとは、読むことの前兆だ。
――おまえの中にあるものは、まだ世界に現れていない。
恐怖はなかった。
むしろ、懐かしさに近いものがあった。
そのときから、彼女の中には“言葉にならない何か”が住みはじめた。
以後、何度も夢の中で同じ声を聞いた。
姿は決して現れなかった。
だがいつも、言葉を残していった。
ナディーム。
名は後になって、彼女が与えた。
語り手、夢の影、光なき師。
あの日、白い回廊で初めて出会った“何か”こそが、彼女を“書く者”へと変えた。
*
回想から覚めるように、ソフィアは自らの手を見た。
震えてはいない。だが、あのときと同じ感覚が指先に残っていた。
読む前に、すでに書いていた――
そう思うとき、彼女の記録にはいつも「始まりの気配」が宿る。
そしてその始まりは、きっと今も、誰かの手の中で読み直されている。




