◆Part 1:呼ばれざる回廊
章の目的:
ソフィアが「見えざる書架」の本格的な探索を開始
宮廷内部の政治的な緊張感と、彼女の立場の危うさが浮かび上がる
幼き日の“最初の邂逅”が回想され、ナディームの存在が過去から現在へつながる
書架に宿る“読まれる知”の神秘が少しずつ形を帯び始める
Part 1:呼ばれざる回廊
回廊が拒んでいた。
ソフィアは足を踏み入れてすぐにそれを感じた。
空気がわずかに重く、沈んでいる。いつもなら壁をなでるように滑る月光が、今夜は石の肌に飲まれていた。
歩みを止めると、音が反響しない。耳に入るはずの足音が、壁に吸い込まれていく。まるでこの空間が、**“音の記録を拒んでいる”**かのように。
白い回廊。誰も正式な名前を口にしない場所。
色が抜け落ち、時間の境界がぼやけるこの空間に、彼女は何度も足を運んできた。
しかし今夜の回廊には、呼ばれていないという確信があった。
それでもソフィアは進んだ。
書架がある。彼女の書いた記録が眠る場所。まだ語られていないことが、そこに在る。
引き返せという警告を感じながら、彼女は歩いた。
月光の輪郭が、石の床に沿って伸びていた。壁面に施された幾何文様は、普段なら目に心地よい揺らぎを見せる。だが今夜は――模様が読めない。
ただの文様ではない。そこには詩が織り込まれていた。
ソフィアにとってこの壁は一冊の本だった。けれど、今夜はその頁が閉じられていた。
「なぜ……?」
声は出なかった。出す必要もなかった。
書架の空間に至るための扉――あの無文字の石戸が、すでに開いていた。
異常だった。
彼女は慎重に中へ足を踏み入れた。
空間は変わっていないはずだった。だが、どこかが違う。
視覚的な変化はない。ただ、記憶の中のこの場所と、今ここにある現実が一致しなかった。
書架はそこにあった。無数の“形なき書物”が眠る、石と香の気配に満ちた空間。
彼女は膝をつき、巻紙を納めた棚を開いた。
すると――そこに、見覚えのある一枚の紙が差し戻されていた。
それは、数日前に記したはずの一文だった。
「読む者がいなければ、私は書のなかの夢。」
その言葉の下に、別の文字が添えられていた。
明らかに、ソフィアの筆跡ではない。筆圧が違う。文字が揺れている。
そしてそれは、ラテン語でこう書かれていた。
“夢に棲まう者よ。私は読んだ。”
ソフィアの背筋に、ゆっくりと冷たいものが這い上がっていった。
誰かが読んだ?
いつ?
ここを知っているのは、彼女だけではないのか?
いや、違う。
これは、現実の誰かではない。
これは――
応答。
読まれることによって、言葉が変化した。
書かれた記録は、読み手によって形を変え、意味を育てる。
ナディームが言っていた。
「書かれることは、まだ未完だ。読む者が現れたとき、ようやくそれは語り出す」
ソフィアは紙を握りしめた。震えはなかった。
だが、心の奥にざわめきが生まれていた。
回廊が閉じようとしているのは、彼女のせいではない。
何かが“入り込んだ”からだ。
彼女は巻紙を一巻きほど抜き出し、静かに書き始めた。
「私はまだ、読者を見ていない。
だが読者はすでに、私を見ている。」
その行を書き終えたとき、遠くで、誰かの呼吸のような風の音が聞こえた。
書架が、読まれている。




