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『ソフィアの書架:アルハンブラの幻影』  作者: 雨宮余白
第2章:白い回廊にて

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6/11

◆Part 1:呼ばれざる回廊

章の目的:

ソフィアが「見えざる書架」の本格的な探索を開始

宮廷内部の政治的な緊張感と、彼女の立場の危うさが浮かび上がる

幼き日の“最初の邂逅”が回想され、ナディームの存在が過去から現在へつながる

書架に宿る“読まれる知”の神秘が少しずつ形を帯び始める

Part 1:呼ばれざる回廊


回廊が拒んでいた。


ソフィアは足を踏み入れてすぐにそれを感じた。

空気がわずかに重く、沈んでいる。いつもなら壁をなでるように滑る月光が、今夜は石の肌に飲まれていた。


歩みを止めると、音が反響しない。耳に入るはずの足音が、壁に吸い込まれていく。まるでこの空間が、**“音の記録を拒んでいる”**かのように。


白い回廊。誰も正式な名前を口にしない場所。

色が抜け落ち、時間の境界がぼやけるこの空間に、彼女は何度も足を運んできた。

しかし今夜の回廊には、呼ばれていないという確信があった。


それでもソフィアは進んだ。


書架がある。彼女の書いた記録が眠る場所。まだ語られていないことが、そこに在る。

引き返せという警告を感じながら、彼女は歩いた。


月光の輪郭が、石の床に沿って伸びていた。壁面に施された幾何文様は、普段なら目に心地よい揺らぎを見せる。だが今夜は――模様が読めない。


ただの文様ではない。そこには詩が織り込まれていた。

ソフィアにとってこの壁は一冊の本だった。けれど、今夜はその頁が閉じられていた。


「なぜ……?」


声は出なかった。出す必要もなかった。

書架の空間に至るための扉――あの無文字の石戸が、すでに開いていた。


異常だった。


彼女は慎重に中へ足を踏み入れた。


空間は変わっていないはずだった。だが、どこかが違う。

視覚的な変化はない。ただ、記憶の中のこの場所と、今ここにある現実が一致しなかった。


書架はそこにあった。無数の“形なき書物”が眠る、石と香の気配に満ちた空間。

彼女は膝をつき、巻紙を納めた棚を開いた。


すると――そこに、見覚えのある一枚の紙が差し戻されていた。


それは、数日前に記したはずの一文だった。


「読む者がいなければ、私は書のなかの夢。」


その言葉の下に、別の文字が添えられていた。

明らかに、ソフィアの筆跡ではない。筆圧が違う。文字が揺れている。


そしてそれは、ラテン語でこう書かれていた。


“夢に棲まう者よ。私は読んだ。”


ソフィアの背筋に、ゆっくりと冷たいものが這い上がっていった。


誰かが読んだ?

いつ?

ここを知っているのは、彼女だけではないのか?


いや、違う。

これは、現実の誰かではない。


これは――


応答。

読まれることによって、言葉が変化した。


書かれた記録は、読み手によって形を変え、意味を育てる。

ナディームが言っていた。

「書かれることは、まだ未完だ。読む者が現れたとき、ようやくそれは語り出す」


ソフィアは紙を握りしめた。震えはなかった。

だが、心の奥にざわめきが生まれていた。


回廊が閉じようとしているのは、彼女のせいではない。

何かが“入り込んだ”からだ。


彼女は巻紙を一巻きほど抜き出し、静かに書き始めた。


「私はまだ、読者を見ていない。

だが読者はすでに、私を見ている。」


その行を書き終えたとき、遠くで、誰かの呼吸のような風の音が聞こえた。

書架が、読まれている。

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