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『ソフィアの書架:アルハンブラの幻影』  作者: 雨宮余白
第1章『見えざる書架

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Part 5:読まれること – 鏡のはじまり

『第四夜、ナディームの語り。姿なし。だが在りしもの。』


私はその行を読んだとき、背中にひやりとした感覚が走った。

どこかでこの言葉を、聞いたことがある。


そう思ってから、首を横に振った。あり得ない。

この手稿がいつのものか、まだ正確には断定できないが、少なくとも数百年は前。記録にあった紙の成分、筆跡の風化、綴じ方、使われている皮紙の手触り――すべてが時代を示している。


それでも、言葉の「響き」が、私の中の何かと繋がっているように感じた。


私は立ち上がり、部屋の空気を確かめた。

気密装置が止まっていた。止めた記憶はない。音もなく、部屋の空気はじんわりと外界と混ざり始めていた。


それがきっかけだったのか、私の中で記憶のひとつが軋んだ。


少女のころ、熱を出して寝込んでいたある夜。

眠っているのか、目覚めているのか曖昧な状態で――


誰かが、名もなき声が、こう言っていた。


書かれる前に、読む者は息をしている。


私はその声をずっと“夢”の一部だと片づけていた。だがいま、ここにあるこの記録とあまりに同じだった。

書かれたものが、記憶を喚起したのか?

それとも私は、この記録に呼ばれて、ここまで来たのか?


頁を繰る。

文字が密になっていく。詩と記録と数式のあわいを縫うような記述。


読み進めるごとに、言葉が私に読まれているような錯覚を覚えた。


ソフィア――


その名が、次のページに現れる。


いや、それだけではなかった。


その行の下、薄く書かれていた文字。墨が薄く、見落とせばただの染みのように思えた。


だが、私はそれを読んでしまった。


「これはあなたに向けた書である。」


それは明らかに、読者に向けられた“呼びかけ”だった。

そして“あなた”と書かれているのに、私は疑わなかった。これは私のことだと。


まるで頁が、鏡のようだった。

覗き込んだとき、映っているのは“他人”ではない。私自身だった。


私はその場に立ち尽くしたまま、口を開けたまま、何も言葉を発せられなかった。


けれど、心の奥では理解していた。


この記録は、ただの歴史資料ではない。

ソフィアの思想でも、手記でもない。


これは、誰かを映すために書かれたものだ。

鏡。だが、映すのは外見ではない。

読む者の中の、“まだ知らなかった自分”。


私は静かに頁を閉じた。

部屋は再び静かだった。空気は、やや冷えていた。


だがその冷たさは――私にとって、まるで再会のように感じられた。


(第1章 完)

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