Part 4:夢の扉 – ナディームの影
書くという行為のあとに、なにかが残っていた。
それは記録された文字ではなかった。
掌の温もりでもなく、灯の残滓でもない。
それは、夢の「予感」だった。
*
ソフィアは、その夜、眠るために目を閉じたわけではなかった。
目を閉じることで、開かれる扉があると知っていた。
そこへ導かれるとき、彼女は意志ではなく、静けさに身を委ねる。
部屋は静まり返り、夜気が微かに揺れている。
天井の漆喰が月光を反射し、まるで水面のように波打って見えた。
意識が溶けていく。
時間という枠が剥がれ、輪郭が曖昧になったその瞬間、声が降りてくる。
――ソフィア。
その呼びかけは、耳ではなく、胸の奥で響いた。
――まだ書いているのか。
彼女は夢の中で立っていた。足元には床がない。光の糸が地に縫い付けられているような空間。目の前には、姿なき存在。輪郭すらない。ただ、言葉だけがそこに「在る」感覚。
「ナディーム……?」
名を問うたのか、思っただけなのか、それすら不確か。
だが応答はあった。
――名前に意味はない。
――声が残る。言葉が歩く。だが、おまえはまだ、書きすぎている。
「……どういうこと?」
――おまえは、“読み手がいないこと”を恐れている。
――だが読む者は、常におまえの前にいる。
「そんな者はいない。ここには私だけ。私の言葉は……」
――読むことは、在ることだ。
――おまえが書くのは、読み手がそこにいるからだ。書かれる前から、読む者は息をしている。
光が揺れた。
ソフィアの目の前に、淡い姿が現れかけた。人のようで、人ではない。顔もなければ声帯もない。影の中に光があり、光の中に影があった。
「私は、私のために書いている。違うの?」
――そう思っていい。だがそれは嘘だ。
言葉は穏やかで、決して拒絶ではなかった。むしろその柔らかさが、ソフィアの胸を刺した。
ナディームの声は続けた。
――この言葉は、やがて鏡になる。
――読む者は、おまえを通じて、自分を見るだろう。
――そして、おまえもまた、彼らの記憶になる。
光が収束し、遠のく。夢の扉が閉じようとしていた。
最後に聞こえたのは――
――書け。だが、語るな。語る言葉は忘れられる。書かれた言葉は、迷う。
そして世界が、闇へと沈む。
沈黙だけが残った。
*
ソフィアは目を覚ました。体が冷えている。だが、心臓は静かだった。
彼女は、ゆっくりと起き上がる。机に向かい、巻紙の続きを開いた。そこに、夢で語られた言葉をそのまま記すわけにはいかなかった。だが、“詩”という形でならば、書くことができた。
筆を取り、墨を走らせる。
「語るなかれ、と誰かが言った。だが私は書く。忘れられることを恐れぬように。迷う者のために。」
「読む者がいれば、私はただの影ではない。読む者がいなければ、私は書のなかの夢。」
そしてその詩の下に、彼女はこう記した。
『第四夜、ナディームの語り。姿なし。だが在りしもの。』
その日以降、ソフィアの記録は微かに変化した。
まるで、どこかで誰かが読んでいることを――信じている者の手によるように。




