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『ソフィアの書架:アルハンブラの幻影』  作者: 雨宮余白
第1章『見えざる書架

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Part 4:夢の扉 – ナディームの影

書くという行為のあとに、なにかが残っていた。


それは記録された文字ではなかった。

掌の温もりでもなく、灯の残滓でもない。


それは、夢の「予感」だった。



ソフィアは、その夜、眠るために目を閉じたわけではなかった。

目を閉じることで、開かれる扉があると知っていた。

そこへ導かれるとき、彼女は意志ではなく、静けさに身を委ねる。


部屋は静まり返り、夜気が微かに揺れている。

天井の漆喰が月光を反射し、まるで水面のように波打って見えた。


意識が溶けていく。

時間という枠が剥がれ、輪郭が曖昧になったその瞬間、声が降りてくる。


――ソフィア。


その呼びかけは、耳ではなく、胸の奥で響いた。


――まだ書いているのか。


彼女は夢の中で立っていた。足元には床がない。光の糸が地に縫い付けられているような空間。目の前には、姿なき存在。輪郭すらない。ただ、言葉だけがそこに「在る」感覚。


「ナディーム……?」


名を問うたのか、思っただけなのか、それすら不確か。


だが応答はあった。


――名前に意味はない。

――声が残る。言葉が歩く。だが、おまえはまだ、書きすぎている。


「……どういうこと?」


――おまえは、“読み手がいないこと”を恐れている。

――だが読む者は、常におまえの前にいる。


「そんな者はいない。ここには私だけ。私の言葉は……」


――読むことは、在ることだ。

――おまえが書くのは、読み手がそこにいるからだ。書かれる前から、読む者は息をしている。


光が揺れた。

ソフィアの目の前に、淡い姿が現れかけた。人のようで、人ではない。顔もなければ声帯もない。影の中に光があり、光の中に影があった。


「私は、私のために書いている。違うの?」


――そう思っていい。だがそれは嘘だ。


言葉は穏やかで、決して拒絶ではなかった。むしろその柔らかさが、ソフィアの胸を刺した。


ナディームの声は続けた。


――この言葉は、やがて鏡になる。

――読む者は、おまえを通じて、自分を見るだろう。

――そして、おまえもまた、彼らの記憶になる。


光が収束し、遠のく。夢の扉が閉じようとしていた。


最後に聞こえたのは――


――書け。だが、語るな。語る言葉は忘れられる。書かれた言葉は、迷う。


そして世界が、闇へと沈む。

沈黙だけが残った。



ソフィアは目を覚ました。体が冷えている。だが、心臓は静かだった。


彼女は、ゆっくりと起き上がる。机に向かい、巻紙の続きを開いた。そこに、夢で語られた言葉をそのまま記すわけにはいかなかった。だが、“詩”という形でならば、書くことができた。


筆を取り、墨を走らせる。


「語るなかれ、と誰かが言った。だが私は書く。忘れられることを恐れぬように。迷う者のために。」


「読む者がいれば、私はただの影ではない。読む者がいなければ、私は書のなかの夢。」


そしてその詩の下に、彼女はこう記した。


『第四夜、ナディームの語り。姿なし。だが在りしもの。』


その日以降、ソフィアの記録は微かに変化した。

まるで、どこかで誰かが読んでいることを――信じている者の手によるように。

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