Part 3:初めての書 – 光の中の声
「一度書いた言葉は、もう彼女のものではなかった。」
その思いを背に、ソフィアは回廊を抜け、己の小部屋へと戻っていた。夜は深く、宮殿の明かりもほとんど落ちている。彼女の足音は、石の廊下に響かない。そういう歩き方を、もう何年も前に覚えていた。
扉を閉じると、わずかな焚香の残り香が迎えた。白檀。ハサン師が教えてくれた、記憶を呼び覚ます香りだ。
彼女は机に向かう。木製の机は傾斜がついており、上には手書きの紙片が積み重なっている。いずれも言葉未満の断片。詩のようでいて詩にならぬ、思想のようでいて論理にならぬ、あるいは夢の一部のような語たち。
月の光が、細く引かれた窓から机の上をなぞる。ロウソクに火をつけず、彼女は暗がりの中で筆を取った。
巻紙を広げ、墨を軽く含ませ、言葉を綴る。
「すべての始まりに、音はなかった。だが影があった。回廊の壁に這う影は、記憶に似ている。形を持たず、だが確かにここにある。」
「私の中に住まう声がある。それは私の声ではない。だが私が黙したとき、それが語り始める。」
彼女は筆を止めた。
空気がまた、微かに変わった。さきほどよりも冷たい。だが、その冷たさは不快ではなかった。むしろ、皮膚の表面を洗われるような感覚。かすかに、声のようなものが、部屋の隅に漂っていた。
窓の格子から光が差し込む。その光が、まるで言葉に変わるように見えた。
彼女は筆を走らせる。
「言葉は光である。読む者の瞳に届くとき、初めてそこに在る。書くことは光を編むこと、読むことはその糸をほどくこと。」
「そしてその糸の先には、誰かがいる。私はまだ、その誰かに出会っていない。」
再び、筆が止まる。
今度は、胸の奥がざわついた。理由のない動悸。記憶にない鼓動。ふと、幼い頃、夢の中で誰かに語りかけられた声が脳裏をよぎる。
“書きなさい。声は手を通って現れる。”
あれは、ナディーム。名もなき夢の語り手。存在か幻か、今となっては確かめる術もない。けれど、その声だけは今もはっきりと憶えている。誰かが肩に手を置いたような、優しくも静謐な語り。
ソフィアは深く息を吐いた。
机の上の頁に、彼女は最後の一文を書き加えた。
「私は今夜、見えない声に導かれて書いている。だがその声が、私の中にあったのか、外にあったのか、それはわからない。」
彼女は筆を置いた。巻紙を丁寧に巻き、布で包み、箱に納める。
沈黙。
外では風が立ち、遠くで水が流れる音がする。アルハンブラ宮殿の中庭にある噴水だ。音が、詩のようだった。
ソフィアはその音に耳を澄ませながら、頬に手を当てた。掌が少し冷たい。だが、胸の中はあたたかかった。
書くという行為のあとに、なにかが残っていた。




