Part 2:記録の始まり – 白い回廊の影
「白い回廊で、私は私でなくなった。」
その一文が頁に現れた瞬間、語り手の部屋からは空調音が消え、世界が静止したようだった。
――そして場面は、回廊へと移る。
*
靴音を立てないよう、ソフィアは薄いサンダルのまま石床を歩いていた。壁のモザイクが月光を跳ね返し、まるでその表面が呼吸しているようだった。アルハンブラの夜は静かで、だが静けさの中には多くの目が潜んでいる。壁の中、天井の木彫、柱の先――装飾が語る物語があまりに多く、時に誰かの視線と錯覚する。
風がそっと、柱の間を滑った。織物のような気配が背を撫でる。
ここは「白い回廊」と呼ばれている。実際の名前ではない。宮殿の人々はそれを地図にも書かず、口に出すことも避けていた。けれど、そこに足を踏み入れた者は、決まって同じことを言う。**“色が消える”**と。
ソフィアは知っていた。この回廊の先に、「見えざる書架」があることを。ハサン師がそう呼んだ。けれども、彼女が幼い頃、その師自身すらその場所には“触れなかった”。
見つけたのは彼女だった。
14の時、一夜の迷いの果てに。
月明かりが扉の縁に差し込む。石扉は重く、誰にも開けられぬような顔をしていたが、ソフィアの指先がそれに触れると、静かに、まるで吸い込まれるように開いた。
そこには“棚”があった。
だが、棚には本がなかった。あるのは、気配だけ。
それは形を持たない本たちだった。香り、重さ、記憶。
触れた者だけがそれを読むことができた。
“棚の書は、読む者に形を合わせる”――そうナディームは夢で言っていた。まだ幼かった頃、はじめて夢の中に現れた声。名もない語り部。
ソフィアは静かに床に座った。脇にある巻物用の布を取り出し、用意していた石炭筆で頁を開いた。
そして、初めて“自分の言葉”を記録する。
「夜の影が、柱の縁に揺れている。月の軌跡が文字のように回廊を横切る。」
「今日、私は書架の書を読んだ。だが、それが“何語で書かれていたか”を思い出せない。まるで、私の脳に直接書かれたようだった。」
「この記録は、読む者に届くだろうか? それとも、書く行為そのものが祈りなのか?」
彼女はふと、書きかけの頁から顔を上げた。空気が変わっていた。ほんの少し、温度が低くなったように感じた。
石の壁の向こうで、何かが“読んで”いた。彼女の言葉を、彼女よりも早く。
その夜、彼女は記録を閉じ、書架の影を背に、また回廊を戻った。
だが、一度書いた言葉は、もう彼女のものではなかった。




