Part 2:ファーティマの沈黙
概要:
ファーティマはソフィアに対して明確に距離を取り始めている。
会話は親しげだが、言葉の奥に“観察”と“警告”がある。
ソフィアはそれを見抜きながらも、直接は問い返さない。
沈黙の応酬が、二人の関係の核心に少しずつ近づいていく。
風のない午後だった。
アーチ越しの庭園には陽が差していたが、風は立っていなかった。
空気はぴたりと止まり、まるで建物全体がひと息を止めているようだった。
ソフィアは回廊の縁に腰をかけ、草稿を手にしていた。
書いているふりをしていたが、筆は進んでいなかった。
インク壺の縁にたまる光、紙に落ちる葉の影――
彼女の意識は、書かれるはずの言葉ではなく、**“書けないもの”**の方に向かっていた。
「今日は、陽が穏やかね」
声がして、ソフィアは顔を上げた。
ファーティマだった。
微笑んでいた。だがその笑みは、すでに完成されたものだった。
心のどこにも触れないように、欠けも継ぎ目もないように、最初から用意された表情。
「あなたもここに座る?」
ソフィアが軽く手で石の縁を示すと、ファーティマは首を傾げた。
「いいえ。立ったままで」
日差しが、彼女の頭巾の端を透かしていた。藍色の布越しに、肌の白さがぼんやりと浮かぶ。
「書いてたの?」
「少し」
「誰に?」
ソフィアは答えなかった。
代わりに筆を置き、手を膝に乗せた。
「あなたは最近、私によく話しかけるようになったわ」
ファーティマは驚いたように眉を動かしたが、声の調子は変えなかった。
「そうかしら? でも前より少しだけ、あなたが“話さなくなった”からよ」
「沈黙って、案外、よく聴こえるものよ」
「じゃあ私の沈黙も、聴こえてる?」
ソフィアは、その問いに少しだけ微笑んだ。
それは答えでもあり、挑発でもあった。
「……沈黙の中には、優しさもあるけど、ねたみもあるわ」
ファーティマは、その言葉に頷きもしなかった。
彼女の目だけが、ほんの一瞬、どこか遠くを見た。
「それは、あなた自身の言葉?」
「いいえ。書かれていたの」
「あなたの書物に?」
「そうね。たぶん、書いたのは私。読んだのは、別の誰か」
ファーティマは目を伏せた。
「あなたの言葉は、遠くまで届く気がする。声にしなくても。……でも、誰が読んでるのか分からないものって、怖くない?」
ソフィアは指先でインク壺の縁をなぞった。
「怖いと思ったことはないわ。だけど、見られてると思ったことは、ある」
「たとえば、私とか?」
沈黙。
ファーティマの問いは冗談のようで、冗談ではなかった。
ソフィアはそれを知っていた。
「あなたの目は、いつも温かいわ」
それが、肯定でも否定でもあることを、ふたりは知っていた。
ファーティマは肩をすくめ、踵を返した。
「きっと、私は“読む側”にはなれないのね」
「……あなたは読む側よ。ただ、声に出さないだけ」
「声にしないのが、わたしのやり方なの」
その言葉は、彼女の背中越しに放たれた。
歩き去るその背中には、怒りも悲しみもなかった。
けれど、静かな拒絶がまとわりついていた。
ソフィアは立ち上がらなかった。
庭の影が少しだけ伸び、彼女の脚の上に落ちた。
何も書かれなかった草稿の紙は、風がないのにひらりと一度だけめくれた。
それは、返事のない沈黙が、何かを語ったような気がした。




