Part 1:ささやきと炊事場
概要:
宮廷内の炊事場で働く女たちの間に流れる“言葉にならない噂”。
ソフィアがその場に現れたとき、一瞬だけ全員が黙る。
女性たちは誰も敵ではないが、誰も味方ではない。
その沈黙のあり方が、ソフィアの孤立と“言葉を持たない者たち”の連帯を浮かび上がらせる。
早朝の炊事場は、まだ音を立てていなかった。
火は起こされたばかりで、釜の底に薪が組まれ、じわりとくすぶっている。
煙はまだ立ちのぼらず、空気は冷たく湿っていた。
そこには、声にならない言葉があった。
大理石の床に這う水音、刃物の金属音、手布を絞る際の軋み――
それらのすべてが「話しかけないで」という静かな合意を持っていた。
十数人の女たちが、黙々と手を動かしている。誰もが、身を低く、目を伏せたまま。
この場所には、階級の差が入り込まない。
少なくとも表面上は。
言葉が、声になる前に飲み込まれる。
話し始めれば、何かが壊れてしまうから。
その沈黙のなかで、扉の軋みだけが、音を持って現れた。
ソフィアだった。
彼女の足取りは静かだったが、誰もがその気配を感じ取った。
鍋に火を入れていた女が、ほんのわずかに手を止めた。
水を汲んでいた女が、壺の口に蓋をし損ねた。
誰も彼女を見なかった。
だが、その場の空気が一瞬、沈黙から警戒へと変わった。
ソフィアは、わざと視線を避けるように歩いた。
炊事場の隅にある棚へ向かう。そこには香草や干し果実が収められている。彼女は薬草係としての名目でこの場に出入りできる立場にあった。だが、名目と実態は違う。
「また来たわ」
誰かが、声にしないまま心でつぶやいたのを、彼女は感じ取った。
その“声なき声”の波が、肌に触れるようだった。
一人の女が、背後でスカーフを直すふりをして、ちらりと彼女の背中を見た。
その視線は、好奇でも侮蔑でもなかった。
ただ、観察する者の目だった。
棚の前に立ち、ソフィアは小さな袋にレモンバームの乾葉を入れた。
それだけのことに、彼女は深呼吸を二度必要とした。
立ち去ろうとしたとき、背後から声がした。
「今日は冷えるわね、ソフィア様」
――ファーティマ。
まるでそこにいなかったかのように、静かに現れていた。
「ええ、炊事場の火がまだ目覚めていないわ」
ソフィアは振り向かずに応えた。
「今朝の香草は、なにか特別な用途?」
ファーティマの声は穏やかだった。まるで親しげな雑談の延長のように。
「胃の重さに。少しだけ。」
「あなた自身の?」
「いいえ。読まれすぎた夢の後に、少し身体が疲れただけ。」
ファーティマは一歩、距離を詰めた。
「夢を書くの?」
「夢だけは書けないの」
ソフィアがようやく振り向くと、ファーティマの顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。
それは柔らかい布で刃を包んだような笑みだった。
「それでも夢の中で、たくさんの人があなたを見ている気がするわ」
その言葉に、ソフィアは応えなかった。
炊事場にまた、沈黙が戻った。
けれどその沈黙は、先ほどまでとは異なっていた。
音のない詩のようなものが、空間全体に広がっていた。
女たちは、再び手を動かしはじめた。
火がくすぶり、湯気が立ち、野菜が刻まれ、皮が剥かれ、刃が砥石に当たる。
それらすべてが、何かを語っていた。
だがそれが何かを、誰も言葉にしなかった。
そしてその沈黙こそが、この空間を支配する唯一の言語だった。
ソフィアは香草袋を懐にしまい、誰にも告げずに炊事場をあとにした。
背中に突き刺さる視線はなかった。
代わりに、視線の代わりになるような沈黙だけが、彼女の背中に寄り添っていた。




