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『ソフィアの書架:アルハンブラの幻影』  作者: 雨宮余白
第2章:白い回廊にて

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Part 1:ささやきと炊事場

概要:

宮廷内の炊事場で働く女たちの間に流れる“言葉にならない噂”。

ソフィアがその場に現れたとき、一瞬だけ全員が黙る。

女性たちは誰も敵ではないが、誰も味方ではない。

その沈黙のあり方が、ソフィアの孤立と“言葉を持たない者たち”の連帯を浮かび上がらせる。

早朝の炊事場は、まだ音を立てていなかった。

火は起こされたばかりで、釜の底に薪が組まれ、じわりとくすぶっている。

煙はまだ立ちのぼらず、空気は冷たく湿っていた。

そこには、声にならない言葉があった。

大理石の床に這う水音、刃物の金属音、手布を絞る際の軋み――

それらのすべてが「話しかけないで」という静かな合意を持っていた。

十数人の女たちが、黙々と手を動かしている。誰もが、身を低く、目を伏せたまま。

この場所には、階級の差が入り込まない。

少なくとも表面上は。

言葉が、声になる前に飲み込まれる。

話し始めれば、何かが壊れてしまうから。

その沈黙のなかで、扉の軋みだけが、音を持って現れた。

ソフィアだった。

彼女の足取りは静かだったが、誰もがその気配を感じ取った。

鍋に火を入れていた女が、ほんのわずかに手を止めた。

水を汲んでいた女が、壺の口に蓋をし損ねた。

誰も彼女を見なかった。

だが、その場の空気が一瞬、沈黙から警戒へと変わった。

ソフィアは、わざと視線を避けるように歩いた。

炊事場の隅にある棚へ向かう。そこには香草や干し果実が収められている。彼女は薬草係としての名目でこの場に出入りできる立場にあった。だが、名目と実態は違う。

「また来たわ」

誰かが、声にしないまま心でつぶやいたのを、彼女は感じ取った。

その“声なき声”の波が、肌に触れるようだった。

一人の女が、背後でスカーフを直すふりをして、ちらりと彼女の背中を見た。

その視線は、好奇でも侮蔑でもなかった。

ただ、観察する者の目だった。

棚の前に立ち、ソフィアは小さな袋にレモンバームの乾葉を入れた。

それだけのことに、彼女は深呼吸を二度必要とした。

立ち去ろうとしたとき、背後から声がした。

「今日は冷えるわね、ソフィア様」

――ファーティマ。

まるでそこにいなかったかのように、静かに現れていた。

「ええ、炊事場の火がまだ目覚めていないわ」

ソフィアは振り向かずに応えた。

「今朝の香草は、なにか特別な用途?」

ファーティマの声は穏やかだった。まるで親しげな雑談の延長のように。

「胃の重さに。少しだけ。」

「あなた自身の?」

「いいえ。読まれすぎた夢の後に、少し身体が疲れただけ。」

ファーティマは一歩、距離を詰めた。

「夢を書くの?」

「夢だけは書けないの」

ソフィアがようやく振り向くと、ファーティマの顔には、かすかな笑みが浮かんでいた。

それは柔らかい布で刃を包んだような笑みだった。

「それでも夢の中で、たくさんの人があなたを見ている気がするわ」

その言葉に、ソフィアは応えなかった。

炊事場にまた、沈黙が戻った。

けれどその沈黙は、先ほどまでとは異なっていた。

音のない詩のようなものが、空間全体に広がっていた。

女たちは、再び手を動かしはじめた。

火がくすぶり、湯気が立ち、野菜が刻まれ、皮が剥かれ、刃が砥石に当たる。

それらすべてが、何かを語っていた。

だがそれが何かを、誰も言葉にしなかった。

そしてその沈黙こそが、この空間を支配する唯一の言語だった。

ソフィアは香草袋を懐にしまい、誰にも告げずに炊事場をあとにした。

背中に突き刺さる視線はなかった。

代わりに、視線の代わりになるような沈黙だけが、彼女の背中に寄り添っていた。



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